風来坊参男坊

思い付くまま、気が向くまま、記述する雑文。好奇心は若さの秘訣。退屈なら屁理屈が心の良薬。

有るのか無いのか絶対秘仏 393号

2008年11月10日 10時09分36秒 | ワーキングホリデー飯田
飛鳥時代の欽明天皇の仏像に対する感動が、臣下の蘇我氏の崇仏と物部氏の廃仏の戦争に発展した。仏教公伝の時代である。

紆余曲折の末、蘇我馬子が支援した推古天皇が即位し、聖徳太子が仏教的道徳観に基づいた政治を行い仏教が認知された。

戦乱時に難波の堀江に捨てられた一光三尊阿弥陀立像を602年(推古天皇10年)頃、本田善光が発見し、出身地である信濃国麻績の里、現在の長野県飯田市座光寺に持ち帰って祀った寺が元善光寺である。

その後642年(皇極天皇元年)、阿弥陀如来が本田善光に命じた場所は信州善光寺である。

戦国時代の武田信玄と上杉謙信の川中島の合戦の時、信玄が甲斐善光寺に移した。本尊は、さらに織田信長の手で岐阜へ、豊臣秀吉により京の都へ、徳川家康が祖父江善光寺へ移し、1598年(後陽成天皇)の秀吉の死の前日に信州善光寺に一光三尊阿弥陀立像を送った。

仏教は奈良時代には学問だったが、平安時代の弘法大師空海の真言宗・伝教大使最澄の天台宗により日本仏教が確立した。鎌倉時代には教育者の最澄の天台宗から派生した栄西の臨済宗・道元の曹洞宗・法然の浄土宗・親鸞の浄土真宗・日蓮の日蓮宗が成立した。天才空海の真言宗は弘法大師の個人崇拝の色彩の濃い信仰になった。

従って、飛鳥時代の一光三尊阿弥陀立像の安置場所の善光寺は日本仏教の成立以前だから、無宗派寺院である。便宜的に信州善光寺は浄土宗の大本願と天台宗の大勧進がお勤めしている。真言宗の本尊は大日如来であるから、阿弥陀様との関係は薄いのである。

元善光寺は本田善光の菩提寺の色彩が濃く、如何なる宗派にも属していない。

鎌倉時代以降に一光三尊阿弥陀立像を見た人間は皆無で、絶対秘仏である。有るのか無いのか確認できない。2009年善光寺の御開帳が有るが公開されるのは前立本尊である。

仏教の信仰対象はモノや言葉では無く、先人を真似て行動する心の発露の伝統の生き様である。モノである一光三尊阿弥陀立像は私に存在する釈尊の心の発現を促す方便である。真の一光三尊阿弥陀仏は全ての人の心にある。だから一光三尊阿弥陀立像のモノが有るとか無いとかの議論は些細なことである。

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