庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

改名

2007-12-28 08:13:58 | 自然
その後、パームとココは実に仲良くやっている。元気が余っている時はしょっちゅう追っかけっこだ。パームが少し強めに噛むとイニャンとか言いながら、得意の引っかき攻撃と鼻の頭噛み付き攻撃で対抗する。

疲れて眠たくなったら、どちらが先にベッドに入るのかまだ確認してないが、いつの間にかくっ付いて寝ている。よほど相性が良いらしい。

3ヶ月を過ぎて、パームにはそろそろ躾けを始めた。ビーグル犬は大概そうらしいのだが、トイレがなかなか決まらない。ウンチは固形で拾えばすむから問題ないが、オシッコはシートを4箇所用意しても、まだどこにされるか分からない。

それに比べて、ココは全く手がかからない。トイレトレーにそれ用の砂を入れたらその日の内から全てここで済ませるようになった。匂いはほとんどない。エサもパームと同じものを喜んで食べる。一週間でだいぶ丸くなった。

ところが、パームはすでに「お座り!」や「待て!」ができるようになったのだが、ここで一つ問題が起こった。「ここにお座り!、とか「ここで待て!」とか命じると、ココがそこにやってくる。こんな子猫が、自分の名前を認識しているとは思えないからまだ偶然の出来事だろうが、混同が起こるのは時間の問題だろう。

そこで、子猫のココは改め、「三代目・ミー」とすることにした。またもやミーちゃんだ。今度のミーは念のためにワクチン接種をして、たぶん避妊手術もすることになるだろう。かなり懐の痛い話しではある^^;




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

猫が来た

2007-12-19 08:11:44 | 自然
昨日、堀江の海岸でパームの散歩をさせた後、海にむかって日向ぼっこをしながらパンを食べていたら、道路の方からニャーという勢いの良い鳴き声がして子猫が現れた。捨て猫だ・・・こりゃまた困ったぞ・・・という思いが頭を過ぎる。

実は20年以上前に飼っていたたミーというなかなか美人のメス猫も捨て猫で、ちょっと離れた駐車場から以前の自宅まで付いてきたら飼ってやろうか・・・と思いながら早足で帰ったらしっかり玄関までくっ付いてきた。まだ新婚のころだったから、家内はそう嫌な顔もしないで許してくれた。

3年ほど前、伊予市の海岸でまた捨て猫に出会った。今度はオス猫だが、実に美しい顔立ちをしている。ガリガリにやせていたから弁当を少し分けてやったら、傍を離れなくなった。帰り際に私の車に飛び込んできたらとりあえず連れて帰って、家内と相談しよう・・・とこれも賭けみたいなものをした。

すると、友人の車が何台もあるにもかかわらず、私の車めがけて一目散に駆け込んできた。これはしかたがない。連れて帰った。動物が苦手な家内はほとんど鬼になったが、一切干渉はしないという条件で許可を得た。やはりミーと名づけてちょうど1年間共に暮らした。結局彼は近所の野良猫と喧嘩して猫白血病に感染し1週間ほど苦しんで死んでしまった。

今回はパームも一緒だ。子犬と子猫が初めて出会ったら、どういう反応をし合うのか・・・興味深く見ていた。パームは尻尾をブンブン振りながら喜んで近付こうとする。子猫の方はパームが手を出すとシャーと吼えて威嚇するが、そう恐れている様子もなく程よい距離を取りながら寄って来る。しまいには私の体をよじ登り肩まで上ってきた。

これは困った・・・また賭けをしないといけないらしい。このまま車まで付いてきたらとりあえず連れて帰って、パームとの相性を見ながら、その後どうするか考えよう。家内が鬼になるのは目に見えているが、今回も一切ご迷惑はおかけしませんから^^;・・・と言うしかあるまい、と腹を決めた。

そしたら、やはりこの結果だ。犬と猫、まったく性質の違う別種の動物がどのように共同生活を送っていくのか・・・たった一日でこういう(写真)状態だが、お互いの動きや反応を観察していると実に面白い。

このメスの子猫には、やはり椰子の実関係でココナッツから“ココ”と名づけた。たぶん生後1ヶ月というところだろう。トラのような良い顔立ちをしている。性格も勇猛果敢でパームの少々の攻撃にも簡単にはたじろぐことはない。もうパームのシッモィもちゃにして遊んでいる。夜はいつの間にか同じベッドでくっ付いて寝ている。

本来動物の子どもたちは皆お友達になれる素質を持っているのだろう。夢のような世界だ。

さて、次に小鳥でも拾ったらャ潟lシアとでも名づけて、我が敬愛するドリトル先生の真似でもしようか・・・。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スズメ

2007-12-14 20:03:04 | 自然
スズメの日記は前に一度書いたことがある。我が家の屋根の端の瓦の下に、質素な巣をつくり毎年2回せっせとヒナを何匹か育てて、いつの間にかどこかに行ってしまう。

この屋根で育ったスズメたちは、巣立ちごとに数が増えて行き、その結果徐々にその家族数は大きくなり、生まれ育った我が家の屋根が安全で懐かしいのなら、広い屋根のあちこちに巣別れして大家族を形成しても不思議ではなのに、いつまでたってもこの巣一箇所に限られている。スズメの寿命は2~3年だろうということなので、増加数も自然に調整されているのかもしれない。

それが事務所の窓の正面から良く見えるので、暇があったら覘いているのだが、最近どうやらまた巣作りを始めたらしい。事務所のベランダにはスズメに限らず、何か野鳥の可愛いのが飛んでこないかとエサ皿を2個備えて、ご飯の残りやパンや、たまには市販の「小鳥のえさ」などを入れてあるが、今のところスズメたちの独擅場だ。

ところが、これだけ身近なところにいても、彼らの警戒心はそうとうに大きい。エサ皿に来たところをカーテンの陰に隠れて、そっと窓を開け写真を撮ろうとすると、たちまち飛び立ってしまう。これは寂しい。

スズメと人間との付き合いはきわめて古く太古にまで遡るはずで、人がいなくなった土地にはスズメもいなくなるくらいだから、もっと気を許してくれて、たまにはチュチュと肩や頭にでも止ってくれると、こんなにうれしいことも少ない。「森の生活」のH・D・ソローはコンコードの森近くの農園を耕していた時、ツバメが一羽飛んできて肩に止った。彼は狂喜してこれに優る肩章はないと書いている。

たぶん、いつの時代か日本人が食糧難に苦しんでいた頃、彼らを大量に殺戮したことがあるのだろう。今でもスズメの焼き鳥というのがあるしな・・・。やはり、一度失った信頼関係を取り戻すには多くの時間と忍耐が要るということだ。

鳥で思い出すのは、フロリダのシーワールドのテラスで朝食を取っていたら、実にたくさんの野鳥がテーブルのすぐ傍まで飛んできて、古い友達のように楽しく接することができたということだ。人になついているいうよりも、全く別種の生物として自然に信頼しあっているという空気に満ちていた。

日本にもああいう環境がもっともっと増えると、この世界は確実に多様で美しいものになるのだが・・・。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(無題)

2007-12-14 19:18:18 | 自然
昨日は曇り空だったが、体調がだいぶ良くなってきたので、数ヶ月ぶりに海に出てみた。十二月も既に中旬とはいえ、まだまだ海水温も高く、日中は10度以上あるので寒さは全く感じない。17年前のボードにかなり進化したというセールを付けて、ガスティ・オフの最悪の風の中、ワンレグ一往復。これで充分満足だ。セールの性能は確かに随分良くなっていた。

空の生活が長かったから、寒い季節に海に出ることは、もうそうはないだろうと思っていたのだが、今年から「カイトサーフィン」という相等に魅力的な風読みスメ[ツを知るに至って、“あの”若き日々にウィンドに投じた情熱と体の芯から燃えるようなワクワク感を再び感じるようになってきた。

