私はまだ、この「末vという行為について、突き詰めては考えたことは無いし、その作業について、確たる指針を持っているわけでもない。しかし、外国語を「理解する」ということと、「日本語にする」ということの間には、大きな隔絶があることは経験的に知っている。
おそらく、末ノ関する様々な問題も、この“隔絶”を巡って展開されるのだろうが、どのような問題があるにせよ、それらのおよそ全てを超越しているとしか言いようのない「名訳」があることも事実だ。更に、勇気をもって言うと、私は、末ェ原書を超える場合もあり得る、と考えたりする。
例えば、遠くは無数の仏典の中国語訳の幾つかは間違いなくそうだろうし、跳んで近くは井伏鱒二訳の『ドリトル先生・シリーズ』は、或いはそうかもしれない。
井伏鱒二訳の見事に扱われた日本語は、私などにはちょっとの真似さえできそうもないが、子供たちに向けて書かれたにもかかわらず、30歳を超えた大人を完全に魅了した『ドリトル先生』は、その形式においても内容においても、私にとって遠い目標であり手本の一つとなっている。
おそらく、末ノ関する様々な問題も、この“隔絶”を巡って展開されるのだろうが、どのような問題があるにせよ、それらのおよそ全てを超越しているとしか言いようのない「名訳」があることも事実だ。更に、勇気をもって言うと、私は、末ェ原書を超える場合もあり得る、と考えたりする。
例えば、遠くは無数の仏典の中国語訳の幾つかは間違いなくそうだろうし、跳んで近くは井伏鱒二訳の『ドリトル先生・シリーズ』は、或いはそうかもしれない。
井伏鱒二訳の見事に扱われた日本語は、私などにはちょっとの真似さえできそうもないが、子供たちに向けて書かれたにもかかわらず、30歳を超えた大人を完全に魅了した『ドリトル先生』は、その形式においても内容においても、私にとって遠い目標であり手本の一つとなっている。