庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

花見

2007-03-31 00:25:00 | 自然
一昨年は道後公園だった。あの時も自転車で出かけたのだが、休日でもあり公園の入り口から小さな通路にいたるまで人で一杯。大変な賑わいだった。今日はちょっと穴場とも言える堀の内公園まで、やはり自転車散歩で。空は春の花曇り、北風も柔らかく爽やかだ。

開花の具合は、西堀端が5部、南堀端が7部、東堀端が8部咲きというところ。じゅうぶん花見になる。咲きっぷりの良い木の下は先客がすでに食事中で、私たちは市駅を正面に見るベンチでおにぎりと巻き寿司を食べることにした。

「街の中心地でこうやってゆっくり花見ができるとは、小じんまりした地方都市も悪くないね」お堀の水面では、カメとアヒルと白鳥がいつものようにのんびり休んでいる。遠慮を知らないハトが一羽、弁当のおっそ分けを期待して足元までやって来る。下草の小花ではミツバチを見つけた。「彼らはみな仲がいいね・・・自然界が弱肉強食の厳しい生存競争の世界だ、などというのは一面の真理に過ぎないのだ・・・」などと、家人相手に講釈をたれる。

帰りもゆっくり街中の景色を眺めながら1時間ほど。年に一回くらいはこういう時間の過ごし方も良い。


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国民投票法案

2007-03-30 23:56:33 | 政治
自民と公明がたぶん強行採決するであろう「日本国憲法の改正手続に関する法律案」に、こないだざっと目を通した。150条を超えるずいぶん仰山なものだ。

これについては、幾つか言いたいことがあるが、ます最低得票率についての条項がどこにもないということ。これは一体どういうことだ。これだと、例えば得票率が50%だった場合の過半数で25%以上・・・つまり有権者のたった4分の1ほどで、国家の基本法・根本法が変更されてしまうことになるではないか。もし20%なら10%だ。

憲法改正は単なる議案の議決はもとより、最高の裁判官の国民審査や地方特別法の住民投票とは訳が違うだろう。この法案を考え作り出した人間や、法律にしようとしている議員の皆さんは、「国民主権」の意義を知らないでやっているのか、それとも知りながらやっているのか。どちらにしても、国民を馬鹿にするにもほどがある。

そもそも、憲法は、国民つまり日本という国家に生きる「私のもの」であって、権力の中枢部分にいる「彼らのもの」ではない。頼んでもないのに、人が本当に大切にしているものを勝手に触って汚すな!・・・とまず言っておく。

それから、この改正運動は、私はもとより国民多数の中から生まれたものではない。明らかに、現在の憲法の条項の幾つかが(その本星が9条であることは明白だが)、鬱陶しくてしかたのない連中が、自分たちの都合のいいように変えたくて仕方がない、というところから始まっている。それも当然だ。彼らにとっては、押し付けられて鬱陶しいのが、まさに立憲主義の本質なんだから。だから99条でも彼らを選んで縛りをかけているのだ。

国民の中から始まらない憲法改正運動のどこに肯定すべき意味があるというのか。否定すべき意味は山のようにある。仮に、国民の中から起こった運動であるとして、国家ではなく国民に主権があり、その主権者の過半数が、現行憲法に不満があり改正やむなしとするなら、民主主義の正道としてそれはまさにやむなしであろう。しかしそうなら、過半数規定の分母を有効投票総数ではなく、少なくとも「有権者総数」にしなければならない。
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送信サーバー

2007-03-29 10:29:00 | その他
今朝はメールソフトに@niftyのメールアカウントを追加した。ところが、受信に問題ないものの、送信ができない。いろいろ触ってみてもその理由が分からないで困っていたところに、ちょうどNTTの設定担当者がやって来た。ネット接続はすでに完了しているし、わざわざ来てもらうのも悪い気もしていたけれど、念のためにお願いしておいたのだ。

