先ほど、ミャンマーで国民防衛軍に参加している何人かの青年(元大学生など)についての情報番組をやっていた。彼らが求めているのは「自由と民主」という日本では当たり前になっている(はずの)価値だ。
先週の日曜日、本年2月から日本で働いている、彼の国の青年二人とお話した。日本は今のところ平和である。平和に生きることができる国民として、私たちにも、彼らのために成すべきことがある。できることはやっていきたい。そのためには、まず事実を知り、想像力を働かせることである。
先ほど、ミャンマーで国民防衛軍に参加している何人かの青年(元大学生など)についての情報番組をやっていた。彼らが求めているのは「自由と民主」という日本では当たり前になっている(はずの)価値だ。
先週の日曜日、本年2月から日本で働いている、彼の国の青年二人とお話した。日本は今のところ平和である。平和に生きることができる国民として、私たちにも、彼らのために成すべきことがある。できることはやっていきたい。そのためには、まず事実を知り、想像力を働かせることである。
一般論として、動物を愛せない人は、真に人を愛することはできない・・・かもしれない。 なぜなら本来、人の中に動物が具わり、動物の中に人が具わるからである。
ネコは鳴き声だけではなく、多くの場合、尻尾(しっぽ)を使って思いを表す。
以下、いくらか堅めの文章を、試しにAIに頼んで柔らかくしてもらった。ChatGPT・・・なかなかやるなぁ・・・。
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私たち人間以外に、多様な道具を作り使うことができる生物は存在しません。この特異性が歴史的にいつから始まったのかについては諸説ありますが、一般的にはおおよそ200万年前の時期が考えられています。しかし、それ以降、特に西洋近代以降の産業革命(18世紀半ばから19世紀半ば)によって、道具の増加が急激に加速し始めたことは確かです。
さて、今回私が言いたいのは、現代人である私たちが、貨幣を含む数多くの道具に囲まれて生活している中で陥りやすい誤りについてです。つまり、幸福を追求する手段となるはずの道具が、愚かにも不幸を招く要因となり得るということに対する反省や警鐘です。
このような例は数え切れないほど存在します。私が長年親しんできた「風読みスポーツ(運動)」であるカイト・サーフィンを例に挙げましょう。カイト・サーフィンだけでなく、道具を使用するあらゆる運動においても言えることですが、これは誰もが基本的な常識として心に留めておくべき事柄だと思います。
当たり前といえば当たり前の事実・・・要するに、道具を使う運動は、人間、環境、道具の3つの要素から成り立っているということで、それらは緊密に関連しながら、様々な運動形態を生み出しています。しかし、そこには明らかな序列が存在し、その順序を乱すと良い結果は得られません。結果的に、不幸な事態が生まれる可能性があるのです。
続きはまた後ほど...。
天気晴朗。梅雨明けを思わせる南西からのフレッシュブリーズ。海面はフラットに近い。それなりにスピード出しても問題なし。最高速は45km/hほど。気分良し。
ナッシュのフォイルがだいぶ馴染んできた。空中翼の動きと水中翼の連動・調和が、気分と体調によってもかなり違うことが良く分かる。滑らかなジャイブにはまだ時間がかかる。まぁ、タックもジャイブも、今の私のカイト・スタイルだと必要ないことではある。
そうそう、何年かぶりにトビウオと並走してワクワクした。50mほどの滑空・・・見事なものだ。今回もちゃんと風上に向かってテイクオフした。私より少し速かったから対地速度30km/hくらいだろうか。アップウィンドで45度は取れるフォイリングならではの楽しみの一つだ。
おもしろいことに、滑空・動力含めた私の空の経験では、たいがいの鳥の通常の滑空速度は秒速10m程度だった。サーマル(熱上昇風)を拾って高度を上げるときなどは、彼らはすぐ近くに寄ってきて、時にはこっちが寄って行って、横目でチラチラ見合ながら一緒にソアリングを楽しんだものだ。もっとも、まれに獲物を見つけて急降下する時などは、彼らは伸縮自在の翼をたたんで翼面加重を上げ、自由落下に近い速度を出すこともできる。
やっぱり、自然の生物は皆、生来それなりの驚くべき能力を持っているということだ。大聖人曰く「鳥は飛ぶ徳、人に優れたり・・・」。
堀江の沖で、ずいぶん久しぶりにスナメリに会った。ゆったり泳ぐ姿を楽しみながら、写真に残そうと思ったが、そう簡単には撮らせてくれない。
脚漕ぎSUPは巡航5~6km/h。頑張れば7km/hくらいはいくだろう。しかし、とりあえずそんな必要はない。海上サイクリング2時間余り・・・充分な運動になった。
今はおよそ鈍感な私の、たぶん異常に多感な高校時代、或るノートの表に「想念録」とい名前を付けた。ある時どこからともなく突然やって来て走り去る、閃光のような想いや情感の一端を書き留めるために。
二十歳を超え、あれこれと忙しくするようになり、やがて食い扶持を得て社会人となり妻子を養うという、それなりに楽しく平凡な生活に馴染むにつれて、天空からの啓示のような感動の波は、徐々に来訪の回数を減らし、あの「想念録」もどこかへ行ってしまった。
ところが、最近また、私の身の内に似たような出来事が起こり始めたようだ。こういうの精神的若返り、あるいは幼児返り現象いうんかなぁ・・・。
そこでこのブログにも「日々雑観」なるカテゴリーを追加して、或る日或る時、雷光の如く去来する、私にとっては、どうも本当のことらしい思い付きの数々を記しておく次第。