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庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

張先生

2019-09-26 17:25:00 | 追憶

記憶は連鎖する。「愚かな教え役」辺りの記憶もどんどん蘇ってくるが、もちろんそのままでは愉快な話にならない。これに続いて「愚かな学び役」についても書く必要があるだろう。教育や教習は両者の関係性の中でのみ成立するのだから。

過去の事実の評価、つまり「どう思い出すか」は、どんな人にとっても、現在のその人の「境涯(人格の高低浅深)」によって変化するが、この種の事実は、生命のかなり深い部分に残っているので、また必要なときはいつでも思い出すことができるだろう。

話が跳ぶので、これを読んでいる方には申し訳ない気がするが、だから、私はあまり過去にはこだわらず、未来についてもそう案じることもなく、現在を精一杯生きることに集中したいと日頃思っている。ところが、なかなかそう簡単にはいかない。これなどを習得するには、それなりの「修行」が必要なんだ。



まあ、今回はちょっと前回の不愉快な話は横に置いといて、台湾でお世話になり、後に我が家にも来て日本語をほぼマスターした張さん関係の、それなりに楽しい話をする。

この方も、私の分類では相当に面白い人間だ。私と同年で、あの後まもなく学制改革により大学になった、当時は日本の「高専」に相当する5年制の学校の教師をしていた。専門は国語と歴史。趣味は山飛びパラのほか登山やハイキングで、休日はたいがい、日本よりは多く自然が残っていそうな亜熱帯のあの山々の中に入って、樹々や花々や野生の動物たち等との交流を喜びとする、まあ典型的ともいえるナチュラリストだった。

この大会の間も、他の選手たちがサーマル待ちやら何やらしている中で、彼一人、側(そば)の森の適当な木の間にさっさとハンモックを吊り、蚊取り線香を何個も並べてユッタリと昼寝をしていた。それを見ながら、「ああ^^やっぱり私と同じような種類の人だな・・・」と思った。彼にとっても、小さな世界での他の人間との競争など、どうでも良いことだったということだ。

言うまでもなく、台湾という国は日本とは非常に縁の深い国の一つである。興味がある方は地勢や歴史を調べてみるとすぐ分かることなので、ここでは詳しく触れない。しかし、この国に未だに「日本びいき」が多いことの理由を、日本がこの島国に対して行った「明治時代から終戦に至る間の植民地統治が見事であった」という通説に、私は多少の異議を持っている。これについて書き始めるとたぶん下手な論文になるのでここでも止める。

張先生の身近な友人に、どこかで英語を教えながら、あとはほとんどキャンプ生活みたいなことをしている面白いオーストラリア人がいて、彼は彼から英会話を習い、台湾語と北京語と日常会話には何の支障もない程度の英語を使うことができた。私が知っている数少ない中国語の「我愛仁」などを発声すると、「それはかなり違う!」といって北京語の「四声」を教えようと難儀した。

中国語が話せない私と日本語が話せない彼は、不本意ながら共通言語の英語を使うしかなく、そのうちお互いの国語を覚えようということになった。その結果、彼は数年で日本語をマスターし、私の中国語は一向に進んでいない。もっとも、簡体化されたとはいえ、あの国の書き言葉は漢字なので、東海岸に位置する「花蓮」という美しい地名の街で友達になった頼(らい)さんというパイロットとは「筆談」である程度の用は成した。

ところが張先生は、どこで覚えたのか「ウソでも嬉しい」という日本語一句をときどき口にしながら、エリアまでの道中にある店で何らかの品物を買い、おそらく数ヶ所にいる「ウソでも嬉しい」と言ってくれる女性の家に寄っていた。そりゃぁ、あんな心優しい先生だから別に不思議な光景ではないのだが、私は「あなたは全くマメな人だなぁ・・・」などと笑った。

大会の翌日、うちの学校でちょっと「特別授業」をやってくれと頼まれた。私にとっては渡りに船、二人の弟子にとっては迷惑な話だった。まず午前中の授業で私は英語で、それを張先生が中国語に通訳しながら、日本の地理や歴史の話を少しした後、質疑応答の時間になった。高専らしく、学生達の年齢はざっと見たところ10代後半から20代前半にみえた。まず女学生から「日本の着物はどれくらいの値段がしますか?」という可愛らしい質問があった。そんなことは私も知らんので「モノにもよるだろうが、たぶん200万円くらいかなぁ・・・」などと適当なことを言ってごまかした。

あと幾つかの質問の中で特に印象的だったのは、20歳過ぎの青年ので「あなたは尖閣諸島の問題をどう考えるか?」という政治的なものだった。この分野は私の専門でもあり、「おお、さすが大中国とモメ合っているこの国の生徒は、こんな難しいことをマジメに考えているんだ^^」と感心した。私は別のある日、国道を平気で走る戦車のキャタピラ音を遠くから聞いたことがある。

時間も限られていたので簡単に「この種の問題は、詰まるところ今のところ、国際連合や司法裁判所などの国際機関に任せるしかないのではないか・・・」と答えた。彼はちょっと不満げな顔を見せて黙った。そりゃそうだ。この問題には日本が大きく関係していたんだから、彼は日本国民としての私の意見を聞きたかったに違いない。しかし、たとえどんな国民としてでも、今でも私は同様の回答をする。あらゆる国家間紛争を、国家主権を盾に取った「武力(軍事力)」で解決できる時代は、もうとっくに終わっているのだ。

最後に「何か日本の歌を歌ってくれ」という要望が出た。これには私も二人の弟子も「なんで~^^;」ということなのだが、仕方なくほとんど聞くに堪えない「春が来た」を最後まで披露したら、クラス中が手拍子しながら喜んでくれた。あんな恥ずかしい思いをしたことも少ない。

午後の授業には弟子の二人だけが招かれた。私の即席講義はあんまり評判が良くなかったらしい。その間、食堂で初老の紳士教師とお話していたのだが、あの方も柔らかく話を運ぶ人格者だったなぁ・・・。もしまた招かれたら、それなりの準備をしてもっとマシな授業をしたいと思ったりもするが、張さんは既に定年になっているはずだから、近いうちにまた訪ねた時は、海や宇宙法界の話なども交えながら、美人奥さんの出身である山岳民(原住民)の方々の話なども、もっとお聞きしたいと楽しみにしている。