ちょっと驚いた・・・彼のパソコン操作の速くて滑らかなこと!私はほとんど見とれてしまった。メールソフトのサンダーバードはあまり一般的ではないが、彼の職場でも使っているらしい。結局、原因は送信サーバーの設定にあった。ネットへの接続を@niftyに替えたので、それに従って、送信サーバーも替えなければいけなかったのだ。分かってみれば簡単なことだが、これを私がやっていたら、たぶん今日半日は失っていたであろう。やはり、その道のプロは違うなぁ・・・と感心した。ありがたいことだ。

さて、これでまた新しいネット環境になった。たまに帰ってくる息子の、隣の家の部屋に無線を飛ばす必要も出てきたので、ルーターもやはりもっと強力な最新型に替えることにした。

私は現代文明を批判的に見ることが多いが、文明否定論者ではもちろんない。ある世界の真っただ中に生きていて、その世界を全否定するのは自殺行為に等しい。原始と文明、自然と社会、保守と革新、自由と安全・・・あらゆるものごとの両極の間を往復しながら、それぞれの人にとっての調和点を見つけ、その調和の中で生きることが健康的な人間のあり方だろう・・・というのが、私の人生観の一部でもある。

現代文明について言えば、パソコンやインターネットなど情報科学の進歩は、深刻な情報ストレスを生み出す一面もあるが、そのマイナスを凌駕する可能性にもあふれている。この10数年の変化を見よ。これらの進歩の光明は、すでに世界数十億の個人の交流を即座に可能にするに至っている。これはまさに地球的な情報「革命」そのもので、人間界のみならずこの世界の生物は全て、何らかの「情報」のやりとりで生成消滅しているわけだから、この技術が更に発展すると、もっととんでもないことが起こりうるのである。

例えば、現在のインターネットは主に電線やケーブルで繋がっているが、そのうち必ず人工衛星や強力な中継基地を使った無線の時代が来るだろう。ネットが無線になれば、どんな山奥だろうが大海の小島だろうが、どこにいても世界中の情報にアクセスすることができるようになるだろう。

更に、現在は人間だけの世界だが、「情報」の本質に則って異種間の「情報交換」つまり異種・異生物間コミュニケーションの研究が進めば、もっと面白いことになるに違いない。自然界に生きる生物たちの痛みや喜びが、もっと広範に人間世界に届くようになれば、人間も地球生命のほんの一つに過ぎないということが、より多くの人々に痛感されるようになるだろうからである。
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T君のこと

2007-03-28 11:10:00 | 追憶
中学・高校・大学と、極めて多感な期間を通して、私に大きな影響を与え続けた友人のT君について書くには、まだ充分な準備が整っているとは言いがたい。しかし、その準備はいつ完了するとも言えない種類のものでもあるので、少し書いて今後の資料にしておきたい。

岡山大学の理学部に進学したT君は、まもなくスカラシップでアメリカ東海岸に留学し、日本に帰ってから大学院に進んで学者の道を歩み始めた。専門は地質学で、1976年の論文は『マグニチュード3.9の地震の表面波解析による発震機構の決定』となっている。

当時の私にとって最初の大学を辞めるという選択は大問題だった。四国の片田舎に育った私には、関東周辺に身寄りも知り合いもなく、埼玉の下宿を出て新たな受験準備をするために江戸川傍のボロアパートに引越しするのも、電話帳をめくって適当に探り当てた不動産屋が、たまたま小岩にあったからというに過ぎない。

この計画については誰にも相談することなく、長い夏休みが終わった頃から着々と準備に着手し、受験直前になって、両親にも教授にも下宿屋の婆さんにもその結論だけを告げた。全ての人が反対した。

T君も例外ではなかった。そして、彼の反対理由は「君の気持ちは分からんでもないが、学問は場所を選ばない。大学が替わったからといって君の悩みや疑問は解決しないだろう。K大学はできたばかりの小さい大学で、M大学ほど名は通ってないが、素晴らしい先生がいて暖かい環境があるではないか。君は実より名を取るのか・・・」というようなことだった。

私が転学を考えた理由は「名を取る」ことよりも深刻なものだったが、この時はそれ以上のことを話すことはなかった。彼自身も自己の進路についての悩みを抱えていたに違いない。温厚な彼には珍しく厳しい返答だった。

