庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

反省と後悔

2012-10-29 20:55:00 | 創作
たいがいにおいて、不完全な人間という動物は、さまざまな局面で失敗をする。失敗を繰り返すことによって、経験を重ね、経験の蓄積が、成長の土台になる。だから、失敗は「成功の元」になるだけでなく「成長の元」になることも明らかな事実だ。 

ただ、気を付けるべきは、多くの場合、失敗には後悔の念が伴うということだ。「ああすればよかった、こうすればよかった」の類である。このマイナス感情に捕らわれると、「失敗が失敗の元になる」ことも多い。 

過去は過ぎ去ったものであるから、元にはもどることはない。しかし、普変のものでもない。過去の事実は変えようがないが、過去の事実に対する評価や意味づけ・・・言い換えれば「過去の見え方感じ方」は、現在の自分の変化によって如何様にも変化する。 

だから、通常は苦しみを伴う「後悔」という人間的行為に、ほとんど意味はない。無駄な苦悩と言い切って良いだろう。 

そして、過去を振り返ることに積極的な意味があるとすれば、その事実と評価の中に、適当な反省材料を見出しながら改善や改良を加え、未来に向かって、より良く幸せな自分や環境を作り出していくということであろう。

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塩屋の順風

2012-10-28 22:22:00 | 海と風

今日の塩屋海岸には、安定した腰の強い西寄りの風が入っていた。火曜日以来5日ぶりの順風だ。私の海通いは、多くの愛好家が楽しんでいる散歩やジョギングと同じで、午後の日課になっている。3日も海風を吸わないと、なんだか身体や頭の中に良からぬガスが溜まったような気分になる。

もう何年も前から、午前中は頭を使い、午後は身体を使い、夜はできるだけ何も使わないでボケーとすることを、生活パターンにしたいと計画し、それなりに実践してはいるが、もちろん計画通りにいかないことがあるのは、いい加減な人間の宿命として仕方のないことである。
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昼過ぎに到着した時点で6~7m。私のラムエア19㎡ちょうど良い風だ。若干南西よりから寄せ来る波の様子では、上がっても8m余りだろうから、10mまでは何とか使える19㎡の許容範囲だが15㎡でも充分走れる。私は大体ゆったり跳びたい時は大きいサイズを、少しクイックな回転技やトランジション(方向転換)をしたい時は小さいサイズを選択する。

私の風読みの仕方が、ウィンド・サーフィンの時代と違うのは、海面をなめるように吹き渡る風の強弱によって、色の濃淡や波高・波質を変える海面の様子だけでなく、上空の雲の様子や、頬をなでる時々の風の質の変化にも注意を向けるようになった、ということだ。 

これは長い空の生活で身に付いた習慣で、カイトサーフィンでは、人間はほとんど海の上を走ってはいるが、カイトウィングは飛行翼として空中を走っている。半ば以上はスカイスメ[ツの一分なのだ。 

この海岸にまともな西寄りの風が入ると、時によってはヘッドに近い波が入る。いくらか遠浅になっているので、沖ではそこそこの波長を持ったスウェル(うねり)が入り、海岸近くではきれいな巻き波を何層か形作って、ちょっとした波乗り気分になれる。この辺りでは貴重な浜だ。 

前回は、風こそ不安定だったが、少し沖のうねりはショルダー程度はあり、このエリアでは久しぶりのウェイブ・ライディング(みたいなもの)を味わった。今日はちょっと速めの順潮(風向と潮流が逆で、風上に向かって上りやすくなる)だったので、小さな波は尖り気味の潮波に変じて、あんまり面白いものではなかった。 

しかし、徐々に西に傾いて行く太陽を反射する海面で千変万化する波の様子を観察しながら滑走したり、適当な波頭を見つけてジャンプや回転を繰り返したりしながら、私はある想いに浸っていた。私の場合、しばしば起こる、ほとんど日常的な出来事である。 

「これらの風も波も空も光も、そして、こうやって、その中で動き、感じ、考えている自分という存在も、全てが確実に連続しながら繋がっている、一つの壮大で同時に繊細な世界の出来事である・・・」というようなことだ。 

まあ、当たり前といえば当たり前のことなのだが、この感覚を、人間社会の日常で味わうことはそう簡単なことではないかもしれない。


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風のとらえ方

2012-10-28 00:03:00 | 海と風

ずっとインドア志向の青年だったS君が、海の広大な優しさや、風の力用《りきゆう》に目覚めて2ヶ月が経過しようとしている。カイトの練習もすでに15回を超えて、機材の取り扱いにもだいぶ慣れてきたようだ。優しい風の晴天日には、一人でイソイソと近くの浜まで出かけるようになった。もうじき板を履いて、海上でそれなりの走りをするようになるだろう。

