庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

優柔不断

2012-07-31 21:00:00 | 創作
優しく柔らかいことはたいがい善いことだが、不断(断ぜず)であることはそうではない。

誰が何と言おうとも、時と場所を踏まえた上で、一定の確信に基づく断じた言動をとることは、 自立を志向する個人にとって不可欠の要件である。

 


二周忌

2012-07-29 20:38:00 | 追憶

今日は父の二周忌だった。ちょうど二年前の本日、午前三時四十五分に、彼は今治の大病院の一室の私が寝ているすぐ横のベッドで息を引き取った。 

「脈拍が二十に落ちてます!!」と息を切らしながら病室に飛び込んで来た看護師の声で私は跳ね起きた。しかし、すでにその時、脈も呼吸も停止していた。今夜のように暑い夏の夜だった。

九十歳の彼は、そのちょうど三ヶ月前の四月二十九日の昼食時に左脳の脳梗塞で唐黷スのだが、かろうじて動く左半身の細い腕で必死にベッド柵につかまりながら、なんとしても生き抜こうとしていた。普通の人間でも大変な、時に四十度を超す高熱を一ヶ月近くも耐えた。 

二ヶ月目に入った頃からしばらくは小康を取り戻し、時に姉や母や私の顔を見て微かに笑い、左手をゆっくり持ち上げて握手し、車椅子に乗せられてリハビリが出来るまでに回復した時期もあったが、ついに言葉を発することはなかった。

そして、三ヶ月目の中頃、再び襲ってきた四十度の高熱に耐える体力はすでに残っていなかった。危険な期間を通して傍《かたわら》に付き添っていた私には、もの言わぬ父が、迫り来る死という大敵と全力で戦っているのが、ハッキリと分かっていた。

十六歳から二十六歳までの人生で極めて重要な時期を、職業軍人として数々の戦場で生き延び、その後の生涯でも、さまざまな種類の戦いの世界と縁が切れることがなかった人間らしい、まったく見事な最後だったと思う。

三十六年前、突然、親友のT君が逝ったとき、私の世界は光を失い大きく様相を変えた。しかし、それから長いあいだ捜し求めた生死の問題への確答はいぜん遠いところにあった。そして今回の父の死は、ゆっくりとしかし確実に、その意味の一端を私に教えつつある。



33℃の壁

2012-07-26 11:04:00 | 海と風
現在、事務所の室温32℃。さすがの換気扇冷却装置を使っても、この季節、昼を回ると33℃の壁を超えて時に35℃に達することもある。この辺りになると、もう・・・ほとんど頭は回らない。 

つまり、私の精神世界は「胡蝶の夢」状態になって、現実と夢の境目をさまよい始め、昔は水風呂に飛び込んで身体を冷やし、大汗をかいて目覚めるまで昼寝したような気になるしかなかったのであるが、海に復帰してからは大きく事情が変わった。とにもかくにも、母なる海というものはありがたいものです。

昨日も、こんな蒸し風呂でジッとすることなどは不可能なので、ともかく別府の海へ。西風3m。カイトで出るにはちと風が足りない・・・ということは、2kmほど沖の怪島までSUPで行ってみなさい・・・という天のお告げだ。 

行きに30分、帰りは追い風に乗って20分余り。途中海上でF君に電話してみたらちゃんと通じたのは、ちょっと妙な気もしたが、まったく便利な時代になったものだ・・・と現代科学文明の恩恵に多少は感謝しながら、寒いくらい涼しい時間を過ごしたのでありました。 

そのうち、19??が頭上で静止する程度の風となり、今回で2度目のSUPカイトの練習をしたのだが、これはもう、これまでのツインチップ・カイトサーフィンとはほとんど別の世界の感覚だ。 

もともと立ち漕ぎでも安定感抜群のボードが、高度10余りの19㎡のパワーでプレーニングを始めるとどういうことになるか・・・目線が低いと、当然、スピード感が格段に上がる。4m程度の風でも、文字通り、飛ぶような速さで突っ走っていくのであります。5mも吹くと、今にも飛んでいきそうなボードを懸命に抑えながら、自分も吹き飛ばされないようにする必要がでてくる。 

立ったり座ったり寝そべったり、好き勝手な姿勢で海上を疾走できることの有り難さが、徐々に分かり始めてきたところであります。ある程度予想はしていたけれど、これでまた、新しい角度から風水の世界を眺めることができそうであります。

稀有なる平和学者 2

2012-07-25 12:10:00 | 平和

エアコン嫌いの私が、昨夏から事務所に導入した「換気扇」の効き目は素晴らしく、昨夜も夜間28℃程度の室温を維持してくれたおかげで、多少面唐ュさい話しに流れて熱くなりそうだった頭も、ほどよく冷却されてちゃんと眠ることができた。今朝は、続きにかかる。

何が言いたかったのか。クラウス先生の紹介に関係しながら、「体験」と「認識」は深い関係にはあるが、同時に、別次元の問題であるということ。モノゴトを主観的に体験しながら客観的に認識評価することは、まず不可能であろう・・・というようなことだった。

これを私好みの「相対主義」の観点から身近な例で語れば、「リンゴの中に住んでいる虫は、リンゴの姿を知らない。だから結局、リンゴの養分で生きてはいるが、リンゴの味もリンゴ自体を理解することもできない」・・・となる。

これは、まあ当たり前といえば当たり前の話なのだが、私も含めてたぶん多くの人たちがしばしば、この「当然の事実」を忘れて、つまらない間違いに気付くことなく、無駄な苦労をしていることがある。

私たちは2012年の現代に生きていて、しかも、この現代は1945年の現代と確実に連続している。更には1868年の日本近代とも間違いなく連続している。今私たちがどのような時代状況の中にいるかを知るためには、日本国やその他の国々が驚くべき愚劣さを示したあの時代や、それに至る筋道を付けたあの時代について知ることは、必然的要件になるだろう。

そしてまた、過去と未来は現在の一点を挟んで連続しているから、過去を知り現在を知れば、ある程度の未来は予測できるようになることも、容易に結論できるだろう。あの大戦が勃発したとき、ほとんどの日本国民は躍り上がって喜んだが、加藤周一は言うまでもなく、その他極めて少数の「当然の事実」を知る人たちは、その結末を確実に予測していた。あの時代、未だ日本国内から一歩も出ることなくして、である。

クラウス先生の今回の小論のタイトルは『ドイツ人は井の中の蛙であってはならない』だ。これはもちろん、インドの偉人ガンジーの言葉を踏んで、先生流に『荘子』の「井の中の蛙、大海を知らず」をもじったものだが、おそらく彼も、多くの先人たちがそうであったように、横に広く、祖国を離れて南ヨーロッパをヒッチハイクし、精神の大国・インドを何年間にも渡って放浪する過程で、初めてドイツを発見し、縦に深く、歴史を研究するに従って、ドイツ国と遥か東方のちょっと変わった国・日本との、ただならぬ関係性を発見したのだろう・・・と思う。

先生とは来々月にも再会する予定なので、この辺りの事情についても、少し突っ込んだお話しをしてみたいと楽しみにしている。



『敗戦から65年:ドイツ人は「井の中の蛙」であるべきではない』

2012-07-24 22:27:00 | 平和
2010年8月28日 インド・「カルカッタ・ステイツマン」特別寄稿

敗戦から65年:ドイツ人は「井の中の蛙」であるべきではない

      歴史平和学者 クラウス・シルヒトマン 著

今年(2010)、第二次世界大戦後初めて、国連事務総長とアメリカ合衆国の日本大使がそろって広島を訪れ、毎年行われる原爆の記念式典に参加した。オバマ大統領は、彼の在任中には訪問することを約している。