結局、私は周囲の全ての反対を押し切って転学し、新しい環境で新しい生活を始めることになった。今から思うとムチャクチャな学生生活だ。しかし、20歳前後の男の生き方などというものは、凡そ無茶なもので、自由と苦悩をその本質とするものだろう。

2歳年上のT君は、私などよりはるかに堅実な生き方や考え方をしているようだった。私も新しい環境に慣れて、学内学外で色々と忙しくするようになった。T君も、大学院に進んで何かと忙しいらしく相互の連絡も途絶えがちになった。しかし、私は折に触れて彼の存在を思い出しながら、彼が博士課程に進んだらちょっとした祝いでもしに行こうか・・・などと考えていた。

そして、私が22歳の4月、親父が仕事の用事で東京に出てきた。年に一回あるかないかのことだ。都内のホテルで久しぶりに豪華な食事をした後で、父が重い表情でャcリと言った。「T君が死んだよ・・・」「もっと早く知らせるべきだったのかもしれないが、お前が落ち込むのは目に見えているから、今まで言わずにいた・・・」

ホテルの華やかな食堂が一気に明かりを失った。「なんで・・・?」「去年の大学院の忘年会の後、行方不明になってね・・・大騒ぎになったんだが・・・少し暖かくなって、下宿の近くの池に沈んでいるのが見つかったらしい・・・」私は言葉を失った。

アルコールに弱い私と違ってT君は強かった。一杯やると「学問とは、我が人生の目的とは、世界平和とは・・・」等など、大きな話になるのが大概だったが、それは単なる酔っ払いのホラ話ではなかった。素面の時でもこの種の話題については真面目に議論することがよくあったからだ。ひとしきり話し終えると気絶したようにどこでも寝てしまう豪放なところもあった。

後で聞いた状況を総合すると、12月末の非常に寒い夜、院の教授や仲間と大酒を飲んだ帰りに、道中、池のほとりで立小便でもしようとして足元がふらつき、冷たい水の中に落ちてそのまま寝てしまったのだろう・・・ということだった。

24歳の彼の死はあまりに唐突で理不尽だった。もうあの笑顔も涼やかな目も二度と見ることはできないのだ。もうこの世界のどこを探しても彼はいないのだ。それ以来、どんな人間も避けて通れないにもかかわらず、まともに向き合うことを容易に許さない「死の問題」が、私の心の隅から離れることはなくなった。そして否応(いやおう)なく、この日々の現実世界が相対化することになった。

人は死んだらどうなるのか・・・死後の世界は有るのか無いのか・・・もし無いとしたら人生の意味はどこにあるのか、もし有るとしたらそれはどの様なものであり、この生の世界とどういう関係性を持っているのか・・・人間が太古の時代から問い続けてきた容易には解けそうもない問題がそこにあった。

その答えを、幾多の哲人や先人の言葉の中に見出すのは簡単なことだ。それらの中にはそれなりの説得力もあり、なんとなく分かったような気になるものもある。しかし、どのような考え方を採用しても、一人の有為な人間が人生半ばにもならない若さでこの世界から突然消滅し、一方私のように無為な人間がその2倍以上もの年月この世界に存在し続けていることの必然性を、合理的に説明し、更に実証することは難しいだろう。

最近の私は、生死を有無の範疇で捉えようとすること自体に無理があるのではないかと考え始めているが、この大問題と真正面から向き合い、自己の中にゆるぎない解答を見出すには、まだ相当の時間がかかるのかもしれない。
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NTT光

2007-03-28 00:37:00 | その他
NTT光の工事がさっき完了した。1~2時間でしょう・・・ということで始まった作業が、6時前から始まって9時半まで4時間近く、思っていた以上に大鰍ゥりな工事になった。どうやらケーブルを引き込む電柱を間違えたようで、道路の整理員まで出てちょっと大変なことになったらしい。夕食もとらずに遅くまで頑張っている若い担当者が可愛そうになったので、伊予カンの残りを一袋、帰りに持たせた。明朝、別に、PCのネット接続設定に来ることになっているが、セットアップCDもサーバー関係の書類も既に揃っているので、さきほど自分で済ませてしまった。