愚かな教え役

2019-09-25 11:27:00 | 追憶
ことのついでに・・・。では、愚かな教え役とはどういう人間かについて。これは単なる思いつきではなく、私の空での実体験にもとづいた、確かで少々マジメな話である。もう20年ちょっと前のことだが、ことの本質が変わらない限り、今後も同じことが起こり得るだろうし、現在も世界のどこかで起こっているかもしれない。



私は当時、動力パラグライダーの指導員として、20人ほどの弟子を持っていた。その中には高校生も数人いたので、つまらない事故は絶対に起こすわけにはいかない。毎週末、神経をすり減らす思いで教習を続けていた。彼らがまだ2年生の頃、動力飛行の初歩は一応マスターして、山飛び(山の頂上や中腹に設けられテイクオフから飛び立つ、普通のパラグライダー)がしてみたいというので、その内の二名を、日本からは比較的近い台湾では有名なサイチャ・エリアに連れて行った。


ここはそれ以前、単独で訪れたことがあり、たまたま飛びに来ていた大学の張先生にずいぶんとお世話になった場所だ。彼の勤務先や住居は、台湾南部の大都市・高尾から車で小一時間の地方都市・ピントンにあった。私がクロスカントリーの最長飛行距離40kmを飛んだのもこの時だった。これは私の十年間の滑空生活の中では飛び抜けて面白い体験だったので、またそのうち書く。
 
張先生は私の再来と高校生2人を大歓迎してくれ、早速、彼の車でエリアまで行った。その日はちょうどここで、パラグライダーの全国大会が行われていて、私たちは不意に「日本チーム」のプラカードを持たされて開会式に出ることになった。たぶん張さんが前もって話していたのだろう。
 
競技内容は2つのクラスに分けられていて、上級者は当時すでに当たり前になっていた「スピード・パイロン」。初級者は地上に描かれた同心円の中心を狙って着陸の精度を競う「ターゲット」だった。これも日本でもグライダーの滑空比が3~4という初期の頃によく行われていたものだ。私は初めての山跳びに多少緊張気味の二人の着陸を見届けた後、高度300mほどのテイクオフから離陸した。しかし時すでに遅く、まともなサーマルをつかむことがでないまま、ターゲットの真ん中にランディングして次々と降りてくる初心者フライヤーを側(そば)で見ていた。
 
そしたら、その中の一人(歳の頃なら50歳前の男性)が、ランディングアプローチでの高度処理を間違えて、かなりの高度を残したままランディング場に接近してきた。広いエリアだから、こういう場合、そのまま滑空するに任せてその辺りに降りればいいのだが、その人はなんと、ターゲットの真上30m辺りでフルブレークをやってしまった。真下にある円をめがけてエレベーターのように垂直に降りようとしたとしか考えられない。
 
次に待っているのは、とうぜん失速だ。空の世界では、ある程度の高度以下での失速は致命的なものになる。私は思わず「あら~・・・!」と叫んでしまった。彼はそのままバック気味(フルストールの失速はこうなる)に背中から地面に激突して、うめき声をあげたのち口から血を吹いた。私の目の前の出来事だったので、真っ先に駆け寄ろうとしたら、近くにいた運営役員のバカが下手な英語で「じゃまだからどけ!」と言った。
 
こういう場合、驚きが怒りに変わるは瞬時だ。「おまえ~!・・・私が何をしようとしてたのか見とらんかったのか!!」「おまえたちの国では、一体どういう教習をやってるんだ!!」と、私は彼を殴るほどの勢いで怒鳴りつけた。たちまち彼がシュンとなったのは言うまでもないが、息絶え絶えの初心者は、間もなく救急車に運ばれて病院直行になった。あの様子だとおそらく脊椎と内臓を損傷したに違いない。生きていたとしても車イス生活になってなければ良いが・・・。
 
この時の私はしばらく腹の虫が収まらず、張さんの家に戻ってからも怒りを込めてことの始終を話した。彼は「カンジさんは怒ると怖いですね~・・・実は台北にある、あのショップスクールの主は、飛行機材を売るに熱心で、教え方がいい加減なので有名なんです・・・」という話を聞かせてくれた。
 
そりゃそうだろう。教え方もなにも、飛行理論のイロハのイも分からないで、なんで自分の大事な生徒を、ただでさえ無理をしがちな「競技」などに出すんだ!! こんなバカげた話が、少し形を変えながら、実はここ日本でも起こっていた。次はその話をする。
 
また次の日に、張さんが担当する授業に招かれて一時間ほどした特別授業には、ちょっと面白い内容もありそうなので、これもそのうち書く。  


織田が浜 その4 飯塚塾

2019-07-12 08:56:00 | 追憶

私の「飯塚塾」通いは数ヶ月にすぎない。その理由を書き始めたら、また自分史の領域に突入するのでここでは触れない。

 

昭和四十五年(1970年)当時の飯塚塾は、塾長・飯塚芳夫先生が英語教育に力を入れ始めていた時期にあたる。私が受けていたのも英語の授業だった。古びた二階の三十畳ほどの畳部屋に、座卓が口の字に並べてあって、教壇などはない。いわゆる円卓方式で、それは先生の「教育理念」の一つの形だった。

 

先生は明治四十一年(1908年)生まれだから、当時六十二・三歳、ちょうど今の私の歳頃になる。その風貌は、先生というよりも小柄で平凡な初老のおじさん。しかし、どこか気高く、その落ち着きと優さが、体中から香りのごとく放出されているような方だった。彼の左隣には、20歳代の美しい女性外人助手が座っていた。生徒は全部で15人ほどだったろうか・・・そのほとんどは西高生で、マーちゃんや石川君のほかにも、英語好きな顔見知りが何人かいた。

 

授業の大方はこの美人助手を中心にした質疑応答だった。ある日などは、「あなたの好きなことは何ですか?」と聞かれて、私は「大ボラを吹くことです」のつもりが「I like to tell big lies.」などと言ったものだから、皆には大笑いされ、彼女には「何ですって?」と怪訝(けげん)な顔で見返されたこともある。ともかく、教場全体が何か暖かい空気で包まれているような空間だった。

 

第三者から見た「飯塚塾」ついては、先に挙げた関礼子さん(社会学博士)の博士課程での論文内で、相当に正確に整理されていると思う。少し長いがここでも以下に借用させて頂く。もちろん、私の駄文は論文ではない。途中に挟まれた参照などは全て省いた。

 

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飯塚塾と織田が浜 ー 共同性の具現

 

織田が浜埋立反対運動(織田が浜運動)の生成過程で注目したいのは、運動がどのような契機で、何を「保護」する目的で組織されたかである。織田が浜運動は、飯塚芳夫と彼が主催していた飯塚塾を中心に組織・展開されている。 飯塚にとって織田が浜はどのような意味を持っていたのか、 また運動が組織されるにあたって飯塚塾はどのような位置を占めていたのか。

 

織田が浜運動は、第三次港湾計画の埋立当該地にあたる喜田村の連合町内会、 老人会、 PTAなどの組織と東村の飯塚による 「喜田村織田が浜を守る会」によって始められ、その発展組織「今治織田が浜を守る会」によって担われた。代表はともに飯塚だった。

 

住民運動の初発段階で、地域問題を運動に結びつける際に最も重要なのは、リーダーシップをとる者の存在にある。 市の港湾職員をして「素晴らしい人だった」と言わしめる人物像ゆえに、 しばしば織田が浜運動は飯塚の運動、 飯塚の熱意と強力なリーダーシップに因る運動と評される。私財を投げうって埋立反対を訴えた飯塚は運動のシンボルであり、カリスマ的な存在であった。1987年に亡くなるまで、文字通り織田が浜に命を捧げた飯塚の情念は特筆すべきだが、織田が浜運動は飯塚の背後にある共同性によって展開されたという側面がある。 飯塚塾の歴史は、飯塚を中心に起こったこの運動の共同性を明確にする。

 

飯塚塾は1949年当時、中高一貫教育を唱い文句に、県下の優秀な生徒を集めていた私学の教育方針を批判し、小学校5年生から高校3年生まで8年一貫して、地域社会のなかで三三育(知育、徳育、体育)重視の全人的教育を行うことを目的に開塾した。そのため飯塚塾は、 現在イメージされるような「進学塾」とは全く異なる特徴を有している。 顕著な違いとして、次の三つが挙げられる。

 

第一は円卓方式の授業である。 戦後期の、 何もないところから始まった塾は、石炭箱を四つ並べて、そのうえに雨戸を一枚置き、 さらに黒板をのせた机を囲んで授業をした。これは、いろりやこたつなど日本の田舎の人間関係のありかたを教室に取り込んだもので、教師と生徒が同じ机を囲んで学ぶことで、両者の人間関係が密になり、円の関係になるという発想に基づいていた。円卓方式での授業は、 その後、教室が増えても変わることはなかった。

 

第二に、飯塚塾には 「天戸 (雨戸)会」という “父母会"がある。 創塾当初、「教育は無償で行われるべき」として月謝をとらなかった飯塚に対し、「それでは気の毒」 と塾生の父母がお金を集めてもってきたのが契機となって、1955年頃に結成されたものである。後に塾生が増え始め、教室が手狭になると、父母会が寄付を募り、資材を持ち寄って、勤労奉仕で教室をつくった。塾には最盛期に6つの教室と運動場があったが、 飯塚の自宅におかれた教室以外は全て父母の手によるものだった。また。忘年会、織田が浜でのキャンプ、登山など塾の年中行事も父母が手伝った。

 

第三に、 飯塚塾には OB会があり、 固い結束を保っている。これは 「イズカの流れを後輩に伝えるために」つくられた「教生」制度から発したものである。高校1、 2年生の塾生を「教生」として教師の助手に採用、年下の塾生を指導させることで、卒塾生の塾への帰属意識は強いものになった。

 

これら三つの特徴は、飯塚塾を地域文化の担い手として位置づける。子供にとっても父母にとっても、 塾との関係は一過性のものではない。最低でも8年、子供の数によっては10年以上、塾と関係を持つことになる。塾は家庭の延長、地域社会の縮図だった。円卓方式に始まった飯塚塾は、教師と塾生の縁を塾と父母、地域との関係へと同心円的に拡大し、 空間的、 世代的な結節点として機能したのである。飯塚がいみじくも「飯塚塾は僕のものでなく、多くの村人の子弟のための施設だと考えている」というように、 飯塚塾は単なる私塾ではなく、地域社会の共同体的な教育機関であった。

 

(その5につづく)

 

 


織田が浜 その3 マーちゃん

2019-07-05 10:49:00 | 追憶

また横道に逸れそうになった。ただ、心地観経にいわく「過去の因を知らんと欲せばその現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せばその現在の因を見よ」である。

多少でも過去に触れておけば、次に続く過去が分かりやすくなる。現在も未来も同様。私の拙(つたな)い自分史は、稿を別にしてここにも書き、後に上梓することになるだろう。本題に戻る。

高校一年生、新しい校舎と先生と同級生。ほとんど全ての環境が変わる中で、まことに奇妙な人間とクラスを同じくすることになった。後に愛称で「マーちゃん」と呼ぶようになる矢野君である。

彼の風貌は飄々(ひょうひょう)淡々。たいがいは何かしらんけど笑っている。その動きは鷹揚(おうよう)で、体育の時間はほとんど壁の花になっている。その他の授業でも、懸命に板書を写すのが生徒たちの習いなのに、たまにチラッとメモする程度でノートをとる様子が全くない。先生の口元をぼーっと見ているだけである。

授業の合間や昼食時間など、「アポー!」などと言いながらプロレス技らしきものをかけてくる。普通に見たら愛すべきアホの一類で、どう見ても頭脳明晰には見えない。

ところが、その成績たるや450人中常に5番以内にいる。私には何のことやらさっぱり分からない数学の難問を解くよう先生から不意に指名されても、彼のチョークはいとも簡単にスラスラと正確な解答を黒板上に現す。

「こいつの頭の中はいったいどうなっているんだ?」こんな掴みどころのない奇妙な人間を見たのは初めてで、私は不思議で仕方がなかった。

彼の方も私のことを、勢いだけは良いが少し変わった男だと見ていたようだ。二人はどこかウマの合うところがあったのだろう。ある日、「ちょっとうちに遊びに来ないか?」と誘われた。この不思議を解明する絶好のチャンスだ。私は喜んで、織田が浜近郊・喜多村にある彼の生家を訪れた。

そして、この謎は一気に解決した。彼の家は古くからの農家で、朝が早い。彼も早起きして親の手伝いをする。朝の時間は長い。余った時間を授業の予習に宛てる。元々記憶力は良いから、当日の授業の内容はすっかり頭に入っている。学校での授業などは、すでにしっかりと彼の頭の中に居座った知識の、単なる復習・整理にしか過ぎなかったのだ。

私は「早起きは三文の得というが、マーちゃんの得はそんなもんじゃないねぇ・・・」などということを言ったような気がする。

さらに夏休みを過ぎた秋口、「僕の通っている塾に行ってみないか?」と誘われた。「なに~、君のような出来る男が塾になんか通っとるのか!?」私はいくらか呆れながらも、彼について行き、織田が浜に隣接する東村にある私塾「飯塚塾」の門をたたいた。これがそこらに散在する単なる学習塾ではなかった。

私と「織田が浜問題」の縁の始まりである。

(その4につづく)

 

織田が浜 その2 今治西高など

2019-07-03 17:40:00 | 追憶
 旧制今治中学校を前身とする愛媛県立・今治西高等学校は、港湾を東向きに開く旧今治市の北西部に位置する。一学年450名、全校生徒数1350名のありふれた進学校の一つである。私はこの高校で3年間を過ごし、校内・校外に何人かの友人や恩師を得た。その中でも、格段に面白い人物の数人を紹介しながら、織田が浜の話しを続けるが、その前段階の小中学校時代にも少し触れる。
 
「しまなみ海道」開通以降、いくらかは全国的に知られるようになった、芸予(げいよ)諸島の最も今治寄りの大島の漁村で生まれ育った私は、小中学校を通じて、先生の顔色を見るに聡く、後輩をいじめず、通信簿は5で覆われるなど、所謂(いわゆる)優等生の見本みたいな少年だった。思春期を迎えた頃、自己流の空手を始めたこともあって体躯は劇的に変化するのだが、13歳あたりまでは細く長く、しばしば原因不明の熱を出して学校を休む。しかしそれで特段身体が弱いというわけではなかった。
 
生家と庭続きのような砂浜と海は、単に海水浴だけでなく私の遊び場そのものだったから、年間を通して村の子供仲間たちと一緒に走り回り、夏は泳ぎ回って、年中日焼けがとれないような小学生だった。
 
ところが、元職業軍人で後に政治家になった父の口癖が「信念と努力!」、教育方針が「何でも一番になれ!」などという、普通の人間にはおよそ不可能なもので、それを忠実に実行しようとしていたから、私はかなりの無理をしていた。その無理が「原因」となり、何かの「縁」に触れることで、「結果」となって現れるのは時間の問題にちがいなかった。
 
私の高校時代は、この「縁」が「果」を生み、その「報」(因縁果報)が現れ始めた時期であったとも言えるだろう。もちろん、父の信念や母の愛育がマイナスの「報い」のみを生んだわけではない。
 
彼の信念の内容が如何様(いかよう)なものであり、何処(いずこ)に淵源を持つのかは今のところ定かではない。しかし、家族に耳の聞こえない者がいたこと、向学心に燃えた相当に聡明な少年が、寒村漁家の貧しさの故に職業軍人への道を選ばざるを得なかったこと、16歳から26歳までの10年間の海軍生活で、文字通り命懸けで鍛え上げられた何か。それらが、社会的に弱い者への思いやりや、理不尽に強い者への怒りを、彼の中で成熟(じょうじゅく)させたのは確かなようである。
 
その信念は、戦後、私が生まれた直後のまだ30代半ば、当時全国的に報道された燧灘(ひうちなだ)の漁業権を巡る紛争で現れたのだろうし、その後、政治の世界では、多くの敵を生むと同時に、それ以上の理解者を得ながら、4期16年間の仕事を全うさせたのだろう。当然ながら、それらの方々の中には、実にさまざまな種類の人々が含まれていたのを、私はよく知っている。
 
「何でも一番!」は、ある意味とんでもない間違いだが、長ずるに連れ、私がこの世界や人間の観方(みかた)を扱う「思想・哲学」や、それらの根っこにある「信の体系=宗教」に興味を持つようになるのは、自然な流れだったのだろうと思う。
 
信念とは「何ごとかを信じる一念」のことであり、一念とは「一つの今の心」と書く。意識的・無意識的に何ごとかを信じるということは、詰まるところ宗教の領域になる。それは人間に限ったことではない。インドの詩人・タゴールが、森に在って「静かに!心よ。樹々(きぎ)たちは天に祈りを捧げているのだ」と謳ったのも当然だろう。

樹木は大地を信じ、魚は海洋を信じ、鳥は大空を信じ、子は親を信じることで、その分に応じて成長しながら生きている。また更に、現在の一瞬の心の連続が、一個の人間だけでなく全ての生命の一生涯を超えて永遠に続く、と仏法では説く。
 
そして、「何を」信じ行うか・・・が、自己の心身にどれほど大きな影響を与えるかを、強烈に体験するのは、高校時代も終盤になった頃であるが、このあたりのことごとは、稿を別にする。
 
また、高等女学校を出て父の妻となった母の愛育については、いまだに進行中なので、簡単には相対化することはできない。ただ、「小さいことは気にしない」ということや「大概のことはなんとかなる」などという脳天気な性格は、大いに母親譲りである。

             ★★★

かくして、難なく高校に進学した私は、意気揚々としていた。島から街に出るということは、当時の島の子供にとって、冒険か事件のようなもので、小学生の頃は「今治行き計画書」みたいなものを母に提出し、500円の旅費を遠慮がちにもらう。年に1回あるかないか。中学になると新聞配達で月5000円は自由に使えるお金ができ、財布が空になるまでの数回程度だったのだから、あの対岸の大きな街の大きな学校の近くに下宿できるということが、どれほど嬉しかったことか。
 
入学後間もなく、中二の冬から自己流で始めた空手の腕を磨くべく、「どんどび」近くの警察道場に通い始めた。そこでは、どんな反則技を使っても、とうてい勝てそうもない20代後半の青年が剛柔流の師範代をしていた。下宿から道場まで往復40分ほどの商店通りを、週に何回か鉄下駄をガラガラ鳴らしながら通う。お店の方たちはさぞ迷惑したろう。私は大まじめだったのだが、今に想うと漫画の風景だ。

「盲(めくら)蛇に浮カず」そのものの少年の話は、いつの間にか学年中に広まり、やがて私に「おやじ」とあだ名を付けて、用心棒にしようという、これまた相当に面白い同級生が現れた。後に登場する「西川」(彼には君を付けたことがない)だが、先に少し触れておくと、彼が街の音楽仲間を集め、リーダーとして作った、エレキバンド「ロング・ビーチ」の(お金の計算ができない)マネージャー兼用心棒役をしばらくしていたことがある。私は音楽オンチだが音楽自体は好きらしい。ロング・ビーチとはつまり、織田が浜・唐子浜と続く数キロに及ぶ美しい海岸のことである。

ある日、西川が「おやじさん、ちょっとついてきてくれないか?」と言う。今治の京町という、東京だと歌舞伎町みたいな場所にあるバンドの練習場で、ときどき近在のチンピラが言いがかりを付けてくる、ということらしかった。

バンドメンバー数名と共にその練習場に行くと、たしかに「私は間抜けなチンピラです」と顔で語っている男たちが2~3人いた。そして、しばらく遠巻きに私たちを眺めていたが、私が拳を鳴らしている間にどこかに行ってしまった。たぶん、それから顔を出すことはなかったのだろう、私の用心棒役はそれっきりである。

その後、何かの大きなイベントがあった夏の「織田が浜」で「ロング・ビーチ」は活躍し、西川・作詞作曲のエレキ演奏は、かなりの数の観客を喜ばせた。その時、大三島から手伝いに来ていた少女と、朝日が昇るまで何ごとかのお話をしたこともよく覚えている。

これに味をしめて、「うちの島でもやるか~・・・!」などという企画を持ち上げ、島の公民館の大広間を無料で提供してもらい、町内放送までしたにもかかわらず、来たのは中学時代の同級生10人足らず・・・なんてことも、西川を友人に持ったおかげの楽しい出来事の一つだ。その後、彼は立教大学に進み、学生でありながら音楽関係の事務所を持った。それなりに人徳のある奴だったということだ。「あずさ2号」をヒットさせた「狩人」という兄弟歌手二人も彼と懇意だったらしい。彼との交際は私が新宿を去って神奈川・川崎の奥地に転居するまで続く。

西川に加えて、次回登場することになる、面白すぎる矢野君、優等生ソノモノのまま東京大学に進んだ石川君、後もう一人(あいつ誰だったかな?)の五人で、冬の歌舞伎町で小コンパ(飲み会)を開いたあたりからが、「織田が浜」の話の伏線になるのだが、今回はこれまでにする。
 
(その3につづく)

今はあの潮音静かだった渚もコンクリートの塊になってしまった。前方に燧灘と四国山脈。


越智郡吉海町立津倉小学校の風景(昭和40年代のころ)。現在は今治市立。


 

織田が浜 その1 序

2019-06-29 08:55:00 | 追憶
織田が浜 その1 序

昨日は、織田が浜の南に続く唐子浜で、喫茶店を経営しているS君のカイト体験講習だった。風が今ひとつだったので、静かな別府の海を見ながら、1時間ほどいろいろなお話をした。その中で、彼のお店に以前住まわれていた、私とほぼ同年代のお父さんが、(あの)織田が浜問題の当時、東村の埋め立て反対派の一人としてご苦労されていたということを知った。

この地の、あの出来事については、幼い頃から渚(なぎさ)で育ち、単なる愛情以上のものを持つ私としても少し書いておきたいと思い、関係資料をいくらか集めて、さてそろそろ始めようか・・・と考えていた矢先である。ここでもまた不思議なご縁だ。
 
では、「バカの話」を改題して「織田が浜」につなげる。「バカ」と「ハマ」にどんな関係があるのかは後で分かるだろう。私の高校時代から現在に続くできごとの数々だから、相当に長い話になると思う。

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「織田が浜・埋立反対運動」・・・もう四半世紀以上前、あれほど広く話題になり、多くの方々の人生の明暗に関係した「自然保護運動」を、2019年の現在、どれほど多くの人が覚えているだろうか。あのころ私は30代で、海や空の世界に、単なる趣味を超えた領域で広く深く接しながら、この運動を遠くから見ていた。
 
この話には、数人の実名が登場する。私には忘れがたい方々で、まだご存命で現役の方もいれば、すでに亡くなった方もいる。最初に今治市に住む矢野君に登場してもらうが、まずは、「織田が浜・埋立反対運動」の概要を、現在、立教大学・社会学部教授の関礼子さん(博士)が、東京都立大学・博士課程でまとめた論文から、そのまま引用して紹介する。彼女のこの論文は、「自然」の意味そのものに迫ろうとする力作でもある。
 
「織田が浜埋立反対運動」の概要
 
愛媛県の北東部に位置する今治市は、 瀬戸内海に面した、人口約12万の地方中核都市である。この地は明治期から綿織物を中心とした工業地帯として、 また中国地方や九州、近畿とを結ぶ港湾都市として栄えていた。少なからず港に依存してきた今治市で、織田が浜埋立を含む第三次港湾建設が「問題」となる契機は、 1983年2月、今治市長が第三次港湾計画の促進を愛媛県知事に陳情したことだった。間題となった織田が浜は、今治市街から僅か2~3kmに位置し、幅50~70m、 長さ1.8 km にわたって続く遠浅の砂浜である。
 
市当局が貨物港建設のために埋立計画を進めていることが明らかになるや否や、織田が浜地元三地区(旧富田村下三地域)の喜田村、拝志、東村が反対の声をあげ、住民を中心とする運動を展開した。運動の中心的役割を果たしたのが 「織田が浜を守る会」(「守る会」と略称)である。「守る会」を中心とした運動の経過は以下のようなものである。
 
(1) 運動発生期: 運動の核となる「守る会」の結成、地元三地区から今治市全域への運動の拡大の時期(1983年2月~1984年3月)。「守る会」は、結成と同時に、1万人を目標とする署名運動を展開し、3月には目標を倍以上うわまわる20、745人の署名を添え、織田が浜保存の請願書を提出した。この請願は不採択となるが、「守る会」は署名活動を継続、 6月議会に新たに47、866人の署名と請願書を提出、継続審議に至った。
 
また、環境庁など関係各機関への陳情を行う一方で、諸団体の連合組織として「今治織田が浜を守る会」(同様に「守る会」と略称)を結成した(表1、 表2参照)。 運動行為者の主張は、 ①都市計画公園の埋立は許されない。②現市長の選挙公約に「東村等の白砂青松を積極的に保全する」とあり、 埋立は公約違反である、 ③貸物港が建設されて問もない時期に新たな貨物港を建設する必要はない、 ④アセスメントに不備がある、という点だった。
 
(2) 拡大期 :訴訟提訴から市長選挙、埋立起工式をはさんで第一審判決が下されるまで(1984年3月~1988年11月)。「守る会」は、世論の喚起とそれによる織田が浜保全を狙った運動の一環として、 全国規模で署名運動を展開するとともに、1984年3月には訴訟提起に踏み切った。裁判での請求の趣獅ヘ、、埋立計画地である東村海岸公園地先(織田が浜)埋立の公金支出差止で、その根拠は瀬戸内海の埋立に特別の配慮を求める「瀬戸内海環境保全特別措置法(瀬戸内法)」第13条および「公有水面埋立法」第4条の埋立免許基準違反である。
 
都市計画公園に指定されている海浜の現状変更=埋立の可否が、瀬戸内法を根拠として法廷に持ち込まれたはじめての裁判は、 1、000人を越える原告による住民訴訟として争われた (表3)。「守る会」は、裁判係争中も引き続き署名・陳情を続け、 1984年8月には中央港湾審議会から「異例の差戻し」答申を引き出したため、 市側は埋立位置を200m北西にずらす計画修正を行った。 1986年1月の市長選挙では、「守る会」の代表である飯塚芳夫が78歳の高齢で、しかも持病の発作で病院に人院したにもかかわらず、対立候補として立候補、現職市長35.868票に対し、 12.037票の批判票を獲得した。翌1987年の2月に飯塚は死去、 4月には埋立起工式が行われた。また8月に第17回自然保護織田が浜大会が開催された。翌年11月の地裁判決までが、反対運動のビークであった。
 
(3) 収縮期:第一審判決以降(1988年11月~1996年の現在まで)。埋立開始以降、織田が浜埋立反対運動は主に法廷闘争として展開された。1988年11月の第一審判決は、都市計画公園である織田が浜の海浜保全はなされるべきだが、 海浜保全地区においても埋立は許されるとして原告側訴えを棄却した。その後、控訴審判決(1991年5月)、最高裁判決(1993年9月)、高裁差戻し審判決(1994年6月)を経て、最高裁にて上告を棄却され (1995年7月)、 11年にわたる裁判は住民敗訴に終わった。1995年6月には埋立及び港湾建設工事が完了、 港湾施設の本格的使用が始まった(羽生1995: 14)。
 
(その2につづく)
 





 


ャ塔ンの夢

2012-08-07 20:39:00 | 追憶

昨夜は蒸し暑かった。いつもの川べりに車を停めて、川面で揺れる市内の灯りや、夜半過ぎに東の雲間から現れたおぼろ月を眺めながら、様々な想いの漂うままにボンヤリと過ごした。ゆるい北風に乗って流れてくる畑の肥やしの臭いに、懐かしさや鬱陶《うっとう》しさを感じたりしながら・・・。

昨夕は、対岸のどこかで間欠的にャ塔ンと乾いた音が響いていた。たぶん花火師か誰かが、こんな時期から阿波踊りの祭りの準備でもしているんだろうな・・・などと思っていたら、今朝の夜明け前にはャ塔ンが三倍くらいに増えている。そうか!・・・昔、島の田舎の田んぼでもよく使われていた、あのカーバイトガスを使ったスズメ脅しだ。私が小学校時代にした悪戯《わるさ》の一つが、T字型円筒の下部に設置された、強烈な臭いを放つ固形のカーバイトを、仲間と少々盗んで花火にするということだった。

まず間違いなくこの音が引き金になったのだろう。明け方近く鮮明な夢を見た。父が関係する夢だ。彼は、戦争中、重巡洋艦の「那智」や「妙高」で高射砲を担当し、終戦時には佐世保沖・高島の高射砲陣地の指揮をしていた。そして、突っ込んでくる敵機の爆撃や機銃綜ヒとの真剣勝負の現場がどれほど凄まじいことになるか・・・などについて、彼なりの脚色とユーモアを交えながら、幼い私に繰り返し話していた。

男の子はたいてい父親の武勇談を好む。しかし、その戦争の現場が、単に面白おかしい武勇の舞台だけではなかったことも、彼の横腹から背中に抜けた貫通銃創の傷跡が生々しく語っていた。

今朝の夢の内容は、およそいつものごとく支離滅裂。なんでか私が父に成り代わっていて、舞台は南方マリアナ沖ではなく、終戦後の混乱期に、来島海峡を挟む二漁協の間に起こった漁場を巡る争いの戦場だった。

そこで高射砲が使われるわけがないのだが、私は、自分が守る小さな漁村に、対岸に存在する大漁協の連中が数百人乗り込み、攻め込んできた二隻の鉄国D目がけて、高射砲みたいなものをドンパチ打ちまくっていた。 

