庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

『海からの贈りもの』「前書き」のあとがき

2019-07-25 20:59:00 | 創作

アン・モロー・リンドバーグの末娘、リーブ・リンドバーグが書いた ”GIFT FOM THE SEA”『海からの贈りもの・50周年記念版』の「前書き」の訳文・・・何度見ても駄文の域を出ないが、まあ、私の才能と今の力量では、この程度が関の山である。一応、全文が完了したので、「あとがき」めいたものを少し。1000語余り(日本字で400字詰め原稿用紙に13枚分)に一月半もかかった理由の大半は、いつもの怠け癖にある。


どんなに酷(ひど)いものになっても、これを手鰍ッてみようと思ったのは、過去に上梓した、或るアメリカ人記者による『リリエンタール最後の飛行』や、無謀にもB・ラッセルの『権威と個人』に挑んでみた時と同じく、ただ、あのチャールズ・リンドバーグの生き様に興味が尽きないからであり、その妻のアン・モローの文章に惹かれたからであり、その娘のリーブの声や映像に魅力を抱いたからである。もう一つだけ控えめに付け足すと、これをまだ誰も末オた様子がなかったからである。


そして、初めの二人に共通して言えることは、「冒険」と「自由」と最後に「自然」をこよなく愛したこと。リーブに言えることは、母親・アンの生き方の精髄を『海からの贈りもの』に見出し、それを私に向けて真っ直ぐに投げてかけてきている様な気がしたこと、である。


すでに言うまでもないことではあるが、末?ニのおそらく9割以上は日本語の世界である。訳は末メの数だけあり、その質は、訳者の性格、人柄、生き方、詰まるところは人格による。


この楽しい作業をする傍ら、猪瀬尚記の『翻訳はいかにすべきか』をチラチラと見ていた。その岩波新書の帯に、平賀源内の「翻訳は不朽の業」、二葉亭四迷の「翻訳は文体である」、猪瀬本人の「翻訳に不可能はない」という、勢いの良い言葉が並んでいる。私は二葉亭に賛成するに躊躇(ちゅうちょ)なく、猪瀬にはちょっと首を傾(かし)げ、猪瀬が「大げさである」と評した源内には大きく頷(うなず)く。


不朽とは不滅という意味だが、この世界にはそのような訳書の数々が確かにあることを、こんなヘッポコ翻訳家でも、それなりに知っているからである。無論、私の訳書は、恒河沙(ごうがしゃ)のごとき金沙に混じった砂粒のようなものであり、不朽でも普及でも不滅でもない。単に趣味好みの戯(ざ)れごとだと諦めながら、読んで頂ければ、ある意味で幸いである。


何故か時を同じくして、馴染みの砂浜で拾った「海からの贈りもの」・・・大分産の麦焼酎「いいちこ」の何本目かを飲みながら、一体どうすれば、こんな「駄文」を、「名文」まで行かなくて全然いいから、せめて無理なく読める「拙文」くらいまでにできるのか、いよいよ更に楽しみながら、種々の想いを巡らせることにする。

令和元年(2019年)7月25日 梅雨あけの星空涼し松山の地にて
                    渡 辺 寛 爾

(画像は60周年記念版のハードカバー)


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海からの贈りもの 前書き 5

2019-07-19 21:39:00 | 創作
また1938年には、これらの冒険を元にして書いた『聞け!風が』(注4)で「全米図書賞」(注5)を受賞し、生涯を通してベストセラー作家の名を残している。彼女が65歳の時、私たちはバーモント州でスキーをし、70歳の時はスイスアルプスを縦走した。その5年後の75歳の時は、ハワイ・マウイ島のハレアカラ・クレーターまでハイキングして、数人の子供や友人との一夜を火口の中で過ごした。


 巨大な半球の暗闇の中で、頭上に明るく煌(きら)めく星々を見上げていたのを思い出す。その間、母はサイズ5のハイキングシューズでしっかりと立ちながら、私たちにナビゲーター・サークル(注6)を、確認しながら指し示してくれた。カペラ、キャスター、ポロックス、プロサイアン、シリウス ・・・ これらは、彼女がその50年前、先駆的飛行家として、暗闇の中を飛行するために最初に覚えた星々であった。


 何はともあれ、『海からの贈りもの』は、普通ではない種類の「自由」を提供してくれる。それは認識することも説明することも容易ではないが、この自由こそが、本書が近年まで、これほどに愛され、読まれ続ける本当の理由ではないかと思う。
 