ニューメキシコのロスアラモス実験場で、核科学者たちによって開発された原子爆弾は、1945年、すでにドイツが降伏し、ヨーロッパでの戦争が終結した後、日本を降伏させるために投下されたのだった。ニューメキシコの原爆工場で働いていた研究者により成るロスアラモス科学者協会(ALAS)は、1945年の11月、「この原子爆弾が多くの国々に所有された世界では・・・それは報復への恐浮ノよってのみ使用が躊躇《ためら》われるのであり、世界の恐浮ニ猜疑心が最終的に爆発に至ることは避けられないだろう」・・・と警告していた。

幸いなことに今日では、グローバルゼロ運動は公式な世界政策となった。しかし、ロスアラモスの科学者たちが考えていたのは、核が「世界的権威によってコントロールされること」で、そのためには、「ある程度の国家主権の制限」が必要になるということだった。しかし、グラウンド・ゼロから65年たっても、バン・キー・ムーン氏(国連事務総長)が広島の聴衆に語りかけたように、私たちは「いまだに核の傘の下で生きていて」、主権国家はその「主権」の一部たりとも手放そうとせず、必要ならいつでも戦争を始める権利をほとんど永久に捨て去ろうとはしない。

それでも、広島と長崎の惨状を見て、世界中の政治家たちは、国際問題を戦争で解決することはすでに適切な方法ではないと考えていた。戦後のドイツ連邦が、新しく創設された国際連合の要請に沿った軍隊制度を持つことを拒否した理由の一つもそうだった。いくぶん日本国憲法に似て、新しく作られたボン基本法には、当初、軍事・防衛を制度化する条項は含まれておらず、それに代るものとして、国連の方針に沿って国家の主権放棄を進める国際機関の強化に備えていた。そしてそれは結果的に、国家からその平和と安全を確かなものにするために用意しなければならない過大な軍事費という重荷から解放させるものだった。アインシュタインが言ったように、この時期は「私たちの(身近な)屋根の上から世界中の政府に向かって叫ぶ」時だったのである。

ガンジーはまだ戦時中の1942年8月のインドで、市民的不服従運動を導きながら、すでに次のように宣言している。「我々は井の中の蛙《かわず》でありたくはない。我々は世界連邦の樹立を目指す」・・・と。1947年のドイツでは、国際法の教授でもあり、ワシントンと東京で長く外交官を務めたウィリアム・グルーが、ドイツもまた「国連憲章が有効に使われ得ることを目指して、国際連合が連邦制の世界機構に発展すること」に反対しない・・・と述べた。
しかし、グルーは国家社会主義のファウスト(富と力のために精神を失う者)の天才的信奉者であるカール・シュミットの影響下に入ることになった。グルーは中央ヨーロッパをドイツ主導のものにすることを思い描き、同盟国が世界的機構を創り上げようとする努力に力を尽くすことはほとんどなかった。その後、東西ドイツは冷戦下における超大国間の猛火のごとき熾烈《しれつ》な対立の中に長く留まる事になるのである。

1950年、朝鮮危機が訪れたときに初めて、国連の集団安全保障システムが機能するかどうかが、きびしく試されることになった。国連加盟国は「その責任の履行を開始するために」、国連憲章・第106条に各国の注意を集め、透明な安全保障の合意を発動させるべく、安全保障理事会を機能させるプロセス、つまり、「特別協定成立前の五大国の責任」を履行すべきであった。

その移行過程では国連への権限委譲が必要になる。ドイツ憲法下で規定された国連への代表団の派遣は世界平和に向けて効果的に歩みを進める最も重要な第一歩となるべきであった。しかしこの年、西ドイツは過去の過ちを補い、自らが課した苦境から逃れるチャンスを逃した。過去の例は、1899年と1907年のハーグ平和会議にまで遡る。その時、大多数の参加国の願いや平和運動に反して、幾つかの大国が結束して国際裁判所の設立を拒否した結果、第一次世界大戦の勃発を招くことになったのである。

戦後ドイツで、長期に渡りキリスト教民主連盟の党首を務め、連邦首長でもあったコンラッド・アデナウアーは、ドイツの再軍備に熱心であった。グローバルに考えることができなかったのか、考えたくなかったのか、彼はカール・シュミットがそうであったように、ヨーロッパを「世界の母」であり、「国家主義の萌芽」の責任はフランス革命にあって、その結果、ドイツ国家社会主義とロシアの共産主義の過多およびイデオロギー的な追撃を与ることになったのだと考えていた。アデナウアーの最も重要な外交顧問がウィルヘルム・グルーであったことは驚くに足りない。

