庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

張先生

2019-09-26 17:25:00 | 追憶

記憶は連鎖する。「愚かな教え役」辺りの記憶もどんどん蘇ってくるが、もちろんそのままでは愉快な話にならない。これに続いて「愚かな学び役」についても書く必要があるだろう。教育や教習は両者の関係性の中でのみ成立するのだから。

過去の事実の評価、つまり「どう思い出すか」は、どんな人にとっても、現在のその人の「境涯(人格の高低浅深)」によって変化するが、この種の事実は、生命のかなり深い部分に残っているので、また必要なときはいつでも思い出すことができるだろう。

話が跳ぶので、これを読んでいる方には申し訳ない気がするが、だから、私はあまり過去にはこだわらず、未来についてもそう案じることもなく、現在を精一杯生きることに集中したいと日頃思っている。ところが、なかなかそう簡単にはいかない。これなどを習得するには、それなりの「修行」が必要なんだ。



まあ、今回はちょっと前回の不愉快な話は横に置いといて、台湾でお世話になり、後に我が家にも来て日本語をほぼマスターした張さん関係の、それなりに楽しい話をする。

この方も、私の分類では相当に面白い人間だ。私と同年で、あの後まもなく学制改革により大学になった、当時は日本の「高専」に相当する5年制の学校の教師をしていた。専門は国語と歴史。趣味は山飛びパラのほか登山やハイキングで、休日はたいがい、日本よりは多く自然が残っていそうな亜熱帯のあの山々の中に入って、樹々や花々や野生の動物たち等との交流を喜びとする、まあ典型的ともいえるナチュラリストだった。

この大会の間も、他の選手たちがサーマル待ちやら何やらしている中で、彼一人、側(そば)の森の適当な木の間にさっさとハンモックを吊り、蚊取り線香を何個も並べてユッタリと昼寝をしていた。それを見ながら、「ああ^^やっぱり私と同じような種類の人だな・・・」と思った。彼にとっても、小さな世界での他の人間との競争など、どうでも良いことだったということだ。

言うまでもなく、台湾という国は日本とは非常に縁の深い国の一つである。興味がある方は地勢や歴史を調べてみるとすぐ分かることなので、ここでは詳しく触れない。しかし、この国に未だに「日本びいき」が多いことの理由を、日本がこの島国に対して行った「明治時代から終戦に至る間の植民地統治が見事であった」という通説に、私は多少の異議を持っている。これについて書き始めるとたぶん下手な論文になるのでここでも止める。

張先生の身近な友人に、どこかで英語を教えながら、あとはほとんどキャンプ生活みたいなことをしている面白いオーストラリア人がいて、彼は彼から英会話を習い、台湾語と北京語と日常会話には何の支障もない程度の英語を使うことができた。私が知っている数少ない中国語の「我愛仁」などを発声すると、「それはかなり違う!」といって北京語の「四声」を教えようと難儀した。

中国語が話せない私と日本語が話せない彼は、不本意ながら共通言語の英語を使うしかなく、そのうちお互いの国語を覚えようということになった。その結果、彼は数年で日本語をマスターし、私の中国語は一向に進んでいない。もっとも、簡体化されたとはいえ、あの国の書き言葉は漢字なので、東海岸に位置する「花蓮」という美しい地名の街で友達になった頼(らい)さんというパイロットとは「筆談」である程度の用は成した。

ところが張先生は、どこで覚えたのか「ウソでも嬉しい」という日本語一句をときどき口にしながら、エリアまでの道中にある店で何らかの品物を買い、おそらく数ヶ所にいる「ウソでも嬉しい」と言ってくれる女性の家に寄っていた。そりゃぁ、あんな心優しい先生だから別に不思議な光景ではないのだが、私は「あなたは全くマメな人だなぁ・・・」などと笑った。

大会の翌日、うちの学校でちょっと「特別授業」をやってくれと頼まれた。私にとっては渡りに船、二人の弟子にとっては迷惑な話だった。まず午前中の授業で私は英語で、それを張先生が中国語に通訳しながら、日本の地理や歴史の話を少しした後、質疑応答の時間になった。高専らしく、学生達の年齢はざっと見たところ10代後半から20代前半にみえた。まず女学生から「日本の着物はどれくらいの値段がしますか?」という可愛らしい質問があった。そんなことは私も知らんので「モノにもよるだろうが、たぶん200万円くらいかなぁ・・・」などと適当なことを言ってごまかした。

