庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

言論の自由2

2015-07-06 12:50:00 | 政治
愛媛新聞の関連記事を、もう少し追いかけておきます。

政治アナリストの伊藤氏が言うように、「現政権の幼児化」が進んでいて、それでも支持率が大きくは減少していないとするなら、それを支持する国民の幼児化も進んでいる、ということになるでしょう。

モノゴトの分別もままならない幼児には可愛げがありますが、そうしようと思えば出来るちゃんとした大人が、正確な事実を知ろうとしなければ、単に可愛げがないだけでなく、コトの結末は当然ロクなことにはなりません。これは時と場所とを選ばず当てはまる公式のようなものでしょう。

やはりB・ラッセルも賢人の一人でした。今から55年ほど前のことですが、彼は遺言のような次の言葉を残しています。

Q:あなたの人生から学び取ったもので次の世代に語り残しておくべきことは何でしょうか?
 
A:二つあります。一つは理性的なこと、一つは道徳的なこと。
 
理性的なことで彼らに言いたいことはこういうことです。あなた方が何かを研究(勉強)したり、なにか哲学的な考察をしたりする時、ただ事実が何であるか、事実から導き出される真実がなんであるかのみを考慮しなさい。けっして自分がそうあって欲しいと望むものや、その社会的効果の如何によって目をそらされてはいけない。事実が何であるかだけを徹底して観察しなさい。これが理性的なことについて、私が言いたいことです。
 
道徳的なことについて言いたいことは実に単純です。「愛は賢明、憎しみは愚か」。相互の関係性がますます緊密になってきているこの世界では、私たちは互いに寛容であることを学ばなければなりません。人が自分の気に入らないことを言う場合にも耐えることを学ぶ必要があります。そうすることによってのみ、私たちは共に生きることができる。もし私たちが共に生きることを望み、共に死ぬことを望まないのなら、慈悲と寛容の精神を身につけなければなりません。これは人類がこの惑星で存続し続けるために極めて重要なことです。




言論の自由

2015-06-30 13:08:00 | 政治
「言論の自由」の反対概念・・・「言論統制」・・・いやな言葉です。これが、少なくともこの国で過去70年間、そして少なくとも表面的には、大きな議論になることはありませんでした。

理由は簡単です。憲法に謳われた「表現の自由」が、基本的な人権の一つとして、権力を持った人たちの間でも常識だったからです。

ちょこっと歴史に触れておくと、極めて民主的だったワイマール憲法の下で、この上ない残虐非道を行った(と言っておきましょう)ナチスの興隆も、日本軍国主義の隆盛も、アメリカ帝国主義の欺瞞も、この「言論統制」がものを言ったことは確かでしょう。

私のヘッャR辞書によれば、権力とは、有無を言わせず何かを他人に押し付ける強制力のことですから、こんなものが好きな人間にロクな者はいない・・・ということも大概の方はご承知でしょう。そして現政権に可愛がられている作家・百田氏による先日来からの悩乱発言。

いつもなら、こんなバカバカしい話しはお相手する気にもなりませんが、昨今の自公連立政権の動きを見ていると、ちょっと黙っているわけにも参りません。なぜなら、こういう種類の人間に縁の深い方々が結構な数、統治する側にも統治される側にもいるからです。

数日前にTV番組で怒っていた沖縄のご婦人ではありませんが、早い話しが、自分のことをバカじゃないと思っているなら、「バカも休み休み言え!!」・・・ということであります。

昨日の愛媛新聞に登場していた、琉球新報と沖縄タイムズのお二人も、まちがいなく、私と似たようなお気持ちでありましょう。



無料が通って道理が引っ込む前に

2012-10-27 15:23:00 | 政治

一昨日だったか、石原都知事が突然の辞任会見を行った。40数分に渡って、彼らしい饒舌で、次期衆院選への出馬や新党結成の意気込みや、憲法改正への情熱や国家の中央官僚批判などを語っていたが、私はその全てを聞いたわけではない。

彼が、この4期13年余りの間に、例えばジーゼル車の排ガス規制条例や東京国際マラソンの開催などで、首都東京の活性化に尽くしたことは、多くの支持者が認める通りだろう。また、その「活性化」の恩恵に浴すること少ない多くの都民がいることも事実だろう。

彼がまた、尖閣諸島の都有化に情熱を注ぎ、結果的にそれが国有化されることによって、多くの都民や国民が、我が国の利益につながると考えていることも事実だろう。

更に、彼が少なくとも都民の多数派の支持によって、その地位を与えられ続けたということ、もしも今期の任期を満了して5期目の都知事選があったとしても、おそらく当選するだろうという推測も、かなりの蓋然性をもって成り立つだろう。

彼の弁舌は実に歯切れの良いもので、マスコミ各社との質疑応答の姿勢の中にも、私は一種の爽やかささえ覚えた。しかし、私が視聴した範囲で、ちょっと気になり、けっして聞き逃すことができず、全く賛同できない発言もあった。

ちょっと気になったのは、最後の「お国のために最後のご奉公をさせていただく」という言葉で、そこには「国民のため」はもちろん、「世界の人々のため」などという表現がなかったこと。 

そして、聞き逃すことができず、全く賛同できないのは、憲法改正に触れた部分。彼はおよそ「今の憲法は、占領軍に押し付けられた、醜いものである・・・」というようなことをハッキリと語っていた。

彼の改憲姿勢は今に始まったことではないから、改めて驚くこともない。だが、日本国憲法の条項が「押し付け」であり「醜いもの」であり、したがって改正すべきものであると観る根拠は、彼の場合どこにあるのだろう。

私は日本の一国民として、日本国憲法を押し付けられたとも、醜悪だとも、読んで分かりにくいと思ったこともない。こんなに簡潔な日本語も少ないだろうとさえ思う。(※) 

もっとも、国家統治の側に立ち権力を有する人たち、つまり、立法・司法・行政などを担当する公務員は、これを「尊重し擁護する義務(99条)」を負っていることから、石原氏を含む彼らがその義務を「押し付けられている」と感じても何も不思議ではない。

憲法の第一義は、公的権力を持たない国民(統治される側)が、それを持つ国民(統治する側)に対して「押し付ける」種類のものであることは、少しでも憲法を知る者の常識であり、全世界を通して近代的立憲国家の常識でもある。

彼が言いたいのは、もちろん「第9条の平和条項」がアメリカの占領軍によって、日本国民全体に押し付けられたもので、日本人が自ら考え作り出したものではない、ということは明らかだ。

それは、彼が、少なくとも平和条項を素直に読んでないこと、明治以降の憲法史に疎(うと)いこと、当時まさに現行憲法の草案作成の現場にいた、首相「幣原喜重郎」の『外交五十年』も、占領軍総司令官「マッカーサー」の『回顧録』も、まともに読んでないこと・・・なとも明らにしているだろう。

憲法によって国家は作られている。国民は国家の存在に無関心でいることはできるかもしれないが、国家は決して、国民を無関心の対象としない。つまり、たえず干渉し、時に強制し、服従を強いることもある。

だから、興味がある人も無い人も、たまには実に簡潔な日本国憲法を読んでみることを、多くの憲法愛好家の方々同様、私もお勧めする。また、さらに趣が至れば、少しでもその「成立過程」に興味を持ってもらいたいと思う。 

また再び、多数の無理が通って、少数の道理が引っ込む時代が来る前に・・・。



駐⊥竭閨@6

2012-10-27 12:41:00 | 政治
駐⊥竭閧ノついては、以前ここでも、クラウス先生の見解を載せた。今回は、彼の小論の日本語訳を掲載する。途中、「日韓両国の主張」の歴史的資料などについては、私的に省略や編集を加えた。脚注はすべて省いてある。

                    『駐〟i独島)問題の解決に向けて』

                    歴史平和学者: クラウス・シルヒトマン

                      日本語訳: 渡 辺 寛 爾

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日本・韓国間の駐⊥竭閧ノついての解決をICJ(国際司法裁判所)に委ねるという日本の姿勢は正しいと思う。この問題を考える上で、両国間の歴史を一瞥《いちべつ》することが役立つだろう。国際紛争を、戦争という手段ではなく国際法廷の評決に依ろうという提案がロシア皇帝ニコライ2世によって提唱され、まず1899年に第一回ハーグ会議、1907年には、ジョン・ヘイアメリカ合衆国国務長官の提唱で第二回ハーグ会議が開催され、共に公式な議論や評決もなされた、という事実を多くの人々は知らない。f8ccd06f.jpeg

初めての国際会議は、残酷な戦争期の後の平和な時期に持たれたという点でユニークな出来事だった。26の参加国には、日本、中国、ペルシャ、タイなども含まれていたが、韓国は1876年に日本の影響によって既に「開国」していたにもかかわらず、参加しなかった。当時の韓国はまだ、独立国家が集まって拡大を続ける国際社会の中で、一人前として受け入れられていなかったのである。しかしながら、1876年の「日朝修好条規《にっちょうしゅうこうじょうき》:江華島(カンファ条約」の第一款では「朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国家と認める」と明確に主権国家であることを認めていた。しかし、この「不平等条約」は、江戸末期に日本が西洋諸国から受けたような治外法権(朝鮮国内においては、国籍によって裁判の管轄を分けるが、日本国内においては朝鮮側の領事裁判権を認めない)も認めていたので、この条約は多くの国民に自国の主権を侵害されたものとして侮辱的に受け止められたのだった。58d35eae.pngNicholas_II_of_Russia_cropped.jpg

日本は韓国や中国の近代化について中心的な役割を果たそうと強く望んでいたが、中国と韓国の両国は変化を受け入れるのにあまり熱心ではなかった。その後進性のゆえに、中国は西欧諸国から「東洋の病人」、韓国は「不可解な隠居国家」などと侮蔑的なあだ名が付けられていた。もちろん、その一因が、西欧の植民地主義的優越感や帝国主義的業績から発生した、悲しむべき状況に起因していたことは間違いない。