広島への原爆投下に続いて、ラジオ東京は以下のようなアメリカの新聞記事を放送した。「実質的に、人間も動物も、生きとし生けるもの全てが、文字通り、焼き尽くされた」。後に合衆国エネルギー省は、広島の即死者数は7万人、長崎では4万人と見積もっている。しかし、それに続く検閲によって、その惨状を現す死体や痛々しい犠牲者などの写真類の報道は禁止された。それらは、ドイツのアウシュビッツでのホロコーストを思い出させるものだったからである。天皇ヒロヒトはこの「新型で恐ろしい兵器」について、「多くの罪の無い生命を奪い、計り知れない痛手をもたらす力を持ったもの」と言及し「我々は戦い続けるべきであろうか?それは究極的な破局をもたらし、日本国を消滅させるだけではなく人類文明そのものの絶滅を招くかもしれない。」と語った。そして、8月14日、彼はャcダム宣言の受諾を命じたのである。

日本が戦争犯罪を犯していたのであれば、日本を降伏させるために原爆の投下が必要だったのではないか・・・という議論がいまだになされている。しかしながら、1945年までの戦争では、一度それが起これば、今日のようには制御されることがなかった、という事実を理解しておく必要がある。戦争を終わらせるためには「何でもあり」であった。しかし、これは日本人全体を悪魔とみなすことを正当化しない。なんにしても、第一次世界大戦において日本は同盟国の一員であったし、戦争を終結させるために全てが許されるというルールはすべての日本国民を絶滅させることに如何なる許可を与えるものではない。

合衆国国務大臣だったウィリアム・フルブライトやジャスティス・オーウェン・J・ロバートと共に、アルバート・アインシュタインが、1945年の9月、ニューヨークタイムズ紙上の公開文書で、人類史上初の原爆投下は「広島市を破壊しただけではなく、我々が継承してきた時代遅れの政治理念まで破壊した」と述べたことは、よく知られていることである。

しかしながら、アインシュタインは後に後悔の念と共に「原爆は全てを変えたけれども、我々の考え方まで変えることはできなかった」と述べている。彼はまた、「私は常に日本への原爆使用を批難してきた。」とも書いている。元国務長官だったヘンリー・L・トンプソンは、1947年、原爆は「恐るべき破壊兵器以上のもの・・・心理的兵器である」という見解を持っていた。第二次世界大戦後も、また米ソの冷戦時代を通しても、同様の状況は続いているのである。

1946年1月24日、首相・幣原喜重郎は、ダグラス・マッカーサー元帥に対して戦争廃絶に向けての準備を提言している。これが後に、日本国憲法第九条(平和条項)となった。彼が議長を務めた3月の戦争調査委員会の会合で、彼は次のように語っている。

「他のどんな国家の憲法の中にも、この(第九条)のような規定が存在したことはない。さらに、原爆やその他の強力兵器への研究が減速することなく進められている現在、戦争の廃絶などは夢想家の戯言《たわごと》だと思う人々もいるだろう。しかしながら、今後続く技術の進歩開発によって、原子爆弾の何十倍何百倍もの威力を持った新しい破壊兵器が出現しないということを誰人も保証できない。もしそのような兵器が開発されれば、何百万人もの兵士も、何千もの艦船や航空機をもってしても、国家の安全を保障することはないだろう。ひとたび戦争が起これば、参戦国の都市は灰に変わり、その住民は数時間のうちに絶滅するだろう。今日、我々は戦争廃止宣言を高々と掲げながら、国際政治の広大な平原にただ一人で歩みを進めようとしているのだ。しかし、将来必ずや、世界中が戦争の恐浮ノ目覚め、同じ旗印の下に行進する日がやって来るであろう。」

