明日は8月6日・・・私たち日本人が、いや日本国家が、もっと言うと世界中の国家が忘れてはならない日の一つだ。ヒロシマ、ナガサキという言葉は、人類が始めて現実の戦争で使用してしまった最終兵器・原子爆弾のイメージと共に一種の国際語になっている。
このブログは政治の世界からはなるべく遠いところに置いておこうと考えているが、毎年8月になると、私は小学校の修学旅行で訪ねたヒロシマの原爆資料館を思い出し、現在も地球上のあちこちで続く“戦争”という化け物について想いを巡らせ、つまるところは“国家”と“個人”の問題に至り、私なりの浅はかな歴史観や幾つかの愚考を書いてみたくなるのだ。
しかし、今回は少し抑えて、以前少しメモした渡辺一夫の『敗戦日記』からもう少し書き出すにとどめる。彼は、私の青春前期の精神世界に最も影響を与えた人物の一人加藤周一の先輩、大江健三郎の師匠にあたる仏文学者だ。
6月12日:何千何万という民家が、そして男も女も子供も一緒に、焼かれ破壊された。夜、空は赤々と照り、昼、空は暗黒となった。東京攻囲戦はすでに始まっている。戦争とは何か、軍国主義とは何か、狂信の徒に牛耳られた政治とは何か、今こそ全ての日本人は真にそれを悟らねばならない。
しかし残念なことに、真実は徐々にしかその全貌をあらわにしない。地方では未だに最後の勝利を信じている。目覚めの時よ、早く来たれ!朝よ、早く来たれ!
わが国にとって、また人類にとって、この犠牲は無駄ではあるまい。多少なりと着実な「平和」は、おびただしい流血と苦悩の叫喚を経ずして得られるものではない。
6月20日:沖縄諸島におけるわが軍の手甲、依然続く。しかし遅かれ早かれ敗北するだろう。沖縄制圧後の米軍がどう出るか。我々はどうするか?徹底的な爆撃、これに対して我々はやけくその抵抗。軍人どもは至誠の御稜威(みいつ)を勝手に利用し、我々を殺人と自滅に駆り立てている。
僕は初めからこの戦争を否認してきた。こんなものは聖戦でもなければ正義の戦いでもない。わが帝国主義的資本主義のやってのけた大勝負にすぎぬ。当然資本家はこれを是認し、無自覚な軍国主義者は何とか大儀名分を見つけようとしたのだ。
このブログは政治の世界からはなるべく遠いところに置いておこうと考えているが、毎年8月になると、私は小学校の修学旅行で訪ねたヒロシマの原爆資料館を思い出し、現在も地球上のあちこちで続く“戦争”という化け物について想いを巡らせ、つまるところは“国家”と“個人”の問題に至り、私なりの浅はかな歴史観や幾つかの愚考を書いてみたくなるのだ。
しかし、今回は少し抑えて、以前少しメモした渡辺一夫の『敗戦日記』からもう少し書き出すにとどめる。彼は、私の青春前期の精神世界に最も影響を与えた人物の一人加藤周一の先輩、大江健三郎の師匠にあたる仏文学者だ。
6月12日:何千何万という民家が、そして男も女も子供も一緒に、焼かれ破壊された。夜、空は赤々と照り、昼、空は暗黒となった。東京攻囲戦はすでに始まっている。戦争とは何か、軍国主義とは何か、狂信の徒に牛耳られた政治とは何か、今こそ全ての日本人は真にそれを悟らねばならない。
しかし残念なことに、真実は徐々にしかその全貌をあらわにしない。地方では未だに最後の勝利を信じている。目覚めの時よ、早く来たれ!朝よ、早く来たれ!
わが国にとって、また人類にとって、この犠牲は無駄ではあるまい。多少なりと着実な「平和」は、おびただしい流血と苦悩の叫喚を経ずして得られるものではない。
6月20日:沖縄諸島におけるわが軍の手甲、依然続く。しかし遅かれ早かれ敗北するだろう。沖縄制圧後の米軍がどう出るか。我々はどうするか?徹底的な爆撃、これに対して我々はやけくその抵抗。軍人どもは至誠の御稜威(みいつ)を勝手に利用し、我々を殺人と自滅に駆り立てている。
僕は初めからこの戦争を否認してきた。こんなものは聖戦でもなければ正義の戦いでもない。わが帝国主義的資本主義のやってのけた大勝負にすぎぬ。当然資本家はこれを是認し、無自覚な軍国主義者は何とか大儀名分を見つけようとしたのだ。