カイトサーフィンはハワイの天才、ロビーナッシュを中心として10年ほど前から始まった新しい分野だが、ウィンドやカイトやパラグライダーやウェイクボードなど、さまざまな要素が統合されていて、いろいろ刺激があり勉強にもなる。しかし、私には機材の開発という点で、まだまだ発展途上の世界のように見える。目的ごとに特化が進みながら、更に容易で安全な道具に落ち着くまでにはまだ数年はかかるだろう。

だから今は、かなり古いカイトとボードを手に入れて、それないの感触を味わいながら、自分のスタイルに合った新しい道具の購入を模索している段階でもある。

それにしても、想像力を創造力に変えて、楽しい世界をどこまでも広げて行く人間という動物は素晴らしく不思議な生き物であるに違いない。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

女は強い

2007-12-11 13:47:00 | その他
今日の毎日新聞で、作家の渡辺淳一がとても面白いことを言っている。

曰く、「女より男の方が精神的に揺れやすい、ひ弱な生き物で、いざとなると腰が引ける。雄々しさと言うけど、男は芯が弱いから、神様は外見だけ強く造ったんじゃないかな。逆に女は芯が強いから、外見を優しくした。お母さんが男の子に『男らしくしなさい』と言うのは、放っておくと女になるからで、逆に女の子は、放っとくと男になるから『女らしく』と言われる。痛みや出血に対しても女性の方がはるかに強い。さらに男は持続する単調な仕事が苦手で、生命力も弱いから、現在寿命差が7年もある」

こないだNHKの番組で加藤登紀子と対談していた養老孟司も全く同じことを言っていた。

この観察は私の限られた人生経験でも的を得ていて大きくうなずく。そう多くの女性は知らないが、詰まるところは、女性は男性よりもはるかに強いということだ。私は二十歳代から何回も入院を経験しているが、うちの家内など結婚以来病気らしい病気をしたことがない。歳を追うごとにどっしりと逞しくなっていく。あの新婚当時のほっそりと折れそうだった姿態は一体どこに隠れてしまったのか、いくらか寂しい気もしているが・・・^^;

少なくとも外見上、男が女っぽく女が男っぽくなっていく世相は、実はその男女の本性に従おうとする、平和な時代の極めて自然な摂理なのかもしれない。おそらく平安時代がそうであったろうように。


そして、私の更なる興味は、いわゆるオカマやオナベと呼ばれる中性的人々のことで、古代の神々の多くが両性具有の中性神であったことなどを想うと、ある意味、彼ら彼女らこそ、人としての理想形を生きようとしている貴重な存在なのではないか・・・と勝手に想像したりもするのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ビーグル犬

2007-12-08 13:41:00 | その他
11月1日にビーグルの子犬が来た。昨秋、14年間共に暮らしたビーグル(ロビン)が静かに逝った時、深く想うところがあって、もう当分は動物を飼うのはやめようと考えた。しかし、なにか家の中の暖かい灯火(ともしび)が一つ消えて、私の日常のある部分にャbカリ空洞ができたような気がしていた。

その寂しさの空洞がどんどん大きくなっていき、ちょうど一周忌を過ぎた頃から、またビーグルが飼いたい!一緒に自転車散歩がしたい!・・・という気持ちが抑えられなくなった。

10月頃からしばしばネットのペットショップを覘くようになった。ロビンの面影に似たビーグルを探してみたが、なかなかこれはというのが見つからない。もっとも、幼犬の写真だけではほとんど何も分からない。

ところが、あるペットショップに、電話をするとネットのライブカメラで子犬そのものの動きを自由に見せてくれるところがある。なかなかいい面構えをした生後1ヵ月半の子犬をじっくり見せてもらった。ロビンとは顔立ち色合い共にかなり違うが、ともかく元気で愛嬌がありそうだ。よし!これにしようと決めた。

そして、ついに2匹目のビーグルが我が家へやってきた。いつも私が風呂で歌っている「椰子の実」の歌からパーム・ツリーにちなんでパームと名付けた。現在三ヶ月足らず。今のところ室内で飼っている。突進するように私の懐に飛び込んでくる。大変な元気だ。

何かにつけてロビンと比較してしまうのだが、まず、気が強い、風呂に喜んで入る、車酔いをしない・・・日増しに我が家の空気に溶け込んでゆく。可愛さが増していく。

やはり、動物はすばらしい・・・・。

(2枚目がありし日のロビン)




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時計草の実

2007-12-04 11:23:33 | 自然
今年の夏は激しくバテている間に過ぎていった。きわめて短かった(ような気がする)秋も瞬く間に去って、もう12月だ。今日は冷たい北西風が吹いている。

オゾン層だ、異常気象だ、温暖化だ・・・と案じだせばキリがないほど、現代文明の病は広く、根は深いところにあるのだろうが、それでもこうやって暑さが過ぎ、涼しさが過ぎ、寒さがやってくる。まだまだ豊かな四季の巡りを感じることができる場所に生きていることはあり難いことだと思う。

昨日の朝は久しぶりに雨が降った。冷たい初冬の雨。乾期にほとんど雨が降らないインドでは、雨が降ると「天気が良い」という。J・ラスキンは“Sunshine is delicious, rain is refreshing, wind braces us up, snow is exhilarating; there is really no such thing as bad weather, only different kinds of good weather. ”
日光は香(かぐ)わしく、雨は清新、風は元気の元、雪は爽快・・・悪い天気などというものはない、ただ異なった種類の良い天気があるだけだ・・・と言う。私も全く同感だが・・・しかし、それにしてもこの夏の暑さには閉口した;;




半年続いた時計草の花たちもようやく影を潜めて、今は橙色の小さな実を付けている。実といっても中はスカスカで、つまむとプスッとへこむ。このヘタの部分を、生後3ヶ月を迎えようとしているビーグル犬(パーム)が喜んで食べるものだから、どんなにうまいものか、私も鼻をこすり付けて匂いを嗅いでみた。



ヘタは懐かしい枯れ草の匂い。実を割ると微かに甘い上品な香りがした。匂いを言葉で伝えるのは難しい。臭覚は、これだけ豊かでたぶん生命の本源に直結しているであろう感覚であるにもかかわらず、色や音に比べて形容する語彙が極端に少ないような気がする。

全ての生命体、つまり、あらゆる動植物が共有する、あまりに自明で本源的で多様な感覚なので、先人たちは、これを人間にしか通じない言語で説明しよういうことにあまり魅力を感じなかったのかもしれない。

匂いの判断がいかに生得的で正確なものであるかは、どんな動物でも子どもを育ててみるとすぐに分かる。私は自分の息子が小さかった頃、食事の前に飲食物の匂いをかいで自ら身体に本当に適したものであるかどうかを必ず確かめてから口にしている姿に感動したことがたびたびある。「やはりそうだ!子どもは自分に必要なことはもともと知っているのだ!」・・・学生時代にルソーの教育論をかじっていたからかもしれない。

ただ、今でも、人間は元々なんでも知っているが、生まれ出た社会の偏ったものの見方の中で生きているうちに、本来の自分の中にあった豊かな直感や太古からの経験を忘れてしまうのではないか・・・という想いに変わりはない。つまり、にわかには信じがたいことかもしれないけれども、「本来、自分の中に全てはある」「知る」とは「思い出す」ことである・・・という考え方である。

人は皆、いやひょっとしたら全ての生命が、あらゆる可能性を持っている。あらゆる可能性の原因をその内奥に持っている。それがある時ある場所の何かに触れて、結果として表に出てくる。思い出す。時計草の微妙な匂いの世界に触れて、こんなことを想った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする