この記事を掲載予定だったある雑誌の編集長から、「読者はさらに“客観的記述”も求めているから、日韓併合以降の歴史背景にも触れて欲しい」という要望があったが、先の記事でも述べたように、それは双方の主張を並列表記するに過ぎないことで、私の趣向ではなく、今回のクラウス先生の意図にも合わないだろう・・・とお伝えして、お断りした。
少なくとも、この100年ほどの国際社会における韓国政府の外交姿勢は、残念ながら明治以降、日本政府が採ってきた「富国強兵策」や、西の隣大国の「中華思想」に大きく迄Mされ、「自由主義・民主主義」という点で多少の遅れをとっていることは否定できないように思える。
今後の未来を予測することは難しい。韓国の隣国は日本や中国だけではない。韓国が北朝鮮との関係で、いつまでもナショナリズムの大勢から脱却できなければ、次のステップへの基本的な条件は変わらないだろう。しかし、更に多くの国民が国際平和の理想を強く意識するようになれば、政府の姿勢も変わらない訳にはいかないだろう。
詮ずるところ、全ては、一人ひとりの国民、つまり「一人の人間の心の姿勢」の問題に帰着するように思われる。
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『駐〟i独島)問題の解決に向けて』
駐〟i独島・ドクト)問題の解決をハーグの国際司法裁判所に委ねる、という日本の方針は正しいと私は思う。日本は明治の開国以来、近代化に伴う様々なことがらを、賢明に吸収しようとしてきた。韓国では、韓国のボルテールと呼ばれた革命家、徐載弼(じょさいひつ・1864-1951)が、西洋の科学・思想を取り入れるために、同志の金玉均(きんぎょくきん・1851-1894)と共に日本国の援助を求め、それに先立つ1879年、彼らは同志であった仏教僧、李東仁(りとうじん・1849年-1881年)を日本に蜜入国させて、福沢諭吉などに教えを受けさせてもいた。
かくして、日本国は1884年に起こった李氏朝鮮を打唐キるためのクーデター「甲申政変」(こうしんせいへん・朝鮮事件)を助けることになったのである。しかし、この革命は、一時にあまりに多くの変革を求めたために、中国(清朝)の援助を得た当時の韓国政府によって潰され、彼らは亡命を余儀なくされる。
1890年代の韓国と中国における改革運動の失敗によって、これら二国はハーグ(オランダ)の国際法廷の創設に貢献することはできなかった。公式なハーグ平和会議は1899年と1907年に開催された。日本、中国、ペルシャ、タイなどアジア各国からの参加も得て、国際紛争を戦争と言う手段によらずして収めようという理想を掲げたこの国際会議は、ロシア、イギリス、フランス、アメリカ、(中国でさえも)など大多数の国々の全面的な支持を得ていた。しかしながら、ごくわずかな少数派の反対によって完全に結束された力となることなく終わることになる。
1895年、徐載弼(じょさいひつ・1864-1951)は亡命を終えて帰国し、翌年の春、「独立クラブ」を設立し、4月7日には『独立』という、少なくとも1ページは英文を含む雑誌を発行した。独立クラブは、儒教思想を取り入れた改革政党で、日本も採用していた「東洋の道徳と西洋の学戟vを融合させるという考え方だった。しかしながら、徐やその支持者たちは、再び、反動的な韓国政府の不評を買うことになる。1899年初頭、独立党の政治活動は全て禁止され、続いて解散させられ、『独立』も廃刊に追い込まれる。8月になると、韓国から日本への亡命者の数が劇的に増加したと新聞報道された。近い関係にあったロシアが、韓国を1899年のハーグ国際会議に招いたにもかかわらず、結果的に、より強力な外交的努力に参加することができなかったのは悲しい話である。
1906年の夏、ロシア政府は翌年に予定されていた第2回ハーグ平和会議に再び韓国を招いた。会議では、軍備縮小や国際紛争の平和的解決に向けた国際法廷の創設など重要な事項が継続協議されることになっていた。1905年の段階で、日本はすでに韓国の外交権を摂取していたから、会議は結果的に韓国が参加することを認めなかった。しかしながら、その初め、イ・ジュン、イ・サンソル、イ・ウィジョンら3人の使節は、韓国が日本に対して抱く疑義についての各国の注意を集め、なんとか日本を守勢に置くことができたのである。今日、興味深いことは、彼らが日本政府の行動に抗議したということだけでなく、ハーグ平和会議の意義を支持するという意見を表明したということである。
1907年における韓国の指導者たちの努力が、祖国の過去の過ちを償い、国際的舞台における責任ある参加者となって、国際紛争を平和的に解決するという動機に拠っていると推察すれば、それは素晴らしいことである。今日では、はるかに多くの国々が、威嚇や武力によってではなく、国際司法裁判所の司法判断を断固として受け入れなければならない、という方向に向かって進んでいる。それはすでに100年以上前から世界の有志各国が目標としてきたものであった。駐〟i独島)を巡る紛争の解決法はこの他にはない。
歴史平和学者: クラウス・シルヒトマン
日本語訳:渡 辺 寛 爾