1950年のユネスコ憲章が歌《うた》い、例えば、戦後(1949年)のドイツ憲法が規定したように、各国が「団結して平和を組織化するための次のステップに踏み出す準備」をしない限り、国際連合は「悲劇的な幻想」に終わるだろう。日本国憲法における戦争廃絶に向けての主張、国連憲章や民主憲法の数々はそのステップ、つまり、国際平和のための組織化を成功に導き、そのために今日取られなければならない手段を提唱している。ヨーロッパ連合と国際機構は手に手をとって進まなければならない。

かつてヨーロッパの議会に秩序があった頃、ドイツはヨーロッパで起こった多くの事件を制御する力によって、その国家目標を達成してきた。他の国々もそれぞれの合意のもとにドイツに続くだろう。しかしながら、それは大きな間違いだったのである。ドイツ連邦共和国はヨーロッパ中心主義から脱皮し、集団的安全体制を作り、厳格で効果的な国際的なコントロールによって恒久的に軍備を縮小し、世界平和を最優先させることで、グローバルな平和創設国家にならなければならない。軍備縮小は、国連が適当な権限を移譲され、集団安全保障のシステムが機能しさえすれば可能である。おそらくその時初めて、日本も国連の核の傘から離れて真に安全になるであろう。秋葉忠利・広島市長や他の識者が正しく提案したように。そして、それを達成するには、蛙は平和の王子と結婚しなければならないのである。

一言で言うと、ドイツは戦争廃絶を掲げる日本国憲法の動向に続かなければならない。そして、この問題について議論を始めなければならない。それによって、広島と長崎への原爆投下に対する謝罪は適所を得るだろう。しかし、それを成すべきはドイツなのであろうか、どうであろうか・・・?

日本語訳: 渡 辺 寛 爾                    

稀有なる平和学者

2012-07-24 22:23:00 | 平和

クラウス博士の記事小論の末A『ドイツ人は井の中の蛙であってはならない』がほぼ完了した。この希にして少なる人物については、今後さまざまな機会に書くことになるだろう。ここでは、ただ少しの紹介に留める。 

日本との同盟国・ナチスドイツが連合軍に敗北する1年余り前(1944年)にドイツで生まれ、青春時代にインドを放浪し、40歳を過ぎて歴史平和学の研究に進み、日本国の憲法史をテーマとして博士号を取得する。68歳の現在、日本人の妻と娘と共に埼玉県の日高市に住み、日本大学やインターナショナル高校で教鞭をとりながら、歴史平和学者として、時に日本の大臣に意見書簡を送り、時に各国大使に直言する。3e1466b4.jpeg 

彼はヨーロッパ戦線の末期に生まれた。私は太平洋戦争終結の9年後の生まれで、10年の歳の差があり、共に戦争体験はないに等しい。しかし、この世界には、体験しないと分からないことと、体験してしまうことで分からなくなることがある。一人の異性を深く愛さなければ愛の素晴らしさは分からない、しかしそれによって、この世界には実に多様な愛のかたちがあるという事実からは遠くなる。愛する一人が世界の全てになるからである。

戦争の最前線の現場では、理性よりも本能的・直感的感覚がものを言うだろう。彼がもし『コンバット』(ヨーロッパ戦線を舞台にしたアメリカ戦争番組)の戦場でサンダース軍曹と戦い、私が父のように連合艦隊の下士官としてスラバヤ沖海戦で英国主導艦隊を撃破していたら、あの戦争の意味を正しく捉えることは不可能に近くなっていただろう。

誰だったか、「人間の行動は深い思慮に基づくべきだが、ひとたび行動を始めたら、考えは停止するべきである(するしかない)」と言った先人がいる。私の経験でもこの言は正しいと思われる。人間は深く静かに思索しながら、同時に、速やかで時に激しい行動をとることはできない。これは、どんなスメ[ツに携わっている人間にも即座に分かる道理だ。しかも、戦争は殺し合いの世界だから、体験そのものが、体験主体の消滅を意味することもある。