この小さな一地方の、愚かにも激しかった漁業紛争についても、子供の頃によく聞いたことがある。当時は全国的な話題にもなったらしい。身近で起こった歴史的小話としては、それなりに面白いと思うので、またどこかで書くことがあるかもしれない。



読書術 4

2012-08-01 12:25:00 | 追憶

或る一つの強烈な体験は、それ以前に経験した数々の出来事の印象を薄めるのかもしれない。小学校時代の六年間に私が読んだ本は、教科書類や課題図書など他にも多くあったに違いないのだが、その内容のほとんどを今は思い出すことができないのは、単に時間の問題だけではないような気がする。

私の興味の対象が、圧涛Iに「野外での遊び」にあり、小学校で配布される本類の中にも、小学校そのものにさえ、存在することが少なかったということもあるだろう。

しかし、小学校という特殊な閉鎖社会に全く魅力を感じていなかったわけではない。戦前から存在する木造平屋の横に長い校舎は、極めて汚い便所も含めて随所に、そこで多くの時間を過ごした子供たちや先生方が残していった痕跡が刻まれていたし、何よりも、当時の私にとっては、可愛いらしいことこの上ないKという同級生の女の子がいた。

彼女とは幼稚園から中学一年まで組が変わることがなかった。(小学校は松・窒フ二クラス、中学校は1??4までの四クラス) 私が級長のときは。たいがい彼女が副級長で、勉強の上ではライバル的存在でもあったのだが、想えば、あの年齢で八年間も、たった一人の女の子が好きだったわけで、これは生命的時間論からすると、成人なら何十年もの永きに渡る片想いということになるだろう。さらに彼女とは同じ高校に進学したので、相当に深い縁があったと言わざるを得ず、高校時代には幾らか胸のときめく後日談があるのだが、ここでは触れない。

さらに、三年生から六年生まで通して四年間も担任だった矢野友弘先生の人格は、昭和二十年の敗戦を境に百八十度変わった国家の教育方針などとは、おそらく全く無関係に、私たちを大きく包んでいた。彼は便所の傍らに、彼しか使わない陶器用の釜を持ち、常にズボンの横からタオルを垂らし、なんであれだけ出るのかと子供心に不思議なくらいの鼻水を拭うことを習慣にしていた。

その口癖は、授業中に何かを言い違えたとき「もとい・・・」を連発して訂正することと、生徒たちの悪戯《わるさ》が時々発覚し、中の一人が別の生徒も同じことをしているではないか・・・というような弁解を始めると、「自分のことを棚に上げて人のことを言うな!」と鼻の頭を赤くしながら真剣に叱責することだった。

だが、私たちの誰もそれによって萎縮することも反省することもなく、数限りない悪戯を繰り返したのだった。彼の全身から溢れ出る巨木のような優しさは、どんな種類の彼の怒りにも勝っていたのである。私たちは親愛の情を込めて、ずっと彼を「友やん」と呼んだ。

小学校を卒業して十年以上も後、何かの祝いに頂いた大きな鯛の油絵は、今でも我が家のリビングの壁、中央上部で食卓を見守っている。

一人息子の教育に関しては、父も母もたぶん普通以上に熱心なタイプで、嫌がる私を一山向こうの村の習字塾と英語塾に通わせた。五年生の頃には、旧家の一室を開放してソロバン教師を招いたので、否応なく我が家がそろばん塾になり、村の子供たちの多くが、週に一回パチパチとソロバン少年・少女になった。

しかし、習字塾も英語塾も数ヶ月も続かなかったと思う。かろうじで、ソロバンだけは自宅塾から逃げるわけにもいかず、大いに落ち着きに欠ける少年の集中力の養成にはある程度の用になったかもしれない。まだ二十代後半のソロバン教師は、穏やかな微笑みを絶やさない、大声で怒ること一度もない、実に気持ちの良い青年だった。春休みの或る日だったか、彼は私を含む子供たち数人を鈍川渓谷への一日旅行へ連れて行ったりもした。

何を成すにも言えることだろうが、教育にもタイミングというものがある。本人がまったくやる気のない時期に、強制的に何かをやらせようとすると、どこかに無理が出る。従順な子供は一時それなりに成果を上げる。そうでない子供は表面的には従順を装うが、どんな服従も長く続くことはあり得ない。いずれにしても、やがて無理が高じて反抗に変わり、周囲が望むところと反対の結果が出ることがほとんどだ。

本人の先天的な才能を前提としても、有名スメ[ツ選手の例では、卓球少女の愛ちゃんやスケート少女の真央ちゃんなどは例外中の例外で、おそらく彼女の母親やコーチには、相当に合理的な計画と、並ではない忍耐と、極めて緻密な配慮があったのだろう・・・と私は推察する。

(5につづく)



二周忌

2012-07-29 20:38:00 | 追憶

今日は父の二周忌だった。ちょうど二年前の本日、午前三時四十五分に、彼は今治の大病院の一室の私が寝ているすぐ横のベッドで息を引き取った。 

「脈拍が二十に落ちてます!!」と息を切らしながら病室に飛び込んで来た看護師の声で私は跳ね起きた。しかし、すでにその時、脈も呼吸も停止していた。今夜のように暑い夏の夜だった。

九十歳の彼は、そのちょうど三ヶ月前の四月二十九日の昼食時に左脳の脳梗塞で唐黷スのだが、かろうじて動く左半身の細い腕で必死にベッド柵につかまりながら、なんとしても生き抜こうとしていた。普通の人間でも大変な、時に四十度を超す高熱を一ヶ月近くも耐えた。 

二ヶ月目に入った頃からしばらくは小康を取り戻し、時に姉や母や私の顔を見て微かに笑い、左手をゆっくり持ち上げて握手し、車椅子に乗せられてリハビリが出来るまでに回復した時期もあったが、ついに言葉を発することはなかった。

そして、三ヶ月目の中頃、再び襲ってきた四十度の高熱に耐える体力はすでに残っていなかった。危険な期間を通して傍《かたわら》に付き添っていた私には、もの言わぬ父が、迫り来る死という大敵と全力で戦っているのが、ハッキリと分かっていた。

