庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

マーカスさんの詩

2019-10-11 22:48:00 | 創作
フロリダのマーカスさんの詩に感じるものがあったので、まったくの拙訳であるが、楽しみながら翻訳させて頂いた。基本的に七五調の散文詩にしようとした。

なるべく「和語」を使い、それなりの「韻」を踏みたかったが、漢字表現やその他の外来語表現は、もう既に「日本語」の中に吸収され、それなりの熟成をみている。

ほどんど下書きみたいな祖訳なので、見直し聞き直しを重ねればもっとマシなものになるとは思うが、現在のところの私の能力では、この程度のものである。

なお、マーカスさんからは快諾を得ているので、将来、出版する予定の本のどこかに何らかの形で掲載させていただく。下に原文も載せてあるので、「こうしたらああしたら」・・・というご意見があれば、ぜひ聞かせて頂けるとまことにありがたい。

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「この踊り」
 
たっぷり日にちがあったなら
あなたと共にこの踊り
習って一緒に踊りましょ
 
東の海の深みから
ゆっくりのぼる*脚灯(あしび)のように(*私の造語)
 
イカロスみたいに天駆け上り
イカロスみたいに地に落ちる
いく度もいく度も繰り返し
 
これは私の夢なれど
脚は土から埃(ほこり)たて
古くて粗(あら)き厚板の 
冷たく裂かれてすり切れた
果てに残ったホンマもの
 
熱き想いや昔の言葉
あるいは単に粗雑なる
造りを隠す楢(なら)イチイ
 
フォーク・ランドの二の舞か!
あの善(よ)き人が鐘(かね)鳴らし
盗人(ぬすっと)たちは正体を
さらし出されて責められる
 
叡智(えいち)の炎は我々の[飾りで満ちた通り道]
顔を照らして過(あやま)たず
影の暗さをぬぐい去り
我らの傷あと隠すに足りて
 
慈悲を求めるあらゆる兆し
満てる灯(あか)りを残しつつ
 
これが我らの踊りです
ステップン、ツイストン、ターン
二人の共に必然(たまたま)の
出会いを祝う踊りです
 
互いにしっかり知っている
決して去らない光の元を
ロウが燃え立つ中心で
よじれねじれるロウ芯の
さらにそれなる踊りのように・・・。
 
マーカス・ブラウン
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“This Dance"
 
If there were days enough...
I would learn this Dance,
to dance with you.
 
The floodlight from the east...
slowing rises from the depths of the ocean.
 
like Icarus - we ascend to the heavens,
like Icarus - only to fall to the earth again...
and again.
 
This is my dream...
our feet shifting the dust,
ancient and coarse,
cold and splintered planks, worn and true...
do they selfishly hide the passion and words from years past?
Or simply crude constructs of oak...and yew.
 
Another stage to attend Sir Will!
where genius rings true...
and the plagiarist is found and scorned.
 
Gnostic flames (our path embellished)
illuminate our face,
certain to displace the darkest of shadows...
while leaving enough to hide our scars,
and portend any claim to grace.
 
This is the Dance,
when steps and twists and turns,
left us both to chance,
and we knew the Light never to leave...
while the wax and wick....contorts, spits and burns.
Much like this Dance....
 
Marcus Brown
 

 


パルプ工場の悪臭

2019-10-10 22:27:00 | 仏教

この旅最後の休憩所。昼飯時に川之江(四国中央市)に着いた。あの創業者のバカ息子が億単位の金を博打に使い、業務上横領で塀の中に入った大製紙会社のある街だ。

昼間はパルプ工場の煙突から吹き出る匂いが海風に乗って内陸部まで達し、それがあまりひどいので、私などはここを通過するたびに車の窓を閉める。


 
 
御書に「臭い厠(便所)の中にずっといると、その臭いのが分からなくなる」とある。ここにお住まいの方々には失礼な話になるかもしれないが、この匂いに慣れて生活することは、善くも悪くも仕方のないことだ。中にはこの匂いが好きな人もいるかもしれない。

ただ、このご金言の本来の意味で厄介なことは、ものの見方・考え方とか思想とか哲学とかその奥にある宗教とか、簡単に目には見えないけれども、確実に人生の幸不幸を左右する「臭」で、私を含め世界中の多くの人々は何らかの臭みの中で、日々、喜怒哀楽し、四苦八苦の大きなパルプ工場の中から脱出できないでいる。これを仏法の用語で「第六天の魔王の所領」とか言うのだが、つまりは様々な欲望の支配する世界のことだ。
 
正統仏教・日蓮正宗の世界観は、それらの欲望を否定し消し去るのではなく(そんなことできるわけがない)、「根本的に浄化する」ことによって、あらゆる欲望や煩悩を、即、菩提へと転じていく方途を示している。
 
そんなことが本当にできるのか?・・・これができるのである。試してみたい人は、全国・世界各地にある正宗寺院に足を運んで、ご住職にお会いしてみると良い。まぁ多分、びっくりするようなお話が聞ける。

以下は和歌山の正宗寺院。とても分かりやすく整理されている。 


宇宙人のこと

2019-10-10 22:26:00 | 
今夜の宿はここにした。ベンチに座っていたおばあちゃんは琴平から来た実に元気な94歳。琴平参りは私が中学生になるまで我が家の年中行事だった。

