私の「飯塚塾」通いは数ヶ月にすぎない。その理由を書き始めたら、また自分史の領域に突入するのでここでは触れない。
昭和四十五年(1970年)当時の飯塚塾は、塾長・飯塚芳夫先生が英語教育に力を入れ始めていた時期にあたる。私が受けていたのも英語の授業だった。古びた二階の三十畳ほどの畳部屋に、座卓が口の字に並べてあって、教壇などはない。いわゆる円卓方式で、それは先生の「教育理念」の一つの形だった。
先生は明治四十一年(1908年)生まれだから、当時六十二・三歳、ちょうど今の私の歳頃になる。その風貌は、先生というよりも小柄で平凡な初老のおじさん。しかし、どこか気高く、その落ち着きと優さが、体中から香りのごとく放出されているような方だった。彼の左隣には、20歳代の美しい女性外人助手が座っていた。生徒は全部で15人ほどだったろうか・・・そのほとんどは西高生で、マーちゃんや石川君のほかにも、英語好きな顔見知りが何人かいた。
授業の大方はこの美人助手を中心にした質疑応答だった。ある日などは、「あなたの好きなことは何ですか?」と聞かれて、私は「大ボラを吹くことです」のつもりが「I like to tell big lies.」などと言ったものだから、皆には大笑いされ、彼女には「何ですって?」と怪訝(けげん)な顔で見返されたこともある。ともかく、教場全体が何か暖かい空気で包まれているような空間だった。
第三者から見た「飯塚塾」ついては、先に挙げた関礼子さん(社会学博士)の博士課程での論文内で、相当に正確に整理されていると思う。少し長いがここでも以下に借用させて頂く。もちろん、私の駄文は論文ではない。途中に挟まれた参照などは全て省いた。
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飯塚塾と織田が浜 ー 共同性の具現
織田が浜埋立反対運動(織田が浜運動)の生成過程で注目したいのは、運動がどのような契機で、何を「保護」する目的で組織されたかである。織田が浜運動は、飯塚芳夫と彼が主催していた飯塚塾を中心に組織・展開されている。 飯塚にとって織田が浜はどのような意味を持っていたのか、 また運動が組織されるにあたって飯塚塾はどのような位置を占めていたのか。
織田が浜運動は、第三次港湾計画の埋立当該地にあたる喜田村の連合町内会、 老人会、 PTAなどの組織と東村の飯塚による 「喜田村織田が浜を守る会」によって始められ、その発展組織「今治織田が浜を守る会」によって担われた。代表はともに飯塚だった。
住民運動の初発段階で、地域問題を運動に結びつける際に最も重要なのは、リーダーシップをとる者の存在にある。 市の港湾職員をして「素晴らしい人だった」と言わしめる人物像ゆえに、 しばしば織田が浜運動は飯塚の運動、 飯塚の熱意と強力なリーダーシップに因る運動と評される。私財を投げうって埋立反対を訴えた飯塚は運動のシンボルであり、カリスマ的な存在であった。1987年に亡くなるまで、文字通り織田が浜に命を捧げた飯塚の情念は特筆すべきだが、織田が浜運動は飯塚の背後にある共同性によって展開されたという側面がある。 飯塚塾の歴史は、飯塚を中心に起こったこの運動の共同性を明確にする。
飯塚塾は1949年当時、中高一貫教育を唱い文句に、県下の優秀な生徒を集めていた私学の教育方針を批判し、小学校5年生から高校3年生まで8年一貫して、地域社会のなかで三三育(知育、徳育、体育)重視の全人的教育を行うことを目的に開塾した。そのため飯塚塾は、 現在イメージされるような「進学塾」とは全く異なる特徴を有している。 顕著な違いとして、次の三つが挙げられる。
第一は円卓方式の授業である。 戦後期の、 何もないところから始まった塾は、石炭箱を四つ並べて、そのうえに雨戸を一枚置き、 さらに黒板をのせた机を囲んで授業をした。これは、いろりやこたつなど日本の田舎の人間関係のありかたを教室に取り込んだもので、教師と生徒が同じ机を囲んで学ぶことで、両者の人間関係が密になり、円の関係になるという発想に基づいていた。円卓方式での授業は、 その後、教室が増えても変わることはなかった。
第二に、飯塚塾には 「天戸 (雨戸)会」という “父母会"がある。 創塾当初、「教育は無償で行われるべき」として月謝をとらなかった飯塚に対し、「それでは気の毒」 と塾生の父母がお金を集めてもってきたのが契機となって、1955年頃に結成されたものである。後に塾生が増え始め、教室が手狭になると、父母会が寄付を募り、資材を持ち寄って、勤労奉仕で教室をつくった。塾には最盛期に6つの教室と運動場があったが、 飯塚の自宅におかれた教室以外は全て父母の手によるものだった。また。忘年会、織田が浜でのキャンプ、登山など塾の年中行事も父母が手伝った。
第三に、 飯塚塾には OB会があり、 固い結束を保っている。これは 「イズカの流れを後輩に伝えるために」つくられた「教生」制度から発したものである。高校1、 2年生の塾生を「教生」として教師の助手に採用、年下の塾生を指導させることで、卒塾生の塾への帰属意識は強いものになった。
これら三つの特徴は、飯塚塾を地域文化の担い手として位置づける。子供にとっても父母にとっても、 塾との関係は一過性のものではない。最低でも8年、子供の数によっては10年以上、塾と関係を持つことになる。塾は家庭の延長、地域社会の縮図だった。円卓方式に始まった飯塚塾は、教師と塾生の縁を塾と父母、地域との関係へと同心円的に拡大し、 空間的、 世代的な結節点として機能したのである。飯塚がいみじくも「飯塚塾は僕のものでなく、多くの村人の子弟のための施設だと考えている」というように、 飯塚塾は単なる私塾ではなく、地域社会の共同体的な教育機関であった。
(その5につづく)