庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

灰谷健次郎

2006-11-29 11:55:56 | 拾い読み
図書館で灰谷健次郎の本を3冊借りてきた。私の貸出希望リストを見て、いつもの係りのおばちゃんが「灰谷さん、亡くなりましたね」と寂しそうに言った。

すべて1980年代前半に書かれたもの。いつもの習いで、あちこち気の向いたところから拾い読みしているわけだが、これはちょっと腰をすえてじっくり読み込まないと申し訳ないな・・・という気持になる。

 

彼の文章にはそれだけの深さがあり力がある。そして、『わたしの出会った子供たち』の数章を読んで、その力の源泉がどこにあるのかが少し見えてきたような気がしている。

“優しさの源流”の章に次のような一節がある。

「一つの生命は他の無数の生命に支えられてあるということを、もっともわきまえているのがこのような人たちだろう。そこでまた思い出すことがある。そういう世界を、そっくりそのまま生活の中に持ち込んでいたのが、子供たちではなかったか。そういう証(あかし)を子供の表現の中からいくらでもひろうことができる」
・・・・・
「彼らの中にあっては、もともといのちというものは、それがどんなちいさないのちであっても対等なものとしてとらえ、友愛の時間というものを、瞬(またた)く間に成立させてしまう特技を持っているのだ。
犬や猫にも、蝶や小鳥にも、草や木にも、風や雪にも、あらゆる自然物と対話することが可能なのだ。子供たちが、沖縄の人たちがそういう世界を持っている。
人間もまた自然の一部であるという考えから遠ざかったとき、人は地獄に落ちるのだということをぼくはぼんやり考えていた。」

彼がその72年の人生の最終章の15年を渡嘉敷島で過ごせたことが、どれほど幸せなことだったか・・・ということにもこれから少し思いを巡らしたい。しばらくは、彼の世界との付き合いが続くだろう。

二つの訃報

2006-11-25 12:08:18 | 拾い読み
今週は好きな作家が2人続けて亡くなった。20日の斉藤茂太90歳と23日の灰谷健次郎72歳。全く分野の異なるお二人で共通点を見つける方が難しいくらいだが、私はどちらの書かれたものも好きだった。

斉藤の弟は“躁鬱”で有名な「ドクトル・マンボウ」の北壮夫。斉藤自身は飛行機好きの自称“慢性的軽躁”の精神科医。文学も専攻された大学の大先輩だったことは彼の履歴を見直して初めて知った。

躁と鬱の分類を使うと、灰谷の子供たちや人間に対する姿勢は、彼の“軽欝”的性格がベースになっていたのかもしれないし、斉藤も精神科医として人間世界の多くの苦悩に共鳴することのできる鬱の側面を持っていたにちがいない。

灰谷や斉藤の作品を通底して流れるこの世界や人を見る眼の“優しさ”は、陰陽苦楽が同居するこの現実世界で、日の当たらない影の部分と、その中で生きる人間の本源的な善性とでも呼ぶべきものから、決して眼をそらさない姿勢から生まれていたのだろうと思う。

葬儀も告別式も喪主の存在も拒否した灰谷の意志と生き方に、いま少し思いを巡らせてみたい。

  
 

二度咲き

2006-11-18 10:31:32 | 自然
今朝の室温12℃。ああ・・・今年もいよいよ冬が近い。 

しかし、10月に盛大に花を咲かせて庭に金色の雪を積もらせたキンモクセイが、こないだ二度咲きをして再びあの素敵な香りを放っている。こんなことは我が家では初めてじゃなかろうか。 
やはり温暖化の影響なのか・・・自然の変化については、物言わぬ植物たちは騒がしい我々人間たちよりもはるかに敏感なのかもしれない。



カモメのジョナサン

2006-11-18 09:55:51 | 大空
昨日、いつもの海岸で凧揚げの練習をしていたら、カモメが完全に単独でサーマルソアリングをしていた!!これは極めて珍しいことで、まずほとんどのカモメは群れるし、リッジ(斜面上昇風)を使うことはあってもサーマル(熱上昇風)に興味を示すことは滅多にない。

天気は快晴、暖かい。風は北西、サイドオン2m前後の微風。弱い海岸性前線みたいなものができていたのかもしれない。河口の先端の干潟上空50mあたりで左旋回しているのを見つけた。