さて、肝心の速度だが・・・無線ルーターを介して繋がっているこのメインPCは4Mちょっとと、YBBのADSLとほとんど変わらない。何回かMTUの設定を変えてみても同じ結果だ。これは無線ルーターのキャパ上限が11Mだからまあ仕方がないのかもしれない。

それではと、10mのLANケーブルで繋いだ自宅のノートを見てみたら、なんと25Mも出ていた。このノートはMTUなど全く触ってないのだから、ちゃんと設定するともっと上がるかもしれない。当然のことながら、やっぱり光ケーブルは線が太いんだ~・・・と感心している。せっかくこれだけ出るのだから、ルーターを100Mのものに変えてみようか・・・と思ったりもしているが、現在のところこれで特に不都合はないのだ。

スローライフを標榜する人間が、こんなことを考えるのだから、やっぱり現代文明の魔力を侮ってはいけない。
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リング

2007-03-27 10:37:00 | その他
夜の時間のある部分をテレビを観ることに使うのは久しい習慣になっている。家人のテレビ好きは相当なもので、その時間の浪費具合に、私は時々呆れたり稀に小言を言ったりすることもあるのだが、彼女のテレビとの付き合い方にはそれなりの流儀があるらしく、サスペンスものを除いてはその内容に関係なく、ただ画面をボンヤリ眺めていること自体に深いリラックス効果があるのだそうだ。まあ、私が空や海を眺めて得るものを彼女はテレビから得ているということだろう。

私の流儀は彼女のものとはかなり違って、ボンヤリ見るということはほとんどない。番組表をチェックして準備していた番組でも、その内容が薄かったり、製作者の意図が簡単に見て取れる時は、さっと見切りを付ける。ほとんどのバラエティー番組や一応の客観性を建前とする報道番組の多くがそうだが、番組製作者の意図そのものに興味があって観る場合もある。いずれにしても、それなりに注意深く観ているということになる。

現代社会におけるテレビの影響力の大きさは、改めて言うまでもなく莫大なものがあり、どんな情報でもこの媒体に載せると魔物的に増殖する。もちろん、魔物という点で同類の政治権力がこれを利用しないわけがなく、先の小泉総理のマスメディア利用の巧みさは実に見事だった。今の安部さんは小泉さんのほとんど足元にも及ばないように見える。それでも、私を含めて多くの国民は、依然多くの情報を送り手側のフィルターを通してしか見ることができないのだから、それなりの注意が必要なことに変わりはない。その「フィルターの色」を見抜くための注意である。

今回思い付いた記事とは方向が変わってきた。映画「リング」に話を戻す。昨夜はこれといって見たい番組がなかったので、パソコンテレビGyaoの映画から「リング2」を選んだ。ずいぶん以前に「リング」を見て、私はその内容の浮ウというより、この時代受けするテレビ・ビデオでのお膳立てと、きわめて日本的な情念の描き方に多少の感銘を受けていたのだ。「リング2」はもう8年も前の映画だが私は見てなかった。

登場する主要人物が、恐浮フビデオを見て死んだ教授の助手と息子に代わり、その教授の友人だった精神科医が、貞子の怨念を消費可能なエネルギーと考えて大量の水に転移し消滅させようという実験をする。これもなかなか面白い設定で、飽きることなく最後まで見た。さらにその横にあった、「リング0・バースデイ」というのも・・・結局、深夜の3時間ほどをかけてリング三部作の最後まで見てしまったのである。

リングのテーマを一言にすると「怨念」ということになるだろう。女性の怨念。もちろん男性も人を怨むことはあるが、男の怨みや怒りを映画にしたら、たいがいは威勢のいいヤクザ映画か戦争映画になる。

では、このやっかいな「怨(うら)み」という心の病はどこらから発生するのか・・・幾つかの次元から考察することができるが、貞子が落とされた古井戸が象徴するように、それは、内側に狭く暗く閉鎖した世界にある、と見ることはできないだろうか。西欧のホラーと比べて日本のそれの湿度が高く、その恐浮ノ何がしかの情念を伴うのはそのためでもあるように思われる。
(リング0では、何故か2つの人間に分かれた貞子の父の素性にその原因を臭わせて終わっている。このプロットでそのうち「リング3」が出るであろう)

人間が内面にはらんだエネルギーを発散し開放できる外側に開いた世界では、その怒りや怨みが厚く蓄積されることはない。また小さな怒りや恨みを、小刻みに移転できる家族や知人や友人を身近なところに持っている人間も、このマイナスエネルギーを過剰蓄積することはないだろう。これは個人だけのことではなく、あらゆる集団や国家についても言えることではないか。

ユネスコ憲章が「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」とうたっている通り、あらゆる戦争の根本的な原因が人間の怒りや怨念にあるとすれば、その治癒は、それらを溜め込まないための方策を採ることに求めなければならないだろう。そして、そのためには、どんな人間集団も、閉鎖主義ではなく開放主義、国家主義ではなく世界主義を採用するしかないように思われるのである。
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桃の花

2007-03-26 15:02:44 | 自然
ロビンがいた頃は毎日何回も覘(のぞ)いていた自宅の庭も、冬の季節ということもあってほとんど降りてみることもなかった。昨日、久しぶりに窓越しに眺めてみたら淡いピンクの桃の花が目に飛び込んできた。この桃の木は「桃栗三年・・・」にちなんで、家を建てたときに東の隅に一本植えてみたもので、何の手入れもしていない。虫にも食われ放題で、何度か枯れかかったこともある。しかしその度に持ちこたえて、毎年花を付け、その実は多作と寡作の年を繰り返す。



今年の花の付き具合は寡作を表しているが、これはむしろ喜ばしいことで、一つの実が大きいことを意味する。多作の年は、枝がたわむくらい多くの実がなるけれども、ほとんどは虫に食われる上に、粒が小さく味も落ちる。同じ根から吸い上げる養分の分配規則に従っているわけだ。

目隠しに10本ほど並べて植えたキンモクセイは、背丈5mにもなろうとしている。淡い緑の若葉が勢いよく天に向かってる。やはり、この初春の季節は天地万物が新生の喜びにあふれているのだ。

人間は動物で、本来動きまわることを性とするから、何かの契機がないと自らの内にある植物的生命を意識することは少ない。しかし、系統発生を個体発生で繰り返すという生命進化の法則性によっても、動的な交感神経の動きの奥で静的な副交感神経の働きに支えられているという点でも、その中に植物的な性質を蔵しているのは間違いない。

つまり、人は動物であると同時に植物である、ということだ。こういう観点を持つと、例えば怪我や病気で動きを失い、外見上植物的にしか生きることを余儀なくされた人たちを見る目も根本的に変わってくるだろう。動いても動かなくても、そこには、この広大な宇宙の中で、その人一人にのみ許された尊い世界が存在する、という見方である。

ものごとは、目に見えないから形がないからといって、存在しないのでは決してない。およそ、人間にとって最も大切なものは最も見ることが難しいものだ。純粋な空気も水もそうではないか。愛情や思いやりという心の世界もそうではないか。だから、人間が、光の当たる目に見える世界のみの繁栄を求めて善しとする生活を続けていると、いずれ何らかの行き詰まりを迎えるざるを得なくなるのも、自然の成すところという気がするのである。
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海に帰る

2007-03-25 20:39:25 | 自然
昼から海で風に吹かれてきた。ほぼ15年ぶりのウィンドサーフィン。先日、軒下からカビやほこりで変色したボードとリグ一式を引っ張り出して、それなりに聡怩オ準備しておいたものを車のキャリアに積んで、ワクワクしながら出かけた。体で覚えたことは忘れないらしい。それがどの程度本当か・・・ということにも興味があった。

按配よく南西の風6m/sというところ。海に復帰するには強すぎも弱すぎもない適当な風だ。ずっと空のエリアになっていた塩屋海岸は、昔、大西風が吹く季節に、ウェイブライディングもどきをしに来ていた場所でもある。カイトのF君も来ている。

まずリグのセッティング。15年前のライン類もそのまま使えるか試してみたかったので、いつ切れてもおかしくないほど変色しているが、そのままセットアップ。セールは情けないほど薄汚れている。ボードは去年の夏に一度海に浮かべておいたので心配はない。ジョイントは使ってみないと分からない。ダガーケースの修理をして準備OK。

