庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

時計草の生命力

2007-05-21 11:44:58 | 自然
時計草は予想通り、いや予想を超えて大変な勢いで成長している。

こないだまで枯葉だけで閑散としていた風呂場裏の茂みにも、いつの間にかしっかり緑を茂らせていくつもの花を咲かせた。



短い開花を終えて種を落とすと、気が向いた場所で芽を出しどんどん伸びて行く。あまりの生命力にいくらか恐れを抱いた家人は、除草感覚でかなりの数を引き抜いている模様。



嬉しいことに、今日はミツバチが来ていた。ミツバチについては最近、アメリカや九州での大量失踪のニュースを大いに気にしていたところだから、私の嬉しさもひとしおなのである。時計草のハチミツでコーヒーが飲めたら最高なのだが・・・。



リンドバーグ

2007-05-16 11:25:19 | 大空
今日のVOAはC・リンドバーグをテーマにしていた。彼についてはここでも何回か書いた。今月21日は、80年前の太平洋横断単独飛行の記念日なのだ。C・リンドバーグは1902年生まれ、私にとってはお爺さんの世代になる。

1920年台、あのバーンストーミングの時代に空を飛び始めた彼がたどった人生の経路を私なりに眺めていると、文明や科学、国家や戦争などという仰山(ぎょうさん)なことごとだけでなく、一人の人間の一つの人生を巡る有為転変(ういてんぺん)や毀誉褒貶(きよほうへん)の模様などの諸々について、深く感じ考えさせられることが多い。

「無為に長生きするより短くてもエキサイティングな人生にしたい。だから空を飛ぶ。それによって早めに死を迎えることがあっても後悔はない」・・・現在も空の世界で命を落とす人は少なくないが、彼の時代はまだ大空の草創期で事故は日常的とも言える頃だった。

しかし、ほとんど数え切れないくらいの死線をこえて、彼は72歳の生涯をハワイのマウイ島で全うする。その後半生で繰り返し語ったのが大自然の素晴らしさについてであり、晩年情熱を注いだのが自然保護活動だった。

リンドバーグの墓(マウイ島・キパフル)
墓碑銘には「朝の翼を身に付けて、海の遥かに住めるなら...」とある。
If I take the wings of the morning, and dwell in the uttermost parts of the sea...



ミツバチ

2007-05-11 20:03:40 | 自然
アメリカの各地で、ミツバチが大量に巣箱に帰ってこなくなったというニュースは1ヶ月ほど前に聞いていた。これが穀物や野菜の受粉に致命的な打撃を与え、遅かれ早かれ、小麦やトウモロコシなどの食料を彼の国からの輸入に頼っている日本の市場にも影響を及ぼすだろうことも予想している。

ところが、今夕のニュースによると、日本(九州の養蜂家)でも同様の現象が起こっているらしい。そのうち当然、日本の穀物生産にも大きな影響が出てくるだろう。今年に入って糖分摂取の大半を蜂蜜に切り替えた私にとっては、これはもっと直接的な、相当に由々しき事態だ。

原因は地球温暖化など異常気象の現れだろうとか、携帯電話の電磁波の影響だろうとか、ある種の病原菌の仕業だろうとか・・・幾つか上げられてはいるが今のところ専門家にも全く分からないらしい。もちろん私にも分からない。

ただほとんど確実に言えることは、人間中心の世界観をにベースにした18世紀以降の産業革命や科学技術の加速度的な発展や節度のない経済活動の拡大によって、その中に人間世界を抱擁し続けている自然世界が、もう既に瀕死の状態に置かれてしまっているということだ。ことの異常はミツバチだけではない。人間によって無為に殺され、既に絶滅し、今まさに絶滅に瀕している生物種の数がいかに膨大なものかは、ちょっと調べただけで気分が悪くなるほどだ。母なる自然(mother nature)はもう何百年も、簡単には聞こえぬ声で絶えずその悲しみを訴えている。

「現代の地球において、最も弱きもの、それは物言えぬ自然であり、森や森の中の動物たちであろう。いまこそ支配され、搾取されてきた弱者の側から見た世界史が書かれ、歴史の闇の彼方に葬り去られた真実が暴かれなければならない」P7

