時遊人~La liberte de l'esprit~

優游涵泳 不羈奔放 by椋柊

モン・サン-ミシェル~内覧~

2009-04-24 | 仏蘭西探訪(郊外/地方)
8世紀の初め
アヴランシュの司教だった
オベールの夢の中に
二度ほど
サン・ミッシェルが出現し
この地に修道院を建てよ
と告げたらしいのですが
当のオベールは
それを信ぜず

サン・ミッシェルが
三度目に出現した時には
大天使もいい加減にせ~よ
って感じだったらしい

オベールの頭の中に指(だったかな?)を突っ込み
お告げを頭にインプットしたとか
しないとか




1000年から1010年の間に
建築された修道院付属の教会内部

標高80メートルを誇る岩山の頂上
長さ80メートルに及ぶ土台の上にあります
身廊の天井は
薄い板で覆われた板張りで
1421年に崩壊した
ロマネスク様式の内陣は
100年戦争後
ゴシック様式で再建されています



19世紀には
この修道院が
牢獄として使われていたことがあるそうで
当時
この部屋は
囚人の食堂として利用されていました

南壁の司教座で
僧が読唱する間
囚人達が沈黙のうちに食事をとったとか?

バスチーユの牢獄のように
生きて出る事の出来ない
孤島の牢獄だったんのでしょうか…
収容された囚人は総勢14,000人



囚人達が
この監獄から解き放たれるにあたり
作ったと言われる
‘Notre dame(我らの母)’→聖母マリア

因みに
‘Notre dame’をイタリア語にすると
‘ノストラダムス’らしい…



かつて
修道僧の納骨堂だったフロアには
大きな車輪が陣取っています
この車輪を回し
囚人用の食料を引き上げたそうです



車輪の中に
随時6人の囚人が入り
ハツカネズミのごとく
ひたすらに車輪を動かしていた

囚人が命尽きて
死んだ場合は
すぐ脇にある
大きな穴に死体を投げ捨てたとか



穴の底には扉があり
扉の前は
囚人用のお墓になっていたそうです


                     チャペルにある墓地へ続く階段

死者のためのチャペル
‘ステファヌスのチャペル’

ラテン十字の下には
ギリシャ語の‘ΑΩ’の文字
これは
誰にも平等に
始まりと終わり(生と死)が訪れることを
表しています


騎士の間(修道僧達の仕事場&執務室)

大きな珍しく暖炉があります
これは
寒さ対策ではありません
なんと
ペンのインクが寒さで
固まらない様に
との配慮なのだそうです

ペンさまさま

また
昔は
台所と言うフロアの観念がなかったらしく
暖炉の周辺がキッチンだったそうです
なので
来賓が集まる時には
仕切りを置いて
来賓の目に触れないようにしていたそうです

サン・ピエール教会

2009-04-23 | 仏蘭西探訪(郊外/地方)
モンサンミッシェルにある教会です

カトリックでは
カテドラル、バジリカ(バジリク)、エグリーズ、チャペル等と
格付け(と言うのは不適格な表現かもしれませんが)があるとか?

その頂点に座すのが
バチカン



フランスでは
カテドラルとして有名なのがノートルダム寺院
バジリカの称号を得ているのがサクレ・クール寺院



サン・ピエール教会では
天井の塗り替え作業中
ニスの匂いが立ち込めてました



差し込む太陽の日差しが
ステンドグラスの色を
一段と輝かせています



ここに
何故
テーブルと椅子があるのか…



この輝き具合
眩い光に包まれて
今にも天使が
舞い降りてきそうな雰囲気しませんか?

日本の神社仏閣は好きだけど
拝観料を取られるのがね~
こちらでは
拝観料を徴収されるのは稀です
ウエルカム精神が基本?

さて問題です!

2009-04-22 | 仏蘭西探訪(郊外/地方)
ここは何処でしょう!



川ではありません!!


2012年に終了予定とか…

現在
周囲に蓄積してしまった
砂を除去しています



遥か昔
写真に写っているこの小島とは
陸続きになっていたと言う
現在は無人島

かつては
この小島まで続く線路があり
汽車が行き来していたそうです


解っちゃいました?

