庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

土民生活1

2007-01-31 19:26:00 | 自然
 今からちょうど8年前、私が初めて旧友エドワード・カーペンター老人をイギリスのシェフィールドの片田舎、ミルソープの山間にあるお宅を訪ねた時に、彼の詩集『トード・デモクラシー(民主主義に向かって)』について彼と語ったことがある。そして、その書名「デモクラシー」の語があまりに俗悪で、本書の内容と少しも共鳴しないのみならず、我々の詩情に大変ショックを与えているということを訴えた。するとその時、彼は「多くの友人からその批評を聞きます」と言いながら、書架よりギリシャ語辞典を引き出してその「デモス」の語を説明してくれた。その説明によると、デモスとは「土地につける民衆」ということで、決して今日普通に用いられているような意味はなかった。今日のいわゆる「デモクラシー」はアメリカ人によって悪用された用語で、本来の意味は失われている。そこで私は今、この「デモス」の語を「土民」と訳し、「クラシー」の語を「生活」と訳して、この論文の表題とした。すなわち、土民生活とは真の意味のデモクラシーということである。



 人間は、自分を照らす光明に背を向けて、常に自分の影を追って前に進んでいる。生まれてからその一生を終えるまで、ついにその影を捕らえることができない。それを進歩と言えば言えるが、また同時に退歩だとも言える。成長には死滅がともなう。門松は冥土(めいど)の旅の一里塚に過ぎない。
 人間は、生きよう、生きよう、として死んで行く。人間は、平和を、平和を、と言いながら戦っている。人間は、自由よ、自由よ、と叫びながら、囚(とら)われて行く。上へ、上へ、とばかり伸びていった果樹は、枝は栄え、葉は茂っても最後は実を結ばないで朽(く)ち果てる。輪廻(りんね)の渦ははてしなく繰り返す。エボリューション(進化)というも、輪廻の渦に現れる一つの小さな波動に過ぎない。進化は常に退化を伴うものである。夜なしには昼を迎えることはできない。日の次には夜が廻(めぐ)って来る。


近年、石川三四郎のこの短い論文ほど私の胸奥に響いたものも少ない。できれば多くの人に、特に子供たちにこれを読んでもらいたいと考えて、かなりいい加減な寛太郎的口語訳を試みることにした。これから毎日一章づつUPしながら、拙い感想を加えてみたい。

「土民」の意味は石川が序文で説明している通りだが、たぶん多くの読者は「南洋の土人」を連想したりしてピンとこないであろう。今の子供たちは「土人」という言葉さえ聞いたことがないかもしれん。土人本来の意味は「もともとその土地に住んでいる人々」のことで「野蛮な原住民」などと言うものではない。

南米インカの人々に暴虐を尽くしたスペイン人、北米先住民の土地を侵奪したアメリカ人、アイヌ民族の神聖な野山を奪った日本人、世界中の至るところに植民地支配を及ぼした当時文明国の指導者たち。彼らこそ「野蛮」の極みなのであって、本来何ものにも支配されるはずのない私たちが、常に残酷非道を獅ニする支配者、権力者の言説に振り回される必要などどこにもない。

彼の時代(1920年)に比べて更に「土」から遠くなってしまった私たちには、この「土民」を「自然」と、「土」を「大地」あるいはこれも思い切って「自然」と置き換えて読むと、意義は幾分拡散するが、より分かりやすいかもしれない。
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等しく

2007-01-30 21:53:17 | 言葉
Before God we are all equally wise - and equally foolish.
-Albert Einstein 

神の前では我々はみな、等しく賢く等しく愚かである。
-アルバート・アインシュタイン


若干アルコールが残っているせいもあるが、この一言を見かけて、アインシュタインはやっぱり良いこと言うな~!^^!・・・と拍手をおくりたくなった。

賢いとか愚かとか、大いなるあの存在に比べたら、この世の人間差なんてものは問題にならない。平等原理の基(もとい)はこの感覚にある。

しかしまた、あらゆる“一人の人間”が、それぞれ如何に特別な存在であることか。やはり「人はみな同じ、人はみな違う」不思議な生き物なのである。
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平和

2007-01-30 16:19:00 | 創作
簡単に“平和ボケ”などと言うなかれ。賢い戦争より馬鹿な平和の方が遥かに善いのである。
平和は戦争によっても、戦争を準備することによっても決して来ない。平和は平和の準備をすることのみによって来る、いや、平和の準備そのものの中に在るのである。
♀ー太郎

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堕落論

2007-01-30 12:25:37 | 拾い読み
日本国民諸君、私は諸君に、日本人及び日本自体の堕落を叫ぶ。日本及び日本人は堕落しなければならぬと叫ぶ。
 天皇制が存続し、かかる歴史的カラクリが日本の観念にからみ残って作用する限り、日本に人間の、人性の正しい開花はのぞむことができないのだ。人間の正しい光は永遠にとざされ、真の人間的幸福も、人間的苦悩も、すべて人間の真実なる姿は日本を訪れる時がないだろう。私は日本は堕落せよと叫んでいるが、実際の意味はあべこべであり、現在の日本が、そして日本的思考が、現に大いなる堕落に沈淪(ちんりん)しているのであって、我々はかかる封建遺性のカラクリにみちた「健全なる道義」から転落し、裸となって真実の大地へ降り立たなければならない。我々は「健全なる道義」から堕落することによって、真実の人間へ復帰しなければならない。
- 坂口安吾




