終わるの、早いって。
江川の引退まではやるもんだと思ってたし、やってほしかったなぁ。
81年の日本シリーズ制覇で完結です。
江川も西本も、この81年から83年辺りが全盛期だったんですけどね。
まだまだ描くことが、たくさんあっただろうに。
「82年、2年連続20勝が確実視されながら、まさかの連敗で19勝止まりになった江川。チームもV2が確実視されてたのに、中日に逆転を許す」「83年、江川も西本もリリーフを経験」「そして、83年の西武との日本シリーズ。好調の西本と、怪我のため不調の江川。ただし、その西本も・・・」などなど。
さらには、「84年のオールスター。シーズンは不調だった江川の8連続奪三振」や、
「85年、シーズン最多本塁打の記録がかかったバースに、真っ向勝負を挑む江川」
なんかも見たかったなぁ。
まあ、84年辺りからふたりとも調子を落としていって、それでも江川の84年は15勝だったんですが、85年は江川が11勝(防御率は5点台)、西本は10勝(防御率は4点台)でね。この辺りのふたりの苦悩なんかも読みたかったですね。江川なんて、この年で一度は引退を決意したらしいし。
ちなみに、ホームラン記録のかかったバースと江川の対戦について、シーズン最多本塁打のかかった85年の最後の対戦は、江川がホームランを阻止してます。それもあって、バースは王の55本に届かなかった。
ただし、翌年の連続試合ホームラン記録については、やはり真っ向勝負にいった江川が、バースにホームランを打たれ、記録を許してます。
江川って、飄々ととぼけてはいるけど、敬遠や逃げの配球が嫌いな人でした。もちろん、西本のような闘志を表に出す選手もいいけど、江川や落合のような闘志を内に秘める選手のほうが好きだったかな、オレとしては。
それはともかく。
この間、西本はたしか勝てなくなっていって、86,7年は二桁勝利から遠ざかるんじゃないかな?
そんな西本の苦悩。さらに87年の江川引退により、目標を失い・・・
ですんで、西本は88年も活躍はできなかった気がする。まあ、その翌年、中日にいって20勝しますが。
一方の江川のほうも、86年は16勝を上げ、87年も順当に勝ち星を上げていき(最終的には13勝)、復活したかに見えましたが・・・
「江川卓のボール」が投げられなくなっていき・・・
87年の日本シリーズ終了後、突然の引退。
この間の彼の苦悩も見てみたかったですねぇ。
この江川の言い分、「江川卓のボールが投げられなくなった」についてはね、たしかに84年ごろから明らかに球威は衰えていたのよ。真っ直ぐの威力がね。
でも、カーブのキレは相変わらずだったんで、そのカーブを上手く使い、真っ直ぐを少しでも速く見せる投球術でね、勝ち星は上げてたんですけどね。ってか、江川の場合は真っ直ぐだけでなく、カーブも空振り取れるボールでしたが。
ともかく、そんなわけで、もうしばらくは現役を続けてくれると思ってたんですけどね。当時は引退を理解できないトコもあった。「江川のことだから、『現役退いたほうが、金が儲かる』とでも考えたのかな?」なんて邪推もしちゃったくらい(笑)。
けどね、最近、youtubeとかで、昔のプロ野球選手の活躍を見たりもしてんですが・・・81年と87年の江川のピッチングを見比べれば、「江川卓のボールが~」といった言葉が、理解できる気がします。
正直、言葉では上手く表せません。でも、少しでも野球経験のある人間であれば、81年の映像を見た直後に、87年の映像を見れば、「そういうことか」ってなると思う。
あえて言うならば、
江川の真っ直ぐ特有の “ノビ”が、明らかに衰えている、
ってことになると思います。
ぶっちゃけ、江川の真っ直ぐって、数字のうえではそこまで大したものではありませんでした。
同じ時代の小松や、あるいは83年には巨人のローテーションに入ってきた槇原なんかは、コンスタントに150km/h以上を出してました。
対して江川は、オレの記憶では一回だけ150km/hを出しましたが、大抵は140km/h台だったと思います(高校、大学時代は知らん)。