さて、風の割りには大きめのビーチブレークで少し手間取りながら飛び乗ってみる。同時にセールを引き込む。次にハーネスを使ってみる。15年で腹を中心に5kg太っているのでフックが定位置まで上がってこない。何回かラインを振ってやっと引っ鰍ッた。

おお!ちゃんとプレーニングするではないか。沖合い数百mまで出て、タックをしてみる。かなりグラグラしながらなんとかOK。小さい波で小さいサーフィンをしながら岸まで戻って、今度はジャイブを試みてみる。これもなんとかOK。やはり体はほとんど忘れていなかった。

しかし、2回目のレグが終わってもう一度ジャイブしたら見事にチンだ。ウォータースタートで起き上がろうとするが、風が落ちていたこともあってどうにもならない。アップホールラインなんか付けてない。潮も風も都合よく流れているので、そのまま岸まで流されて帰ることにした。

その後1時間ほど、全部で4~5往復。やはり海は私の故郷であることを確認した。水温はまだまだ低いが、手足がしびれるほどではない。風と波に体の芯まで揺らしてもらって、まったく良い気分だった。予想していたことではあるが、現在、体中、特に腕の筋肉がピキピキ叫び声をあげ始めているところ。しかし、キーボードを打つ手は震えてないから、まだまだ軽症のうちだ。
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雨音

2007-03-24 00:02:09 | 自然
今日は終日雨が降った。暖かい春の雨だ。夜になってもパラパラとガレージの屋根を叩いている。私は基本的に雨天は好きではないが、雨にもさまざまな表情があり一様に嫌うことはできない。

シトシトと降り続く梅雨時の雨や冬のみぞれ雨はたまらない。しかし、春雨や夏の雷雨は少々体を濡らしてもなんとも思わない。静かな夜の雨の音はむしろ好きな部類だ。雨音とは、正しくは空から落ちる水滴が地上の物体とぶつかって発生する音だが、うるさいはずの衝突音が、この世界の喧騒を鎮め、心の中も静めていくような気持ちになる。

しばらく前のテレビ番組で、日本人と西欧人は虫の音の聞き方がまったく違い、その理由は、自然界の発する音は母音成分が多いという点で日本語に似ており、日本人は言語をつかさどる左脳でそれらを聞くからである。それは左右脳の血流量の違いで見て取れる。したがって、日本人は西欧人に比べて自然が発する音の意味を知り、自然と深く共感できる能力に長けるのである・・・というような話をある専門家がしていた。

これに似た説は以前からよく聞いている。いわく日本人は虫の音を愛でるが英語国民は雑音としか聞かない、云々。私も、夏のセミや秋のスズムシなどが発する音や早朝のスズメやハトの鳴声を、何がしかの情感をもって聞かないことは稀なのは確かである。しかし、私が野外で起居を共にしたことのある数人の西欧人が、虫の音や風の音がうるさくて寝れなかったということもない。

自然音に母音成分が多いというのはどういうことだろうか。母音とは「声帯のふるえを伴う有声音」つまり声帯の単振動で、それは最も基本的な振動運動だから、自然界においてもよくみられるというのはよく分かる。しかし、そうであれば、車やバイクの音や時々気になるパソコンのファンの音なども母音でできているのだから自然音と本質的な違いはなくなる。単振動から生まれる音の快不快は音量の問題だけでもないだろう。

また、言語の音韻に単純な母音が多いのは日本語だけではなく、スペイン語などもそうなのだから、この説に単純に賛同するわけにはいかない。それがどのような内容であれ、限られた資料から特定の民族国家の優位性を一般化することの弊害は、歴史上すでに見飽き聞き飽きている。

それは言語の性質だけの問題ではなくて、それぞれの国が持つ歴史文化や個人の生活習慣なども大きく関係しているのではないだろうか。例えば、英語しか理解できない人が英語だけで何十年か日本に住み、日本人的生活を完全に身に着けた場合に、虫の音や雨音や潮騒を聞いて左脳の血流量を増やし、英語俳句でもひねってみようかという気にならないとも限らないと思うのだが・・・さてどうであろうか。
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國弘正雄