これは珍しい・・・とじっくり観察することにした。5分間ほど一度も羽ばたくことなくそのままユックリ1旋回10秒程度のペースで回し続け、陸方向に200mほど流されながら100mほどゲイン(上昇)して、直線滑空で海上に抜け、再び左旋回で上げ始めた。トンビの旋回と比べるとやや滑らかさに欠けるが、いずれにしても見事なセンタリングだ。

R・バックの「カモメのジョナサン」はカモメ社会の非難と嘲笑を浴びながら飛行の可能性をどこまでも追求し、終には「瞬間移動の術」を身に付けることになるのだが、こいつもたった一羽でソアリングの術を窮めようとしているのかもしれんなぁ・・・などと思いながらしばらく眺めていた。


防波堤のリッジで遊ぶカモメ

ところで、人間に聞き手利き腕があるように彼らに“利き旋回”があるのかどうか・・・ちょっと興味深いテーマだ。今まで出合ったトンビの類は、状況に合わせて巧みに左右を使い分けているように見える。ちなみに私自身は地上では左旋回、空中では右旋回だ。(これにはプロペラのトルクリアクションの影響が大きい)

虫を描く

2006-11-13 12:00:54 | 自然
昨夜のNHKアーカイブスはPCで予約録画しておいたのだが、あんまり面白くて結局深夜の放送を最後まで見てしまった。

15年前のプライム10で放映された「私は虫である~昆虫画家の小さな世界~」と40年近く前の、「日本の自然・小さな世界 昆虫」。

 

「昆虫記」のファーブルを生涯唯一の師匠とする熊田千佳慕は当時80歳。現在も95歳で健在。もと農家の納屋だった借家に奥さんと二人で暮らしている。家賃26000円のボロ家は樹木や花々で一杯のほとんど小さな森のような庭に囲まれている。彼はこの家から半径1kmを出ることは年に数回しかない。45年間一度も外泊したことがない。

その容姿、生活風景を見て・・・私は即座に画壇の仙人・・・熊谷守一を思い出した。



熊田は写実の極致、熊谷は抽象の極致・・・お二人の画風は全く異なるが、その生き様は驚くほど似ている。共に、自分が本当に好きなことを正直にやっているということ、人生の悲しさを知っていること、小さき生きものたちに寄り添っていること、何時間でも飽きることなくその生態を観察しつづけること、世評を意に介さないこと、清貧の生活に満足していること・・・。 

その超俗的な生き方は、俗世に漬かって忙(せわ)しない私の日常などとは程遠い世界のように見えるが、実は、極めて近いところにあるような気もする。この宇宙のあらゆる現象は、どうやら相反するものを基本に成り立っているからである。

2006-11-04 19:27:59 | 自然
地球に住む私たちに最も影響を与えている天体はいうまでもなく太陽と月だろう。私が小学校の頃は「月は地球の子供」説を教えられたように記憶しているが、最近の天文学の成果ではどうやら、どちらも何十億年も前から地球と共に宇宙空間を正確な法則性に従い互いに影響しあいながら動いているらしい。それにしても、太陽と月の見かけ上の大きさが見事に一致することや、月がいつも同じ面しか見せない(自転周期と公転周期が同じ)のは単なる偶然だろうか・・・などというようなことは、今回の本題ではない。

今夕、買い物ャ^リングで東に向かって自転車漕いでたら、真正面30度くらいの高度に満月に近い月が出ていた。この季節の月はどこか風情のあるものだが、まあ、いつもの見慣れた月だ。

ところが、昔どこまで追っかけてもお月様が近づいてこないを奇妙だと感じていた頃もあったなぁ・・・などとというようなことを、ボンヤリ思い出している時にちょっと非日常的な感覚に襲われた。

いつもは暗い天空に円の平面として張り付いているようにしか見ていない月が、たしかな球として宇宙空間にしっかりと存在しているということ。それが億年を超えて絶え間なく運行を続けているということ。その圧涛Iな存在感と不思議。その下でそれを見ている自分と街の夕景との見事な調和。そんな事実が静かな感動と共にクッキリと見えたような気がしたのだ。

人間が作り出すことの諸々は不調和の連続かもしれないが、宇宙は、この世界は、そんな小さな事々にお構いなく常に厳然と調和しているように思える。