私の言う「自由」とは、まさに母がそうであったように、「全てを受容し続けることを選択する自由」、人生に降り注ぐ、喜び、悲しみ、成功、失敗、苦しみ、楽しみ、そしてもちろん、常に起こる変化の「全てを受け入れる自由」である。
 
それは、彼女自身の体験にもとづく正直な内省の中に、また外部世界には積極的に対応しながら、内部世界の中心にある「静寂」に従って生きようとする姿勢の中に存在するものであり、私たち誰でもが「今・ここ」を生きるために不可欠なものでもある
 
母は静かに、彼女自身の人生の中に、あらゆる人の人生の中に、この「自由」を置いた。彼女は自分自身の、また他の人々にとっての、新しい生き方を発見したのである。この50周年記念版によって、新しい世代の全ての読者が、彼女の後に続くことが可能となるだろう。それを知ることが、私にとっての喜びである。
 
   リーブ・リンドバーグ   バーモント州、セント・ジョーンズ・バーにて
 
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・注4:『翼よ、北に』(中村妙子訳)に続く、アン・モロー・リンドバーグの第二作。(中村妙子訳)
 
・注5:アメリカで最も権威のある文学賞の一つ。1950年3月15日に、複数の出版社グループによって創設され、現在は全米図書協会(National Book Foundation)によって運営されている。2004年時点で、小説・ノンフィクション・詩・児童文学の4部門があり、受賞者には副賞として賞金10,000ドルとクリスタルの彫像が贈られる。
 
・注6:陸地の見えない夜間などの空間において、明るい星や星座などの天体を観測することで航空機の位置を特定する航法術。

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海からの贈りもの 前書き 4

2019-07-16 13:36:00 | 創作
本書を読むたび、母のその「揺るぎない強さ」を目の当たりにするようで、私は驚く。たぶん、彼女のこの資質を忘れていたか、当然のことだと思っていたからだろう。彼女は華奢(きゃしゃ)で、いつも繊細であるように見えたし、その知性の深さや感受性の細やかさも覚えている。しかし、本書を読み返すと、これらの性格にありがちな脆(もろ)さの幻想は抜け落ちて、真実が残る。ともあれ、彼女は1932年に、初めての息子を悲劇的に失った後(注1)、5人の子供を育て上げた。1930年には、アメリカ初の、一級グライダー・パイロット・ライセンスを取得し、1934年には、航空と探検に関する冒険に対して贈られる「ナショナル・ジオグラフィック・ハバード・メダル」(注2)を与えられた最初の女性となった。



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・注1:リンドバーグ愛児誘拐事件。1932年3月1日、初の大西洋単独無着陸飛行に成功したことで有名な飛行士チャールズ・リンドバーグの長男チャールズ・オーガスタス・リンドバーグ・ジュニア(当時1歳8ヶ月)がニュージャージー州自宅から誘拐される。現場には身代金5万ドルを要求する手紙が残されていた。10週間に及ぶ探索と誘拐犯人との身代金交渉をしたが、5月12日に邸宅付近でトラック運転手が、長男が死亡しているのを発見した。
 
・注2:ハバード・メダル(Hubbard Medal)は ナショナルジオグラフィック協会が顕著な探検や発見、研究を行った人物に贈る賞である。賞の名前はナショナルジオグラフィック協会の初代会長のG・G・ハバード (Gardiner Green Hubbard) に由来する。

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織田が浜 その4 飯塚塾

2019-07-12 08:56:00 | 追憶

私の「飯塚塾」通いは数ヶ月にすぎない。その理由を書き始めたら、また自分史の領域に突入するのでここでは触れない。

 

昭和四十五年(1970年)当時の飯塚塾は、塾長・飯塚芳夫先生が英語教育に力を入れ始めていた時期にあたる。私が受けていたのも英語の授業だった。古びた二階の三十畳ほどの畳部屋に、座卓が口の字に並べてあって、教壇などはない。いわゆる円卓方式で、それは先生の「教育理念」の一つの形だった。

 

先生は明治四十一年(1908年)生まれだから、当時六十二・三歳、ちょうど今の私の歳頃になる。その風貌は、先生というよりも小柄で平凡な初老のおじさん。しかし、どこか気高く、その落ち着きと優さが、体中から香りのごとく放出されているような方だった。彼の左隣には、20歳代の美しい女性外人助手が座っていた。生徒は全部で15人ほどだったろうか・・・そのほとんどは西高生で、マーちゃんや石川君のほかにも、英語好きな顔見知りが何人かいた。