十六歳から二十六歳までの人生で極めて重要な時期を、職業軍人として数々の戦場で生き延び、その後の生涯でも、さまざまな種類の戦いの世界と縁が切れることがなかった人間らしい、まったく見事な最後だったと思う。

三十六年前、突然、親友のT君が逝ったとき、私の世界は光を失い大きく様相を変えた。しかし、それから長いあいだ捜し求めた生死の問題への確答はいぜん遠いところにあった。そして今回の父の死は、ゆっくりとしかし確実に、その意味の一端を私に教えつつある。



読書術 3

2012-07-13 13:02:00 | 追憶

概して病弱な子供は熱心な読書家になる。一つは他に楽しい遊びを知らず、一つは家庭の中にそれなりの書物と環境がある場合。加藤周一などはその典型で、『羊の歌』の「病身」の章では、その辺りの事情が詩的ともいえる美しい表現で語られている。もっとも彼の書いたものは大体において詩的なのだが・・・。

子供時代の私はさほど病弱でもなかったが強靭でもなく、しばしば原因不明の熱を出して、幼稚園児の頃に一時、今治の病院に入院していたことがある。しかし、そこにあったのは書物ではなく、若く美しい看護婦さんの優しい笑顔と、夕方五時になると決まって街のどこかから流れ響くドヴォルザークの「家路」だった。

「遠き山に日は落ちて・・・」の旋律は、その後長く私の耳奥に残り、いつどこでこのメロディーを聞いても、あの白い病室とアルコールの匂いと、病院という秩序正しく閉じた世界の暖かさを、ある種の哀愁と共に思い出す。そして家庭の中には、当時、母が読んでいた『婦人の友』の他に、父の仕事関係の実用書や辞書類を除いて書物らしい書物はなかった。

生家の周囲には大自然の運動場があり無限に広いプールがあり、元気この上ない漁村の子供友達が大勢いたから、屋外での遊びに事欠く要素は一つもなかった。だから、ある年齢に達すると幼稚園という窮屈で退屈な檻のような施設に通わなければならない、という事の理由が納得できるはずがない。

しかも、その幼稚園は一山超えた四kmも彼方にあり、そこまで子供用の自転車で行けというのだ。私が毎朝、お隣の玄関柱にしがみ付いて泣きながら登園を拒否した・・・という話を母はよくしていた。それでも、狭い幼稚園の中庭の様子や「お昼寝」の一刻や遠足の風景などをかすかに覚えているということは、ある程度はこの苦行に耐えていたのだろう。

小学校に上がっても、原因不明の発熱はときどきやってきて、これを幸いによく学校を休んだ。外で遊べなくても学校よりはまだまし。カッチンカッチンと正確に振り子を揺らす柱時計の音《ね》を聞き、天井板に散らばる節模様の中に様々な鬼妖怪の姿を見るのに飽きたら、たまに買ってくれるプラモデル作りを除いて、小学館の月刊誌『小学○年生』を眺めるくらいしかすることがなかった。この子供向け学習雑誌の中には、算数や国語などの他にも、それなりに面白い科学的・件p的記述もあったはずなのだが、私の記憶には「鉄のサムソン」などマンガの類しか残っていない。

そして、小学校六年生の時に、この繰り返し訪れる発熱の原因が、どうやら扁桃腺《へんとうせん》の異常にあるらしいという診断が下された。再び、幼稚園の頃に入院していたあの病院に舞い戻って切除手術を受けることになる。

その手術の手順はまことに原始的なもので、2012年現在の内科医が、もしも同じことを自分の子供にしたら、私は躊躇なくその医者を殴り唐キだろう。優しい看護婦は後ろから私の両目を塞いでことの成り行きを見えないように努力していたけれども、指の間には隙間《すきま》というものがある。浣腸器のような太い注射器を喉の奥にズブリと刺して部分麻酔した後、キラリと光るハサミを突っ込んで扁桃腺の根元からパチンと切断する過程を、私は全て見ていた。51ysHKaVKfL__SS500_.jpg

ところが、あの麻酔注射は何の用をなしたのか・・・それはまさに「これまで生きてきた中で最大の痛み」だった。入院期間は一週間ほどだっただろうか・・・術後3日ほど経ち、やっと少量の水が飲めるようになった頃に、父が「よく頑張った!」、と最たる苦行に耐えた褒美《ほうび》として、「今治タイガー」というステーキハウスに連れて行ってくれたのだが、当時は余程のことがなければ目にすることのなかった分厚いステーキが私の喉を通過することはなかった。しかし、この苦行の褒美はステーキだけではなかった。

父母の出自については、別に詳しく述べることもあるだろう。ただ少し母方の事情に触れると、母は十六歳の今治女学校卒業直前に、父つまり私の祖父を佐世保の軍需工場の爆撃で亡くし、その後多くの同級生が選択した教師への道を諦《あきら》めて、ちょうど終戦直後のその歳、戦後処理の任務に当たっていた海軍仕官(博多武官付)の妻になった。

彼女は長女で、幼い頃に病死した男子の他、下に三人の姉妹がいた。その末っ子とは歳の差が十四もあったが、彼女がちょっと変わった女性で、当時としては珍しく、周囲の反対を押し切って単身アメリカ西海岸に留学し、帰国後、貿易商社の秘書を仕事とした。51kz0vcEuKL__SS500_.jpg

その「Yねえちゃん」(と私は呼んでいた)が、入院中の甥(私)への見舞い品として置いて行ったのが、ジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』とジョージ・ウェルズの『宇宙戦争』の二冊だった。この二冊の本は、私と同世代の少年たちが活躍する、はるか彼方《かなた》の世界に大冒険の数々が確かに存在することを鮮やかに教え、ビルよりも高い脚を持った宇宙船が簡単に人類文明を破壊し、タコのような火星人の気色の悪い触手が病室のドアの隙間から今にも侵入してくるのではないか、と錯覚するくらい強烈な衝撃を私に与えた。

扁桃腺熱の終わりの時は、その後遭遇するであろう多くの書物がもたらす衝撃の歴史の、始まりの時でもあったのである。

 (その4につづく)