「現代人が幸福を求める続ける限り、破滅を回避できないとするならば、そしてその破滅を回避する新たな技術がいまだ見えないとするならば、幸福の価値観・欲望の価値観を変えることによって破滅を回避するしかない。それは近代文明とは全く異なった幸福の価値観、欲望の体系を持つ、新たな文明の潮流を創造することではないだろうか。それは新たな幸福の森を見つける作業でもある。森の時間に支配されることに喜びを見つけることなのである。森の動物達と共生することに喜びを見出すことなのである。このような新たな文明の潮流を創造する可能性が、日本の伝統的な森の文明の中には温存されているのである。私たちは、日本の縄文時代移行の文化の伝統の中に残された、森の文明の価値を再認識する必要があるのだ、共生と循環、そして平等主義に立脚した新しい文明を作り出し、更なる潮流にしていくことが必要なのだ。それが、人類を破滅の縁から救い出すことができる可能性の一つであるような気がする」P205


『森と文明の物語―環境考古学は語る』を書いた安田喜憲の叫びだ。

板のリペア

2007-05-10 20:15:00 | 自然
その内やろうと思っていた、ショートボードのリペア・・・およその段取りができたので夕方時間見つけて取り鰍ゥった。ウィンドサーフィンの世界ではボードのことを板(いた)とも呼び、ロングボードは長い板、ショートボードは短い板となる。長い短いの分岐点はおよそ3m。

このセッションの285cmは、もう17年間も軒下で雨ざらしになっていた二昔前のスラロームボードだが、この板には遠い昔の海と風の思い出がぎっしり詰まっている。数ヶ月前に引っ張り出して泥を落し点検してみたら、フットストラップなどもまだ生きていて充分使えることが分かった。ただ、テールのレール部分とフィンボックスの周囲にガタが来たままにしてあったので、今回少し手を入れて復活させることにしたものだ。

修理の手順は、まずグラインダーで割れた部分を削り落とし、荒めのサンディングをざっと施す。ガラスクロスを小から大まで3枚用意して下から上に三層で積層する。後は硬化プラスチックを空気が入らないように刷毛(はけ)で丁寧に塗りこむだけの作業だ。随分久しぶりにガラス繊維を使ったのだが、思ったよりうまくいった。

日が暮れる前にサイドレールにも同様の処理をして、一晩置き、明日はタルク粉とパラフィン入りのパテで上塗りをして更に一日置き、サンディングとペイントスプレーで完了予定。





スプレー塗料で仕上げの段階。ベースカラーとかなり違うが仕方があるまい。




一応完了した。フィンを付けてガタを確認してみたら、ボックスとフォームとの剥離は重症ではなかったようで強度はとりあえず充分だ。いくぶん気の抜けた色合いになったので、サイドレールの塗装の際にまた考えることにする。


精読の愉悦

2007-05-09 09:57:14 | 拾い読み
こういう文章に触れると、そのうち堀口大學を精読しないわけにはいかない。堀口が最終的に行き着いたのが、やはりと言うべきか、あの良寛だった。フランス文学から始まり、老荘の良寛に至る・・・この辺りの連環は興味が尽きない。

精読の愉悦

「末ヘ不朽の業」とまでは言わないまでも、末キる作品の価値というものを末メは考えるのではないだろうか。単なる読み捨て、単なる際物(きわもの)を訳すのでなければ、漠然とであれ、ある長さの時間尺度を想定する。不朽にいたらずとも、その長さの時間において作品が持続することを信じる。

つまり、重要な作品というものがあって、その末ヘやはり重要な作品になっているのでなければならない。前章でアップダイク末フ批判をしたのも、アップダイクは重要な作家であると筆者が考えるからである。既訳『ユリシーズ』末癆サし、『ユリシーズ』末ゥ分で継続しているのも、これが重要な作品であると考えるからだ。

末メはまた、「冥加至至極難有仕合」(みょうがしごくありがたきしあわせ)とまで言わないにせよ、末メ冥利ということは口にする。末フ対象と本気で向きあうのでなければ、この言葉は出ないし、実感は湧くまい。この場合、相手が難解な哲学書であれ、いわゆるエンタテインメントであれ、おそらく同じことだろうと推測する。気が進まずに訳すのではなく、気が進むから訳す、だから本気になり、本気になることが楽しくなり、訳者冥利を味わう。そうでないなら餅の皮でもしゃぶっている方がましだ。何なら茗荷(みょうが)を一切れしゃぶって冥加冥加と唱える方がよっぽどいい。

気が進むから末キる、楽しいから末キる、その贅沢をとことん実践したのが堀口大学だった。補巻を含めて全部で十一巻になる『堀口大學全集』(小沢書店)を開くと、どのページにも詩が、文学が、そして末ェ、息づいている。

「原書は末メにとっては、ただ一面の陥穽(かんせい)以外の何ものでもない。彼はその中を抜き足差し足、しかも隅から隅まで歩き廻らなければならないのだ」

とも書いているが、「よっぽど末ェ好きなのだ」と自身の末Dきを楽しげに語り、「一種の病癖」と楽しげに記している。

二十代にフランス詩を乱読して、「好きで好きでたまらないような詩に時おりぶつかった。」そして・・・「繰り返し、繰り返しその詩を読んでいると、その詩に対する欲情が僕の内部に湧いてくる。美女に対する男性の欲情、あれと代わりのない気持ち、つまり自分のものにしたいというあの欲情だ。詩をわが物にするには、原作にフランス語の着物を脱がせ、一度裸にした上で、これの僕の言葉の着物を着せる以外の手はないと気付いた。つまり僕の訳詩は、恋焦がれる美人の柔肌に触れると同じ気持ちでなし続けられたというわけだ。ただ詩を訳すこと、それ自身が目標だった。愉悦だった。人に示したり、雑誌に発表したりは二の次、いわば副産物的な意義しか持っていなかった。(略)僕はこの愉悦を十年間続けた。『月下の一群』におさめられていつ三百四十編はこうしてできた訳詩なのだ。(略)詩を書くこと、末キることが僕の一生の仕事になったが、しに僕がささげる時間は一年に五日ぐらいのもの、末ノは残りの三百六十日の全部を費やしている。この比例は四十五年以来続いてきた。」

六十四歳の時の文章である。若々しいこの「欲情」、この「愉悦」を、この人は八十九歳で没するまで呼吸した。

=@柳瀬尚紀 『末ヘいかにすべきか』

ソローと植木

2007-05-07 12:32:54 | 政治
Heaven is under our feet as well as over our heads.
-Henry David Thoreau
 
天国は我々の頭上にもあり足下にもある。
- H・D・ソロー




今日5月6日(アメリカ)はH・D・ソローの命日である。後にガンジーやキングやトルストイにまで強い影響を与えたこの稀有な人物は、1817年の夏に生まれ1862年の春、わずか46歳の若さで亡くなっている。今日彼の地では自然と自由を愛する幾人もの人々が彼の生涯や思想に深い想いを致していることだろう。好きな一文をもう一つ。

However mean your life is, meet it and live it: do not shun it and call it hard names. Cultivate poverty like a garden herb, like sage. Do not trouble yourself much to get new things, whether clothes or friends. Things do not change, we change. Sell your clothes and keep your thoughts.
-Henry David Thoreau  

自分の生活がどんなにみすぼらしくても、忌避せず、過酷なものと思わず、それに立ち向かい、生き切ろう。セージなどのガーデン・ハーブを育てるように、清貧の土壌を耕そう。衣類であれ友人であれ、新しいものを得るために、あんまり自分を悩まさないようにしよう。周囲のものごとは変わらない。変わるのは自分自身だ。着飾りを売り払い、自らの思想を養おう。
- H・D・ソロー


若くして世を去ったという点では、憲法学者の鈴木安蔵が発掘した高知の自由民権論者、植木枝盛は若干35歳だ。鈴木の尽力で彼の私擬憲法案の存在が注目されることになり、明治の市井の先人が既にいかに先駆的な国家観と人権思想を自らのものにしていたかが明らかになった。

