goo blog サービス終了のお知らせ 

庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

情報過多に如何に処するか

2023-07-05 21:31:49 | 日々雑観

40年ほど前、情報ハイウェイと呼ばれていたインターネットのWEBに加え、各種のソーシャル・メディア(SNS)の普及によって、この世界の住人はまさに爆発的に増加する、いわゆる「情報の嵐」に晒(さら)されることになった。

自然好き人間の一人として思うに、一個の、あるいは家族単位での人間が生きていくのに必要不可欠な情報量はそう多いものではない。それは自然界の動物たちを観ているとすぐにでも分かることで、哺乳類に限って言うと、ネコも犬もイルカもクジラもテレビを見ないし、パソコンを触るわけでもないが、それぞれ、ちゃんとまっとうに、たぶん生活時間の大半を、懸命に楽しく生きている。

むろん、人間と他の動物たちとは、色々と異なった面がある。しかし、動物という点では同じ生き物であり、それぞれの環境にそれぞれの方法で巧みに適応しながら、食べたり、寝たり、子孫を残したり・・・という行為を繰り返しながら日々の生活を送っているわけである。

私がずいぶん以前から感心していることは、海の魚や哺乳類、陸の犬猫の類(たぐい)や空の鳥たちは、我々人間には遠く及ばない、様々な優れた能力を持っているということである。

これは既に多くの方々が、書き語っていることだから、いちいち例を挙げるまでもないだろうけれと、一つだけ、我が家で一緒に暮らしているネコの話をすると、彼女はネコ特有の敏感な感覚を持っているだけでなく、一種の洞察力や人の心を読み取る能力も持っているのである。そして、驚くほど、いわゆる「礼節」を弁(わきま)えているのである。たまに見かける、躾(しつけ)のできていない人間より、よほど細やかな気遣いに長(た)けているのである。私は、これを名付けて「猫格」と言う。

夏目漱石が「吾輩は猫である」を書いたのは、彼もそのあたりの事情をよく知っていたからだろうと、私は強く推察する。

情報の話に戻そう。つまりは情報過多。胃の病気に胃酸過多というのがあるが、なんでも丁度いいのが丁度いいわけで、多すぎても少なすぎても病気になり、結果、多くの場合、苦しむことになる。

ホント(真実)だけならまだ良いが、その辺りに氾濫している情報の中には、ウソ(虚偽・フェイク)も多いから、ウソとホントを見抜く眼を持っていない場合、現代人はまず100%、情報過多という病気にかかるだろう。

では、どうやってそれを予防し治療するかについて、私が日頃、気を付けている事々を次に箇条で述べる。中の一つでも実行し体験できれば、この情報過多病は、三日ほどで快方に向かうことを保証する。

1:情報遮断(テレビやネットから流れ出る一方向的な情報に触れない時間を持つ)こと。
2:情報選択(自分の目的や興味をなるべく明確にしながら、それに必要なものを選択する)こと。
3:身体を動かし、五感(目・耳・鼻・舌・体)すべてを使うこと。
4:心身を大自然の中に投じて、大地や風や水や樹々の生命の息吹に触れること。
5:確固とした人間観・世界観を持ち、自己の生命自体を浄化し強くすること。

今回ここまで・・・。


平和の義務

2023-06-24 18:13:19 | 日々雑観

先ほど、ミャンマーで国民防衛軍に参加している何人かの青年(元大学生など)についての情報番組をやっていた。彼らが求めているのは「自由と民主」という日本では当たり前になっている(はずの)価値だ。

先週の日曜日、本年2月から日本で働いている、彼の国の青年二人とお話した。日本は今のところ平和である。平和に生きることができる国民として、私たちにも、彼らのために成すべきことがある。できることはやっていきたい。そのためには、まず事実を知り、想像力を働かせることである。


人と動物

2023-06-21 12:39:24 | 日々雑観

一般論として、動物を愛せない人は、真に人を愛することはできない・・・かもしれない。 なぜなら本来、人の中に動物が具わり、動物の中に人が具わるからである。

ネコは鳴き声だけではなく、多くの場合、尻尾(しっぽ)を使って思いを表す。


道具を使うスポーツ(運動)の三要素

2023-06-17 21:06:38 | 日々雑観

以下、いくらか堅めの文章を、試しにAIに頼んで柔らかくしてもらった。ChatGPT・・・なかなかやるなぁ・・・。

------------------------

私たち人間以外に、多様な道具を作り使うことができる生物は存在しません。この特異性が歴史的にいつから始まったのかについては諸説ありますが、一般的にはおおよそ200万年前の時期が考えられています。しかし、それ以降、特に西洋近代以降の産業革命(18世紀半ばから19世紀半ば)によって、道具の増加が急激に加速し始めたことは確かです。

さて、今回私が言いたいのは、現代人である私たちが、貨幣を含む数多くの道具に囲まれて生活している中で陥りやすい誤りについてです。つまり、幸福を追求する手段となるはずの道具が、愚かにも不幸を招く要因となり得るということに対する反省や警鐘です。