それでも、江川のストレートはやはり速いんですよ。というのも――
どんな速球派投手の真っ直ぐだって、初速と終速には差が出てきます。キャッチャーミットに届くまでには当然、スピードは落ちていき、ボールの軌道としては沈んでいきます。すなわち、軌道は放物線を描くことになります。
ところが、江川の真っ直ぐはその初速と終速の差が小さい、すなわち、(ほかの投手のボールと比べれば)放物線を描かないものでした。原理はわかりませんが(一説には江川のリリース方法だったり、彼の指の短さだったり)。
実際にはあり得ないことですが、打者からすれば、「なかなかボールが沈まない」ゆえに、「ボールがホップしている」ようにも見えます、体感的に。
これを「(ストレートの)ノビ、キレ」などというんですが・・・20勝した前後の江川の真っ直ぐは、このノビ、キレが半端なかったんです。
それが、87年の映像だと・・・「ああ、これは引退を決意するよな」と、理解できると思います。野球経験者なら。
って、「江川と西本」という作品の話なのに、江川のことばかりになってしまいましたね(笑)。ってか、この作品を終わらせたのも、江川引退のころには西本の話題が少なくなっていたためかもしれませんね。
けどね、それでも、江川引退まで描いてほしかった。
っていうのも、オレにとっては「少年期、初めて野球に触れたころの巨人の大エース、スーパースター」が江川だったのよ。アンチも多かったけど(笑)。
オレがプロ野球を見始めたのは、江川入団のころだったと思います。少なくとも、彼が勝利投手になって、長嶋監督と握手してるシーンや、晩年の王さんがホームランを打ったシーンを覚えてますし。
ですんで、その時代はまだ「プロ野球といえば、巨人」であり、その巨人の看板選手が江川であったことからも、やっぱ江川という存在はある種、特別な存在かもしれませんね。
ってか、オレだけでなく、当時のプロ野球ファンは皆、江川という存在を無視できなかったと思います。もうね、80年代前半のプロ野球は、よくも悪くも江川中心に回ってましたよね。
メディアも、とにかく江川を取り上げていたというか。「江川を書いときゃ、彼を誉める記事であっても貶す記事であっても、とにかく売れる(数字を取れる)」って感じでね。
スポーツ新聞なんて、
「江川、地獄へ落ちろ!」「江川、ざまぁ見ろ」なんて見出しを平気で打ち出してたもんね(いまやれば、大問題ですよ/笑)。
ただ、スポーツ報知は江川称賛だった気がしますが(笑)。
ともかく、85年辺りからは多極化していって、バースだ落合だ、あるいはKKコンビだ、といった具合に話題も分散していったけど・・・それでも引退する87年までは、江川も「球界の中心人物」の中にいましたからね。
すなわち、オレにとっては小学校6年間と中学校3年間、最も多感な時期のスターのひとりだったんですよ、江川は。
また、勝ちゲームの江川のピッチングには、
爽快感
というものがありましたからね。
ノビ上がるストレートや、ブレーキの利いたカーブで、プロの打者たちがおもしろいように空振りする、もしくは全く手が出ない。
しかも、コントロールもいいから、余計な四死球がない。それがないから、守っている味方の野手もリズムに乗ることができて、余計なエラーが少なくなる。
まあ、中畑清だけは、どういうわけか、江川の試合でよくエラーしてましたが(笑)。
一回、中畑があまりに自分の試合でエラーするもんだから、江川が一塁牽制(中畑のポジションはファースト)を全力投球してやったこともあったらしいですよ(中畑としてはキャッチしにいかずに逃げたそうです/笑)。
で、互いに引退したあと――
江川「あのとき、中畑さんが捕ってくれないから、ランナーが三塁までいっちゃったじゃないですか」
中畑「150km/hの牽制球なんて、捕れるか!」
なんて、やりとりもあったとのこと(笑)。