 

授業の大方はこの美人助手を中心にした質疑応答だった。ある日などは、「あなたの好きなことは何ですか?」と聞かれて、私は「大ボラを吹くことです」のつもりが「I like to tell big lies.」などと言ったものだから、皆には大笑いされ、彼女には「何ですって?」と怪訝(けげん)な顔で見返されたこともある。ともかく、教場全体が何か暖かい空気で包まれているような空間だった。

 

第三者から見た「飯塚塾」ついては、先に挙げた関礼子さん(社会学博士)の博士課程での論文内で、相当に正確に整理されていると思う。少し長いがここでも以下に借用させて頂く。もちろん、私の駄文は論文ではない。途中に挟まれた参照などは全て省いた。

 

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飯塚塾と織田が浜 ー 共同性の具現

 

織田が浜埋立反対運動(織田が浜運動)の生成過程で注目したいのは、運動がどのような契機で、何を「保護」する目的で組織されたかである。織田が浜運動は、飯塚芳夫と彼が主催していた飯塚塾を中心に組織・展開されている。 飯塚にとって織田が浜はどのような意味を持っていたのか、 また運動が組織されるにあたって飯塚塾はどのような位置を占めていたのか。

 

織田が浜運動は、第三次港湾計画の埋立当該地にあたる喜田村の連合町内会、 老人会、 PTAなどの組織と東村の飯塚による 「喜田村織田が浜を守る会」によって始められ、その発展組織「今治織田が浜を守る会」によって担われた。代表はともに飯塚だった。

 

住民運動の初発段階で、地域問題を運動に結びつける際に最も重要なのは、リーダーシップをとる者の存在にある。 市の港湾職員をして「素晴らしい人だった」と言わしめる人物像ゆえに、 しばしば織田が浜運動は飯塚の運動、 飯塚の熱意と強力なリーダーシップに因る運動と評される。私財を投げうって埋立反対を訴えた飯塚は運動のシンボルであり、カリスマ的な存在であった。1987年に亡くなるまで、文字通り織田が浜に命を捧げた飯塚の情念は特筆すべきだが、織田が浜運動は飯塚の背後にある共同性によって展開されたという側面がある。 飯塚塾の歴史は、飯塚を中心に起こったこの運動の共同性を明確にする。

 

飯塚塾は1949年当時、中高一貫教育を唱い文句に、県下の優秀な生徒を集めていた私学の教育方針を批判し、小学校5年生から高校3年生まで8年一貫して、地域社会のなかで三三育(知育、徳育、体育)重視の全人的教育を行うことを目的に開塾した。そのため飯塚塾は、 現在イメージされるような「進学塾」とは全く異なる特徴を有している。 顕著な違いとして、次の三つが挙げられる。

 

第一は円卓方式の授業である。 戦後期の、 何もないところから始まった塾は、石炭箱を四つ並べて、そのうえに雨戸を一枚置き、 さらに黒板をのせた机を囲んで授業をした。これは、いろりやこたつなど日本の田舎の人間関係のありかたを教室に取り込んだもので、教師と生徒が同じ机を囲んで学ぶことで、両者の人間関係が密になり、円の関係になるという発想に基づいていた。円卓方式での授業は、 その後、教室が増えても変わることはなかった。

 

第二に、飯塚塾には 「天戸 (雨戸)会」という “父母会"がある。 創塾当初、「教育は無償で行われるべき」として月謝をとらなかった飯塚に対し、「それでは気の毒」 と塾生の父母がお金を集めてもってきたのが契機となって、1955年頃に結成されたものである。後に塾生が増え始め、教室が手狭になると、父母会が寄付を募り、資材を持ち寄って、勤労奉仕で教室をつくった。塾には最盛期に6つの教室と運動場があったが、 飯塚の自宅におかれた教室以外は全て父母の手によるものだった。また。忘年会、織田が浜でのキャンプ、登山など塾の年中行事も父母が手伝った。

 

第三に、 飯塚塾には OB会があり、 固い結束を保っている。これは 「イズカの流れを後輩に伝えるために」つくられた「教生」制度から発したものである。高校1、 2年生の塾生を「教生」として教師の助手に採用、年下の塾生を指導させることで、卒塾生の塾への帰属意識は強いものになった。

 