あと幾つかの質問の中で特に印象的だったのは、20歳過ぎの青年ので「あなたは尖閣諸島の問題をどう考えるか?」という政治的なものだった。この分野は私の専門でもあり、「おお、さすが大中国とモメ合っているこの国の生徒は、こんな難しいことをマジメに考えているんだ^^」と感心した。私は別のある日、国道を平気で走る戦車のキャタピラ音を遠くから聞いたことがある。

時間も限られていたので簡単に「この種の問題は、詰まるところ今のところ、国際連合や司法裁判所などの国際機関に任せるしかないのではないか・・・」と答えた。彼はちょっと不満げな顔を見せて黙った。そりゃそうだ。この問題には日本が大きく関係していたんだから、彼は日本国民としての私の意見を聞きたかったに違いない。しかし、たとえどんな国民としてでも、今でも私は同様の回答をする。あらゆる国家間紛争を、国家主権を盾に取った「武力(軍事力)」で解決できる時代は、もうとっくに終わっているのだ。

最後に「何か日本の歌を歌ってくれ」という要望が出た。これには私も二人の弟子も「なんで~^^;」ということなのだが、仕方なくほとんど聞くに堪えない「春が来た」を最後まで披露したら、クラス中が手拍子しながら喜んでくれた。あんな恥ずかしい思いをしたことも少ない。

午後の授業には弟子の二人だけが招かれた。私の即席講義はあんまり評判が良くなかったらしい。その間、食堂で初老の紳士教師とお話していたのだが、あの方も柔らかく話を運ぶ人格者だったなぁ・・・。もしまた招かれたら、それなりの準備をしてもっとマシな授業をしたいと思ったりもするが、張さんは既に定年になっているはずだから、近いうちにまた訪ねた時は、海や宇宙法界の話なども交えながら、美人奥さんの出身である山岳民(原住民)の方々の話なども、もっとお聞きしたいと楽しみにしている。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愚かな教え役

2019-09-25 11:27:00 | 追憶
ことのついでに・・・。では、愚かな教え役とはどういう人間かについて。これは単なる思いつきではなく、私の空での実体験にもとづいた、確かで少々マジメな話である。もう20年ちょっと前のことだが、ことの本質が変わらない限り、今後も同じことが起こり得るだろうし、現在も世界のどこかで起こっているかもしれない。



私は当時、動力パラグライダーの指導員として、20人ほどの弟子を持っていた。その中には高校生も数人いたので、つまらない事故は絶対に起こすわけにはいかない。毎週末、神経をすり減らす思いで教習を続けていた。彼らがまだ2年生の頃、動力飛行の初歩は一応マスターして、山飛び(山の頂上や中腹に設けられテイクオフから飛び立つ、普通のパラグライダー)がしてみたいというので、その内の二名を、日本からは比較的近い台湾では有名なサイチャ・エリアに連れて行った。


ここはそれ以前、単独で訪れたことがあり、たまたま飛びに来ていた大学の張先生にずいぶんとお世話になった場所だ。彼の勤務先や住居は、台湾南部の大都市・高尾から車で小一時間の地方都市・ピントンにあった。私がクロスカントリーの最長飛行距離40kmを飛んだのもこの時だった。これは私の十年間の滑空生活の中では飛び抜けて面白い体験だったので、またそのうち書く。
 
張先生は私の再来と高校生2人を大歓迎してくれ、早速、彼の車でエリアまで行った。その日はちょうどここで、パラグライダーの全国大会が行われていて、私たちは不意に「日本チーム」のプラカードを持たされて開会式に出ることになった。たぶん張さんが前もって話していたのだろう。
 
競技内容は2つのクラスに分けられていて、上級者は当時すでに当たり前になっていた「スピード・パイロン」。初級者は地上に描かれた同心円の中心を狙って着陸の精度を競う「ターゲット」だった。これも日本でもグライダーの滑空比が3~4という初期の頃によく行われていたものだ。私は初めての山跳びに多少緊張気味の二人の着陸を見届けた後、高度300mほどのテイクオフから離陸した。しかし時すでに遅く、まともなサーマルをつかむことがでないまま、ターゲットの真ん中にランディングして次々と降りてくる初心者フライヤーを側(そば)で見ていた。
 
そしたら、その中の一人(歳の頃なら50歳前の男性)が、ランディングアプローチでの高度処理を間違えて、かなりの高度を残したままランディング場に接近してきた。広いエリアだから、こういう場合、そのまま滑空するに任せてその辺りに降りればいいのだが、その人はなんと、ターゲットの真上30m辺りでフルブレークをやってしまった。真下にある円をめがけてエレベーターのように垂直に降りようとしたとしか考えられない。
 
次に待っているのは、とうぜん失速だ。空の世界では、ある程度の高度以下での失速は致命的なものになる。私は思わず「あら~・・・!」と叫んでしまった。彼はそのままバック気味(フルストールの失速はこうなる)に背中から地面に激突して、うめき声をあげたのち口から血を吹いた。私の目の前の出来事だったので、真っ先に駆け寄ろうとしたら、近くにいた運営役員のバカが下手な英語で「じゃまだからどけ!」と言った。
 
こういう場合、驚きが怒りに変わるは瞬時だ。「おまえ~!・・・私が何をしようとしてたのか見とらんかったのか!!」「おまえたちの国では、一体どういう教習をやってるんだ!!」と、私は彼を殴るほどの勢いで怒鳴りつけた。たちまち彼がシュンとなったのは言うまでもないが、息絶え絶えの初心者は、間もなく救急車に運ばれて病院直行になった。あの様子だとおそらく脊椎と内臓を損傷したに違いない。生きていたとしても車イス生活になってなければ良いが・・・。
 
この時の私はしばらく腹の虫が収まらず、張さんの家に戻ってからも怒りを込めてことの始終を話した。彼は「カンジさんは怒ると怖いですね~・・・実は台北にある、あのショップスクールの主は、飛行機材を売るに熱心で、教え方がいい加減なので有名なんです・・・」という話を聞かせてくれた。
 
そりゃそうだろう。教え方もなにも、飛行理論のイロハのイも分からないで、なんで自分の大事な生徒を、ただでさえ無理をしがちな「競技」などに出すんだ!! こんなバカげた話が、少し形を変えながら、実はここ日本でも起こっていた。次はその話をする。
 
また次の日に、張さんが担当する授業に招かれて一時間ほどした特別授業には、ちょっと面白い内容もありそうなので、これもそのうち書く。  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フロリダ

2019-09-20 10:45:00 | 仏教
この世界は不思議な縁(関係性)でつながっているという話。
 
私にとってはもう何十年も興味が尽きない(あの)チャールズ・リンドバーグの奥さんで、アン・モロー・リンドバーグ(飛行家・冒険家・作家)の末娘のリーブさんが、お母さんが書いた名作『海からの贈りもの』の「前書き」を書いているのだが、その拙訳をこないだブログに載せた。
 
今後もし何かの成り行きで日本語訳のいずれかが増版されるようなことがあれば、横井庄一のように「恥ずかしながら」提供させて頂きたいと考えてはいるが、『海からの贈りもの』が書かれたのは、フロリダ半島の西海岸沖にある、キャプティバ島の小さなコテージだった。
 
(フロリダ州 西のキャプティバ島、東のメリット島)
 
私はあの9・11テロの翌年、空の関係でフロリダのオーランド近くに広大なエアフィールドを持つ、フランス系の知人が主催する「ワールド・コンベンション」に日本からは一人で参加して、いろいろと面白い体験をしたのだが、そのついでに、レインジャーとかいう四駆レンタカーで、半島の東海岸を走り回ったことがある。 
 
ケネディ宇宙センターにも寄った。あの辺りの海岸は、まあ当然ながら、地理学的には小さな日本のモノサシではとんでもなく長く広く、海砂も適度に細やかで気持ちが良かったので、少し拾ってビンに詰め持ち帰ったくらいだ。
 
一週間に及ぶコンベンションの合間に、近くでやっていた、あの国では有数の航空ショーの見物にも出かけて、かなり面白い風景も目にした。air show そのものではない、そこにやって来ていた人間が面白かったのだ。ある青年などは、自宅の庭から真っ赤な複葉機で飛んで来ていて、私と会ったときは、その翼にハンモックをかけて昼寝していた。私には、夢も危険も多き1920年代、バーンストーミング時代の風景そのもののように見えた。
 
(フロリダの住居。ダンの愛犬が横にいるから、彼が撮ってくれたんだろう。あの酒呑詩人は、この犬をfunnyと呼ぶと、毎回「funny ではないfannyだ!」と、うるさかった^^;)
 
これには、これまた変わり者の友人というか、年齢的には私の子供みたいな、自称発明家で「僕の夢はタイムマシンを作ることだ!」と真顔で語る、イギリス青年のジャイルズというのが、私が行くというので、あっという間にマイアミに飛んできた。よほど慌てて来たのか何だかしらんが、飛行機に靴を忘れたとかで、裸足でエアフィールドまでやって来た。「お前なぁ、靴ぐらいは履けよ」と言っても「こんなことは何も問題じゃない」と平然としている。そのうちこれを見かねた人がスリッパなどを与えてそれなりの風体にはなった。
 
松山の我が家にも3日ほどいたのだが、あんなおもろい青年はまあ滅多にいないだろう。彼はその後、日本の匠(たくみ)の技(わざ)的工業技術を或る方からしっかり学んで、あの国で航空関係の会社を立ち上げ、そこで作ったエンジンでヒマラヤ山脈を飛び越えたりして、世界的にもそこそこ有名になった。タイムマシンはまだ完成してないらしい。
 
ワニがウヨウヨいるから沼池にだけは不時着するな!・・・ということになっているエアフィールドの端に、いつものテントスタイルで一週間通して生活している間に、ここでも変な日本人が来ていると思われたらしい。何人かの人間がやってきてお友達になった。これがまた、まぁちょっと変わった素敵な方々だった。
 
なんだか気の合うダン・リースはニューハンプシャーから来た六十歳過ぎのペリカン大好き詩人。元は東欧に派遣されていた兵士で、人生の無常をよく感じていたそうだ。「仏教の世界観では、生命の永遠性を説いているんだが、あんたはどう思う?」と聞いたら、「生命が永遠であるはずなんかねー・・・」とか言いながら、頼みもしないのに、有名どころの詩の一節を、東部なまりでとうとうと暗唱し始める。まあ一杯やってるからかもしれない。毎晩のように聞いていても、多少の解説はあったんだが、何を言ってるのか、私にはサッパリ分からなかった。
 
あの地の夜は春でも冷える。夜中あんまり寒いので彼のキャンピングカーから毛布を借りて、朝早く起きては少し離れた場所まで車で出かけ、日課の「正宗勤行」をして帰ってきたら、「お前、寒さに負けてホテルに泊まりに行っただろう!?」とか言うので、「いやいや、マジメな仏教徒は、毎朝、勤行プラクティスを欠かさないのだ!」と応えると、「それは良い心がけだな~・・・」などと感心していた。そのうち空を飛びたいと言い始めた。早速ちょこっと地上練習の基本を教えたのだが・・・まだ生きているんかなぁ・・・。
 
あと、記憶に鮮明なのは、ジャイルズ青年博士の師匠にあたるマイク・キャンベル氏。私より少し年上だった。彼は、もし航空界にもイギリス紳士みたいな人間がいたら、まさにこういう人のことをいうんだろう・・・というくらい、人間的に立派な方だった。弟子の友人とはいえ、こんな得体の知れないヘンテコな人間のために、キッチリとした礼を持って私のテント+住居タープまで来られて、慣れない正座をしたまま色々とお話しをした。私はお茶の道具も用意していたので、誰か訪ねて来たら、茶道の作法(全くいい加減な)をもって日本文化の一端を教えてあげよう・・・なんてことも考えていたんだ。この方とはその後もしばらくお付き合いが続いたが、私が地上の人になってからは連絡していない。
 
キリがないから、「ご縁」の話に移る。そういう訳で、フロリダは、北アメリカでは、私にとって数少ない想い出の土地だった。
 
(主催者デュフォー夫妻。「大事な事は忙しい人に頼め」と言う格言を教えてくれたのは、英語は私レベルの嫁さん、エリザベスだった。今は知らんが、フランス人はたいがい、英語を知らんぷりする。それがいいところだ。私もちょっと真似させてもらうことにした)
 
それが、今日、フェイスブックを見てみると、そのフロリダ半島のオーランド近くの東海岸、しかも地図で見たら、海の風読みスポーツにも最適にちがいない「メリット島」に住む、日蓮正宗・法華講の方から友達申請があった。ちょっとやりとりして、相当に篤信な方であることが分かった。今のオーランド周辺は混雑が酷いらしい。
 
「そのうち日本かフロリダでお会いできそうですね^^」「もちろんです!まちがいないでしょう!」なんて話になり、はは~・・・やっぱり広大深遠なこの「世界」の出来事は、目には見えない編み目のように、深いところでちゃんとつながっているんだ・・・という感を改めて深くした・・・・・というお話し。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする