庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

冬の始まり

2012-11-16 19:57:00 | 自転車
今朝の室温、9℃。いよいよ冬が来た。 

私にとっての冬到来の時は、朝起き鰍ッに、温度計の針が10℃を切る・・・ということだ。外気温はもっと低かっただろう。 

海の方は、まだとうぶん水温が高いので特に問題はないが、これから海水温がどんどん気温に接近して、20℃を切り、気温も10℃を下回るような日はちょっとした苦行になる。1170975167.jpg
 
厳冬の1月、2月辺りは、海に入るのを考えてみようかなぁ・・・と、今のところは思っているが、これは大体、毎年この時期の年中行事みたいな心理である。ただ、確かに、そんな寒い時期に冷たい水に晒されなければならない必要性も必然性もない。

数年前からあれほど好きだった自転車散歩やサイクリングから遠ざかっている。今日、久しぶりに数キロ走ってみたら、あのゆったりとした自転車ならではの心地良さを思い出した。

真冬は自転車を漕ぎながら、あれこれの考えに想いを致すのも良いかもしれない。

堀江海岸

2007-03-17 22:15:18 | 自転車
今日は北東風が冷たかった。暖冬にもやはり寒の戻りというのがあるのか。しかし、空は快晴で太陽はすでに春の高さだ。いつもの自転車散歩で、昼から何年かぶりに堀江海岸まで行ってみた。

この浜は、もう四半世紀以上前に初めてウィンドサーフィンのボードを浮かべた場所だ。風の力だけで海上を移動できることの不思議。真夏の1m/sに満たない微風の中で初めてセールアップに成功し、海面をボードが滑り始めたときの感動は、通販で買ったパラグライダーでスキー場から初めて飛んだ時の感動を凌駕していたかもしれない。それから10年近く、とことんこの海の風と付き合うことになるわけだが、どこまでも魅力的なこの風の世界との縁は、まだとうぶん切れそうもない。



堀江海岸はちょうど整備工事の最中で入れなくなっていた。浜の西側は松林しかない殺風景な場所だったのだが、今はテラス風の海岸道が整備されて、ちょっと洒落れた風景になっている。東の浜は昔のままでなつかしかった。これから良い北東風が入れば、また風に吹かれに来ることになるだろう。今度はもっとゆったりと・・・。



久々のサイクリング

2007-01-28 17:49:28 | 自転車
もう20年以上ほとんど日曜も月曜もないような生き方をしている私も、週末になると少し心が浮き上がりワクワクして世界が楽しく見えてくる。子供の頃から身に付けた生活のリズムはやはりそう簡単には抜けないものだ。今日は若干風が冷たいものの天気もまずまず。久しぶりに自由になった日曜日の午後をサイクリングに使うことにした。

何年か前に膝の不具合を解消するために、市内の移動は全て自転車に変えたことはどこかに書いた。その結果、数年続いた正座もできないくらいの痛みが数ヶ月で消え去り、完全に自転車の世界にハマルことになるのだが、ここしばらく何やかやと忙しくてまとまった距離を走れないでいたのだ。

サイクリングといっても、私のスタイルは基本的に“ゆっくり走る”ということで平均時速15kmを超えることはめったにない。視線を3mほど前に落として10km/h前後でゆっくり漕ぐのは思索にも適するということを確認している。机の上でゴチャゴチャと錯綜していた問題が自転車を漕いでいるだけでスッキリ解決したりする。途中で歩きたくなったら右手でハンドルの根元を軽く押さえて歩く。これがまた気持ちが良い。ゆっくり進むほど多くのものがはっきり見えてくるということも、私は既に知っている。

近現代文明が生んだ最高の発明品を三つ挙げよと言われたら、私は迷いなくその一つに自転車を選ぶであろう。漱石がイギリスでの自転車修行に成功していたら、ひよっとしたら彼の頑固な胃潰瘍も平癒してもっと長生きしたかもしれないし、マーク・トゥエインがもうちょっと辛抱強く自転車操縦の練習をしていたら、晩年あんなに悲観的にならずに済んだかもしれない・・・とさえ思ったりする。

さて、今日のコースは街の北はずれにある自宅から市街地を南に横切って郊外まで出る、河川敷の長い土手を遡上して国道に突き当たったら北に曲がってまた市街地を抜けて帰ってくる、という25kmほどのコース。途中には河口部分もあるから、海も見える鳥も見える遠くに四国山系も臨める。

このコース取りでのひと工夫は、それなりに自然の力を考慮してあるということ。この辺りは、晴れた日の午後はほぼ西からの海風になるから、西に向かうときは風除けの多い市街地を、東に向かうときは河に沿って吹き上がってくるリバーウィンドを最大限に利用する。河口から国道までの土手道路数kmは若干の上りになっているのだが、今日も5m/sほどの風に押されて実に快適であった。





城山

2006-12-28 13:30:08 | 自転車
久しぶりにお堀を自転車散歩して図書館に寄った。野球場に続いて競輪場も取り壊され更地の整備が進んでいる。賭け事と縁の薄い私にとっては鬱陶(うっとう)しいだけの無粋な構造物がなくなって、堀の内を十字に通う道路から二の丸跡や城山にかけてが一望できるようになった。松山城も先だって改修が終わり元の落ち着きを取り戻している。





賑やかな黄色で空間を彩っていたイチョウ並木は、すっかり葉を落として厳しい冬の表情になっていた。しかしこれがまた美しい。次の春また新芽を吹き出すまでの間、その内側にどんな密やかな自然の呟(つぶや)きが溢れているのか想像してみる。



広大な空き地の水溜りではカラスが水浴していた。フェンスに止まってテープの切れ端で遊んでた奴はカメラを全く恐れず、全身をリズム正しく上下させながらカーカーと数回何事かを訴えた後、私に向かって飛び立ち目前2mを横切って行った。その仕草を見れば見るほど人間的な鳥だ。





アインシュタイン 大きな勇気がいる

2005-09-13 09:02:29 | 自転車
Any fool can make things bigger, more complex, and more violent. It takes a touch of genius-and a lot of courage-to move in the opposite direction.
-Albert Einstein

愚か者は皆、ものごとを、より大げさに、複雑に、破壊的にし得る。その反対の方向に進むには、わずかな才能と大きな勇気がいるのだ。
<Aインシュタイン



アインシュタインは自転車に乗っている時もほんとうに楽しそうだ^^。

“愚か者”は、別に“理知的な愚か者”になっているものもある。彼はまた、「神は常にもっともシンプルな道を選ぶ」God always takes the simplest way. とも言っているが、やたらと複雑な(にされた)人間社会の中で、単純な事実や真実を語り、更にそれに基づいて生きることは、そうたやすいことではない。“大きな勇気”が必要とされる場合が多いというのも、よく分かる気がする。

久々のサイクリング30km

2005-09-11 09:06:14 | 自転車
忙しかったり暑かったりで1ヶ月以上中断していた今治行きサイクリングを先週から再開した・・・といっても90kmではなく30km。

これまでキャンプや旅行で遠出する時は20インチの折りたたみ自転車を持参していたのだが、やはりいろいろ装備を付けて乗りなれたジャイアントを使いたいという気持ちが強くなったので、車のバックドアにサイクルキャリアを付けてみることにした。これが予想以上に使い勝手が良くて、フロントバッグやバニアバッグでかさばったジャイアントでも実に簡単に脱着できる。



先週も、お昼時の炎天下で90kmはちょっと無理があると考えて、3分の2の距離を車のお世話になったというわけだ。ちょうどこの地点はいつも一服する海岸休息所なので駐車するにも問題がない。

先の台風の大雨で水量が増えてきれいになった小川ではカモの親子、今治のソウジャ川ではコサギを見かけた。いつも思うことだが、自然の中で生きる彼らの美しさは一体どこから来るのか・・・。





久々の90km+

2005-07-30 09:10:24 | 自転車
ほぼ1ヶ月ぶりの今治行き90km。過去2回、途中で暑さに負けて、已む無く引き返したことは前に書いた。炎天下のサイクリングは特別な注意と準備が必要なのだ。

今日も午前中の仕事を片付けて、出発はやはり昼前になった。うす曇りの天気だがやはり暑い。空を見上げながら「今日も暑いな~・・・」とつぶやく私に、家内いわく「こりゃ、今日も途中で引き返してくるわ・・・^^」この一言で私の胸にカチンと小さな火が付いた。今回は何としても走り切ってやるわい^^;「無理をする必要はないし、するつもりもないが、ともかく行ってくるぞー!」

結局、今回は頭がクラクラすることも、途中でU<^ーンすることもなく、かなり余裕を持って94kmを走り切ることができたのだが、前回の反省から多少の考えはあったのだ。

・まず、ズボンは膝上までめくって下半身の風通しを良くする・・・これは予想以上に涼しくて効果抜群だった。サイクルパンツで走っているロードレーサーの皆さんが簡単にはバテない理由の一つが分かったような気がした。
・次に、上はTシャツではなく、ボタンの付いた綿シャツにする・・・これも前を広げると風の流入量は相当なもので実に涼しかった。
・更に、グローブを水に浸す・・・手が冷えると、なんだか体中が冷えるような感覚になるのは私だけだろうか?これで顔をぬぐったり脚をふいたりすると、しばらくは気化熱発散の効果を味わうことができる。