これら三つの特徴は、飯塚塾を地域文化の担い手として位置づける。子供にとっても父母にとっても、 塾との関係は一過性のものではない。最低でも8年、子供の数によっては10年以上、塾と関係を持つことになる。塾は家庭の延長、地域社会の縮図だった。円卓方式に始まった飯塚塾は、教師と塾生の縁を塾と父母、地域との関係へと同心円的に拡大し、 空間的、 世代的な結節点として機能したのである。飯塚がいみじくも「飯塚塾は僕のものでなく、多くの村人の子弟のための施設だと考えている」というように、 飯塚塾は単なる私塾ではなく、地域社会の共同体的な教育機関であった。

 

(その5につづく)

 

 

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海からの贈りもの 前書き 3

2019-07-09 12:06:00 | 創作

 私は自分自身を前に進めるために、彼女の智恵と勇気を再び必要としていると感じていた。そして、希望し期待していたとおり、彼女が私を失望させることはなかった。『海からの贈りもの』の、どの章やページを開いても、筆者の言葉は、一休みしながらもっとゆっくりと生きる機会を読者に与えてくれる。本書はその環境がどうであれ、人を「今・現在」という時間の中に、静かに落ち着かせ休息させることを可能にする。その全部でなくても、ほんのわずかでも読むと、読者はしばらくの間、日常を離れた、より平和な速度で生きることになる。彼女の言葉のゆらぎや流れそして抑揚さえも、安らかで避けがたい海の動きに言い及んでいる、と私には思えた。

 

私の母が、これを意識的に書いたのか、あるいはこれを書く間、砂浜を歩きながら暮らした日々の、自然な結果であったかは定かでない。その理由が何であれ、本書をほんの数ページ読むだけで、海辺の脈動の中で私はくつろぎ、自分自身が潮の満ち引きにと共にある何ものか、であるように感じ始めるのである。ちょうど、この大宇宙という太洋の、壮大なリズムの中に浮かぶ漂流船の欠片(かけら)のように。この感覚はそれ自体が深く確かなものだが、本書の中には、心の平穏以上のもの、静かな生活や静かな言葉から来る、潮の満ち引きに似た心地よさ以上のものがある。これら全ての底流にあるものは、確固として揺るぎない強さである


リーヴ・リンドバーグ(作者・アン・モロー・リンドバーグの末娘)
Reeve Lindbergh


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織田が浜 その3 マーちゃん

2019-07-05 10:49:00 | 追憶

また横道に逸れそうになった。ただ、心地観経にいわく「過去の因を知らんと欲せばその現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せばその現在の因を見よ」である。

多少でも過去に触れておけば、次に続く過去が分かりやすくなる。現在も未来も同様。私の拙(つたな)い自分史は、稿を別にしてここにも書き、後に上梓することになるだろう。本題に戻る。

高校一年生、新しい校舎と先生と同級生。ほとんど全ての環境が変わる中で、まことに奇妙な人間とクラスを同じくすることになった。後に愛称で「マーちゃん」と呼ぶようになる矢野君である。

彼の風貌は飄々(ひょうひょう)淡々。たいがいは何かしらんけど笑っている。その動きは鷹揚(おうよう)で、体育の時間はほとんど壁の花になっている。その他の授業でも、懸命に板書を写すのが生徒たちの習いなのに、たまにチラッとメモする程度でノートをとる様子が全くない。先生の口元をぼーっと見ているだけである。

授業の合間や昼食時間など、「アポー!」などと言いながらプロレス技らしきものをかけてくる。普通に見たら愛すべきアホの一類で、どう見ても頭脳明晰には見えない。

ところが、その成績たるや450人中常に5番以内にいる。私には何のことやらさっぱり分からない数学の難問を解くよう先生から不意に指名されても、彼のチョークはいとも簡単にスラスラと正確な解答を黒板上に現す。

「こいつの頭の中はいったいどうなっているんだ?」こんな掴みどころのない奇妙な人間を見たのは初めてで、私は不思議で仕方がなかった。

彼の方も私のことを、勢いだけは良いが少し変わった男だと見ていたようだ。二人はどこかウマの合うところがあったのだろう。ある日、「ちょっとうちに遊びに来ないか?」と誘われた。この不思議を解明する絶好のチャンスだ。私は喜んで、織田が浜近郊・喜多村にある彼の生家を訪れた。

そして、この謎は一気に解決した。彼の家は古くからの農家で、朝が早い。彼も早起きして親の手伝いをする。朝の時間は長い。余った時間を授業の予習に宛てる。元々記憶力は良いから、当日の授業の内容はすっかり頭に入っている。学校での授業などは、すでにしっかりと彼の頭の中に居座った知識の、単なる復習・整理にしか過ぎなかったのだ。