植木の『東洋大日本国国憲按』は、戦後、憲法研究会の民間草案に受け継がれ、それをGHQの法学博士ラウエルなどが極めてリベラルなものと評価し、民生局長ホイットニーに確認され、最終的にGHQ草案となって政府・松本委員会の旧態依然の草案を一蹴することになる。

植木の「国憲按」は全18篇220条に及ぶものであるが、第4編の人権条項では、思想・信教の自由はもちろん、死刑の禁止から革命権の保障までうたう先進的なもので、ある意味現在の憲法を超えたものであった。これを読むと、日本に於いてまさに「自由は土佐の山間より」生まれ出でていたことがよく分かる。

いまだに「押し付け憲法論」をたのみに憲法改正を主張する人たちが多いが、憲法の成立史を少しでも知れば、その主張に根がないことは容易に明らかになるだろう。もっとも、権力好きな人たちへ「押し付ける」ことこそが立憲主義の本質なのだから、彼らに押し付けている国民が、押し付けられていると感じる義理などそもそも全くないことである。いいかげん道理に合わない夢からは覚めたほうがよろしい。

国民の間から生まれ育とうとした自由・人権への息吹を、異常とも言える情熱を持って叩き潰してきたのが明治以来の政府であったし、敗戦後の政府も子供だましのような「松本案」しか作れなかったのだ。故あるかな・・・である。

「過去の原因を知ろうと欲するなら、その現在の結果を見よ。 未来の結果を知ろう欲するなら、その現在の原因を見よ」とはある仏典の至言だ。過去も現在も未来も厳然と連続している。現在をよく知り、良き未来を創るためには、歴史の一層深いところに埋まっている事実を、もっとしっかりと見取っていく必要があるだろう。

キャンプ

2007-05-06 21:41:33 | 自然
ずいぶん久方ぶりに3日間ほどキャンプしてきた。高知県・四万十市にある素晴らしく整備されたキャンプ場で、これが全くの無料。すぐ傍らには日本最後の清流と呼ばれて久しい四万十川が流れている。

スローライフを標榜する私としては幾分忙し過ぎるキャンプではあったのだが、それでもいつもの日常を離れて、少し離れた位置から常の生き方を遠望する良い機会にはなる。テントをクローバーの花の一群の中に展開したおかげで、ちょっと夢のような香りの中で寝ることが出来た。

しかし、レッツノートを手放して、近年にないパソコン無しのキャンプは若干手持ち無沙汰(ぶさた)であった。私にとってパソコンはすでに茶碗や箸と似て毎日の生活に不可欠のものになっているらしい。そりゃそうだ・・・今や読書の半分をこなし、様々な情報を集め、つまらない考えをまとめて乱書しながら、ある意味人間的とも言える“知的生活”の多くをこれに拠っているのだから・・・。

ところで、もうだいぶ以前、ニオイが出てくるパソコンが開発されたというニュースがあったが、あれはその後どうなったのだろう。何かのデータに、人間の感覚器官が捉える情報のうち80%か90%は視覚が占める、というのがある。しかし、聴覚、臭覚、味覚、触覚・・・それぞれ性質が違うのだから、質的に異なるものを量的に比較しても意味をなさないだろう。

ヘレンケラーは視覚・聴覚を失ったが、天候の変化や人間の品性まで敏感に嗅ぎ分け感じ分けたという。私も目に見えない風を読むときなどは全ての感覚を使う。特に臭覚は生命の非常に深いところにある記憶領域と密接な関係を持っているように感じることが度々(たびたび)ある。

誰が教えるということもなかったのに、幼い頃の息子は食事の前に必ず食べ物の匂いを嗅いで、それが自分の体に適したものかどうかを正確に判断していた。ある仏典には“におい”で意思疎通する遠い世界の話があったような気がする。

パソコンからの情報に関して言えば、現在のところ視覚と聴覚だけの世界だ。ものごとの、特に生命世界の生(なま)の情報に直接触れるためには、まだまだ限られた能力しか持たない一つの道具なのであろう。