それと、写真の撮影休息をかなりこまめに取った。新しいデジカメの扱いにもだいぶ慣れてきたようだ。


一面のハス


大きなつぼみの先に鼻を当ててパフッと押したら、実にほのかな良き香りがした


3時のャ^リング

2005-07-23 09:13:08 | 自転車
今日は午後の3時を挟んで1時間ほど街中を自転車でブラブラしてきた。目的が全くなかったわけではない。その匂いを嗅ぐと決まって田舎の昔の夏を思い出す“蚊取り線香”が切れたので、ホームセンターまで買出しに行っていたのだ。

しかし、大そうな目的もなく自転車でブラブラすることをャ^リングと言うのなら、まあそのようなもので、セミの声が賑やかなケヤキの枝ぶりを下からじっくり眺めたり、既に西に傾き始めた太陽の影をビルの下に選んで涼をとったりしながら、午後の街中をちょっと楽しんできた。


セミが賑やかなケヤキ


お堀の横の大通り

ところで、“ャ^リング”という言葉は、英語の”potter”から来ているということだ。「ぶらつく」という同義の米語は“putter”で、ゴルフのパターと同じ発音だ。

友人の英国人が、米語の発音は汚くて聞くに堪えない、と言っていたことがある。彼国の或る部分には、未だにアメリカはイギリスの子供である、みたいな気質が根強く残っているようなところがあり、19世紀末、自転車技術の一つの集大成として“セイフティバイク”が完成したのが彼国であったことなどを考えると、これを「自転車散歩」などと無理な日本語にするより“ャ^リング”で充分だと私も思う。

ただ、それはともかく、日本の戦後英語は基本的に米語式発音が主流のはずで、“ャ^リング”がどうして“パタリング”にならなかったのか・・・どうでも良いことだがちょっと気になる。

デジカメケース

2005-07-20 09:16:01 | 自転車
私のサイクリングにデジカメが欠かせなくなって久しい。特に、解像度が上がり随分小型になってから、どこに出かける時も持ち歩くようになった。1年半ほど前から使っているFUJIFILMの200万画素はちょうとズボンの尻ャPットにスッと入るサイズで重宝している。

ただ、ズームを利かせた遠景や、簡単には近づかせてくれない鳥などの被写体を撮る場合は、ほとんど役に立たないので、今回、手振れ防止機能がうたい文句の500万画素(パナソニック)を購入した。光学6倍、電子ズームで24倍まで使える。

試しに手持ちフルズームで夕方の月を撮ってみたら、こんな感じでそこそこ見るに堪えるものが撮れることが分かった。手振れ防止はウソではなかった。



ところが、光学6倍となるとレンズ部分がカサ張って、尻ャPットからすんなり出し入れができない。そこで、自転車で走りながらでも簡単迅速に取り出せるように、ハンドル手前のフレームに↓こんなデジカメケースを付けた。ホームセンターに500円ほどで置いてあった汎用ケースだが、このカメラにぴったりだ。横面にフォルダーも付いているので、サングラスも良い具合に収まる。





歩道か車道か

2005-07-16 09:17:24 | 自転車
或る方のブログに、「車道、歩道、どちらを走るか」というテーマがあった。少し興味があったので、次のように書き込みさせて頂いた。

「道路や交通の状況にもよりますが、私は、歩行者的に(ゆっくり)走る時は歩道、自動車的に(速く)走る時は車道の端を使います。早い遅いは時速10~15km程度が基準です。もっとも、自転車道が整備されている場合は別です。」

すると、続けて或る方から次のような書き込みがあった。

「基本的にどんな自転車でも車道です・・・世間一般って、意外に自転車のこと知らないですよね~(>_<)ヽ」

これが、この国に住んで相当の期間、この手の「思考方法」に若干うんざりしている私の触手に触れたので、こんな書き込みをさせて頂いた。

「“基本的に”ってのは“法律的に”ってことかな~?もしそうなら、自動車免許持ってる程度の、あまたの“世間一般”は、自転車が道交法や車両運送法上の車両の類だろうなんてことは、充分承知してると思いますよ。
 問題は、「何のための法律か」ってことじゃないかな~?
 車道走ってて車に跳ねられたり巻き込まれたりして痛い目にあってる自転車乗りがどれだけ多いか。いかに多くの自転車が“無理なく”歩道と調和して走っているか・・・。
 まず自らの生命と安全第一に、法律用語の類で言うと、所謂「個別具体的に」現況に合わせて判断するのが妥当に違いない・・・と自転車乗りの端くれは思いますが・・・。」


今西錦司の「棲み分け理論」がそのまま適用できない人間社会の悲しさかもしれないが、このテーマについては、時々、いくぶん激しい議論になることもあるようなので、私の意見の片端として、ちょいと記しておく。