庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

曇り空

2011-02-27 23:27:00 | 海と風
堀江は終日曇り空、5mほどの冷た目の北風が2時間ほど。再び手袋を引っ張り出す。まあ、まだ二月を後一日残している。今年は一月の厳寒が春の訪れをいくぶん早く感じさせているような気がする。堀端に梅は咲いたが桜はまだ遠い。

 110227h-t.JPG



堀江の風波

2011-02-26 19:50:00 | 海と風
今日の堀江は昼から6m余りの北北東が入りはしたものの、なんだか落ち着きのない風。海面も同様、なんだか走りにくい。最近ちょっと開眼しつつある、「空中で柔らかく大きく身体をひねってダウンループで着水」という柔軟体操みたいな技も、いまひとつスッキリ決まらない。110226h.JPG

様々な環境と臨機応変に調和できる走り方(楽しみ方)を会得するには、やはりまだまだ修行が足りない・・・ということだろう。しかしそれでも、その過程自体を楽しむ心の準備はとうにできている。

12?㎡M君↓・・・堀江のオンショアの波の中でもここまで走れるようになった。出発点まであと一息というところ。これからはともかく回数。 
 




南西風

2011-02-25 08:09:00 | 海と風
久しぶりに程よい南西風が入った、塩屋海岸、6~7m。今日の風は海面をなでるように安定している。いつもの砂州から南側の海岸まで上り、F君と2人でなだらかで走りやすい海上を50km近く存分に楽しんだ。IMGP0368s1024pix100kb.jpg

浅瀬に注ぐ陽光は細波を透過して水中に見飽きぬ模様を創る。今日もしばらく見惚(みと)れていた。IMGP0367s1024pix100kb.jpg

 110225s-t.JPG



修理

2011-02-24 19:53:00 | 海と風
今日はのんびりカイトの修理。15㎡のバー破断に続いて、一昨日は10㎡のライン切れ。どちらも中古で仕入れたということもあって、ライン類は古い順に切れていく。すでに想定内のできごとだ。IMGP0361s1024pix100kb.jpg

ラインワークとでも言うべきか・・・暖かいお日様の下でラインの縺(もつ)れを解(ほど)いたり末端処理などをしていると、子供の頃の近所の浜辺、漁師のおじさんが鼻歌を歌いながら魚網を縫っていた姿が頭の中に去来する。何の不安もない、幸せな風景だった。

これもかなり使い込んだラインなのでどれくらいもつか分からないが、カブリナのバーから取った少し太めのラインに総換えした。残ったバーが破断したバーの代わりになるだろう。

いつもは室内犬のパームも広い砂浜を歩き回ることができて満足気だ。

 IMGP0362s1024pix100kb.jpg



吹いたら走る

2011-02-23 11:12:00 | 海と風
こないだ破損したバーやら切断したラインの修理をしておこうと堀江に出かけた。日差しは弱いが今日も暖かい。しかも北から5mほどの安定した風が入っている。これは修理より走るのを優先すべきだろう・・・と20kmほど。やがてF君もやって来た・・・というより、そもそも堀江海岸は彼の職場の広い前庭みたいなものだ。

海に復帰し、本格的にカイトサーフィンを楽しみ始めてもう4年近くになる。もともと長い空の生活で消耗した心身の回復、つまりは「健康のため」ではあったが、予想通りというか予想以上にというか、このスメ[ツは相当に身体には良いようで、ウィンドよりも利用できる風域が広いということもあるが、多くの人々がウォーキングやジョギングを日課としているように、何らかの形でカイトを振るのがほとんど私の日課になっている。そして未だに飽きる兆候はない。

昨夜TVの番組で、「人はなぜ加齢と共に時間の進みを速く感じるようになるのか?」の実験をやっていた。20代の青年と70代の老人が閉鎖された部屋で時を過ごし、24時間たったと感じた時点で部屋から出て実際の経過時間と比較する・・・という趣獅セ。その結果、老人は青年より5時間ほど遅く部屋を出てきた。つまり、一日を5時間短く感じたということになる。

半ばお笑いのその番組は、出演タレントがその理由を色々と推測したあと、その道の権威みたいな学者が「子供の一日が長いのは、経験することが新鮮で感動することだらけで、年齢が進行し同じことを繰り返すうちに新鮮味が失われるから、結果、感動総量少なくなり一日を短く感じるようになる」・・・といったような意味のことを言って結論としていた。

感動の総量は経験の総量でもあると考えれば、この説には説得力がある。ここで更に思い出すのは、もう御年70を越える加山雄三が、幸せに生きる指針に「三感王」として・・・「感動・感(関)心・感謝」を挙げているということだ。さすがに、海も山も宇宙も大好きで、歌や楽器や絵画・・・実に多くの分野に感動や関心の輪を広げている彼らしいモットーだと思う。最後に「感謝」を入れているのも実に良い^^。

 110223h.JPG




水の感触

2011-02-22 10:58:00 | 海と風
午前中、デスクワークに精出しながら、風の様子をチラチラ見ていたら、ちょうど昼ごろからドンと北風が入ってきた様子。いつものごとくイソイソと堀江に出かけた。既に沖合いではF君が快走している。私も12㎡で出てみたが風は軽く、沖合いからの白波もく柔らかい面持ちで寄せている。すぐに19㎡に切り替えて、合計40kmほどは走った。

海の表情も風や潮や空模様で千変万化するが、これからの数ヶ月は私が最も好む色合いを見せる。気温や水温が身体に優しくなるのも嬉しい。今日は久しぶりにめんどくさい手袋を必要としなかった。カイトコントロールの大半は片手で済むから、思い切りリーンアウト(風上側に身体を傾けること)しながら、余った片手でキラキラ光る海面を撫(な)でる。

ウィンドの時もそうだった。海の「風読みスメ[ツ」の有り難いことは、気体(風)だけでなく液体(水)の恩恵にも浴することができるということだろう。手の平で飽きることなく水を弾(はじ)いていると、飛散する泡沫と共に、なんだか海という大生命体の持つエネルギーみたいなものが、身体の中に流れ込んでくるような気持ちさえする。

 110221h.JPG








初春の風

2011-02-21 11:36:00 | 海と風
今日の堀江もよく吹いた。まともな北東順風が時に10mほど。初春の風らしくウキウキ、ソワソワと軽く踊っているような感触だ。そうは使うことのない10㎡と、順風(私にとっては8m程度)で活躍する12㎡で40kmほど走った。110222h.JPG

途中気分転換にと、ディレクショナルを引っ張り出してジャイブの練習も少し。当然ながら、いつものツインチップとは扱いがまったく異なる。これはこれで、それなりに時間かけて練習しないとどうにもならない。

 110221h-a.JPG






北風順風

2011-02-18 21:36:00 | 海と風
今日は良く吹いた。完全にオンショアだが比較的安定した北風で50kmほど走った。はるか沖で淡々とディレクショナル・スタイルを楽しんでいるF君はもっと走っている。M君も久々に風に吹かれて幾らかはリフレッシュしただろう。今週は仕事の徹夜続きで大変だったにちがいない、彼には珍しく2時間ほどで切り上げた。懸命な判断だと思う。IMGP0358s1024pix100kb.jpg

陸・海・空を問わず、道具を使って行う全ての活動において、自己管理(人)は機材(道具)や環境と並び、安全管理の要素の中でも最も大切なものだ。しかし、自分の身体や心はあまりに身近で見えにくいという面もあり、ややもすると無理を強いてしまうことがある。

「人」と「機材」と「環境」・・・空の世界で私はこれを「飛行のための三要素」と呼んで教習活動や自分の飛行形態を決める際には必ずチェックすることにしていた。そもそも、この三つの要素の一つでも欠ければどんなフライトも成立しない。飛行機材や飛行環境はもちろんのこと、優れたインストラクターは教習生のその日のコンディションをかなり正確に見抜く目を持っている。

余談だが、「パイロット一年目の危機」というのがある。団体によって多少の違いはあるが、スカイスメ[ツの教習課程は幾つかの段階を踏みながら技能の向上を図ることになっていて、イントラの指導や誘導を必要としない「一人前」の飛行家=パイロットになるには早い人でも1年近くかかる。飛行経歴に加えて実技や学科試験もあるから、初心者にとって「パイロット」という資格は、最大の目標であり憧れでもある。

ところが、教習中は事故と無縁の初心者パイロットが、たいがいは一年以内に相当な割合で大小の事故を起こすという事実があった。それは教習活動の宿命とも負の側面ともいうべきもので、痛い目にあった初心者パイロットの多くはそのとき初めて、何かと不自由な教習中は、経験豊かなイントラのきめ細かい観察や胃の痛くなるような指導を存分に享受していたのだ・・・ということに気が付く。

もう一度言うが、これはこの種の教習活動の宿命とも負の側面とも言うべきものだ。逆に言うと教習活動がなければこういうことは起こらない。私の知る限りでは、優れたインストラクターの多くは自ら試行錯誤を重ねながらその草創期を生き延びてきている。つまり、誰かの教習を受けて自己の技能を築き上げたのではない。興味深い逆説ではないだろうか。

 110218h-l.JPG



文明的

2011-02-17 22:00:00 | 政治
日本でも有数の保守王国と言われるこの愛媛県に、どうしてこれほどリベラルな匂いのする愛媛新聞が普及しているのか、不思議な気もする。我が家の皆も、ずいぶん長い年月この新聞を眺めているが、中でも随論に類するコーナーには、加藤周一や山折哲夫や養老猛・・・など、時に驚くほど意外な人物が登場して、私を大いに喜ばせる。110217e-gennrons1024pix200kb.jpg

今回は入江昭先生だ。少しでも国際問題に興味を持つ者で彼の名前を知らない人はいないだろう。私もリベラルな国際学者として名前くらいは覚えていたが、未だに彼の著作をまともに読んだことはない。しかし、今日の「論壇」の2000字ほどの小論を読んでいると、その見識の広さと深さは充分に推して知ることができ、読後感を圧縮すると、「やはりそうか^^!」という感慨の一言だ。

彼は冒頭、バートランド・ラッセルの文明観を提示しながら「国家」の非文明性を論じ、間に少し国連など国際機関の使命を挟んでから、今後の国際社会における文化的文明論に触れ、「太平洋文明」に期待を寄せて論を閉じている。

私がこの小論に共鳴する理由の一つは、たまたま現在、私もラッセルの著作の幾つかを再読・熟読している最中であるということもある。そして、文明史と呼ばれることの多い人類の歴史が、小さく閉じた世界から、より広大で開かれた世界に向かって着実に進行していることも、否定しようのない事実だからである。

ちなみにラッセルは、

 "Do not fear to be eccentric in opinion, for every opinion now accepted was once eccentric.”

「風変わりな意見を持つことを恐れるな。現在受け入れられている意見の全ては、かつて風変わりだったのだから」・・とか

"Men are born ignorant, not stupid. They are made stupid by education.”

「人は無知に生まれるが、愚かに生まれるわけではない。人を愚かにするのは教育である」

とか言ったりする人物である。(全て寛太郎の拙訳)




有難迷惑(2)

2011-02-17 11:10:00 | 海と風
「有難迷惑」とからめて、「シーマン・シップ」について少し考えてみる。 

地上には彼の国で古くから「ジェントルマン・シップ」があり、時代の変遷に従って多少とも意味合いが変化しながら、近代以降は概(おおむ)ね「品格があって礼儀正しく、相手の立場を尊重する」ことを規範とする。

空には「エアマン・シップ」があり、航空の歴史が始まってからできた言葉だからそう古いものではない。「ジェントルマン・・・」よりずっと「自由」の薫りが強く、20世紀初頭生まれの動力飛行機が第一次世界大戦で戦争の具(愚)になった頃に生まれ、1920年代のバーンストーミングの時代にかけて熟成されたものだろう。

バーンストーミングといえば、たちまち連想するのが複葉機だ。ヨーロッパ戦線に投入するために米国で量産された複葉機の一種が大量に民間に払い下げられ、大空のロマンと自由を求める多くの人たちの夢を現実のものにした。「翼よあれがパリの灯だ!」で有名なチャールズ・リンドバーグなどもその一人だ。彼はやがて大西洋の単独横断飛行に成功して世界的英雄になった。後に婦人と共に太平洋の北方西回り航路を開拓しながら日本にも滞在している。 

アメリカという大陸はまだ広大な自由の許容量を有している。毎年春に行われるフロリダの航空ショーの会場の一角では、中には自宅の庭から飛んで来たウルトラライトの数々や、真っ赤に輝く複葉機の翼にハンモックを引っ鰍ッて昼寝している青年を見かけたりして、私は嬉しかった。だんだん狭苦しくなるばかりの世界の一角で、あの夢のような時代の自由の気風に出会ったような気がしたからだ。この辺りの話を始めるとまた脱線して長くなるのでまたの機会にしよう。 

さて、「シーマン・シップ」なんて言葉はもう死語になったのだろうか・・・近頃、目にすることは滅多にない。昔もそうたびたび耳にした訳ではないが、私がウィンドサーフィンに熱中していた頃は、海で風読みをする人々も当然心得ている常識のようなものだったと思う。その意味合いは、やはり「ジェントルマン・シップ」を踏襲してはいるが、「相手の立場を尊重する」から「弱い人や困っている人を助ける」、つまりは「思いやり」の精神に多少シフトしたものと理解している。 

言葉の生死はともかく、その精神は、同じ海で生きる各種の「船乗り」や「漁師」や、時にはプレジャーボートなどを楽しむ人たちの中にも今なお厳然と生きていて、私も何度かその「思いやり」の現場に両方の立場で遭遇している。この数年では、カイトサーフィンに関係して、通りがかった漁師の方が声をかけてくれたり、近くの水上バイクには3回ほど乗せてもらったり岸まで引っ張ってもらったことがある。前にも書いたように、私にとっては必要性のない助けではあるが、こういう種類のシーマン・シップの発露は、ただ「有り難いこと」で、その行為や好意を無にするのは返って礼に失するだろう。 

その純粋な親切に喜んで応える私の行為を、何を思ったか「(あなたのしたことを)どう思うか?」などと詰問する人間もいた。その後、「みんな心配している・・・」などと、まことに底の浅い理由付けをしようとした。これなどはとりあえず不愉快で迷惑な話だが、これから彼(彼ら)も、もう少し広い世界を知り自然の妙を知るに至れば、自己の未熟さ加減に気が付く時が来るだろう。人間は誰しも、「間違いを繰り返しながら成長する動物」である。