私は「早起きは三文の得というが、マーちゃんの得はそんなもんじゃないねぇ・・・」などということを言ったような気がする。

さらに夏休みを過ぎた秋口、「僕の通っている塾に行ってみないか?」と誘われた。「なに~、君のような出来る男が塾になんか通っとるのか!?」私はいくらか呆れながらも、彼について行き、織田が浜に隣接する東村にある私塾「飯塚塾」の門をたたいた。これがそこらに散在する単なる学習塾ではなかった。

私と「織田が浜問題」の縁の始まりである。

(その4につづく)

 
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織田が浜 その2 今治西高など

2019-07-03 17:40:00 | 追憶
 旧制今治中学校を前身とする愛媛県立・今治西高等学校は、港湾を東向きに開く旧今治市の北西部に位置する。一学年450名、全校生徒数1350名のありふれた進学校の一つである。私はこの高校で3年間を過ごし、校内・校外に何人かの友人や恩師を得た。その中でも、格段に面白い人物の数人を紹介しながら、織田が浜の話しを続けるが、その前段階の小中学校時代にも少し触れる。
 
「しまなみ海道」開通以降、いくらかは全国的に知られるようになった、芸予(げいよ)諸島の最も今治寄りの大島の漁村で生まれ育った私は、小中学校を通じて、先生の顔色を見るに聡く、後輩をいじめず、通信簿は5で覆われるなど、所謂(いわゆる)優等生の見本みたいな少年だった。思春期を迎えた頃、自己流の空手を始めたこともあって体躯は劇的に変化するのだが、13歳あたりまでは細く長く、しばしば原因不明の熱を出して学校を休む。しかしそれで特段身体が弱いというわけではなかった。
 
生家と庭続きのような砂浜と海は、単に海水浴だけでなく私の遊び場そのものだったから、年間を通して村の子供仲間たちと一緒に走り回り、夏は泳ぎ回って、年中日焼けがとれないような小学生だった。
 
ところが、元職業軍人で後に政治家になった父の口癖が「信念と努力!」、教育方針が「何でも一番になれ!」などという、普通の人間にはおよそ不可能なもので、それを忠実に実行しようとしていたから、私はかなりの無理をしていた。その無理が「原因」となり、何かの「縁」に触れることで、「結果」となって現れるのは時間の問題にちがいなかった。
 
私の高校時代は、この「縁」が「果」を生み、その「報」(因縁果報)が現れ始めた時期であったとも言えるだろう。もちろん、父の信念や母の愛育がマイナスの「報い」のみを生んだわけではない。
 
彼の信念の内容が如何様(いかよう)なものであり、何処(いずこ)に淵源を持つのかは今のところ定かではない。しかし、家族に耳の聞こえない者がいたこと、向学心に燃えた相当に聡明な少年が、寒村漁家の貧しさの故に職業軍人への道を選ばざるを得なかったこと、16歳から26歳までの10年間の海軍生活で、文字通り命懸けで鍛え上げられた何か。それらが、社会的に弱い者への思いやりや、理不尽に強い者への怒りを、彼の中で成熟(じょうじゅく)させたのは確かなようである。
 
その信念は、戦後、私が生まれた直後のまだ30代半ば、当時全国的に報道された燧灘(ひうちなだ)の漁業権を巡る紛争で現れたのだろうし、その後、政治の世界では、多くの敵を生むと同時に、それ以上の理解者を得ながら、4期16年間の仕事を全うさせたのだろう。当然ながら、それらの方々の中には、実にさまざまな種類の人々が含まれていたのを、私はよく知っている。
 
「何でも一番!」は、ある意味とんでもない間違いだが、長ずるに連れ、私がこの世界や人間の観方(みかた)を扱う「思想・哲学」や、それらの根っこにある「信の体系=宗教」に興味を持つようになるのは、自然な流れだったのだろうと思う。
 
信念とは「何ごとかを信じる一念」のことであり、一念とは「一つの今の心」と書く。意識的・無意識的に何ごとかを信じるということは、詰まるところ宗教の領域になる。それは人間に限ったことではない。インドの詩人・タゴールが、森に在って「静かに!心よ。樹々(きぎ)たちは天に祈りを捧げているのだ」と謳ったのも当然だろう。

樹木は大地を信じ、魚は海洋を信じ、鳥は大空を信じ、子は親を信じることで、その分に応じて成長しながら生きている。また更に、現在の一瞬の心の連続が、一個の人間だけでなく全ての生命の一生涯を超えて永遠に続く、と仏法では説く。
 
そして、「何を」信じ行うか・・・が、自己の心身にどれほど大きな影響を与えるかを、強烈に体験するのは、高校時代も終盤になった頃であるが、このあたりのことごとは、稿を別にする。
 
また、高等女学校を出て父の妻となった母の愛育については、いまだに進行中なので、簡単には相対化することはできない。ただ、「小さいことは気にしない」ということや「大概のことはなんとかなる」などという脳天気な性格は、大いに母親譲りである。

             ★★★

かくして、難なく高校に進学した私は、意気揚々としていた。島から街に出るということは、当時の島の子供にとって、冒険か事件のようなもので、小学生の頃は「今治行き計画書」みたいなものを母に提出し、500円の旅費を遠慮がちにもらう。年に1回あるかないか。中学になると新聞配達で月5000円は自由に使えるお金ができ、財布が空になるまでの数回程度だったのだから、あの対岸の大きな街の大きな学校の近くに下宿できるということが、どれほど嬉しかったことか。
 
入学後間もなく、中二の冬から自己流で始めた空手の腕を磨くべく、「どんどび」近くの警察道場に通い始めた。そこでは、どんな反則技を使っても、とうてい勝てそうもない20代後半の青年が剛柔流の師範代をしていた。下宿から道場まで往復40分ほどの商店通りを、週に何回か鉄下駄をガラガラ鳴らしながら通う。お店の方たちはさぞ迷惑したろう。私は大まじめだったのだが、今に想うと漫画の風景だ。

「盲(めくら)蛇に浮カず」そのものの少年の話は、いつの間にか学年中に広まり、やがて私に「おやじ」とあだ名を付けて、用心棒にしようという、これまた相当に面白い同級生が現れた。後に登場する「西川」(彼には君を付けたことがない)だが、先に少し触れておくと、彼が街の音楽仲間を集め、リーダーとして作った、エレキバンド「ロング・ビーチ」の(お金の計算ができない)マネージャー兼用心棒役をしばらくしていたことがある。私は音楽オンチだが音楽自体は好きらしい。ロング・ビーチとはつまり、織田が浜・唐子浜と続く数キロに及ぶ美しい海岸のことである。

ある日、西川が「おやじさん、ちょっとついてきてくれないか?」と言う。今治の京町という、東京だと歌舞伎町みたいな場所にあるバンドの練習場で、ときどき近在のチンピラが言いがかりを付けてくる、ということらしかった。

バンドメンバー数名と共にその練習場に行くと、たしかに「私は間抜けなチンピラです」と顔で語っている男たちが2~3人いた。そして、しばらく遠巻きに私たちを眺めていたが、私が拳を鳴らしている間にどこかに行ってしまった。たぶん、それから顔を出すことはなかったのだろう、私の用心棒役はそれっきりである。

その後、何かの大きなイベントがあった夏の「織田が浜」で「ロング・ビーチ」は活躍し、西川・作詞作曲のエレキ演奏は、かなりの数の観客を喜ばせた。その時、大三島から手伝いに来ていた少女と、朝日が昇るまで何ごとかのお話をしたこともよく覚えている。

これに味をしめて、「うちの島でもやるか~・・・!」などという企画を持ち上げ、島の公民館の大広間を無料で提供してもらい、町内放送までしたにもかかわらず、来たのは中学時代の同級生10人足らず・・・なんてことも、西川を友人に持ったおかげの楽しい出来事の一つだ。その後、彼は立教大学に進み、学生でありながら音楽関係の事務所を持った。それなりに人徳のある奴だったということだ。「あずさ2号」をヒットさせた「狩人」という兄弟歌手二人も彼と懇意だったらしい。彼との交際は私が新宿を去って神奈川・川崎の奥地に転居するまで続く。

西川に加えて、次回登場することになる、面白すぎる矢野君、優等生ソノモノのまま東京大学に進んだ石川君、後もう一人(あいつ誰だったかな?)の五人で、冬の歌舞伎町で小コンパ(飲み会)を開いたあたりからが、「織田が浜」の話の伏線になるのだが、今回はこれまでにする。
 
(その3につづく)

今はあの潮音静かだった渚もコンクリートの塊になってしまった。前方に燧灘と四国山脈。


越智郡吉海町立津倉小学校の風景(昭和40年代のころ)。現在は今治市立。


 
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