今からちょうど8年前、私が初めて旧友エドワード・カーペンター老人をイギリスのシェフィールドの片田舎、ミルソープの山間にあるお宅を訪ねた時に、彼の詩集『トード・デモクラシー(民主主義に向かって)』について彼と語ったことがある。そして、その書名「デモクラシー」の語があまりに俗悪で、本書の内容と少しも共鳴しないのみならず、我々の詩情に大変ショックを与えているということを訴えた。するとその時、彼は「多くの友人からその批評を聞きます」と言いながら、書架よりギリシャ語辞典を引き出してその「デモス」の語を説明してくれた。その説明によると、デモスとは「土地につける民衆」ということで、決して今日普通に用いられているような意味はなかった。今日のいわゆる「デモクラシー」はアメリカ人によって悪用された用語で、本来の意味は失われている。そこで私は今、この「デモス」の語を「土民」と訳し、「クラシー」の語を「生活」と訳して、この論文の表題とした。すなわち、土民生活とは真の意味のデモクラシーということである。
一
人間は、自分を照らす光明に背を向けて、常に自分の影を追って前に進んでいる。生まれてからその一生を終えるまで、ついにその影を捕らえることができない。それを進歩と言えば言えるが、また同時に退歩だとも言える。成長には死滅がともなう。門松は冥土(めいど)の旅の一里塚に過ぎない。
人間は、生きよう、生きよう、として死んで行く。人間は、平和を、平和を、と言いながら戦っている。人間は、自由よ、自由よ、と叫びながら、囚(とら)われて行く。上へ、上へ、とばかり伸びていった果樹は、枝は栄え、葉は茂っても最後は実を結ばないで朽(く)ち果てる。輪廻(りんね)の渦ははてしなく繰り返す。エボリューション(進化)というも、輪廻の渦に現れる一つの小さな波動に過ぎない。進化は常に退化を伴うものである。夜なしには昼を迎えることはできない。日の次には夜が廻(めぐ)って来る。
近年、石川三四郎のこの短い論文ほど私の胸奥に響いたものも少ない。できれば多くの人に、特に子供たちにこれを読んでもらいたいと考えて、かなりいい加減な寛太郎的口語訳を試みることにした。これから毎日一章づつUPしながら、拙い感想を加えてみたい。
「土民」の意味は石川が序文で説明している通りだが、たぶん多くの読者は「南洋の土人」を連想したりしてピンとこないであろう。今の子供たちは「土人」という言葉さえ聞いたことがないかもしれん。土人本来の意味は「もともとその土地に住んでいる人々」のことで「野蛮な原住民」などと言うものではない。
南米インカの人々に暴虐を尽くしたスペイン人、北米先住民の土地を侵奪したアメリカ人、アイヌ民族の神聖な野山を奪った日本人、世界中の至るところに植民地支配を及ぼした当時文明国の指導者たち。彼らこそ「野蛮」の極みなのであって、本来何ものにも支配されるはずのない私たちが、常に残酷非道を獅ニする支配者、権力者の言説に振り回される必要などどこにもない。
彼の時代(1920年)に比べて更に「土」から遠くなってしまった私たちには、この「土民」を「自然」と、「土」を「大地」あるいはこれも思い切って「自然」と置き換えて読むと、意義は幾分拡散するが、より分かりやすいかもしれない。
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人間は、自分を照らす光明に背を向けて、常に自分の影を追って前に進んでいる。生まれてからその一生を終えるまで、ついにその影を捕らえることができない。それを進歩と言えば言えるが、また同時に退歩だとも言える。成長には死滅がともなう。門松は冥土(めいど)の旅の一里塚に過ぎない。
人間は、生きよう、生きよう、として死んで行く。人間は、平和を、平和を、と言いながら戦っている。人間は、自由よ、自由よ、と叫びながら、囚(とら)われて行く。上へ、上へ、とばかり伸びていった果樹は、枝は栄え、葉は茂っても最後は実を結ばないで朽(く)ち果てる。輪廻(りんね)の渦ははてしなく繰り返す。エボリューション(進化)というも、輪廻の渦に現れる一つの小さな波動に過ぎない。進化は常に退化を伴うものである。夜なしには昼を迎えることはできない。日の次には夜が廻(めぐ)って来る。
近年、石川三四郎のこの短い論文ほど私の胸奥に響いたものも少ない。できれば多くの人に、特に子供たちにこれを読んでもらいたいと考えて、かなりいい加減な寛太郎的口語訳を試みることにした。これから毎日一章づつUPしながら、拙い感想を加えてみたい。
「土民」の意味は石川が序文で説明している通りだが、たぶん多くの読者は「南洋の土人」を連想したりしてピンとこないであろう。今の子供たちは「土人」という言葉さえ聞いたことがないかもしれん。土人本来の意味は「もともとその土地に住んでいる人々」のことで「野蛮な原住民」などと言うものではない。
南米インカの人々に暴虐を尽くしたスペイン人、北米先住民の土地を侵奪したアメリカ人、アイヌ民族の神聖な野山を奪った日本人、世界中の至るところに植民地支配を及ぼした当時文明国の指導者たち。彼らこそ「野蛮」の極みなのであって、本来何ものにも支配されるはずのない私たちが、常に残酷非道を獅ニする支配者、権力者の言説に振り回される必要などどこにもない。
彼の時代(1920年)に比べて更に「土」から遠くなってしまった私たちには、この「土民」を「自然」と、「土」を「大地」あるいはこれも思い切って「自然」と置き換えて読むと、意義は幾分拡散するが、より分かりやすいかもしれない。