これが『堕落論』『続堕落論」の核心部分だろう。昭和も20年近くかなたに過ぎ去った平成の今、安吾を読んでいる人がどれくらいいるか知らない。

しかし、少なくともこの国の、嘘や欺瞞やカラクリは戦前・戦後の時代と変わることなく続き、そこから生まれ出る腐敗物は沈殿槽の限界を破り溢れ出て、社会の至るところで悪臭を放っているように見える。

雲を出たら雲の形が見え、汚濁から脱して初めて汚濁を知る・・・きわめて当たり前のことではある。
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アラン

2007-01-29 12:50:21 | 拾い読み
「『何事も信じない人』は稀だ。何事も信じないのがむづかしいからではない。欺かれずしかも人を信じきるのがむづかしいのである。これは自分で見たままの人間を愛することだ」
<Aラン(本名エミール=オーギュスト=シャルチエ)


『俘虜記』を一往読み終えた。これは末尾、秋山俊の解説にでてくるアランの言葉だが、彼は「ともあれ、次のようなアランの冒頭の言葉は、それがそのまま大岡昇平の心の形をいうものだといっても、おかしくはない。」と記している。

この本では「サンホセ野戦病院」の章以降、嫌悪すべき類型的日本人が次々登場するが、確かに彼の人物描写には「自分が見たままの人間を愛する」空気が漂っていて、私の胸に爽やかな読了感を残している。

人を愛しながらその本質を見誤らない・・・先達の大岡評の正しさが少し分かったような気がする。


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久々のサイクリング

2007-01-28 17:49:28 | 自転車
もう20年以上ほとんど日曜も月曜もないような生き方をしている私も、週末になると少し心が浮き上がりワクワクして世界が楽しく見えてくる。子供の頃から身に付けた生活のリズムはやはりそう簡単には抜けないものだ。今日は若干風が冷たいものの天気もまずまず。久しぶりに自由になった日曜日の午後をサイクリングに使うことにした。

何年か前に膝の不具合を解消するために、市内の移動は全て自転車に変えたことはどこかに書いた。その結果、数年続いた正座もできないくらいの痛みが数ヶ月で消え去り、完全に自転車の世界にハマルことになるのだが、ここしばらく何やかやと忙しくてまとまった距離を走れないでいたのだ。

サイクリングといっても、私のスタイルは基本的に“ゆっくり走る”ということで平均時速15kmを超えることはめったにない。視線を3mほど前に落として10km/h前後でゆっくり漕ぐのは思索にも適するということを確認している。机の上でゴチャゴチャと錯綜していた問題が自転車を漕いでいるだけでスッキリ解決したりする。途中で歩きたくなったら右手でハンドルの根元を軽く押さえて歩く。これがまた気持ちが良い。ゆっくり進むほど多くのものがはっきり見えてくるということも、私は既に知っている。

近現代文明が生んだ最高の発明品を三つ挙げよと言われたら、私は迷いなくその一つに自転車を選ぶであろう。漱石がイギリスでの自転車修行に成功していたら、ひよっとしたら彼の頑固な胃潰瘍も平癒してもっと長生きしたかもしれないし、マーク・トゥエインがもうちょっと辛抱強く自転車操縦の練習をしていたら、晩年あんなに悲観的にならずに済んだかもしれない・・・とさえ思ったりする。

さて、今日のコースは街の北はずれにある自宅から市街地を南に横切って郊外まで出る、河川敷の長い土手を遡上して国道に突き当たったら北に曲がってまた市街地を抜けて帰ってくる、という25kmほどのコース。途中には河口部分もあるから、海も見える鳥も見える遠くに四国山系も臨める。

このコース取りでのひと工夫は、それなりに自然の力を考慮してあるということ。この辺りは、晴れた日の午後はほぼ西からの海風になるから、西に向かうときは風除けの多い市街地を、東に向かうときは河に沿って吹き上がってくるリバーウィンドを最大限に利用する。河口から国道までの土手道路数kmは若干の上りになっているのだが、今日も5m/sほどの風に押されて実に快適であった。




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俘虜記 

2007-01-27 15:48:50 | 拾い読み
このときの私の経験から推せば、絶望の二字は矛盾した文字の結合であって、人間にはありえない状態の誇張した表現に過ぎないのである。
-大岡昇平 (俘虜記 P81)


先達の以下大岡評を読んで、『俘虜記』を読んでみたくなった。早速今日、いつもの図書館で三巻に分かれた大活字本シリーズ(これしかなかった^^;)を借りてきて、夕刻前に第一巻を読み終えたところだ。

これは・・・スゴイなぁ~!・・・というのが今の感想。単なる戦記物ではもちろんない。戦地でマラリアに侵され、たった一人で生きるか死ぬかのギリギリの際(きわ)に、目前に現れた無防備な米兵の若者を撃ち殺さなかったのは何故か・・・徹底的に掘り下げていくその頭脳の明晰性と強靭性に圧唐ウれている。

大岡は「自分は深い人間ではない。横に拡がって行く人間だ」と自分について語り、興味の赴くままに多様な対象について調べ、考察し、作品にして発表している。何時までも悲観論のなかにとどまっていたら、精神は腐敗する。溜まり水には毒があるのだ。川は流れている限り、腐敗しないのである。」

ついでに、『レイテ戦記』と『昭和末』も一緒に借りてきたが、昭和46年初版の『レイテ戦記』は小さい活字で二段組、大辞林ほどの厚さがある。とても通読できそうにないので、いつもの“拾い読み・斜め読みの術”を使うことになるだろう。
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見えないところに

2007-01-27 11:33:00 | 創作
澄み切った空気や水や太陽光線そのもの・・・生命にとって本当に大切なものは肉眼には見えない。人間も同じ。真に偉大な人物はたいがい簡単には見えないところにいるものだ。真に愚劣な人物も同様だが・・・。
- 寛太郎

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遠くの友

2007-01-27 09:40:36 | 言葉
A friend who is far away is sometimes much nearer than one who is at hand. Is not the mountain far more awe-inspiring and more clearly visible to one passing through the valley than to those who inhabit the mountain?
- Kahlil Gibran

時として遠くの友は近くの友より近い。渓谷を行く者にとって、山々は、その中に住む者よりもはるかに荘厳に、そして明瞭に見えるのではないだろうか?
- ハリール ジブラン




遠近は空間的な関係だけではない。時間的な関係・・・つまり、もうこの世界にはいない歴史上の人物が、同時代を生きている人物以上に身近な存在として感じられることもある。

ある人の存在を実感し、その実感が自分自身の生活行動に具体的な影響を与える時、その人は、場所・時間を問わず、自分の傍(かたわ)らいるのと全く同じことである。
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石川三四郎

2007-01-23 15:27:31 | 自然
自然ほど良い教育者はない。ルソオが自然に帰れと言ふた語の中には限り無く深い意味が味はれる。自然は良い教育者であると同時に、又無尽蔵の図書館である。自然の中に書かれた事実ほど多種多様にして、而も明瞭精確な記録はあるまい。音楽が人間の美魂の直射的表現である点に於て、諸他の件pに勝る如く、自然の件pほど原始的にして直射的な美神の表現は他に存在しない。自然は良教育者にして、大件p家にして、又、智識の包蔵者である。
- 石川三四郎



左:田中正造 右:石川三四郎

現在この人の名前を知っている子供たちがどれほどいるだろう。彼のように偉大な人物の名前が小中等教育を通して教科書に出てこない。少なくとも私は見たことがない。教育が行政の支配下にあると、どういうフィルターがかけられるかの良い例かもしれない。

私が敬愛する先達の受け売りであるが、石川は家永三郎が「国宝的人間」と言い、師匠や先輩を「さん」付けでしか呼ばない鶴見俊輔も、彼だけは「先生」と呼んで特別扱いし、秋田雨雀などは、「日本の良心」とまでいっている人なのである。

今回の引用は、エマソンやラスキンの論文にそのまま出てきても全く違和感なく読めてしまうだろう。彼がその80年の生涯を通して、遂にはこの日本という狭い島国の中で、自らの思想の大きさと正しさを現して見せたことに、私は全く稀有な存在を感じないではいられない。

彼の境涯は、国民などという矮小な範囲はもちろん、世界市民の範疇も超え、宇宙市民とも呼ぶべき広大さに及んでいる。だからこそ持ちえた、その透徹した“楽観主義”にも、ややもすると悲観に傾きがちな私たちは大いに学ぶべきだと思う。

彼がその骨格を形成したのはあの田中正造に師事した期間であったことはまちがいないだろう。『浪』の田中正造の章は以下のように始まる。

「『新紀元』の運動は私にとつて良い修業になりました。どんな仕事でも、心さへあれば、みな修業でありませうが、あの場合は自分が責任者になつたので、殊に自ら緊張した結果、わたしの精神生活に非常に深い影響を與へました。それにこの運動中は特に親しく田中正造翁の驥尾に付して奔走することになつたので、わたしは人生といふものに、驚異の眼を見開くに至りました。田中翁の偉大な人格に觸れて、わたしは人間といふものが、どんなに輝いた魂を宿してゐるものか、どんなに高大な姿に成長し得るものか、といふことを眼前に示されて、感激せしめられました。それと同時に、今まで種々な説教や、傳記やらで學んだ教養や人物といふものが、現實に翁において生かされ、輝かされてゐることを見て、心強く感じました。わたしは、自身が如何にも弱小な人間であることを見出しながらも、常に發奮し自重自省するやうになりました。」
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