潮が引いているときは
専門のガイドさんと
周囲の砂地を
散策することができます

気をつけないと
頚まで浸かる深みがあるとか…

潮干狩りもできます



大通り門に鎮座するは
100年戦争で用いられた大砲

そして城門


この橋の左が修道僧の居住棟、右が修道院

百年戦争では
強固な要塞の役目を果たしていた
この修道院

敵が進入してきた際に
熱油をぶちまけるための穴などもあります

ですが…
油は当時
大変貴重かつ高価だったので
実際は
‘熱湯’をぶちまけるたそうです

とは言え
イギリス軍が
ここまで攻め入ったことはない


解っちゃいましたね

道を隔て
右側がノルマンディー
左側がブルターニュ
かな…


厨房付近でのパフォーマンス

元祖元祖オム○○の店
「ラメールプーラール」と言えば…






絶好のお天気
小春日和誘われて
遠出してみました
大好きな場所です

ドビュッシーの「沈める寺」を演奏するときは
必ずと言っていいほど
この修道院をイメージします

1979年
ユネスコの世界遺産(文化遺産)に指定されました
モン・サン・ミッシェル(Mont St-Michel)です

パリ・モンパルナス駅からTGVに乗り込み
レンヌ駅で下車
TGVの到着に合わせ
レンヌ駅のバスターミナルに
モン・サン・ミッシェル行きのバスが
待機してます

ジゾール(Gisors)にて  

2009-04-21 | 仏蘭西探訪(郊外/地方)
ジゾールは
パリの北西60キロに位置する市です

この市には
11世紀から16世紀の終わりまでかかり
建てられた教会
サン・ジェルベ、サン・プロテ教会がございます

因みに
パリの市庁舎の裏手には
同名の教会がございます
このblogでも
以前紹介させていただいております



シャルトルのノートルダム大聖堂で見た
「エッサイの木のステンドグラス」の
彫刻版が
こちらの教会にありました

シャルトルのステンドグラスは
高い位置にあって
綺麗ではありますが
正直図柄が解りにくかったので
今回の彫刻を見る事が出来たのは
ラッキーでした



そしてもうひとつが
ジゾール城です

城と言っても
シャトーの‘城’ではなく
都市防衛を目的とした城砦
と言った方がよいのかもしれません



10世紀に
ノルマンディー地方に封ぜられた
ノルマン大公とフランス王との
領土の境に位置した軍事上の要地だそうです



城壁の周りには
敵からの進入を防ぐため
堀を廻らしていたそうです



中心にある塔の入り口は…
地上にはありませせん
日本で言う2階に梯子を架け
或いは
周囲の城郭から橋を架けて入るそうです

見方が塔に入ると
梯子や橋を撤去する…
敵は侵入出来ない!

と言うことらしいです



城砦の前方(地下)には
食糧貯蔵用が掘られています

人工的に造られた丘の上に建つ
城砦から見下ろす
町の景色はなかなか美しい



この川は
ノルマンディーとランスの
境界線だそうです

この後
一路
ボーヴェ(Baeuvais)へ
コメント (3)

未完の聖堂~サン・ピエール~

2009-04-14 | 仏蘭西探訪(郊外/地方)
パリの北北西76キロ
2000年の歴史を誇る古い町
パリ・北駅から約1時間10分


バベルの塔をめざしたか!?

百年戦争では
1346年に
イングランド軍に攻められた後
1433年に
再びイングランド軍包囲されます



1472年には
ブルゴーニュ公軍に包囲さ
落城の危機に見舞われますが
ジャンヌ・アシェット(Jeanne Hachette)と言う
勇敢な女性が町を救ったと言う
ジャンヌ・ダルクではありませんよ




