庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

8月6日

2005-08-05 14:03:59 | 拾い読み
明日は8月6日・・・私たち日本人が、いや日本国家が、もっと言うと世界中の国家が忘れてはならない日の一つだ。ヒロシマ、ナガサキという言葉は、人類が始めて現実の戦争で使用してしまった最終兵器・原子爆弾のイメージと共に一種の国際語になっている。

このブログは政治の世界からはなるべく遠いところに置いておこうと考えているが、毎年8月になると、私は小学校の修学旅行で訪ねたヒロシマの原爆資料館を思い出し、現在も地球上のあちこちで続く“戦争”という化け物について想いを巡らせ、つまるところは“国家”と“個人”の問題に至り、私なりの浅はかな歴史観や幾つかの愚考を書いてみたくなるのだ。

しかし、今回は少し抑えて、以前少しメモした渡辺一夫の『敗戦日記』からもう少し書き出すにとどめる。彼は、私の青春前期の精神世界に最も影響を与えた人物の一人加藤周一の先輩、大江健三郎の師匠にあたる仏文学者だ。

6月12日:何千何万という民家が、そして男も女も子供も一緒に、焼かれ破壊された。夜、空は赤々と照り、昼、空は暗黒となった。東京攻囲戦はすでに始まっている。戦争とは何か、軍国主義とは何か、狂信の徒に牛耳られた政治とは何か、今こそ全ての日本人は真にそれを悟らねばならない。
 しかし残念なことに、真実は徐々にしかその全貌をあらわにしない。地方では未だに最後の勝利を信じている。目覚めの時よ、早く来たれ!朝よ、早く来たれ!
 わが国にとって、また人類にとって、この犠牲は無駄ではあるまい。多少なりと着実な「平和」は、おびただしい流血と苦悩の叫喚を経ずして得られるものではない。

6月20日:沖縄諸島におけるわが軍の手甲、依然続く。しかし遅かれ早かれ敗北するだろう。沖縄制圧後の米軍がどう出るか。我々はどうするか?徹底的な爆撃、これに対して我々はやけくその抵抗。軍人どもは至誠の御稜威(みいつ)を勝手に利用し、我々を殺人と自滅に駆り立てている。
 僕は初めからこの戦争を否認してきた。こんなものは聖戦でもなければ正義の戦いでもない。わが帝国主義的資本主義のやってのけた大勝負にすぎぬ。当然資本家はこれを是認し、無自覚な軍国主義者は何とか大儀名分を見つけようとしたのだ。

子供の世界

2005-08-03 13:40:48 | 自然
昨日子どものことを少し書いたら、今朝の新聞に『バカの壁』の養老孟司が「子どもの問題」を書いているのが目にとまった。私はしばらく前から、彼のその肩に力を入れない語り口のファンである。

いつかテレビの番組で、大学の講義の終わりに学生とちょっとした議論みたいなことをしていたことがあって、“正しいことの絶対性”を主張しようとする、まことにまじめな女学生を、彼流の“価値相対主義”から論破するのにかなり難儀をしている様子が面白かった。


 
愛媛新聞8月2日朝刊

私は解剖学者でも蝶々の収集家でもないが、この寄稿に見える子どもへの視点とは、ほとんど完全に重なる。

曰く、「日本人が子供を大切にしなくなって久しい。それは私の強い実感である。現代は、子どもより大人、という世界なのである。子どもの犯罪は大きく報道されるが、子供達がどういういいことをしたか、それは報道されない。子どもに何かできるわけがないじゃないか。大人はそう思っているからであろう。」

曰く、「子どもであること、それ自体に価値がある。それはどういうことか。自然を大切にするということである。子どもは自然そのものだからである。」

曰く、「大人の世界では、たしかに子どもにできることはなにもない。そこでは子どもはいわば「大人になる」ことしかできないのである。そこには「子どもであることの価値」なんてはじめから存在しない。
 子どもであること、それ自体に価値がある。それはどういうことか。自然を大切にするということである。子どもは自然そのものだからである。自然破壊の世の中で、子どもだけが無事というわけにはいかない。子どもが無邪気なのは、自然だからである。自然とは意識的ではないということである。意識的ではないということは「ひとりでにそうなった」ということである。」

曰く、「・・やっぱり子どもに似合うのは田舎、つまり自然で、そんなことは当たり前であろう。」