このような例は数え切れないほど存在します。私が長年親しんできた「風読みスポーツ(運動)」であるカイト・サーフィンを例に挙げましょう。カイト・サーフィンだけでなく、道具を使用するあらゆる運動においても言えることですが、これは誰もが基本的な常識として心に留めておくべき事柄だと思います。

当たり前といえば当たり前の事実・・・要するに、道具を使う運動は、人間、環境、道具の3つの要素から成り立っているということで、それらは緊密に関連しながら、様々な運動形態を生み出しています。しかし、そこには明らかな序列が存在し、その順序を乱すと良い結果は得られません。結果的に、不幸な事態が生まれる可能性があるのです。

続きはまた後ほど...。


日々雑観再開

2023-06-10 08:17:30 | 日々雑観

今はおよそ鈍感な私の、たぶん異常に多感な高校時代、或るノートの表に「想念録」とい名前を付けた。ある時どこからともなく突然やって来て走り去る、閃光のような想いや情感の一端を書き留めるために。

二十歳を超え、あれこれと忙しくするようになり、やがて食い扶持を得て社会人となり妻子を養うという、それなりに楽しく平凡な生活に馴染むにつれて、天空からの啓示のような感動の波は、徐々に来訪の回数を減らし、あの「想念録」もどこかへ行ってしまった。

ところが、最近また、私の身の内に似たような出来事が起こり始めたようだ。こういうの精神的若返り、あるいは幼児返り現象いうんかなぁ・・・。

そこでこのブログにも「日々雑観」なるカテゴリーを追加して、或る日或る時、雷光の如く去来する、私にとっては、どうも本当のことらしい思い付きの数々を記しておく次第。


新春の思い付き片々

2023-01-14 21:08:25 | 日々雑観

・風は空気の動きである。常に動き変化するものを良く知るには、動かない、つまり静に満たされた不動の心を持たなければならない。

・生命が磨かれ澄み切ってくると、濁ったものがよく見えてくる。

・この世界の生命は全部つながっている。この世の様々な出来事もしかり。

・近代・産業革命以来の現代・物質文明が生み出すモノのほとんどは、その本来の目的を見失っている。

・太陽も月も星も単なる物質ではなく、その運行や力用は単なる物理法則に従っているだけではない。

・物にも心があり、心にも物がある。

・ネコもやっぱり不思議な生き物である。

・スズメやハトが、ワシやトンビの真似をすることはできない。その必要もない。逆もしかり。


直感

2012-08-06 23:53:00 | 日々雑観

今回も今朝の唐突な思いつきで吉野川へやって来た。私は自分のことを相当に理屈っぽい人間の一類だと思うことが多いが、実際の行動はほとんど、その場その時の「感性」に拠っている。

人間の行動は、ある程度の予測や計画に従うのが通常だし、私もたいがいはこの通常に従って生きている。ところが時々、突然不意に或る種の衝動が心の中に湧き出して、それが指し示す方向に私を突き動かすことがある。どういう経緯でこうなったのかはまだよく分からない。  

ただ少し思い当たるのは、「風」という目に見えず、簡単にはこちらの都合や論理に従ってはくれない相手との長い間の付き合いが、大きく影響しているのではないか・・・ということだ。  

最新コンピューターの計算能力をもってしても、一葉が風に吹かれて落下する地上位置を正確に予測することはできないという。論理や計算に関して、愚鈍な私がコンピューターに勝ることなど一つもあるはずがない。  

ところが、それが正確であろうと無かろうと、現実に風の世界に身を置いて、海を走り空を飛ぶためには、可能な限りの気象データを集め、身体に備わったあらゆる感覚器官を使いながら、必要な時点で、行動を開始するための判断を下さなければならない。  

その判断は、時に生死を左右することもある。それに内包されながら自分一人で向き合う自然世界では、人間社会では通用するかもしれない、どんな種類の虚飾もウソも誤魔化《ごまか》しも小賢《こざか》しさも通用しない。正直に自分の全てを曝け出すしかない・・・という現実が突きつけられる。そういう時、この生命の極めて深い部分が働き始めるのを感じることがある。

この感覚は説明するのが難しい。それをあえて言葉にすれば「澄み切った直観力」とでも言うべきもので、たぶん、西丸震也はこれに似たものを「原始感覚」と名づけたのだろうし、ここで宮本武蔵を引き合いに出すのは気が引けるが、『五輪の書』の空の巻に出てくる「心の直道」などは、その先にある「何ものか」なのかもしれない。  

ともかく、ほとんど何の合理的な裏づけも無く去来する、この私的《わたしてき》「直感」に従うことで、少なくとも自然世界では、対応困難な危険に陥ったり、不愉快な思いをしたことが一度もないだけでなく、大概は何らかの新しい発見があり、楽しい出会いがある。私にとっての不思議現象の一つである。