13世紀
ゴシック建築の全盛期に建てられた
サン・ピエール大聖堂の天井の高さは
48.5メートル
フランス随一の高さを誇る

大型の教会としては
こちらが最後とりました

これは
聞きかじりの話になりますが
柱1本を支える為
地中に土台として埋められた柱の長さは
10m60㎝だそうです

ウワモノを支える為の基礎となる土台にも
ウワモノと同等の量の石が使われ
地底深く掘り起こされているんですね



本来
青部の上に
尖塔を建築するのですが
当時は
石の重みに土台の柱が耐えられないと
その建設には
反対の意見が多かったそうです


強引に建築を行い…



ゴシック様式の柱4本のうち
青●の3本は
崩壊し
赤●の1本が
かろうじて残存しています



唯一残る‘ゴシック様式’             新しい‘フランボワイヤン・ゴシック’

ゴシック建築の極致をなし
大聖堂の前に残る
前ロマン様式の教会の身廊
脇に建つ回廊と比較すると
建築技術の流れが見れて面白かったです







内陣の回廊を飾る
13世紀のステンドグラスと
16世紀のばら窓のステンドグラスも綺麗

この日は
ホント太陽サンサンで
最高に綺麗なステンドグラスでした


奥がからくり時計  手前が天文時計



金色に輝く天文時計は
19世紀のモノで
現在も一日に数度
観光客へのデモンストレーションを
披露してくれています


ピンク色の部分が身廊

この大聖堂には
身廊がありません
『地球の歩き方』には
1277年に
大聖堂建設に取りかかるも
火災・崩壊・修復の繰り返し
未完のまま現在に至っている
(資金不足と言うのも原因のひとつとか?)


柱を鉄棒で固定しないと風で柱が揺れるらしい

最近の計算では
155㎞/hの風が吹いた場合、上方の窓にかかる圧力は 188t
65㎞/hの風が吹いた場合、上方の柱は3㎝~8㎝動く
ことが解っているそうです

建築当初から
柱どうしを鉄棒で支えてあったのですが
後の建築家が
不要だと撤去してしまったそうです

ところがどっこい
その途端
柱が揺れだし
慌てて鉄棒を再び設置したそうです

が~
その鉄棒がこれまた
柔軟性に欠けるタイプらしいです


                 
持ち堪えてね

身廊部分がない為
建造物の重圧が
総て身廊となるはずであった
壁方向へ流れてしまうそうで
その為に起こる崩壊防ぐ必要があり
壁を支える柱を
聖堂の外側に追加して
補強しています



もともと4世紀頃
この場所にあった教会が
火災等で消失した為
↑にある
教会を再建設

その後
再び教会が災害に遭い
サン・ピエール大聖堂建設と言う
流れのようです

ですが
それも頓挫して…



こちらは
サン・テチエンヌ教会

ロマン様式の身廊と
ゴシック後期のフランボアヤン様式の内陣からなる教会
内陣は
16世紀にボーヴェで活躍したステンドグラス工匠の手による
ステンドグラスで飾られてるそうなんです

が~

4時に閉まってしまい
入れませんでした

風情のある風景

2009-04-13 | 仏蘭西探訪(郊外/地方)
ボーヴェの
サン・ピエール大聖堂を見学する前に 
大聖堂近くにある
オワーズ県立博物館に
行って参りました



フランスのタピスリーを代表する
ボーヴェ織りを作っていた工房跡地に
建てられた博物館
15世紀から今日に至る
フランスのタピスリーの歴史を見ることが出来る
はずだったんですけど…

現在
改装中なのか
肝心のタピスリーは
数点しか展示されておらず

André Maire(1898-1984)の作品展が
開かれていました



工房自体は
第二次世界大戦の折
オービュッソン(Aubusson)に疎開
崩壊した工房は再建されることはなく
機織機(はたおりき)は
ゴブランの工房に移されたそうです

遺跡で発見された
出土物の若干展示されてました



サン・ピエール大聖堂を見学後
帰途に着く途中通過した時に
発見したのは

18世紀
とある資産家が建てた
中国風の建造物



そして
リル・アダン(I'ILE ADAMS)

ワーズ川の畔に建ち
森を背にした風情ある町でした
川沿いには
別荘が立ち並ぶ他
桜並木の散歩コースがありまして
賑わっていました



運河には
閘門もみられます
近くには
リニュアルされた
アミューズメント施設がありました



3月29日から
サマータイムが始まった途端
日没の時間が遅くなったのを実感


                

久しぶりの晴天
入道雲ではありませんが
見事な雲を見つけました

高い建造物がないこともあり
桁外れに多いな雲が
悠然と流れていく様子は
雄大でした

ですが
見ているうちに
気味の悪い雲だなぁ~
なんて思ってしまいました

ノートルダム大聖堂(シャルトル)

2009-04-10 | 仏蘭西探訪(郊外/地方)
1194年
火災により大聖堂が消失
類焼を免れた既存の地下礼拝堂の上に
大聖堂を再建

1230年頃
大聖堂再建が完了

初期の大聖堂がこの地に建立したのは
4世紀のガリア・ローマ時代

向かって
右の塔はロマネスク様式の尖塔(12世紀)
左の塔はゴシック様式の鐘楼(16世紀)



晴れていれば
こんな風に美しくそびえる大聖堂
しかし
この寒さでは
外からのんびりと眺めている訳にもいかず…

塔には
大聖堂内の翼廊左から上れるそうですが
凍死したくないので
無謀なことはしませんでした



ゴシック様式の鐘楼と
大聖堂を
後方から映してみました

夏のバカンスシーズンに向けてなのか
全面的な修復と申しますか
クリーニングの最中のようです

内も外も
鉄骨に覆われてました
聖ピア礼拝堂も
内陣後方の礼拝堂も見れず



正面入口の諸王の門(12世紀)
縦に引き伸ばしたような人像が
扉の両脇に起立してお出迎えしてくれます

中央上段には
威厳に満ちたキリストが座し
四福音史家を象徴する動物に囲まれています



「柱の聖母」(16世紀)
多くの巡礼者が訪れるそうです
確かに
この日も多かったです



内陣を囲む16世紀の彫刻像
細かいです
そうそう
内陣にある
大理石の聖母被昇天像(18世紀)も見れませんでした



ラテン十字の形態を取っている
大聖堂の中心にある祭壇がこちらです
色合いが妙に気に入ってしまいました


                                          ゴシック様式初期・北ばら窓


晴天でなくても
美しいステンドグラス
四季折々の日差しによって
多種多様な表情を見せてくれるのでしょうね

写真右は
ゴシック様式初期のばら窓です

ゴシック様式初期・正面ばら窓


正面入り口にあるのが
こちらのステンドグラスです
ばら窓の下にある三連のステンドグラスは
キリスト教教義の集約とも言うべきもので
この大聖堂最古のものです

この写真では解りませんが
右 :キリストの系図を示すエッサイの樹
中央:キリストの生涯
左 :キリストの死と復活
を表現しているそうです

シャルトル(Chartres) 行ったけど…

2009-04-09 | 仏蘭西探訪(郊外/地方)
3月最後の週は
本当に寒かったのです

シャルトルにある
ノートルダム大聖堂を見たくて
午前中から
出かけたのはいいんですけどね…

ピユーピューと
強風吹き荒れる中
外なんて
歩けたもんじゃ~ありませんよ

ホカロン貼って
マフラぐるぐる巻きにして
手袋はめて…


お客さんがいなくなったところを見計らってパチリ

しかし
寒さには
どうにも耐えられず
ノートルダム大聖堂近くの
レストランに
非難してしまいました

落ちついた雰囲気の
レストランです


お客さんがいない訳ではありません!小生の両サイドにはお客さんいます

アペリティフに
ピーチのキールと
チーズ風味のスナックを頂きながら

ボードに書かれた
本日のメニューを見て
じっくり検討
している風を装う




そして
チョイスしたのがこちら!

温野菜と
ボイルしたベーコンの盛り合わせ
熱々のポテトが隠れてました

ベーコンの塩加減が程よい



メインは
子牛のステーキにしてみました
ステーキ
一年振りに食べたかもσ(^^;)

かなりのボリュームでしたが
脂身をよけると
そうでもなかったです

ワインは
赤ではなくて白
白の方が好きなんですσ(^^;)




こちらがデザートです

外の寒さを考えると
アイスクリームや
チョコレートムースは避けたかったので
リンゴとラズベリーの温かいタルト?の上にアイスクリーム
そして
エスプレッソ

ボリューム満点でした
ちなみに
これがこの日の
朝/昼/夜です

シャルトルに
行くには行ったけど
観光より
食事しに行ったような…

ゴッホ永久に眠る

2009-04-07 | 仏蘭西探訪(郊外/地方)
この日は
3月も終わりと言うのに
寒かった~
曇り空だし
時々雨も落ちてくると言う
あいにくのお天気



ですが
この怪しげな
不吉な雰囲気をかもし出す情景は
必要以上に
小生の気持ちを
高揚させたのであります

何故なら
最期の時が近づく
1890年7月に描かれた
『荒れ模様の空の麦畑』や
『烏のいる麦畑(カラスのいる麦畑)』
を彷彿させるお天気だったから…


荒れ模様の空の麦畑


烏のいる麦畑(カラスのいる麦畑)

否応なしに
ゴッホワールドに
引き込まれて行ったのであります

と言うか
自ら
埋没してみました



ゴッホと弟テオが見ているのは
この風景です



そして
こちらが永久に眠るお二人の墓標

観光シーズン前の平日
訪れる人の姿もない
静寂…



町から少し離れた丘に
ひっそりと佇む墓地の後方には
果てしなく広がっているように見える
この景色

いい…



ゴッホが描いた
ノートルダム教会は
あろうことか修復中…

時計も外され
仮設のプレハブなんか建ってるし







教会の内部は
こんな感じでした
天井の雰囲気からして
ゴシック建築でしょうか?

ガシェ医師の家が
10月から3月までクローズで
見学出来なかったのが残念でした

オヴェール・シュル・オワーズへ行く際
当然切符を購入する訳ですが
パリの北駅や
サン・ラザール駅の切符売り場は
旅行者で非に混雑しています
他のメトロの窓口でも購入出来ますので
そちらでお求めになることをお薦めします

ゴッホの家(ラヴー亭)

2009-04-06 | 仏蘭西探訪(郊外/地方)
オーヴェーでゴッホの人生最後の
住み家となったのが
ラヴー亭

ゴッホが過ごした屋根裏部屋は
レストランの裏手から入ることが出来ます



ディナータイムは
30人から45人くらいで
貸切も出来るそうです

ちなみに
通りに面した
こちらのラヴー亭とは別に
裏から入ると
別棟のレストランがありました


3階の屋根裏部屋の階段                                ラヴー亭正面

階段を上がった正面に
ゴッホの部屋
その右隣には
‘ヒルシフの部屋’と名づけられた部屋があります

ヒルシフは
1890年6月中旬より
このラヴー亭の屋根裏部屋に住み始めた
オランダの若い画家でした
7月27日
一晩中ゴッホが隣の部屋でうめくのを聞き
ゴッホの苦しみんだ様子を証言しています

28日には
パリのテオの元へ
ゴッホの自殺を告げた
ガシェ医師の伝言を持っていった
人物でもあります



1890年5月20日から
この屋根裏部屋の住人となったゴッホ
下宿代は
3フラン50サンチーム
毎朝ラヴー亭から
オーヴェールの野外に
絵を描きに行っていたと言う

そして
1890年7月29日
弟テオに看取られ
夜中の1時半に亡くなった

ゴッホが亡くなった後
この貸し部屋は
縁起の悪い‘自殺者の部屋’として
誰も住もうとせず
そのままの姿で残されていたそうです

そして
1世紀もの間
奇跡的に保護され
1985年
歴史的建造物に指定されました



通りを挟んで
ラヴー亭のほぼ向かい側には
村役場がございます

そうそう
ヒルシフの部屋にある
ドアを開けると
ミニシアターのブース!

ゴッホが残した言葉や作品を
オーヴェールの
美しい町の風景と共に
堪能することが出来ます

これを見た後
ノートルダム教会へ
そして
墓地へと向かう小道を進む事を
お薦めします

墓地の後方に広がる情景は
鬼気迫るモノが…