日本は明治の開国以来、近代化に伴う様々なことがらを賢明に採用し、韓国の1884年の民衆蜂起・「甲申政変」(こうしんせいへん・朝鮮事件)や10年後の1894年の革命運動を支援した。1884年の政変に際しては、韓国のボルテールと呼ばれた革命家、徐載弼(じょさいひつ・1864-1951)が、西洋の科学・思想を取り入れるために、同志の金玉均(きんぎょくきん・1851-1894)と共に日本国の援助を求め、それに先立つ1879年、彼らは同志であった仏教僧、李東仁(りとうじん・1849年-1881年)を日本に蜜入国させて、福沢諭吉などに教えを受けさせてもいたのである。

しかし、この革命は、一時にあまりに多くの変革を求めたために、中国(清朝)の援助を得た当時の韓国政府によって潰され、徐載弼は全ての家族を残酷な方法で殺され、彼は日本に亡命する。韓国の改革者たちの運動が失敗に終わり、中国でも、康有為(こうゆうい)の約100日間の改革運動「戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう)」が潰されて日本への亡命を余儀なくされたことなどによって、彼らがハーグ平和会議で成しえたかもしれない、「西欧支配とのバランスをとる」という事業に貢献できなかったのは全く悲劇的なことである。

徐載弼は日清戦争で日本が勝利を収めた後で赦免され、1895年に韓国に帰国した。当時、非常に多くの自由主義を掲げる政治家が勢力を増していた。徐は独立運動を開始し、たちまち多くの支持者を得ることになった。1896年には「独立クラブ」が立ち上げられ、その年の4月7日には、最低1ページは英文を含む機関紙「独立」が発刊された。独立クラブは、儒教思想を取り入れた改革政党で、日本でも採用していた「東洋の道徳と西洋の学戟vを融合させるという考え方だった。その海外向けに表明されたアピールは、フランスの凱旋門にならって「独立の門」を建設することであり、それは1896年に始まった。次の年「独立ホール」が完成した。どちらの記念碑的建造物も現存し、重要な国家遺産となっている。

しかしながら、徐やその支持者たちは、再び、反動的な韓国政府の不評を買うことになる。1899年初頭、独立党の政治活動は全て禁止され、続いて解散させられ、『独立』も廃刊に追い込まれる。8月になると、韓国から日本への政治的亡命者の数が劇的に増加したと新聞報道された。当時の『週間神戸』には、「韓国の政治犯が日本に亡命している」と報道し、同時期、ハーグ平和会議が開催中であることも報じている。かくして、結果的に、韓国が1899年のハーグで、より大きな外交的努力に参加することができなかったのは悲しい話である。

日本は韓国を巻き込んだ二度の大戦を行い、中国軍とロシア軍を港内に留めることで、自国のみならず韓国の独立と安全を保とうとしていた。ちょうど日露戦争の時期、アメリカのルーズベルト大統領が仲裁役として両国の敵対関係を収めようと努め、両国をハーグ国際会議へ招いた。日本は休戦に同意し、ハーグでの仲裁裁判に従う姿勢を示したが、勝利を確信していたロシアは招待を断った。そして、韓国政府が改革者たちを追放した後、事態は急速に悪化することになったのである。

日本の植民地政策について語るとき、心に留めておかなければならないことは、ドイツ人とは異なり日本人は西欧諸国の植民地での商業活動を禁止されていた、ということである。同時に、歴史学者の三輪公忠(みわきみただ、1929年 - )が指摘するように、「日本の植民地に関する考え方は、当初から自国の防衛に力点が置かれていたもの」であった。

アメリカ大使であったウィリアム・フィランクリン・サンズは、伊藤博文伯爵との会話の中でこの事実を詳しく述べている。伊藤博文は明治期における博識な政治家で総理大臣を4回経験し、当時は朝鮮総督府の長官であった。伯爵はアメリカ大使に「日本と中国と韓国が緊密な友好関係を築き、その中で西欧の知識を吸収することに恐らく最も成功した日本が、一般行政や西欧流の訓練の導き役となって極東連盟を創る」というような提案をしていた。

サンズはまた、彼(伊藤)は他者の意見を聞くことができる人間であったから、韓国の人たちを満足させる、より良い制度を新しく創り出すことができるかもしれない、とも考えていた。しかし、伊藤は1909年の10月、満州のハルピンで、韓国の愛国主義者(安重根)によって暗殺される。cf632841.jpeg

駐〟i独島)の歴史に目を向ける時、私たちが思い出すべきことは、500年前には、いわゆる「国境」は今日ほど重要な意味を持っていなかった、という事実である。当時、今日のような国家(民族国家・ネイション・ステイツ)は存在しなかった。30年戦争(1618年か??1648年)の後、ウェストファリア条約が締結されてから、ヨーロッパの植民地主義勢力が他の地域に対して、国家主権の原理を押し付け始めたのである。それまで、主権という概念は、「境界」というより「通路」という別の意味を持っていた。実際、厳密な意味で「境界」など、ほぼ全く存在していなかったのである。

