庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

巣立ち

2007-07-27 21:43:16 | 自然
「仲の良いスズメ夫婦の巣作りは 熱き瓦の裏の楽園」・・・などという下手な歌を詠んだのが7月2日だった。屋根の東端に一つがいが巣作りを始めて何日かたっての頃だと思う。

少し細めと少し太めの2羽が、実に嬉しそうに枯れ草やワラ屑をくわえて瓦の下を出入りする様を見て、スズメのカップルというのはずいぶん仲の良いもんだなぁ・・・などと妙に感心しながら、その後もちょくちょく覗いていた。

それから間もなく産卵し、ヒナが誕生したにちがいない。瓦の奥に丸くできているはずの巣は外からは見えないが、餌を運ぶ2羽の出入りはますます頻繁になった。

そして昨日の朝、遂にヒナ鳥が姿を現した。全部で3羽。瓦の下の日陰部分に身を隠して寄りそい、親鳥からの餌を待っている。大きく開けたクチバシの縁はまだ黄色だ。餌の中には10cmほどもありそうなカマキリもいる。時にはヒナの糞をくわえて飛び立っていく。

しばらく観察していると、ヒナたちの動きが少しずつ活発になり、瓦の影から身を乗り出して周囲をうかがう様子を見せ始めた。しかし、まだまだおっかなびっくりの表情で、このぶんだと巣立ちは明日あたりだろうと思えた。

ところが、昼食を挟んで午後一番・・・すでにそこに彼らの姿はなかった。巣の奥から外界に出てきてほんの数時間後の巣立ちだ。カラスなど外の世界の危険については、巣の中で親鳥たちから十分に聞かされていたのかもしれない。

今朝は巣の傍の屋根に3羽そろって元気な姿を見せた。外の世界は浮「ことばかりではない。自然世界の優しさや大空の楽しさなどについても、これから充分に味わってほしいと思う。

7月30日・・・巣立ちから3日、時計草の茂みに親子がやってきた。親鳥はベランダの手すりに置いたエサ皿からパンを取って、まだクチバシの黄色い子鳥に与えている。



デルスー・ウザーラ アルセーニェフ 長谷川四郎訳

2007-07-24 10:37:38 | 拾い読み
・夕暮れ近く空がまた雨雲で覆われた。私は雨になるかと案じたが、デルスーはこれは雨雲ではなく霧で、明日は晴れるばかりか、暑い一日になるだろうといった。彼の予言が当たることを知っていたので、その理由についてたずねてみた。
「わし、こう、見て、思う・・・空気、軽くて、重くない」ゴリド人は息をして、自分の胸を指差した。
 彼はすっかり自然と一緒に生活していて、自分の身体そのもので天気の変化を予感できたのである。さらに彼にはこのための第六感が備わっているようだった。p98

・デルスーは他の連中より早く起きて茶を沸かしはじめた。この時、太陽が昇りかけてきた。まるで生き物の用に太陽は水の中から少し顔を出してみて、それから水平線を離れ、空へとよじ登りだした。
「なんて美しいんだ!」私は感嘆した。
「あれ、いちばんえらい人」デルスーが太陽を指差して、答えた。「あれ、死ぬと、みんな死ぬ」
 彼はしばらく待って、また話し始めた。
「陸も人。陸の頭≠゙こう(彼は北東を指した)。足≠゙こう(彼は南東を指した)。火も水も、二人の強い人。火と水、死ぬと、その時。みんないっぺんに終わり」
 これらの単純な言葉には多くのアニミズムがあったが、多くの思想もまた含まれていた。p117 

・デルスーの墓、とける雪、とんで日没には死ぬだろうチョウ、さらさら音たてる川、いかめしい静かな森≠キべては語っていた$竭ホ的な死は存在しない。相対的な死があるだけだ。そして地上における生の法則が同時にまた死の法則である、と。p412

・(町の近くの森に薪をとりに行ったことで警察に連行された)この事件は彼に強い印象をきざみこんだ。彼は理解した。町では自分の欲するようにではなく、他人の欲するように生きなくてはならない、と。

・次の小さな事件が決定的に彼の心の平衡をかき乱してしまった。彼は私が水に金を払うのを見たのである。
「なに!」またもや彼は叫んだ。「水にも金がいるか。河をみろ。(彼はアムール川を指差した)水、たくさんある。どうして、また・・・」p408