クラウス先生についてちょっと書こうと思い付いたら、また話が長くなりそうな雰囲気だ。こんな時間、この類《たぐい》を書き始めるとまた寝れなくなりそうなので、以下に、幾つかリンクを記して、今夜はこの辺で終わりにする。

なお、末燉eは来る広島・長崎の原爆記念日前後、何らかの形で活字になる可能性があるが、ここにも、次のエントリーで全文を記載しておく。興味がある方は一読いただいて、ご意見頂ければありがたいと思う。

リンクー1: 世界から見た今の日本  

リンク??2  ジャパンタイムズでの紹介(末L事)



桃源郷

2012-07-20 19:13:00 | 自然
一昨日はまったくよく吹いた。昼からはちと吹き過ぎた。私は2時頃に小松海岸に移動したのだが、南東強風はすでに10mを超えていて、後でアメダスの記録を見たら、徳島市のトップブローは18m。 

これでは、11~12mまでは使えるSP3の12平米君も、浜で上げた途端にギブアップの様子だった。それでも海に出さえすれば何とか走るだろうとみて、かなりのサイズのダンパー波で遊ぶ多くのサーファーやウィンドの皆さんの隙間が空くのを待っていたのだが、明らかにオーバーのコンディションで多少でもリスキーな行動をとることはできない。GOPR0071.MP4_000008742s1024pix100kb.jpg

結局、12平米君は浜の砂の中で八つ折りにされて、ほとんど埋蔵品の一種となった。後はちょっと前にテスト走行を済ませたばかりの6平米君しかないわけで、サーファーラッシュで出れそうもない南浜から、F君たちのカイトが見える北浜まで、高波のために遊泳禁止になった海水浴エリアをカイティングで横切りながら移動した。まあ、とりあえず走るには走ったけれど当然アンダーで、カイト自体の特性は汎用練習の範囲で楽しい種類だ。 

夕方六時も近くなった頃に南浜に広いスペースができた。風模様にほとんど変化なし。されど、出れるなら出てみよう・・・ということで、30分ほどは風に遊ばれた次第。
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昨日、今日は、川の日・・・・といっても、モバイル事務所の環境がほぼ整ったので、時間の使い方は家での日常とさほど変わることなく、午前の時間は、あれこれの読み書き仕事に熱中しているうちにあっという間に過ぎて、小さな脳みそが疲れ気味の午後が来る。GOPR0301s1024pix100kb.jpg

この2日間は、吉野川の上流部にある池田町のきれいに整備された公園キャンプサイトに停留したまま、SUPで川の世界の静寂を味わった。

数百m上流までこいで、古き良き時代の清流がそのまま残っているような趣の小さな支流に入ってみた。

そこでは、稚魚の群れが澄み切った水流と遊び、濃紫色の糸トンボが川面近くでヒラヒラと舞い、季節外れのウグイスが唄う。その辺り中に、おそらく太古から変わることのない、あの懐かしい空気の香りが漂っていた。GOPR0103s1024pix100kb.jpg

自然世界を傷め続けて来た日本の経済至上主義的・物質文明の末期にも、まだまだこういう、大げさにいうと桃源郷のような場所がヒッソリと隠れたように存在しているのだ。

 私は「自然を保護する」なんて傲慢な表現は好まない。自然によって保護されているのは、常に私たち人間の方ではないか。どこのどの人間が、海や川や風や水・・・その他多くの生命(いのち)たちが生き死にする基(もとい)を創り続けているというのだ。しかし、今後の世代のためにも、こういうまさに「有り難い」自然の恵みは、なんとしても、いつまでも守り残していかなければならない・・・と再び強く感じたのであった。GOPR0265s1024pix100kb.jpg

風と水といえば、タイ国に住むFSディーラーのアレックス氏も古代中国から共産主義中国まで連綿と伝承される「風水思想」に少し言及していた。陰陽五行説の五大要素(地水火風空)の中でも、宇宙や生命の「構成」と共に「運動」の部分に大きく関係する要素として、殊に縁の深い「風と水」については、少し掘り下げて考えてみたいとも思っている…もうちょっと暇になったら・・・。