駐⊥竭閧ノついての日韓両国の主張は、両国政府の公式サイトはじめ、幾つかの信頼に足るWEBサイトに詳しく記載されているので、ここでは、そのサイト名称を挙げるにとどめる。どちらの主張に分があるかは読者の判断に任せたい。

 ・ウィキペディア『駐〟x http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%B3%B6_(%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C)

・日本国外務省『駐⊥竭閨x http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/ 

・韓国『韓国之独島』(英語・日本語) www.dokdo-takeshima.com

ともかく、先にも述べたように、ここで重要なことは、これらの領土を巡る議論は、ヨーロッパの国家制度が、国際関係における外交政策で支配的な「原理」になってから後のことだということである。いずれにしても、歴史家のロナルド・P・トビーが指摘しているように、1638年以降、日本は東アジアにおいて政治的存在から消えることはなかったし、韓国を含むその他のアジア地域との外交関係も継続していたのである。さらにトビーは、歴史学者の朝尾直弘(あさお なおひろ、1931年12月17日?? )の名を挙げ、彼が「(日本の外交姿勢が)鎖国政策を採っていた江戸時代でさえ、その発展の中心的要因の一つを構成していた」と解する最初の人物であったことも指摘している。Hague_Secret_Emissary_Affair.jpg

ハーグ平和会議の話にもどろう。1906年にロシア政府は韓国政府にも招待状を送っていた。しかし、他の国々は前向きな返答を遣(よこ)したにもかかわらず、その年の10月末になっても韓国からの返答はなかった。1905年以降、日本は韓国の外交権を摂取していたから、韓国が招待に応えることに反対し、結果的に参加が許されることはなかったのである。しかし、会議の前に、3人の密使が投げかけた日本の対韓姿勢に対する疑問は衆目を集めた。

だが、残念ながら彼らの主張はほとんど支持されることなく、数年前に地位を得たばかりの大韓帝国皇帝が退位すると共に、この件は終焉(しゅうえん)した。7月20日のニューヨーク・トリビューン紙には「3年前、日本によってロシアの侵略から守られた韓国は、その財政政策や外交政策を日本政府を通じて行うことに合意した。その換わり、日本は韓国領土の保全と皇帝の地位を保障しなければならないことになった。この合意事項は全世界が承認したものである」とある。この事実は当時、世界の常識であり(15)、ハーグに集った平和主義者たちにとっても当然の了解事項であった。

今日興味深いことは、イ・ジュン、イ・サンソル、イ・ウィジョンら3人の密使(※)が、韓国への内政干渉に抗議したということの他に、ハーグ平和会議での目標、すなわち、軍備縮小や国際法廷の開設を支持しようとしていたらしいということである。ロシア、イギリス、フランス、アメリカ(そしてたぶん中国も)を含む44カ国の大多数の国々が、すでに1899年の第一回ハーグ平和会議において、もしそれがなければ国際紛争を収めることができず戦争に至るであろう国際法廷の創設に力を結集することに賛同していたのである。

彼らは、国際的な法秩序が力を増せば、軍備縮小は達成可能であると信じていた。それが、当時の参加各国の大きな希望であり目的でもあったのである。ハーグ平和会議は、国際社会のシステムに本質的に新しいパラメーター(要素)を与えるものだった。これらの動きが、まだ帝国主義が支配する時代に起こったことであり、ハーグで成された努力は真剣に受け止められることなく、多くの点で軽視されたという認識は、実際のところ的外れである。事実は正反対なのだ!

そこで、疑問なのは、その韓国からの密使が、この会議の2つの目標、軍備縮小と、同意に至らない場合には仲裁に服従するという事前確約について、どの程度、支持賛同しようとしたかである。唯一可能な推測は、彼らが1899年の第一回会議すでに案件となっていたこれらの目的についての知識を持っていたということである。残念ながら、当時、ドイツが国際法廷の開設を拒否しただけでなく、韓国や中国の改革運動者たちも、ハーグでの努力を支持することができなかったのである。

1907年における韓国の指導者たちの努力が、祖国の過去の過ちを償い、国際的舞台における責任ある参加者となって、ハーグに集まった賢明な多数派を支持するという動機に拠っていると推察できれば、それは素晴らしいことである。この推測を裏付ける何らかの資料、すなわち、彼らの行動が単なる愛国主義者の熱狂から生まれたものではなかったとする資料があれば、それは今日の韓国政府の決定を容易にしたかもしれない。軍備縮小と国際法廷という2つを主目的を、彼らが知らなかったということはないだろう。

過去に何があったかはともかく、今日の韓国は、1899年と1907年に、大多数の国々が達成しようとしたことに賛同の意思を表すことはできる。もっとも、これら2回の平和会議は、少数の列強国がその国家主権の縮小に同意せず、したがって、判決に拘束力を持つ国際法廷の開設に反対したことによって、結果的には失敗に終わった。

しかしともかく、各国の結束力は弱いものだったにしても国際法廷は創られたのである。ハーグでの平和計画は、1??2の国に続く実に少数の反対派の同志国によって台なしにされたのであるが、今日の状況は正反対で、1??2の国に続く少数の同志国でさえ、武力によらない恒久的な平和を達成することができるのである。韓国は、国際秩序の維持を目指し、すでに「法の支配」が優位を占めている国々の一員となるべきである。

今日では更に多くの国々が、国際紛争を収めるために、脅威や武力の使用ではなく、国際司法裁判所の司法判断を無条件に受け入れる方向に向けて動かなければならない。それが100年以上も前のハーグ平和会議の目標でもあった。駐⊥竭閧セけでなく、ロシアとの領土問題や尖閣諸島の問題などについても、最終的にはこれ以外の解決方法はありえない。

現在の国際司法裁判所(ICJ)は国連システムに不可欠の機関であるが、その判決を義務的に受け入れるかどうかは当事国の選択により、加盟国が公式に「法律的紛争についての裁判所の管轄を同一の義務を、受諾する他の国に対する関係において当然に且つ特別の合意なしに義務的であると認める」(国際司法裁判所規程・第36条2項)(※)と宣言する必要がある。

日本は1958年と2007年の2度に渡りその「宣言」をした。それは、多くの不満を持つ韓国を驚かせ、韓国は未だ宣言しないでいる。今はまさに、韓国政府がICJの司法判断に従うことを義務であると宣言している他の国々に従い、この宣言を成して、国際的な法秩序の強化に向けて歩みを進める時である。

また、国際連合はもっと精力的に「共有遺産」の理念を実行に移し、国際協力を促進し、自然資源や大陸棚(鉱石・石油などの鉱床)などの探索・利用に関しても、関係国間の調整努力をしなければならない。駐№ネど、紛争の場となっている地域を国連管理の「共有財産」にする、と宣言するのも良い考えかもしれない。



中国人

2012-10-18 10:41:00 | 政治

15日だったか、いつものごとく堀江海岸で少し走って浜に上がり、ランディング(カイトを地上に降ろすこと)の準備に周囲を見回していたら、風下側50m辺りに2人の青年がいた。

仲間のサーフタイプ・ボードのそばで何か楽しげにしている。再び、こないだの宇宙人サーファーみたいな人が、このスメ[ツに興味を持ったのかなぁ・・・などと思いながら、とりあえず私のカイト・リーシュが開放されたら、その延長線上に位置することになる彼らの動きに注意していた。

すぐに2人は私の存在を認めて、ニコニコしながら近づいてきた。途中で中国語らしい会話が耳に届いた。「ああ、中国から仕事か観光にでも来て、この美しい海岸に立ち寄ったのだろう・・・」

歳のころなら25前後か・・・一人がデジカメを私に向けながら何も語ることなく、一緒に写真を撮らせてくれというジェスチャーをした。二人とも、「高校を卒業して、昨日、田舎から東京に出てきました」という風な、実に純朴な性格が見て取れたので、私はいくらか好感を持った。

一人が私と肩を組み一人が写真を撮る。その撮影係で体格の良い方が、幾らか強めの風で頭上安定しているカイトのコントロールバーを無造作に触ろうとする。それはダメダメ^^;

その後そのままの体勢で、私の知る数少ない中国語「我は君を愛す」を変成した「我愛中国」(ウォー・アイ・チュウゴク)などといういい加減なことを言ってみたら、一応通じたようだった。背の低い方の青年は、わずかな日本語が分かるらしい。

片づけが終わって一服した後も、まだ二人は石組み突堤に腰を下ろして、楽しそうにお話しながら寛(くつろ)いでいる。

先日来、駐№竦?tの問題が私の頭の一部で動き続けている。私は台湾には長い付き合いの友人がいるが、中国大陸にはいない。この際だから、この近くて遠い大国からやって来た青年たちと、もう少し交流しておこうと考えた。a5a0ac39.jpeg

デジカメとメモ帳を持って、今度は私の方から近づき、写真を一枚。ことのついでに、彼らが松山で何をしているか、どれくらいの滞在予定か等々、しばらくの間、お話というか筆談というか・・・をした。

この筆談の有効なことは、すでに台湾で実証済みである。実に幸いなことに、日本の言語には、少なくとも4種類の表記方法がある。歴史的に並べると、漢字、カタカナ、ひらがな、ローマ字である。

現在の中国は、漢や呉の時代の漢字を多少簡素化したものを使っているが、私たちが学校で習った常用漢字の多くを、彼らも理解することができる。

私に言わせれば実に浅薄な考えだが、明治初期にも終戦直後にも、高名な学者たちから大真面目に「日本語・ローマ字化論」というのが出て、これほど豊かな表現力を持ち続けてきた漢字やひらがなの文化が消え去りそうになったことがある。

ともかく、彼らの数少ない日本語やそれ以上に少ない私の中国語、その他はボディーランゲージと以心伝心を使って、二人の名前が張さんとシンさんで、遼寧省・西安市の出身であり、西安と松山はほぼ同規模の地方都市であること。

また二人とも松山に数件ある中国料理店で働いていて、一人はすでに3年の滞在になり9年間は日本にいることになるだろうということ。その店のオーナーは日本人で、マネージャーは中国人であること。私がその店に行けば必ず何らかの付加的サービスがあるであろうこと。二人の部屋にはパソコンがありインターネットやメールが使えること・・・などが分かった。

私の紹介も少しはしたけれど、どれほど通じたかは分からない。それでも、張さんとはメールアドレスの交換をして、縁があればたぶんこれから、メール交換をすることになるだろう。

問題は、文字の何語を使うかで、私が日頃重宝している共通言語の英語が使えず、彼らに日本語習得の意思がないとすると、とりあえず、私が中国語を使うしかないことになる。

最近はWEB末フ技術がかなり進歩している。当面、これを利用してメールしてみようかと考えているが、こんなんで本当に意味が通じるのであろうか・・・?

 「?好看?的一天,我很高?能??好。我会看到?,如果?有一个机会。?我的店在不久的将来停止。?候服?。此外。」



駐⊥竭閨@5

2012-09-28 11:15:00 | 政治
今回は、駐⊥竭閧ノついての、クラウス先生の簡単な見解を日本語訳したものを記す。いくらか私的に加筆・修正してある。彼は、その解決策を100年以上前の「ハーグ国際平和会議」の時代にまで遡りながら論じる。 

この記事を掲載予定だったある雑誌の編集長から、「読者はさらに“客観的記述”も求めているから、日韓併合以降の歴史背景にも触れて欲しい」という要望があったが、先の記事でも述べたように、それは双方の主張を並列表記するに過ぎないことで、私の趣向ではなく、今回のクラウス先生の意図にも合わないだろう・・・とお伝えして、お断りした。 

少なくとも、この100年ほどの国際社会における韓国政府の外交姿勢は、残念ながら明治以降、日本政府が採ってきた「富国強兵策」や、西の隣大国の「中華思想」に大きく迄Mされ、「自由主義・民主主義」という点で多少の遅れをとっていることは否定できないように思える。 

今後の未来を予測することは難しい。韓国の隣国は日本や中国だけではない。韓国が北朝鮮との関係で、いつまでもナショナリズムの大勢から脱却できなければ、次のステップへの基本的な条件は変わらないだろう。しかし、更に多くの国民が国際平和の理想を強く意識するようになれば、政府の姿勢も変わらない訳にはいかないだろう。44955db5.jpeg

詮ずるところ、全ては、一人ひとりの国民、つまり「一人の人間の心の姿勢」の問題に帰着するように思われる。

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『駐〟i独島)問題の解決に向けて』

駐〟i独島・ドクト)問題の解決をハーグの国際司法裁判所に委ねる、という日本の方針は正しいと私は思う。日本は明治の開国以来、近代化に伴う様々なことがらを、賢明に吸収しようとしてきた。韓国では、韓国のボルテールと呼ばれた革命家、徐載弼(じょさいひつ・1864-1951)が、西洋の科学・思想を取り入れるために、同志の金玉均(きんぎょくきん・1851-1894)と共に日本国の援助を求め、それに先立つ1879年、彼らは同志であった仏教僧、李東仁(りとうじん・1849年-1881年)を日本に蜜入国させて、福沢諭吉などに教えを受けさせてもいた。

かくして、日本国は1884年に起こった李氏朝鮮を打唐キるためのクーデター「甲申政変」(こうしんせいへん・朝鮮事件)を助けることになったのである。しかし、この革命は、一時にあまりに多くの変革を求めたために、中国(清朝)の援助を得た当時の韓国政府によって潰され、彼らは亡命を余儀なくされる。

1890年代の韓国と中国における改革運動の失敗によって、これら二国はハーグ(オランダ)の国際法廷の創設に貢献することはできなかった。公式なハーグ平和会議は1899年と1907年に開催された。日本、中国、ペルシャ、タイなどアジア各国からの参加も得て、国際紛争を戦争と言う手段によらずして収めようという理想を掲げたこの国際会議は、ロシア、イギリス、フランス、アメリカ、(中国でさえも)など大多数の国々の全面的な支持を得ていた。しかしながら、ごくわずかな少数派の反対によって完全に結束された力となることなく終わることになる。

1895年、徐載弼(じょさいひつ・1864-1951)は亡命を終えて帰国し、翌年の春、「独立クラブ」を設立し、4月7日には『独立』という、少なくとも1ページは英文を含む雑誌を発行した。独立クラブは、儒教思想を取り入れた改革政党で、日本も採用していた「東洋の道徳と西洋の学戟vを融合させるという考え方だった。しかしながら、徐やその支持者たちは、再び、反動的な韓国政府の不評を買うことになる。1899年初頭、独立党の政治活動は全て禁止され、続いて解散させられ、『独立』も廃刊に追い込まれる。8月になると、韓国から日本への亡命者の数が劇的に増加したと新聞報道された。近い関係にあったロシアが、韓国を1899年のハーグ国際会議に招いたにもかかわらず、結果的に、より強力な外交的努力に参加することができなかったのは悲しい話である。

1906年の夏、ロシア政府は翌年に予定されていた第2回ハーグ平和会議に再び韓国を招いた。会議では、軍備縮小や国際紛争の平和的解決に向けた国際法廷の創設など重要な事項が継続協議されることになっていた。1905年の段階で、日本はすでに韓国の外交権を摂取していたから、会議は結果的に韓国が参加することを認めなかった。しかしながら、その初め、イ・ジュン、イ・サンソル、イ・ウィジョンら3人の使節は、韓国が日本に対して抱く疑義についての各国の注意を集め、なんとか日本を守勢に置くことができたのである。今日、興味深いことは、彼らが日本政府の行動に抗議したということだけでなく、ハーグ平和会議の意義を支持するという意見を表明したということである。

1907年における韓国の指導者たちの努力が、祖国の過去の過ちを償い、国際的舞台における責任ある参加者となって、国際紛争を平和的に解決するという動機に拠っていると推察すれば、それは素晴らしいことである。今日では、はるかに多くの国々が、威嚇や武力によってではなく、国際司法裁判所の司法判断を断固として受け入れなければならない、という方向に向かって進んでいる。それはすでに100年以上前から世界の有志各国が目標としてきたものであった。駐〟i独島)を巡る紛争の解決法はこの他にはない。

               歴史平和学者: クラウス・シルヒトマン

              日本語訳:渡 辺 寛 爾

駐⊥竭閨@4

2012-09-26 21:10:00 | 政治

駐⊥竭閧フ歴史的経緯について少し触れておこうかと準備していた近頃、にわかに尖閣諸島の周辺が騒がしくなってきた。最初の記事で述べたとおり、領土問題についての私の総論的意見は、尖閣でも変わらない。しかし、各論の一部については少し異なる。それについては、また気が向いたときに書くことがあるかもしれない。

もっとも、歴史的経緯といっても、両国間で何が起こったか、つまり過去のできごとを時系列で列挙することに、私は現在のところ、大きな興味を持たない。

過去に事件はあったろう。しかし、それらの事件に意味や評価を与えるのは現在の人間である。人間の意識は時と共に変化し、国政の方針はおおむね国益と共に変化する。

だから、ある歴史的事件をどんな立場にも属することなく客観的に語ることなど、およそ不可能なことだ。それでも、そこに何らかの客観的真実性を見出そうとするなら、とりあえず、ある事件に対する当事国の(主観的)主張を並列的に列挙することから始めるしかないだろう。

そして、事件・事実に対する評価を並列表記することは、学問的手法としてはあり得ても、意見・主張の表明にはなり得ないし、私の趣味にも合わない。それを趣向とする方はWEB百科事典をご覧頂きたい。おそらくこの分野の専門家が極めて詳細に解説してくれている。

前回と前々回の、国際関係における覇権や利権に対する私の考え方は、理想的に過ぎるのではないか、という見方もあるにちがいない。たしかに、複雑怪奇に見える現実世界は理想世界よりもやっかいで、そう簡単に一筋縄では扱い切れないだろう、という議論も理解はできる。1253f920.jpeg

しかしはたして、ほんとうに国家間紛争の現実は、平凡な人間の思慮や方策が容易に及ばないほど、複雑で怪奇なものだろうか・・・私はそうは思わない。

逆に、これらの現実の本質は、遠大な理想の仕組みよりも、はるかに単純に見える。善悪で語れば、つまり、「覇権」については強者が善で弱者が悪。「利権」については利益が善で損益が悪。これだけのことではないのか・・・。

そして、カビの生えたナショナリズムに執着する人たちは、未だにこの極めて近視眼的な善悪基準から脱却できないでいる。世界の住人の意識趨勢は、とうの昔にこんなものなど飛び越えているかもしれないのに。

理想と現実に関係して・・・現在から未来に向かって進む人間の姿勢には二つの種類があると私は思う。一つは現実の延長線上に理想を描く姿勢。一つは理想に向かって現実を導く姿勢。この場合、理想を目標と置き換えても同じことだ。

たとえば、一年後の貯金額を目標としよう。現在の現実は毎日100円の貯金しかできないのだから、一年365日で総額3万6千5百円が限界であると考えてそれを実行すれば、その通りの結果になるだろう。

一方、まず一年後の目標を100万円に設定して、現在の現実で何をすべきかと考え、それなりの工夫や努力をすれば、その結果が100万円に至らなくとも、3万6千5百円よりは大きな金額が残ることになるだろう。

夢や理想は大きければ大きいほど良いのである。たとえその全てが現実にならなくとも。もっと言えば、夢や理想は、それを持つこと自体に意味があり、おそらく、それに向かって進む過程そのものの中に、労苦もあるだろうが同等以上の幸福もある・・・ということである。



駐⊥竭閨@3

2012-09-19 11:13:00 | 政治

次に日本政府は、まさに「大人の対応」を続けるべきである。あくまで冷静に対話に向けての姿勢を崩さないこと。間違っても、彼らと同じレベルで自衛隊や海上保安庁を使ってはならない。

「大人の対応」の大人とは、器量の小さい小人(しょうじん)に対して、広い教養と深い人格を体した君子と同格の「大人・だいじん」と考えてみたらどうか。

現在の韓国の政権に対話を望むのは酷だろうが政権は変転する。当面、対話が持てない、あるいは対話によっても解決できないならば、その判断をICJ(国際司法裁判所)に委ねることが、最も順当な対処方法になるだろう。この点、野田首相の先日の声明は、良識ある国際社会の一員として正しい主張だと思う。7486aaa7.jpeg

しかし、今の韓国政府が、その訴訟手続きを進める上で必要な「共同提訴」すら拒否している現状を見ると、日本政府はさらに「忍耐強く」説得を続け、それでも韓国が強硬姿勢を取り続けるならば、「単独提訴」するしかないし、それで充分、国際社会の良識の理解を得ることができるはずだ。

ただ、「共同」にしても「単独」にしても、国際法上の裁判手続きや判決の効力は、国内法のそれと大きく異なる。ICJは国連の内部機関であり、その国連自体が創設以来抱え続けている「国家主権」の問題がここでも壁になるからだ。国民の人権と異なり、国家の主権を制限する強制的手段は今のところ存在しないし、国際連合が国際連合(連邦)政府と呼ばれない理由もここにある。

「主権」という概念は幾つかの意味を含むが、めんどくさいのでここでは触れない。この文脈に従い、要を取って言えば、国民は強制力を伴った法律類に基いて国家によって統治されるが、独立国家を統治する権限は現在の国際組織には与えられていない・・・ということだ。

しかし、だからこそ、一国を代表するような方々は、自由や独立や敬愛の真髄を身に付けた人格者であって欲しいと願うし、そうである義務を国民に負っている。それが「成熟した民主国家」というものだろう。かの国やこの国が民主国家として成熟しているかどうかは、小さな疑問として残しておく。

(おそらく4につづく)



駐⊥竭閨@2

2012-09-13 22:01:00 | 政治

さて、駐⊥竭閧ノついて、私の各論的意見だが、これも結論から先に述べる。

まず、韓国政府は、駐№u実効支配」しているとする根拠、つまりは覇権《はけん》の最たる軍隊やそれに関係する施設を全て撤収すべきである。たいがいは静かに道理を語るあの「姜尚中」(カン サンジュン)でさえ、この「実効支配の継続」を根拠に韓国領であることを主張している事実に私は驚く。

儒教が浸透しているはずの彼の国の指導的立場にある方々が、いつの間に『王道は覇道《はどう》に優る』という孟子先生の教えを忘れたのだろう。王道とは仁愛に基づく治世のことで、対外的には隣国を敬愛する姿勢に立ち、対話による外交に拠るということになる。覇道とは、言うまでもなく、有無を言わさぬ力(武力)による支配姿勢のことで、対外的には、まさにこの「実効支配」がそれに当たるだろう。

この場合、「民間人も居住し交通しているではないか」などという主張に意味がないことは、実際に当地を訪れなくとも、グーグル地図ででも一瞥すればすぐ分かる。駐∮№ヘ人間が生活できるような島ではない。

軍隊による銃撃も砲撃も、国家警察による逮捕・監禁などもなければ、このそう面白いこともなさそうな岩の塊にでも、何らかの興味を持つ人々は、どちらの国の側からも好きなように近づけるようになるだろう。3c60fb2f.jpeg

特に漁師の方々はその機会も多いだろうから、たまには船を寄せ合って一緒に一杯やれば良い。まあ、三日もすればいわゆる「同舟の仲」になることは間違いない。小さな漁村に育った私は、漁師の心根をかなり良く知っている人間の一人だ。どの道、同じような人間が同じようなことをしているのだから、互いに心を開いて仲良くなるのに、言葉の違いはほとんど問題にならないだろう。

「漁師には漁業利権の問題があるではないか」・・・という意見もあるだろう。しかし、この利権は、資本主義あるいは商業主義を命脈とする企業の論理で、農業など土地に梗塞される営みとは遠く異なる、広大な海を舞台とする漁業の本来的営みを忘れた議論ではないか。

境界線を地面に引くことはできるかもしれないが、海面に引くことはできない。米の味は長期間保てても、魚の鮮度は一日で落ちるのである。江戸庶民の「宵越しの金は持たねえ」じゃないけれども、過去数千年に渡る漁師の気質は、富の蓄積からは程遠い、概して極めてサッパリしたものである。利権云々に最も左右されにくい「民間外交」は漁師の交流にあり、と言っても良いくらいだ・・・と私は思う。

ちなみに我が家は、韓国からの大学生を二度ホームステイで受け入れたことがある。彼らは漁師ではなかった。しかし、間違いなく、先に挙げた「王道」を選択し、「民間外交」の一端を担う人たちの一類であった。

(たぶん3につづく)