 
私の90歳の母もよくしゃべる社交的な人だということで話が合い、しばらく色々とお話しているうちに娘さんが帰ってきた。娘さんといっても私と同年ぐらいだ。

 
今日はめったにない快晴だ。移動中も現在もまったく雲がない。例のお月様が徐々にふっくらとしながら今も見ている。
 
道中、宇宙人のことを考えていた。これについては17歳の頃からずっと興味が続いている。もっとも地球人である私たち自身が、宇宙的視野では宇宙人の一類であることは間違いないわけだから、宇宙人は確かにココにいるのである。
 
やはり問題は、地球の外からやってきているかもしれない生物ということになるのだが、これはもう仏様の教えの中では当たり前のことで、宇宙法界は原始生物から超高等生物に至るまで生命で溢れかえっている。具体的には数々の仏典を読んでみればすぐわかる。さらなる問題は、人間みたいな生物がこの地球に現実に来ているかどうかということだ。これについては私なりの考えがあるのでまた別に書く。
 
そして現代科学は、仏様の知見を後追いする形でちょっとずつ「地球外の生命体」の発見に近づいている。ある所ではSETIプロジェクトなど、ずいぶん気の長いことやっているが、光や電波よりもはるかに速い意思伝達手段があることをいまだに認めようとしない。今のところ確証はないけれど、アメリカなどいくつかの国ではもうすでに、その種の宇宙人と接触している可能性はあると思う。
 
アポロ14号の元宇宙飛行士・物理学・工学博士のエドガー・ミッチェルさん(こないだ亡くなった)などは、月から帰りの宇宙船の中でとんでもない神秘体験をして、その実態が何かをずいぶん研究された。ついに「サマーディ」(彼の言葉でサトリ)という仏教の初門まで来ていたから、もう二、三歩で法華経迹門あたりまでは到達したかもしれない。
 
私はそのオープンマインドで誠実な語り口に惹かれて、彼のインタビューを観たり本を読んだりしながら、そのうち会いに行こうと本気で考えていた。彼なら礼を尽くせば、私のような人間でもちゃんとお話しできただろうと思う。
 
彼はデカルトの二元論やニュートン力学の限界を身をもって体験したのだが、周囲の学会権威が理解を示さないので、自ら「ノエティック・サイエンス」(精神科学)と言う研究所を作り膨大な科学的データを残した。この研究所にもいっぺんは行ってみたい気もするが、その内容はある意味、分かり切ったことなので必要ないかもしれない。
 
ついでに、ジョディ・フォスター主演映画「コンタクト」のことを書こうかと思ったけど、晩飯が出来上がった。今回これまで。

 

濃密な時間

2019-10-10 22:21:00 | 仏教
大阪の下道はどうにも走る気がしないので、奈良の手前から高速に乗ったら、こんな時間にこんなところまできてしまった。この勢いなら今日中に松山に着きそうな気がするが、こういう時こそゆっくり進んだ方が良い、ということを私は知っている。

 
時間は伸び縮みする。特に令和3年までは、おそらく極めて濃密な時間となり、日本だけでなく世界中で大きな変化が起こるだろう。
 
私は聖人でも商人でもないが、「三世(現在・過去・未来)を委細に(詳しく)知るを聖人」と言い、それに大をつけて大聖人と呼ばれる方が、この世界に誕生してちょうど800年を迎えるのがこの年にあたる。まだ地球上の多くの人は知らないでいる。
 
この広大無辺な宇宙法界には無数の仏がいる。それら全ての仏を生み出した大元の仏、つまり「本仏」が、この日本という国土に現れたことの意味。それが今後、この世界の平和にとってどういう意味を持つのかを、さらに多くの人々が理解するようになるだろう。


会いに来るネコ

2019-10-01 11:40:00 | 自然

毎月一日の朝参り勤行から帰ったら、今日もこいつが待っていた。いつものように「おはよう!」と声かけると、「ミャー」と返事する。「おお、また朝飯の催促か?」ということで、我が家で11年飼っている相当アホなビーグル犬のドッグフードをひとつかみ、キャンプカップに入れてやっても見向きもしない。


私に何ごとかを伝えたいらしくて、すり寄るほど近くに来たり1mくらい距離を置いたりしながら、いつまでも去らない。私は、通りすがりのネコを必ず振り向かせる程度の「ネコ語」を2つか3つは知っているが、それ以上の話はできない

ただ、野生の動物の中には、たまに「以心伝心の技」が使えることがある。これもたぶん誰も信じないかもしれないが、これで私はチョウチョと話したこともある、ある山の中腹で。これを昔、親しいパラ(グライダー)の知り合いに手紙にして渡したら、かなり怪訝な顔をされたので、それ以降、この手の話は、聞く耳を持ってる人にしかしないことにした。

まあ、野良ネコなら誰にとっても身近な存在だろうから、少し言うと、しばらくの間、こいつの頭や体中を撫でてやりながら「おまえ、こないだ連れてきた子供たちは最近どうしとるんだ?・・・そういう話がしたいんか?」などということを口に出したり、心で伝えようとした。どうもそういうことではなくて、ただ何かの理由で「私に会いたい」・・・ということだけ分かった。

膨大な仏典の中にはこういう話は山ほどあって、つまりどんな動物も生物も人間と同じ世界に生きている限り、「一応」は同じ生きものなので、行ったり来たりの交流ができて当たり前のことである。もちろん「再応」は、犬は犬、ネコはネコ、魚は魚で、そこらへんのケジメはちゃんと付けないと、やっかいなことになるのだが・・・。

家内はトリ年生まれだからかなぁ^^;・・・天敵である犬にもネコにも必要以上の関心を全く示さない。息子はそれなりの動物好きで、今回はコトの次第をスマホで撮ったりしていた。