ボブ・ディラン

2007-05-02 11:30:00 | 大空
今朝は久しぶりにボブ・ディランを聞いた。ついでにジョン・バエズも。ありがたいことに、フリーソフトを使ってYouTubeのサイトから貴重な映像資料を手に入れることができるようになった。今朝のは1960年代にアメリカのTV局で放送されたボブのデビュー当時に近いもので、彼らはもちろん20代の若さだ。

このブログの表題は特に『風に吹かれて』に習った訳ではなく、私の生き方の基本姿勢が風まかせであるからというに過ぎないのだが、ボブやバエズが世界のャbプス界を大いに湧かせたのが60年代のあの時代、私の少し先輩のおそらく大半は、その青春の息吹の何がしかを反体制の空気に晒(さら)していたに違いない。

私が中学時代、まだ新任に近い英語のN先生もどうやらその一人だったらしく、授業中にギターを持ち込み“Blowin' in the wind" の歌詞プリントを回されて皆で歌ったのを覚えている。“How many roads must a man walk down, before you call him a man...” N先生はこれに「一人前の男になるには何度も試行錯誤の道を歩むことが必要なのだ・・」みたいな解釈を付けたように思うが、後にノーベル平和賞の候補に挙がるほど卓越した詩人であったボブが、この歌詞に公民権運動のメッセージを込めていたことを私はずっと後に知ることになる。

ちなみに、N先生は初めて私を殴ってくれた人物でもあり、数年前に県の人事異動で校長先生になっていた。彼もまだ人生の試行錯誤の途上なのかもしれない。

誤謬

2007-05-02 00:33:00 | 創作
人が陥る誤謬(まちがい)の多くは、部分観を全体観とすることによる。誤謬に基づいて生きようとすると、当然、ことの実態と自己の観念に食い違いが生じて、内外の調和が取りづらくなり不幸を感じることが多くなる。部分は部分として認識しなければならない。
♀ー太郎


みかんの薫り

2007-05-01 23:11:00 | 自然
みかんの薫りといっても、実ではなく花である。4~5日前から近在のみかん畑で開花が始まったらしく、今夜もその辺り中、私の部屋の中まで甘い匂いが満ちあふれている。

何年か前に生産量日本一の座を和歌山に奪われたが、それでも愛媛がみかんの大産地であることに変わりはなく、うちの近くでもちょっと小高い丘の大概はみかん畑になっている。20数年前に松山に移住して来て良かったことの一つは、この季節から梅雨入りの頃まで、毎年欠かさずこの香りの氾濫を一定期間楽しめることである。

昔、田舎の裏山の何反(たん)かで栽狽オていたこともあって、子供のころからみかんだけでなく八朔(はっさく)や橙(だいだい)などの柑橘類は実に良く食べた。今日のように簡単に入手できる果物の種類が多くなかったということもある。食べ過ぎて手を黄色くしている子供たちも結構いたが、これのビタミン類が効いたにちがいない、厄介な風邪で苦しむということも比較的少なかったのではないかと思う。

ただ食べるのでは面白くないから、バラバラに崩して積み上げた房の山に、ジャンケンで勝った者が糸を通した針を投げつけて釣り上げそのまま口に運ぶ、という今時の母親たちが見ると卒唐キるような食べ方で遊んでいたこともある。まだ青かったり腐ったりしたものは合戦の格好の飛礫(つぶて)にもなった。まだ温室栽狽ネどというものが一般的ではない時代だから、みな正月を挟んだ寒い季節のことである。

ところで、極めて甘党の私は砂糖の取りすぎを恐れて、数ヶ月前から甘味の素を全て蜂蜜に切り替えてみた。朝のパン食にも蜂蜜、コーヒーにもジュースにも蜂蜜、調理の一部にも蜂蜜・・・そうすると胃腸の具合だけでなく体調がなんだかすこぶる良いような気がする。蜂蜜にも花の種類によってさまざまな風味がある。今のところレンゲが圧涛Iに多いが、そのうちみかんの花の蜂蜜を試してみようと考えている。