・この野獣狩りの男は、自分の自由を売ることに同意などするものか。p30

・この人間にちかづき慣れるのにつれて、私はますます彼が好きになった。日ごとに私は彼の中に新しい長所を見つけたものだった。以前の私はエゴイズムは野生の人間特有のものであって、人間的な感情や愛や他人のための配慮はヨーロッパ人にだけあるような気がしていたものだが、これは誤りではなかったか・・・。p32



シャーマンになった民俗学者の話 マーク・プロトキン 屋代通子訳

2007-07-23 12:06:33 | 拾い読み


・アマゾンの熱帯雨林では、植物が色々な用途に使われる。いい例が椰子だ。ユダヤ教でもキリスト教、ヒンズー教や仏教、それにイスラム教でも、椰子は重要な象徴として尊ばれている植物だが、南アメリカではこれが食料となり、繊維となり、楽器となり、燃料となり、油脂となり、蝋となり、武器となり、薬となり、玩具にさえなる。p155

・一週間せっせと植物を採集しても、老いたシャーマンの知識の宝庫は尽きなかった。心臓の障害はどう直すのか、おねしょは、やけどは、マラリヤは、更年期障害は、湿疹は、性的不能は、淋病はどうすればよいのか、全部知っていた。ブラジルナッツの近隣の、背の高いボノ木の樹皮を使って、バックパックをくくる紐を作って見せてくれた。
椰子の小さな葉を切り、ナイフの刃で茎をこすって、大きな音の出る鳥笛をこしらえた。老いたシャーマンの笛に応えて、2分もするとカラカラハヤブサがそばの木の天辺に飛んできた。シャーマンが更に呼びかけると、隼は樹幹から降りてきて近くの枝に止まり、笛を吹き続けるシャーマンを首を傾げて怪訝そうに見下ろしていた。ジャガー・シャーマンは自分が植物も動物も、自然界を手中に収めていることが得意そうだった。p157

ティアキは70にはなっていたと思うが、体つきはプロレスラー並みで、身のこなしは海兵隊員顔負けだった。いたずらっぽいユーモアの持ち主で、僕の衣装や言動を捕まえては物笑いの種にしてくれた。p160



緑の世界史 クライブ・ャ塔eィング

2007-07-22 09:43:58 | 拾い読み


・人類史の99%・・・人類の出現以来、今日までの200万年間で、最近の2000~3000年を除けば人類は狩猟と採集で生活を営み、ほとんどの場合、小さな集団で移動しながら暮らしていた。これは紛れもなく、最も環境に適合した融通のきく暮らし方であり、自然生態系への影響も最小限に抑えることができる。p35

・・・狩猟採集民は、飢えの恐浮ノさらされながら暮らしているわけではない。それどころか、広範囲の食料資源から、栄養的にも優れた食事をしているのである。・・・彼らにとって、食料を集めたりそのほかの生きるための労働に費やさなければならない時間は一日のうちのほんのわずかに過ぎず、遊びに費やす時間や祭祀に当てる時間はふんだんにある。p38

・ブッシュマン・・モンゴンゴの木から取れる非常に栄養価の高い実・・穀物のカロリー5倍、蛋白質10倍。常用植物84種のうち通常23種類、日常17種類だけでも今日の必須栄養水準と比較して、ブッシュマンの食事はなんら遜色がない。カロリー摂取量は必要水準を上回り。蛋白質は3割以上も多い。・・・こうした食物を手に入れるために必要な労働は、決して長時間ではない。平均して週に2日半程度。農耕民とは異なり、労働量は一年中ほぼ一定で、乾季の最盛期を別にすれば、食料調達のために一日10km以上を歩き廻ることはますない。・・・女性は毎日1~3時間働き、残りの時間は余暇を楽しんで暮らしている。男性の狩りはおそらくもっと断続的で、1週間続けて狩りをすれば、2~3週間は全く何もせずに過ごすのだろう。さらに集団の約40%の人々は、食料調達のための仕事をまったくしていない。10人に1人が60歳を超えて長老として敬われ、女性は20歳、男性は25歳頃になって結婚するまでは、食料を集める義務はない。東アフリカのハッツァ族、オーストラリアのアボリジニもでも、事情は良く似ている。p40

・ここで上げた全ての種族は、今では生活条件の悪い辺境地域に追いやられてしまっている。したがって、彼らと同じような集団が、かつて更に好条件の場所で生活していた時には、暮らしぶりははるかに余裕のあるものだったと考えてもよいだろう。残存する多くの先住民が、はるかに労働のきつい農耕に見向きもしないのは当然である。p40

・あるブッシュマンは、人類学者にこう言ったという。「ふんだんにモンゴンゴの実があるのに、何でわざわざ作物をうえたりしなければいかんのかね」と。ノンビリ過ごす時間は、必要以上に食料を集めたり、移動の妨げにしかならない道具を作るよりは、はるかに貴重である。・・・・16世紀にブラジルを訪れたャ泣gガル人も、これと同じような状況をインディオに認めていた。「インディオたちは奴隷でない限り、自分が使う金属器を買うのに必要なだけ働いて、あとは余暇を楽しんでいた」p41

・もっとも信頼に足る推定に寄れば、一部地域で農耕が始められる直前の約1万年前、世界の総人口は多く見積もっても400万人を超えることはなく、それ以前には人口はこれよりかなり少なかったと考えられる。p44

・人類の4大特徴・・・脳、2足歩行、言語、技術的手段(道具)

・本書を読み終わって私が最初に感じたのは、現在、私たちはいかに地球本来の自然を失って貧しい環境に住んでいるか、ということだ。これは、ガラバゴス諸島を訪れた時に、環境客の立ち入りが制限されている島で実感した。島の動物はまったく人間を恐れず、ツグミの一種が頭に止り、ャPットに首を突っ込んでハンカチを引きずり出す。イグアナはまったく人間を無視し、海に潜るとアシカが身体をすり寄せてくる。地球の歴史から見れば、つい最近までこうした豊かな自然が地球のあちこちに広がっていたのに違いない。
 1940~50年代の私の子供時代ですら、東京の都心に近い住宅街でまだ週十種のチョウが採集でき、少し郊外に足を伸ばせば100種類を超える野生植物が容易に集められた。鳥も年間を通して30種くらいは庭で観察できた。過去30~40年をとっても身辺の環境の貧困化は急速に進行した。自然に恵まれた農山村地域の変化はもっと激しい。だが、あたしたちは残された自然を更に貧しくして、子孫の手に渡そうとしている。・・・(訳者・石弘之 あとがき)

セミ

2007-07-19 11:37:24 | 自然
昨日は走行中の車の中から今年初めてセミの鳴き声を聞いた。まだ数が少ないのだろう、盛夏に比べると控えめではあったが、今年もまたやってきた暑い夏を感じるに充分な合唱だった。

セミの命は一週間とか十日とか、儚(はかな)いものの代表みたいに言われることもあるが、何年にもわたる地中での幼虫期間を合わせると、昆虫類の中でも相当に寿命の長い部類に入るらしい。

我が家の庭の南縁に並ぶキンモクセイの根元あたりは、彼らにとって絶好の生活環境であるらしく、厚く堆積した腐葉土を聡怩オていたら、純白に輝くような幼虫が出てきて感動したことがある。

彼らの長い地中の生活は、存外快適で楽しいものなのかもしれない・・・外界の喧騒とも無縁で安全、適度に暖かく、食料の微生物はそこいら中にいる。暗く狭いところで窮屈に云々・・・なんて想像は人間のもので、彼らの現実でないことはおそらく間違いないだろう。

ある年の夏、何かに促されて、長く豊かな地中の生活に別れを告げて彼らは木に登り羽化をする。その幼い羽の色合いの美しいこと!その何かが、単に種族保存の本能のみであるとは私には思えない。メスを呼ぶためとされる、あの林を震わす精一杯の鳴き声は、時に私の身体にも深く染み込んで、その意味を伝えようとすることがある。

それを人間の言葉に末オたら、「ただただ、生きること死ぬことが嬉しくてしょうがない」・・・生命の懸命の震(ふる)え、とでも言うしかないのかもしれない。


ウィキペディア

台風三首

2007-07-19 10:13:25 | 創作
塵埃(じんあい)を 払うをもって 行(ぎょう)と為す 台風一過 深き大空

南洋の 水を抱えて やってくる 巨大な渦も 慈悲の行業(ぎょうごう)