ってか、江川が引退を決意したであろう広島戦も、中畑がエラーしてなければゲームセットで、勝ってたんですよね(小早川のホームランもなかった/笑)。
まあ、話がだいぶ逸れましたが。
そんなわけで、江川の勝ちゲームは、試合が早く終わったんですよね。
当時、野球中継は20:45には終わっちゃって(中継の延長は、86年辺りから90年代半ばまでだったかな?)、大抵の場合は試合終了まで見ることはできなかった。
ただ、江川の試合は「余計な四死球もエラーもない」「江川の球種が少ないから、配球が複雑化しない」ってことで、20:30ごろには終わっちゃったんですよね。
これね、江川自身が夜のスポーツニュースでいってたんですが・・・バッテリーを組んでた山倉というキャッチャーが、江川の(投球フォームの)クセを完全に把握しており、ほとんどノーサインで投げてたらしいんで(山倉としては、サインを出すフリはしてたけど)、それも試合時間の短縮につながっていたのかな、と。
まあ、そこは人を食った江川らしく、
江川「私、一回、ストレートのクセでカーブ投げてやったんですけどね・・・山倉に怒られました」
なんてことも(笑)。
で、試合時間が短かったから、江川のヒーローインタビューも聞けるわけですよ。この人、話がおもしろかったら、当時のチビッコとしては好感持ちますよね(笑)。もちろん、まじめな受け答えだったときもあったけど。
さらには、江川へのインタビューのあとは、
「プロ野球・過去の名勝負」。
もう何回、長嶋茂雄の天覧試合HRと、王貞治の世界記録樹立HRを見せられたことか(笑)。でも、それらも楽しかったんです。江川のおかげで、見ることができたんです。
まあ、そういったこともあって、やっぱり江川はスーパースターだったんですよ。
ピッチングに関してもね。前述のとおり、爽快感があってね。もちろん、同時代にも後の時代にも、江川より速いピッチャーは腐るほどいたけど、彼の投球ほどの爽快感は、二度と味わうことができなかったかなぁ。
次点で、西武黄金時代の工藤公康、巨人の90年代のエース・斎藤雅樹、怪我する前の伊藤智仁(ヤクルト)辺りかな。まあ、斎藤と伊藤は、どちらかといえば変化球で三振取るタイプでしたが(ただし、どっちも真っ直ぐは速かったよ)。
ともかく、そんなわけで、江川の引退までは、この作品を続けてほしかったかなぁ。
また、彼や西本が活躍した80年代前半というのは、おそらくは日本が最も幸せな時代だったと思うんですよ。もちろん、オレ自身が子供だったから、そう思える部分もあるでしょうが。
ともかく、直後のバブル期ほどは浮ついてなかったし(むしろ、まだまだ牧歌的な雰囲気も強かった気がする)、社会全体に余裕のようなものがあったし(雇用や景気の話だけではなく、人々の心持ちなんかにもね)。
この作品は「当時の世相」なんかも軽く紹介してくれてたんで、そういう意味でもね、もうちょっと続けてほしかったかな。
ただ、そうはいっても、「作品」というのは作者さんのものです。引き延ばしも否定はしませんが(作家によって好きなヒーロー像やストーリー展開というものは確実にあり、それらから逸脱することはそうそうできない。この辺のことは別の機会にでも語れたらな)、「腹八分」も否定はしません。むしろ、腹八分で終わるくらいが理想かもしれません。
ただ・・・この作品は「まだ腹八分にも至ってない」といえる作品でしたね、個人的には。
とはいえ、「疾風の勇人」のように打ち切りではない、作者さんの想定どおりのようですので、「復活、希望!」と強くはいえないかな(いや、復活して江川引退までやってほしい気持ちもあるけど/笑)。
ともかく、原作者さんと作画の方、お疲れ様でした!
そして、江川、西本、定岡、加藤初、鹿取、角といった当時のジャイアンツ投手陣や、松本、河埜、篠塚、中畑、原、淡口、山倉といったスタメンは、オレにとってはいつまでも理想的なメンバーといえるかもしれません。
もちろん、技術的には、この人たちより上の人はたくさんいるけど、まあ、「思い出補正」ってやつですかね(笑)。