もちろん海の上を走るだけがカイトの世界ではない。空の世界に習って私が「グラハン」と呼ぶ地上練習は、地上や雪上で行うランド・カイトの類と考えていいだろう。これはこれで、充分に楽しく奥も深いことは、これまでの練習生や彼の様子を見ていると良く分かるし、私自身も日常的に味わっていることだ。3b8d752c.jpeg

頭上10mほどの風をとらえたカイトウィングは、上下左右、極めて広い範囲で運動しながら大小のエネルギーを様々な方向に向けて発生する。

そして、その豊かなエネルギーは、ハーネスの中心フックを通して、ほぼ人の重心にあるヘソ近辺に集まることで、ひとたび体内に取り込まれ、グラハンなら脚に伝わって、サンド・スライディングやちょとしたジャンプに姿を変える。

そのまま海に入れば、サーフィンの一類にボディー・サーフィンがあるように、ボディー・ドラッグという一つのスメ[ツや遊びになり、板(ボード)を履けば、なじみのカイトサーフィンになる・・・等ということだけのことである。

これも空気の動き、つまり風を利用するナチュラル・スメ[ツの仲間であることは間違いないが、カイトスメ[ツが他の多くの風読みスメ[ツと大きく異なるところは、とりあえず思いつくだけでも、次の三点ほどあるように思う。

・その動力源が、作用部分(身体)からはるか20mも離れたところにあり、しかも、大きく三次元空間で動き回るということ。

 ・その動き方によって多様に変化する動力の作用点が、身体の一点に集中すること。

 ・その動力が、身に付けた道具(カイトボードやスノーボードやスキーなど)に直接伝わらないということ。

これら極めて大きな自由度を含む特性が、具体的にどういう影響を人間の身体や心に与えことになるか・・・最近の私の関心は、この辺りにあって、その視程は、風の本体である空気の性質や、空気の動きを生み出す地球の動きから、それを大きく包み込む大宇宙の世界にまで及ぼうとしている。これはコトの必然の流れだと思う。

アイルランド僻地の一軒屋や小さなヨットの中で風に吹かれながら、あの大作『風の博物誌』を書いたライアル・ワトソンは、風を、その常識的定義である「空気の運動」に止まることなく、「風とは生命である」と見極めた上で、彼にとって可能な限りの、実に多岐にして広範な科学的解説を試みた。そして、それで充分だとは、もちろん思っていなかったにちがいない。変転、代謝して止まない生命活動の全体像を、合理的に分析し法則化し完全に再現することなど、到底不可能なことだからである。

しかし現実に、そこに風は存在し、その本質は生命に似て、人間の生命の内側に吹き込みながら、活力や喜びや勇気を与え続ける。やはり、私の風の世界に対するアプローチの方法は、論理と直感、形而下と形而上の領域の交わるところ辺りにあるのかもしれない。


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無料が通って道理が引っ込む前に

2012-10-27 15:23:00 | 政治

一昨日だったか、石原都知事が突然の辞任会見を行った。40数分に渡って、彼らしい饒舌で、次期衆院選への出馬や新党結成の意気込みや、憲法改正への情熱や国家の中央官僚批判などを語っていたが、私はその全てを聞いたわけではない。

彼が、この4期13年余りの間に、例えばジーゼル車の排ガス規制条例や東京国際マラソンの開催などで、首都東京の活性化に尽くしたことは、多くの支持者が認める通りだろう。また、その「活性化」の恩恵に浴すること少ない多くの都民がいることも事実だろう。

彼がまた、尖閣諸島の都有化に情熱を注ぎ、結果的にそれが国有化されることによって、多くの都民や国民が、我が国の利益につながると考えていることも事実だろう。

更に、彼が少なくとも都民の多数派の支持によって、その地位を与えられ続けたということ、もしも今期の任期を満了して5期目の都知事選があったとしても、おそらく当選するだろうという推測も、かなりの蓋然性をもって成り立つだろう。

彼の弁舌は実に歯切れの良いもので、マスコミ各社との質疑応答の姿勢の中にも、私は一種の爽やかささえ覚えた。しかし、私が視聴した範囲で、ちょっと気になり、けっして聞き逃すことができず、全く賛同できない発言もあった。

ちょっと気になったのは、最後の「お国のために最後のご奉公をさせていただく」という言葉で、そこには「国民のため」はもちろん、「世界の人々のため」などという表現がなかったこと。 

そして、聞き逃すことができず、全く賛同できないのは、憲法改正に触れた部分。彼はおよそ「今の憲法は、占領軍に押し付けられた、醜いものである・・・」というようなことをハッキリと語っていた。

彼の改憲姿勢は今に始まったことではないから、改めて驚くこともない。だが、日本国憲法の条項が「押し付け」であり「醜いもの」であり、したがって改正すべきものであると観る根拠は、彼の場合どこにあるのだろう。

私は日本の一国民として、日本国憲法を押し付けられたとも、醜悪だとも、読んで分かりにくいと思ったこともない。こんなに簡潔な日本語も少ないだろうとさえ思う。(※) 

もっとも、国家統治の側に立ち権力を有する人たち、つまり、立法・司法・行政などを担当する公務員は、これを「尊重し擁護する義務(99条)」を負っていることから、石原氏を含む彼らがその義務を「押し付けられている」と感じても何も不思議ではない。

憲法の第一義は、公的権力を持たない国民(統治される側)が、それを持つ国民(統治する側)に対して「押し付ける」種類のものであることは、少しでも憲法を知る者の常識であり、全世界を通して近代的立憲国家の常識でもある。

彼が言いたいのは、もちろん「第9条の平和条項」がアメリカの占領軍によって、日本国民全体に押し付けられたもので、日本人が自ら考え作り出したものではない、ということは明らかだ。

それは、彼が、少なくとも平和条項を素直に読んでないこと、明治以降の憲法史に疎(うと)いこと、当時まさに現行憲法の草案作成の現場にいた、首相「幣原喜重郎」の『外交五十年』も、占領軍総司令官「マッカーサー」の『回顧録』も、まともに読んでないこと・・・なとも明らにしているだろう。

憲法によって国家は作られている。国民は国家の存在に無関心でいることはできるかもしれないが、国家は決して、国民を無関心の対象としない。つまり、たえず干渉し、時に強制し、服従を強いることもある。

だから、興味がある人も無い人も、たまには実に簡潔な日本国憲法を読んでみることを、多くの憲法愛好家の方々同様、私もお勧めする。また、さらに趣が至れば、少しでもその「成立過程」に興味を持ってもらいたいと思う。 

また再び、多数の無理が通って、少数の道理が引っ込む時代が来る前に・・・。


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駐⊥竭閨@6

2012-10-27 12:41:00 | 政治
駐⊥竭閧ノついては、以前ここでも、クラウス先生の見解を載せた。今回は、彼の小論の日本語訳を掲載する。途中、「日韓両国の主張」の歴史的資料などについては、私的に省略や編集を加えた。脚注はすべて省いてある。

                    『駐〟i独島)問題の解決に向けて』

                    歴史平和学者: クラウス・シルヒトマン

                      日本語訳: 渡 辺 寛 爾

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日本・韓国間の駐⊥竭閧ノついての解決をICJ(国際司法裁判所)に委ねるという日本の姿勢は正しいと思う。この問題を考える上で、両国間の歴史を一瞥《いちべつ》することが役立つだろう。国際紛争を、戦争という手段ではなく国際法廷の評決に依ろうという提案がロシア皇帝ニコライ2世によって提唱され、まず1899年に第一回ハーグ会議、1907年には、ジョン・ヘイアメリカ合衆国国務長官の提唱で第二回ハーグ会議が開催され、共に公式な議論や評決もなされた、という事実を多くの人々は知らない。f8ccd06f.jpeg

初めての国際会議は、残酷な戦争期の後の平和な時期に持たれたという点でユニークな出来事だった。26の参加国には、日本、中国、ペルシャ、タイなども含まれていたが、韓国は1876年に日本の影響によって既に「開国」していたにもかかわらず、参加しなかった。当時の韓国はまだ、独立国家が集まって拡大を続ける国際社会の中で、一人前として受け入れられていなかったのである。しかしながら、1876年の「日朝修好条規《にっちょうしゅうこうじょうき》:江華島(カンファ条約」の第一款では「朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国家と認める」と明確に主権国家であることを認めていた。しかし、この「不平等条約」は、江戸末期に日本が西洋諸国から受けたような治外法権(朝鮮国内においては、国籍によって裁判の管轄を分けるが、日本国内においては朝鮮側の領事裁判権を認めない)も認めていたので、この条約は多くの国民に自国の主権を侵害されたものとして侮辱的に受け止められたのだった。58d35eae.pngNicholas_II_of_Russia_cropped.jpg

日本は韓国や中国の近代化について中心的な役割を果たそうと強く望んでいたが、中国と韓国の両国は変化を受け入れるのにあまり熱心ではなかった。その後進性のゆえに、中国は西欧諸国から「東洋の病人」、韓国は「不可解な隠居国家」などと侮蔑的なあだ名が付けられていた。もちろん、その一因が、西欧の植民地主義的優越感や帝国主義的業績から発生した、悲しむべき状況に起因していたことは間違いない。

日本は明治の開国以来、近代化に伴う様々なことがらを賢明に採用し、韓国の1884年の民衆蜂起・「甲申政変」(こうしんせいへん・朝鮮事件)や10年後の1894年の革命運動を支援した。1884年の政変に際しては、韓国のボルテールと呼ばれた革命家、徐載弼(じょさいひつ・1864-1951)が、西洋の科学・思想を取り入れるために、同志の金玉均(きんぎょくきん・1851-1894)と共に日本国の援助を求め、それに先立つ1879年、彼らは同志であった仏教僧、李東仁(りとうじん・1849年-1881年)を日本に蜜入国させて、福沢諭吉などに教えを受けさせてもいたのである。

しかし、この革命は、一時にあまりに多くの変革を求めたために、中国(清朝)の援助を得た当時の韓国政府によって潰され、徐載弼は全ての家族を残酷な方法で殺され、彼は日本に亡命する。韓国の改革者たちの運動が失敗に終わり、中国でも、康有為(こうゆうい)の約100日間の改革運動「戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう)」が潰されて日本への亡命を余儀なくされたことなどによって、彼らがハーグ平和会議で成しえたかもしれない、「西欧支配とのバランスをとる」という事業に貢献できなかったのは全く悲劇的なことである。

徐載弼は日清戦争で日本が勝利を収めた後で赦免され、1895年に韓国に帰国した。当時、非常に多くの自由主義を掲げる政治家が勢力を増していた。徐は独立運動を開始し、たちまち多くの支持者を得ることになった。1896年には「独立クラブ」が立ち上げられ、その年の4月7日には、最低1ページは英文を含む機関紙「独立」が発刊された。独立クラブは、儒教思想を取り入れた改革政党で、日本でも採用していた「東洋の道徳と西洋の学戟vを融合させるという考え方だった。その海外向けに表明されたアピールは、フランスの凱旋門にならって「独立の門」を建設することであり、それは1896年に始まった。次の年「独立ホール」が完成した。どちらの記念碑的建造物も現存し、重要な国家遺産となっている。

しかしながら、徐やその支持者たちは、再び、反動的な韓国政府の不評を買うことになる。1899年初頭、独立党の政治活動は全て禁止され、続いて解散させられ、『独立』も廃刊に追い込まれる。8月になると、韓国から日本への政治的亡命者の数が劇的に増加したと新聞報道された。当時の『週間神戸』には、「韓国の政治犯が日本に亡命している」と報道し、同時期、ハーグ平和会議が開催中であることも報じている。かくして、結果的に、韓国が1899年のハーグで、より大きな外交的努力に参加することができなかったのは悲しい話である。

日本は韓国を巻き込んだ二度の大戦を行い、中国軍とロシア軍を港内に留めることで、自国のみならず韓国の独立と安全を保とうとしていた。ちょうど日露戦争の時期、アメリカのルーズベルト大統領が仲裁役として両国の敵対関係を収めようと努め、両国をハーグ国際会議へ招いた。日本は休戦に同意し、ハーグでの仲裁裁判に従う姿勢を示したが、勝利を確信していたロシアは招待を断った。そして、韓国政府が改革者たちを追放した後、事態は急速に悪化することになったのである。

日本の植民地政策について語るとき、心に留めておかなければならないことは、ドイツ人とは異なり日本人は西欧諸国の植民地での商業活動を禁止されていた、ということである。同時に、歴史学者の三輪公忠(みわきみただ、1929年 - )が指摘するように、「日本の植民地に関する考え方は、当初から自国の防衛に力点が置かれていたもの」であった。

アメリカ大使であったウィリアム・フィランクリン・サンズは、伊藤博文伯爵との会話の中でこの事実を詳しく述べている。伊藤博文は明治期における博識な政治家で総理大臣を4回経験し、当時は朝鮮総督府の長官であった。伯爵はアメリカ大使に「日本と中国と韓国が緊密な友好関係を築き、その中で西欧の知識を吸収することに恐らく最も成功した日本が、一般行政や西欧流の訓練の導き役となって極東連盟を創る」というような提案をしていた。

サンズはまた、彼(伊藤)は他者の意見を聞くことができる人間であったから、韓国の人たちを満足させる、より良い制度を新しく創り出すことができるかもしれない、とも考えていた。しかし、伊藤は1909年の10月、満州のハルピンで、韓国の愛国主義者(安重根)によって暗殺される。cf632841.jpeg

駐〟i独島)の歴史に目を向ける時、私たちが思い出すべきことは、500年前には、いわゆる「国境」は今日ほど重要な意味を持っていなかった、という事実である。当時、今日のような国家(民族国家・ネイション・ステイツ)は存在しなかった。30年戦争(1618年か??1648年)の後、ウェストファリア条約が締結されてから、ヨーロッパの植民地主義勢力が他の地域に対して、国家主権の原理を押し付け始めたのである。それまで、主権という概念は、「境界」というより「通路」という別の意味を持っていた。実際、厳密な意味で「境界」など、ほぼ全く存在していなかったのである。

駐⊥竭閧ノついての日韓両国の主張は、両国政府の公式サイトはじめ、幾つかの信頼に足るWEBサイトに詳しく記載されているので、ここでは、そのサイト名称を挙げるにとどめる。どちらの主張に分があるかは読者の判断に任せたい。

 ・ウィキペディア『駐〟x http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%B3%B6_(%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C)

・日本国外務省『駐⊥竭閨x http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/ 

・韓国『韓国之独島』(英語・日本語) www.dokdo-takeshima.com

ともかく、先にも述べたように、ここで重要なことは、これらの領土を巡る議論は、ヨーロッパの国家制度が、国際関係における外交政策で支配的な「原理」になってから後のことだということである。いずれにしても、歴史家のロナルド・P・トビーが指摘しているように、1638年以降、日本は東アジアにおいて政治的存在から消えることはなかったし、韓国を含むその他のアジア地域との外交関係も継続していたのである。さらにトビーは、歴史学者の朝尾直弘(あさお なおひろ、1931年12月17日?? )の名を挙げ、彼が「(日本の外交姿勢が)鎖国政策を採っていた江戸時代でさえ、その発展の中心的要因の一つを構成していた」と解する最初の人物であったことも指摘している。Hague_Secret_Emissary_Affair.jpg

ハーグ平和会議の話にもどろう。1906年にロシア政府は韓国政府にも招待状を送っていた。しかし、他の国々は前向きな返答を遣(よこ)したにもかかわらず、その年の10月末になっても韓国からの返答はなかった。1905年以降、日本は韓国の外交権を摂取していたから、韓国が招待に応えることに反対し、結果的に参加が許されることはなかったのである。しかし、会議の前に、3人の密使が投げかけた日本の対韓姿勢に対する疑問は衆目を集めた。

だが、残念ながら彼らの主張はほとんど支持されることなく、数年前に地位を得たばかりの大韓帝国皇帝が退位すると共に、この件は終焉(しゅうえん)した。7月20日のニューヨーク・トリビューン紙には「3年前、日本によってロシアの侵略から守られた韓国は、その財政政策や外交政策を日本政府を通じて行うことに合意した。その換わり、日本は韓国領土の保全と皇帝の地位を保障しなければならないことになった。この合意事項は全世界が承認したものである」とある。この事実は当時、世界の常識であり(15)、ハーグに集った平和主義者たちにとっても当然の了解事項であった。

今日興味深いことは、イ・ジュン、イ・サンソル、イ・ウィジョンら3人の密使(※)が、韓国への内政干渉に抗議したということの他に、ハーグ平和会議での目標、すなわち、軍備縮小や国際法廷の開設を支持しようとしていたらしいということである。ロシア、イギリス、フランス、アメリカ(そしてたぶん中国も)を含む44カ国の大多数の国々が、すでに1899年の第一回ハーグ平和会議において、もしそれがなければ国際紛争を収めることができず戦争に至るであろう国際法廷の創設に力を結集することに賛同していたのである。

彼らは、国際的な法秩序が力を増せば、軍備縮小は達成可能であると信じていた。それが、当時の参加各国の大きな希望であり目的でもあったのである。ハーグ平和会議は、国際社会のシステムに本質的に新しいパラメーター(要素)を与えるものだった。これらの動きが、まだ帝国主義が支配する時代に起こったことであり、ハーグで成された努力は真剣に受け止められることなく、多くの点で軽視されたという認識は、実際のところ的外れである。事実は正反対なのだ!

そこで、疑問なのは、その韓国からの密使が、この会議の2つの目標、軍備縮小と、同意に至らない場合には仲裁に服従するという事前確約について、どの程度、支持賛同しようとしたかである。唯一可能な推測は、彼らが1899年の第一回会議すでに案件となっていたこれらの目的についての知識を持っていたということである。残念ながら、当時、ドイツが国際法廷の開設を拒否しただけでなく、韓国や中国の改革運動者たちも、ハーグでの努力を支持することができなかったのである。

1907年における韓国の指導者たちの努力が、祖国の過去の過ちを償い、国際的舞台における責任ある参加者となって、ハーグに集まった賢明な多数派を支持するという動機に拠っていると推察できれば、それは素晴らしいことである。この推測を裏付ける何らかの資料、すなわち、彼らの行動が単なる愛国主義者の熱狂から生まれたものではなかったとする資料があれば、それは今日の韓国政府の決定を容易にしたかもしれない。軍備縮小と国際法廷という2つを主目的を、彼らが知らなかったということはないだろう。

過去に何があったかはともかく、今日の韓国は、1899年と1907年に、大多数の国々が達成しようとしたことに賛同の意思を表すことはできる。もっとも、これら2回の平和会議は、少数の列強国がその国家主権の縮小に同意せず、したがって、判決に拘束力を持つ国際法廷の開設に反対したことによって、結果的には失敗に終わった。

しかしともかく、各国の結束力は弱いものだったにしても国際法廷は創られたのである。ハーグでの平和計画は、1??2の国に続く実に少数の反対派の同志国によって台なしにされたのであるが、今日の状況は正反対で、1??2の国に続く少数の同志国でさえ、武力によらない恒久的な平和を達成することができるのである。韓国は、国際秩序の維持を目指し、すでに「法の支配」が優位を占めている国々の一員となるべきである。

今日では更に多くの国々が、国際紛争を収めるために、脅威や武力の使用ではなく、国際司法裁判所の司法判断を無条件に受け入れる方向に向けて動かなければならない。それが100年以上も前のハーグ平和会議の目標でもあった。駐⊥竭閧セけでなく、ロシアとの領土問題や尖閣諸島の問題などについても、最終的にはこれ以外の解決方法はありえない。

現在の国際司法裁判所(ICJ)は国連システムに不可欠の機関であるが、その判決を義務的に受け入れるかどうかは当事国の選択により、加盟国が公式に「法律的紛争についての裁判所の管轄を同一の義務を、受諾する他の国に対する関係において当然に且つ特別の合意なしに義務的であると認める」(国際司法裁判所規程・第36条2項)(※)と宣言する必要がある。

日本は1958年と2007年の2度に渡りその「宣言」をした。それは、多くの不満を持つ韓国を驚かせ、韓国は未だ宣言しないでいる。今はまさに、韓国政府がICJの司法判断に従うことを義務であると宣言している他の国々に従い、この宣言を成して、国際的な法秩序の強化に向けて歩みを進める時である。

また、国際連合はもっと精力的に「共有遺産」の理念を実行に移し、国際協力を促進し、自然資源や大陸棚(鉱石・石油などの鉱床)などの探索・利用に関しても、関係国間の調整努力をしなければならない。駐№ネど、紛争の場となっている地域を国連管理の「共有財産」にする、と宣言するのも良い考えかもしれない。


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二度咲き

2012-10-25 20:33:00 | 自然

昨秋に続いて今秋もキンモクセイが二度咲きした。再び、あの美しい香りが我が家の周辺を満たしている。セミの抜け殻はまだ頑固にくっ付いている。IMGP0654-s.jpg

しかし、ほとんど日常的なことであるが、こんな身近な樹についても、私は何も知らないに等しいなぁ・・・ということで、少し調べてみた。

すると、これが江戸時代に中国南部から渡来したものだということが分かった。ということは、紫式部も鴨長明も源実朝も、戦国時代の武将や庶民の皆さんもこのすばらしい香りを知らなかった・・・ということになる。

また、元の名を桂花といい、濃いオレンジ色の花はワイン漬けにしたり、花茶にしたり、蜜で煮て香味料になったりすることや、様々な料理にも使われていることが分かった。この強烈ともいえる芳香で、かつては便所の臭い消しとしても植えられていたことなども面白い事実だと思った。

英語名は"fragrant orange-colored olive"「薫り高きオレンジ色のオリーブ」・・・実に分かりやすい命名だ。

実家の昔の玄関にはジンチョウゲが一本植えてあり、この芳香がこれまた強烈で、初春の開花期になると、思春期前後の少年のウキウキした情感を更にかき立てるような働きをしていたように思う。

春のジンチョウゲと秋のキンモクセイは、その「香りの持つ力用」という点で、私にとっては庭木の双璧に位置している。


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中国人

2012-10-18 10:41:00 | 政治

15日だったか、いつものごとく堀江海岸で少し走って浜に上がり、ランディング(カイトを地上に降ろすこと)の準備に周囲を見回していたら、風下側50m辺りに2人の青年がいた。

仲間のサーフタイプ・ボードのそばで何か楽しげにしている。再び、こないだの宇宙人サーファーみたいな人が、このスメ[ツに興味を持ったのかなぁ・・・などと思いながら、とりあえず私のカイト・リーシュが開放されたら、その延長線上に位置することになる彼らの動きに注意していた。

すぐに2人は私の存在を認めて、ニコニコしながら近づいてきた。途中で中国語らしい会話が耳に届いた。「ああ、中国から仕事か観光にでも来て、この美しい海岸に立ち寄ったのだろう・・・」

歳のころなら25前後か・・・一人がデジカメを私に向けながら何も語ることなく、一緒に写真を撮らせてくれというジェスチャーをした。二人とも、「高校を卒業して、昨日、田舎から東京に出てきました」という風な、実に純朴な性格が見て取れたので、私はいくらか好感を持った。

一人が私と肩を組み一人が写真を撮る。その撮影係で体格の良い方が、幾らか強めの風で頭上安定しているカイトのコントロールバーを無造作に触ろうとする。それはダメダメ^^;

その後そのままの体勢で、私の知る数少ない中国語「我は君を愛す」を変成した「我愛中国」(ウォー・アイ・チュウゴク)などといういい加減なことを言ってみたら、一応通じたようだった。背の低い方の青年は、わずかな日本語が分かるらしい。

片づけが終わって一服した後も、まだ二人は石組み突堤に腰を下ろして、楽しそうにお話しながら寛(くつろ)いでいる。

先日来、駐№竦?tの問題が私の頭の一部で動き続けている。私は台湾には長い付き合いの友人がいるが、中国大陸にはいない。この際だから、この近くて遠い大国からやって来た青年たちと、もう少し交流しておこうと考えた。a5a0ac39.jpeg

デジカメとメモ帳を持って、今度は私の方から近づき、写真を一枚。ことのついでに、彼らが松山で何をしているか、どれくらいの滞在予定か等々、しばらくの間、お話というか筆談というか・・・をした。

この筆談の有効なことは、すでに台湾で実証済みである。実に幸いなことに、日本の言語には、少なくとも4種類の表記方法がある。歴史的に並べると、漢字、カタカナ、ひらがな、ローマ字である。

現在の中国は、漢や呉の時代の漢字を多少簡素化したものを使っているが、私たちが学校で習った常用漢字の多くを、彼らも理解することができる。

私に言わせれば実に浅薄な考えだが、明治初期にも終戦直後にも、高名な学者たちから大真面目に「日本語・ローマ字化論」というのが出て、これほど豊かな表現力を持ち続けてきた漢字やひらがなの文化が消え去りそうになったことがある。

ともかく、彼らの数少ない日本語やそれ以上に少ない私の中国語、その他はボディーランゲージと以心伝心を使って、二人の名前が張さんとシンさんで、遼寧省・西安市の出身であり、西安と松山はほぼ同規模の地方都市であること。

また二人とも松山に数件ある中国料理店で働いていて、一人はすでに3年の滞在になり9年間は日本にいることになるだろうということ。その店のオーナーは日本人で、マネージャーは中国人であること。私がその店に行けば必ず何らかの付加的サービスがあるであろうこと。二人の部屋にはパソコンがありインターネットやメールが使えること・・・などが分かった。

私の紹介も少しはしたけれど、どれほど通じたかは分からない。それでも、張さんとはメールアドレスの交換をして、縁があればたぶんこれから、メール交換をすることになるだろう。

問題は、文字の何語を使うかで、私が日頃重宝している共通言語の英語が使えず、彼らに日本語習得の意思がないとすると、とりあえず、私が中国語を使うしかないことになる。

最近はWEB末フ技術がかなり進歩している。当面、これを利用してメールしてみようかと考えているが、こんなんで本当に意味が通じるのであろうか・・・?

 「?好看?的一天,我很高?能??好。我会看到?,如果?有一个机会。?我的店在不久的将来停止。?候服?。此外。」


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キンモクセイ

2012-10-17 21:28:00 | 自然
我が家の小さな庭にはキンモクセイが5本ほど植えてあり、毎年この季節になると、オレンジ色の花を無数につけ、半径50mほどのご近所中に、あの(私にとっては)すばらしく豊かな香りを放つ。

今年も、米粒ほどの緑の蕾(つぼみ)が目立ち始めた頃から開花の日を楽しみにしていた。すでに樹齢20年を迎え、樹高は5mほどある。

落ち葉などは元より放ったらかしなので、庭の土は一部、腐葉土と化し、これがまた、ミミズやセミの幼虫たちにとっても絶好の住処(すみか)になっている。枝のあちこちには、今夏大いに歌い騒いだクマゼミの抜け殻が、10月になっても落ちることなくそのまま残っていた。IMGP0648-s.jpg

花の命はたいがい短いものだ。10日ほど前だったか、一斉に開花した我が家のキンモクセイも1週間足らずで花を落として、いつもは殺風景な庭の一面がオレンジ色に染まった。もちろん、これも聡怩オたりはしない。そのままにしておけば、自然に土と同化して、また来年の花の一部に姿を変える。

いくらか気になるのは、この木の下に居をかまえるビーグル犬のパームで、息子と遊ぶことと食べることのみを生きがいとしているような彼が、どんな気持ちで、毎年一定の時期、頭の上から、雪のように降ってくるキンモクセイの花を眺めているのか・・・ということだ。

彼の目線や鼻線にとっては、かなり刺激的で壮大な秋の花見・・・ということになるのではないか、と思ったりもするのだが・・・わんわん
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宇宙人 5

2012-10-15 09:28:00 | 自然

かくして、宇宙人やUFOの問題に少なからぬ興味持った高校時代から今日まで、時々の状況や気分にまかせて、大空のどこかに現れるかもしれない「説明困難な飛行物体」に注意を向けてきたのであるが、この一回を超える出来事は起こらなかった。

しかし、これが「ET(地球外“知的”生命体)」や彼らの乗り物が存在せず、地球を訪問したこともない、ということを意味しないことは言うまでもない。

私はエジプトの砂漠もピラミッドも見たことはないが、そこには広大な砂の広がりや緑のオアシスがあるだろうし、大小さまざまな石組み四角錐やスフィンクスも鎮座しているだろう。私の検証の試みは、実にわずかなものであり、それなりの結果しかもたらさなかった、というに過ぎない。したがって、この件については未だ「審議未了」であり「興味継続中」である。

こんな浮世離れした事々に想いを巡らせながら、私は二冊の本を書棚から引っ張り出していた。中央アート社から出ている『新アダムスキー全集』の第一巻と、アメリカのアダムスキー財団からアマゾン経由で購入した"Inside The Spaceships"だ、両巻の内容は対応している。adamski.JPG

外部世界の大空に、真偽判断の材料を見つけることが困難なら、筆者が書いた本の内部世界、つまり「言葉の使い方」の中に、何か新しい発見があるかもしれないと思ったからである。その読み方は40年前とは大きく異なり、相当に慎重かつ批判的なものになるのは当然だろう。

はるかに優れた多くの読書家に比べれば、私の本の読み方などは「寡(か)にして雑(ざつ)」に過ぎないが、年月の経過は、この種の英文をほとんど難なく読むことを可能にしてもいた。

そして、私の「読み」がどの程度、正鵠(せいこく)を得ているかは別として、書かれた内容の論理性や、文脈の展開や、語句の選び方などによって、文字の裏側にあるもの(筆者の性格や意図や傾向性など)に、ある程度の推察は及ぶ。「文は人なり」。加藤周一の表現を借りれば「文章にあらわれた概念的秩序は、世界に対する特定の態度を反映し、その特定の態度は、また特定の人格を前提とする」のである。

アダムスキが誠実な人格なら彼の文章もそれを表し、彼の世界に対する特定の態度も、概念的秩序として感じ取ることができるだろう。そして、誠実な人格が常に正確な事実を述べるとは限らないにしても、作為的な虚偽を語ることはないだろう。


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宇宙人 4

2012-10-13 16:02:00 | 自然

それは或る秋の晴天の夕空で起こった。私は当時、川崎市の多摩区という南北に長い地域の北部に位置する「菅」という地域の、田中荘というボロアパートに住んでいた。

単車で南に10分かそこらに登戸駅があり、その近くでは2歳年上のS大学生Mさんが下宿生活をしていた。彼は信州上田市出身の苦学生で、その人柄の誠実なことこの上なく、私はいろいろと世話になったのだが、その一つに自炊の仕方があった。

彼は長いコックのバイト経験から料理に長け、不精でほとんど外食に頼っていた私に、獅「米の炊き方やニラレバ炒めの作り方などを伝授した。ある冬休みなどは、単車の二人乗りで上田市まで帰郷し、私はそこで初めて「馬刺し」なるものを食した。それはご両親の質素な暮らしぶりから察しても、日常の食卓に上るほど安価でありふれた食材ではなかったはずだ。

彼とはもともと学外活動で知り合ったのだが、2年後には神奈川県の小学校の事務の職を得て忙しくなり、その後間もなく、私は愛媛県松山市の団体の職員になったから、彼との付き合いは比較的短いものだった。しかし私の8年間の学生時代を通して彼ほど心を許した友人も少ない。二人はその間、ほとんど隔日程度の頻度で会いながら様々な話をしていた。

前置きが長くなった。私の一度限りの「未確認飛行物体」の目撃は、その彼をいつものごとく単車の後部席に乗せて、私のアパートに向かっている時に起こったから、彼も同様の体験をしていたのである。

秋の夕日は美しい。西の空は薄い茜色に染まり、ひときわ明るい宵の明星が西に落ちる太陽の少し上空で輝いていた。私はしばし単車を止めて二人で夕空見物をすることにした。

「今日の金星は格別明るくてきれいだね~」・・・などと話しながら、その光点や、背後遠くに見える丹沢山系、富士の裾野の色合いの静かな変化などを味わっていた。a003ced0.jpeg

やがて「しかし、いつもの金星にしてはちょっと明るすぎるなぁ・・・」二人は同じ感想を持った。たしかに輝度にして3倍以上あるように見えた。そしてしばらくの後(30分程度だったか)、その極めて明るいオレンジ色の光点の異常に気が付いた。

通常、宵の明星は太陽と共に動く、ところがそれは、太陽が西の山陰に姿を隠した後も、最初の位置にずっと留まったままで全く動かないのである。ということは、少なくとも金星ではないということになる。それでは一体、これは何だ?

「ひょっとしたら、これがUFOというものかもしれんぞ!写真を撮っておくべきだな!」・・・その光点から決して目を離さないよう彼に指示して、私は大急ぎでアパートまで走り、コダックのャPットカメラを持って現場に復帰した。その間10分もかからなかったと思う。

しかし、その時すでに、その光点は無かった。状況を聞くと、「数分後に、突然、パッと消えた」ということだった。私たちはしばらくその場を離れることなく、夕暮れ迫った西空を注意深く観察したが、それ以上のことは何も起こらなかった。

これが一体何だったのか・・・幾つかの可能性はあるが、未だに納得できる説明も明確な解答も得ていない。それから10年ほどが経過して、私は空を飛ぶようになり、更に高い位置から広い視野で大空を観察できるようになった。しかし、今日まで一度もこのような説明困難な物体に出会ったことはない。 


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