2007-03-23 11:44:00 | 追憶
國弘先生のことを書こうとすると、どうしてもT君との思い出を辿らざるを得なくなる。T君とは、同郷の中学の2学年先輩で、私が1年坊主の時に理科部の部長や生徒会長をしていた人だ。若い時の森進一にそっくりで、その聡明で温和な性格は校内の誰にも好かれていた。この年代の2年先輩というと、はるか高い場所にいる大人のように見えるものだが、彼の柔らかで気さくな人柄には、ほとんど年齢差を感じさせないものがあった。1年生の2学期から理科部に入部して、私はすぐに彼のことを「T君」と呼ぶようになった。

理科部では全くの自由が支配していた。各自適当な自由研究の成果を思いついた時にまとめて、理科新聞を発行することのほかに特別な活動をしていたわけではない。当時の新聞はガリ版刷りで、私はピンホールカメラの原理を図入りで解説したりしたのを覚えている。彼が卒業した後、2年生の私が部長を引き継ぐことになったのもその自由の空気のためで、要するに誰がリーダーになっても部活動の内容には何も影響しなかったということだ。夏休みのある日、山を二つ隔てた彼の家に泊まりに行った夜、近くの小学校の天体望遠鏡を校庭に引っ張り出して、初めて土星の輪を見た時の感動を忘れることはない。

T君とは取り止めもない未来のことや他愛のない悩みごとなど実に様々な話をしたが、私は彼と一緒にいること自体が嬉しかったのだ。1年足らずのうちに、彼は海を隔てた街の進学校に進み、2年後に私も後に続いた。もちろんこの間も暇を見つけては彼の家に遊びに行った。彼とは英語が好きな点でも嗜好が一致していて、この頃すでに、彼は大学に進んだら是非とも留学したいという話をしていた。そして実際、岡山大学の理学部に進んだ後、サンケイ・スカラシップに合格してアメリカの東海岸に1年間留学することになる。

T君が高校時代に心酔したのが、同時通訳者で当時テレビやラジオの英語教育番組でも大活躍していた國弘正雄だった。彼は尊敬する國弘先生の書物を何冊か熟読してその感想文を送った。間もなく、先生の丁寧な返答が著書数冊と共にT君の元に届いた。「立派な人物とはこういう人のことを言うのだね・・・」それを聞いて、私もその通りだと思った。

その後、私が大学進学を考えるようになって、国際商科大学(現在の東京国際大学)を有力な選択枝にしたのは、この大学で國弘先生が国際関係論を担当していたからだった。そしてやがて、私は学生生活最初の1年間をこの大学で過ごすことになる。当時の先生はまだ40代半ばで意気溌剌としていた。派手な柄のまぶしいようなネクタイをしめた彼が教場に颯爽と登場すると、あたりの空気がピンと引き締まった。あの歯切れの良い早口で一時間半とうとうと話し終えるとさっと姿を消す。やはり随分お忙しいのだろうな・・・50人に満たない小さな教室の、たいがい一番前の席に座っていた私は、ステージに立つスター歌手を見るような気持ちで彼の姿を見ていた。世界中に広がっていたはずのその講義の細部を、今ほとんど覚えていないのは奇妙なことだが、人はその話の内容だけから影響を受けるのではない。

結局、ある理由で、私はこの暖かい大学を一年で去り、明治大学に籍を移すことになる。当時の担当教授にはずいぶんご心配をかけ、不義理を残したままでいる。



國弘先生は、後に政治の世界にも関係するようになり参議院議員にもなって更に活動の場を広げられた。終始、平和と市民の側に立つリベラルな立場を堅持された。ただ、何年か前にテレビでお姿を拝見した時は随分痩せられて、様々なご苦労の痕が色濃く残っているように見受けられた。現在は政治からも身を引き、英国の客員教授や明治大学の軍縮平和研究所特別顧問もされている。ちょっと不思議な縁だと勝手に思っている。ともかくお元気で長生きしていただきたい。

さて、T君の話であるが、その後の彼について語るには、私の心の準備はまだ整っていない。その時が来たら、また書きたい。
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