駐⊥竭閧ノついては、以前ここでも、クラウス先生の見解を載せた。今回は、彼の小論の日本語訳を掲載する。途中、「日韓両国の主張」の歴史的資料などについては、私的に省略や編集を加えた。脚注はすべて省いてある。
『駐〟i独島)問題の解決に向けて』 歴史平和学者: クラウス・シルヒトマン
日本語訳: 渡 辺 寛 爾
日本・韓国間の駐⊥竭閧ノついての解決をICJ(国際司法裁判所)に委ねるという日本の姿勢は正しいと思う。この問題を考える上で、両国間の歴史を一瞥《いちべつ》することが役立つだろう。国際紛争を、戦争という手段ではなく国際法廷の評決に依ろうという提案がロシア皇帝ニコライ2世によって提唱され、まず1899年に第一回ハーグ会議、1907年には、ジョン・ヘイアメリカ合衆国国務長官の提唱で第二回ハーグ会議が開催され、共に公式な議論や評決もなされた、という事実を多くの人々は知らない。
初めての国際会議は、残酷な戦争期の後の平和な時期に持たれたという点でユニークな出来事だった。26の参加国には、日本、中国、ペルシャ、タイなども含まれていたが、韓国は1876年に日本の影響によって既に「開国」していたにもかかわらず、参加しなかった。当時の韓国はまだ、独立国家が集まって拡大を続ける国際社会の中で、一人前として受け入れられていなかったのである。しかしながら、1876年の「日朝修好条規《にっちょうしゅうこうじょうき》:江華島(カンファ条約」の第一款では「朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国家と認める」と明確に主権国家であることを認めていた。しかし、この「不平等条約」は、江戸末期に日本が西洋諸国から受けたような治外法権(朝鮮国内においては、国籍によって裁判の管轄を分けるが、日本国内においては朝鮮側の領事裁判権を認めない)も認めていたので、この条約は多くの国民に自国の主権を侵害されたものとして侮辱的に受け止められたのだった。
日本は韓国や中国の近代化について中心的な役割を果たそうと強く望んでいたが、中国と韓国の両国は変化を受け入れるのにあまり熱心ではなかった。その後進性のゆえに、中国は西欧諸国から「東洋の病人」、韓国は「不可解な隠居国家」などと侮蔑的なあだ名が付けられていた。もちろん、その一因が、西欧の植民地主義的優越感や帝国主義的業績から発生した、悲しむべき状況に起因していたことは間違いない。
日本は明治の開国以来、近代化に伴う様々なことがらを賢明に採用し、韓国の1884年の民衆蜂起・「甲申政変」(こうしんせいへん・朝鮮事件)や10年後の1894年の革命運動を支援した。1884年の政変に際しては、韓国のボルテールと呼ばれた革命家、徐載弼(じょさいひつ・1864-1951)が、西洋の科学・思想を取り入れるために、同志の金玉均(きんぎょくきん・1851-1894)と共に日本国の援助を求め、それに先立つ1879年、彼らは同志であった仏教僧、李東仁(りとうじん・1849年-1881年)を日本に蜜入国させて、福沢諭吉などに教えを受けさせてもいたのである。
しかし、この革命は、一時にあまりに多くの変革を求めたために、中国(清朝)の援助を得た当時の韓国政府によって潰され、徐載弼は全ての家族を残酷な方法で殺され、彼は日本に亡命する。韓国の改革者たちの運動が失敗に終わり、中国でも、康有為(こうゆうい)の約100日間の改革運動「戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう)」が潰されて日本への亡命を余儀なくされたことなどによって、彼らがハーグ平和会議で成しえたかもしれない、「西欧支配とのバランスをとる」という事業に貢献できなかったのは全く悲劇的なことである。
徐載弼は日清戦争で日本が勝利を収めた後で赦免され、1895年に韓国に帰国した。当時、非常に多くの自由主義を掲げる政治家が勢力を増していた。徐は独立運動を開始し、たちまち多くの支持者を得ることになった。1896年には「独立クラブ」が立ち上げられ、その年の4月7日には、最低1ページは英文を含む機関紙「独立」が発刊された。独立クラブは、儒教思想を取り入れた改革政党で、日本でも採用していた「東洋の道徳と西洋の学戟vを融合させるという考え方だった。その海外向けに表明されたアピールは、フランスの凱旋門にならって「独立の門」を建設することであり、それは1896年に始まった。次の年「独立ホール」が完成した。どちらの記念碑的建造物も現存し、重要な国家遺産となっている。
しかしながら、徐やその支持者たちは、再び、反動的な韓国政府の不評を買うことになる。1899年初頭、独立党の政治活動は全て禁止され、続いて解散させられ、『独立』も廃刊に追い込まれる。8月になると、韓国から日本への政治的亡命者の数が劇的に増加したと新聞報道された。当時の『週間神戸』には、「韓国の政治犯が日本に亡命している」と報道し、同時期、ハーグ平和会議が開催中であることも報じている。かくして、結果的に、韓国が1899年のハーグで、より大きな外交的努力に参加することができなかったのは悲しい話である。
日本は韓国を巻き込んだ二度の大戦を行い、中国軍とロシア軍を港内に留めることで、自国のみならず韓国の独立と安全を保とうとしていた。ちょうど日露戦争の時期、アメリカのルーズベルト大統領が仲裁役として両国の敵対関係を収めようと努め、両国をハーグ国際会議へ招いた。日本は休戦に同意し、ハーグでの仲裁裁判に従う姿勢を示したが、勝利を確信していたロシアは招待を断った。そして、韓国政府が改革者たちを追放した後、事態は急速に悪化することになったのである。
日本の植民地政策について語るとき、心に留めておかなければならないことは、ドイツ人とは異なり日本人は西欧諸国の植民地での商業活動を禁止されていた、ということである。同時に、歴史学者の三輪公忠(みわきみただ、1929年 - )が指摘するように、「日本の植民地に関する考え方は、当初から自国の防衛に力点が置かれていたもの」であった。
アメリカ大使であったウィリアム・フィランクリン・サンズは、伊藤博文伯爵との会話の中でこの事実を詳しく述べている。伊藤博文は明治期における博識な政治家で総理大臣を4回経験し、当時は朝鮮総督府の長官であった。伯爵はアメリカ大使に「日本と中国と韓国が緊密な友好関係を築き、その中で西欧の知識を吸収することに恐らく最も成功した日本が、一般行政や西欧流の訓練の導き役となって極東連盟を創る」というような提案をしていた。
サンズはまた、彼(伊藤)は他者の意見を聞くことができる人間であったから、韓国の人たちを満足させる、より良い制度を新しく創り出すことができるかもしれない、とも考えていた。しかし、伊藤は1909年の10月、満州のハルピンで、韓国の愛国主義者(安重根)によって暗殺される。
駐〟i独島)の歴史に目を向ける時、私たちが思い出すべきことは、500年前には、いわゆる「国境」は今日ほど重要な意味を持っていなかった、という事実である。当時、今日のような国家(民族国家・ネイション・ステイツ)は存在しなかった。30年戦争(1618年か??1648年)の後、ウェストファリア条約が締結されてから、ヨーロッパの植民地主義勢力が他の地域に対して、国家主権の原理を押し付け始めたのである。それまで、主権という概念は、「境界」というより「通路」という別の意味を持っていた。実際、厳密な意味で「境界」など、ほぼ全く存在していなかったのである。
駐⊥竭閧ノついての日韓両国の主張は、両国政府の公式サイトはじめ、幾つかの信頼に足るWEBサイトに詳しく記載されているので、ここでは、そのサイト名称を挙げるにとどめる。どちらの主張に分があるかは読者の判断に任せたい。
・ウィキペディア『駐〟x http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%B3%B6_(%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C)
・日本国外務省『駐⊥竭閨x http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/
・韓国『韓国之独島』(英語・日本語) www.dokdo-takeshima.com
ともかく、先にも述べたように、ここで重要なことは、これらの領土を巡る議論は、ヨーロッパの国家制度が、国際関係における外交政策で支配的な「原理」になってから後のことだということである。いずれにしても、歴史家のロナルド・P・トビーが指摘しているように、1638年以降、日本は東アジアにおいて政治的存在から消えることはなかったし、韓国を含むその他のアジア地域との外交関係も継続していたのである。さらにトビーは、歴史学者の朝尾直弘(あさお なおひろ、1931年12月17日?? )の名を挙げ、彼が「(日本の外交姿勢が)鎖国政策を採っていた江戸時代でさえ、その発展の中心的要因の一つを構成していた」と解する最初の人物であったことも指摘している。
ハーグ平和会議の話にもどろう。1906年にロシア政府は韓国政府にも招待状を送っていた。しかし、他の国々は前向きな返答を遣(よこ)したにもかかわらず、その年の10月末になっても韓国からの返答はなかった。1905年以降、日本は韓国の外交権を摂取していたから、韓国が招待に応えることに反対し、結果的に参加が許されることはなかったのである。しかし、会議の前に、3人の密使が投げかけた日本の対韓姿勢に対する疑問は衆目を集めた。
だが、残念ながら彼らの主張はほとんど支持されることなく、数年前に地位を得たばかりの大韓帝国皇帝が退位すると共に、この件は終焉(しゅうえん)した。7月20日のニューヨーク・トリビューン紙には「3年前、日本によってロシアの侵略から守られた韓国は、その財政政策や外交政策を日本政府を通じて行うことに合意した。その換わり、日本は韓国領土の保全と皇帝の地位を保障しなければならないことになった。この合意事項は全世界が承認したものである」とある。この事実は当時、世界の常識であり(15)、ハーグに集った平和主義者たちにとっても当然の了解事項であった。
今日興味深いことは、イ・ジュン、イ・サンソル、イ・ウィジョンら3人の密使(※)が、韓国への内政干渉に抗議したということの他に、ハーグ平和会議での目標、すなわち、軍備縮小や国際法廷の開設を支持しようとしていたらしいということである。ロシア、イギリス、フランス、アメリカ(そしてたぶん中国も)を含む44カ国の大多数の国々が、すでに1899年の第一回ハーグ平和会議において、もしそれがなければ国際紛争を収めることができず戦争に至るであろう国際法廷の創設に力を結集することに賛同していたのである。
彼らは、国際的な法秩序が力を増せば、軍備縮小は達成可能であると信じていた。それが、当時の参加各国の大きな希望であり目的でもあったのである。ハーグ平和会議は、国際社会のシステムに本質的に新しいパラメーター(要素)を与えるものだった。これらの動きが、まだ帝国主義が支配する時代に起こったことであり、ハーグで成された努力は真剣に受け止められることなく、多くの点で軽視されたという認識は、実際のところ的外れである。事実は正反対なのだ!
そこで、疑問なのは、その韓国からの密使が、この会議の2つの目標、軍備縮小と、同意に至らない場合には仲裁に服従するという事前確約について、どの程度、支持賛同しようとしたかである。唯一可能な推測は、彼らが1899年の第一回会議すでに案件となっていたこれらの目的についての知識を持っていたということである。残念ながら、当時、ドイツが国際法廷の開設を拒否しただけでなく、韓国や中国の改革運動者たちも、ハーグでの努力を支持することができなかったのである。
1907年における韓国の指導者たちの努力が、祖国の過去の過ちを償い、国際的舞台における責任ある参加者となって、ハーグに集まった賢明な多数派を支持するという動機に拠っていると推察できれば、それは素晴らしいことである。この推測を裏付ける何らかの資料、すなわち、彼らの行動が単なる愛国主義者の熱狂から生まれたものではなかったとする資料があれば、それは今日の韓国政府の決定を容易にしたかもしれない。軍備縮小と国際法廷という2つを主目的を、彼らが知らなかったということはないだろう。
過去に何があったかはともかく、今日の韓国は、1899年と1907年に、大多数の国々が達成しようとしたことに賛同の意思を表すことはできる。もっとも、これら2回の平和会議は、少数の列強国がその国家主権の縮小に同意せず、したがって、判決に拘束力を持つ国際法廷の開設に反対したことによって、結果的には失敗に終わった。
しかしともかく、各国の結束力は弱いものだったにしても国際法廷は創られたのである。ハーグでの平和計画は、1??2の国に続く実に少数の反対派の同志国によって台なしにされたのであるが、今日の状況は正反対で、1??2の国に続く少数の同志国でさえ、武力によらない恒久的な平和を達成することができるのである。韓国は、国際秩序の維持を目指し、すでに「法の支配」が優位を占めている国々の一員となるべきである。
今日では更に多くの国々が、国際紛争を収めるために、脅威や武力の使用ではなく、国際司法裁判所の司法判断を無条件に受け入れる方向に向けて動かなければならない。それが100年以上も前のハーグ平和会議の目標でもあった。駐⊥竭閧セけでなく、ロシアとの領土問題や尖閣諸島の問題などについても、最終的にはこれ以外の解決方法はありえない。
現在の国際司法裁判所(ICJ)は国連システムに不可欠の機関であるが、その判決を義務的に受け入れるかどうかは当事国の選択により、加盟国が公式に「法律的紛争についての裁判所の管轄を同一の義務を、受諾する他の国に対する関係において当然に且つ特別の合意なしに義務的であると認める」(国際司法裁判所規程・第36条2項)(※)と宣言する必要がある。
日本は1958年と2007年の2度に渡りその「宣言」をした。それは、多くの不満を持つ韓国を驚かせ、韓国は未だ宣言しないでいる。今はまさに、韓国政府がICJの司法判断に従うことを義務であると宣言している他の国々に従い、この宣言を成して、国際的な法秩序の強化に向けて歩みを進める時である。
また、国際連合はもっと精力的に「共有遺産」の理念を実行に移し、国際協力を促進し、自然資源や大陸棚(鉱石・石油などの鉱床)などの探索・利用に関しても、関係国間の調整努力をしなければならない。駐№ネど、紛争の場となっている地域を国連管理の「共有財産」にする、と宣言するのも良い考えかもしれない。