島国の 生命(いのち)潤す 雨風を 被害となすは 何の仕業(しわざ)か

-寛太郎






日本文化における時間と空間 加藤周一

2007-07-17 17:33:58 | 拾い読み
・維新当時の大勢順応主義は、10年後に少しも変わらなかった。福沢の「日本人」は100年後には変わったか、少しも変わらなかったように見える。
 例えば1937年。当時の大勢は、もはや「文明開化」でも「大正デモクラシー」でもなく、また国際連盟や軍縮でもなくて、対外的には中国侵略戦争へ、対内的には軍部独裁体制へ向かっていた。「大勢」は維新以後三転四転した。しかしその各時期に「日本人」は、極めて少数の例外を除き、それぞれ大勢に従った。福沢のいわゆる「大勢に従うの趣」は、まことに「豪も」変わらなかった。36年に陸軍の「皇道派」は「軍事クーデター」を企てて、権力奪取に失敗したが、同じ陸軍の「統制派」はその失敗を巧みに利用し、権力機構の内部において陸軍の影響力を画期的に拡大することに成功した。はたして37年には東京の中央政府の意思を無視し、陸軍は中国との戦争を拡大した、盧溝橋から上海へ、上海から南京へ。この大勢に議会で抵抗したのは、36年に「粛軍演説」を行い、40年に対中国政策を批判して衆議院から除名された斉藤忠夫ただ一人である。彼の除名に反対したのはわずかに7名に過ぎず、社会大衆党は党決定に反して欠席の形で斉藤の除名に反対した10名を除名した。周知のように、その後に来るのは「体政翼賛体制」と太平洋戦争であった。p122

・私は、昨日まで天皇のために命を賭すとまで言っていた「日本人」が、占領下の天皇の「人間宣言」を、静かに、平然として、当たり前のことのように受け入れるのを見て驚いた。彼は「天皇はカミ」と信じていたのだろうか。もし信じていなかったとすれば、その為に命を賭すことはできないだろう。もし信じていたとすれば、天皇自身の「カミではない」ということばを全く平然と受け入れるはずはないだろう。この矛盾を解くためには、「カミ」の概念と「信じる」という動詞の意味論に立ち入るほかはない、とその後の私は考えるようになった。しかし、今はそのことに立ち入らない。(注14↓)p126



・かくして、「ここ」の文化も、「今」の文化と同じように、部分と全体との関係に還元される。別の言葉で言えば、部分が全体に先行する心理的傾向の、時間における表現が現在主義であり、空間における表現が共同体集団主義である。p239

・雪舟や芭蕉が偉大なのは、彼らが日本の「自然」を発見したからである。発見するためには京都や江戸の旅の、閉じた文化圏の枠を破ってそこから脱出する必要があった。しかし今では彼らの発見した「自然」そのものがなくなった。少なくともその大部分が失われた。・・・彼らは旅に一時の安らぎと楽しみを見出したのではなく、自然と共に「このひとすじの道」、すなわち新しい件pの創造力を見つけたのである。p248

一つの生命

2007-07-16 22:41:40 | 自然
昨日はちょっと嬉しいことがあった。

通いなれた海岸で、台風一過の南風にひと吹きされた後、着替をしていたら、アゲハチョウが一匹ヒラヒラと飛んできて、脱いだばかりのウェットスーツにとまった。

ウェット独特の匂いに誘われたか、その色合いが気に入ったか、それとも・・・早速デジカメを取り出して数枚撮ったのだが、どんなに接近しても恐れて逃げ出す景色がない。なにか私に特別な興味があるような風で、すぐ近くを舞ったりウェットにとまったりを繰り返している。

以前、山に通っていた頃に似たような出来事があったのを思い出した。やはりアゲハチョウが一匹、木立の中から突然現れて、昼食中の私のブーツの先にとまった。「大丈夫だから肩においで」と心の中で話しかけたら、なんとその通りの行動で応えた。その時、なんともいえない穏やかな喜びを感じると共に、充分に気持ちが通じ合えた・・・という気がした。

30歳を超えて「ドリトル先生シリーズ」を面白く読んだ・・・というわけでもないのだろうが、いつの頃からか、私は、この世界のあらゆる生命と人間は、何らかのかたちで心を通い合わせることができるに違いないと思うようになった。

相対的な違いはいろいろあっても、彼らも生命、私も生命。生命としての基本的な部分は同じなのだから、その基底部に触れるような方法をとることができれば、それなりの意思疎通ができないはずはない・・・。

これまでに、さまざまな生物との出会い触れ合いを経験したが、この思いが強い確信に変わったのは、1歳になったばかりの飼いネコの死と14年共に暮らしたビーグル犬の死に直接立ち合った時からだ。

ネコのミーが死を悟った時のあの毅然たる姿勢。犬のロビンのあの眼差しの優しさと穏やかさ。その生物種を超た崇高さは確かなもので、ある種、人間以上に人間的なものだった。私には、あれほど毅然と厳しく、あれほど優しく穏やかに、自分の死を迎える自信は今のところない。





孔子伝 白川静

2007-07-11 00:07:34 | 拾い読み
・・・孔子自身は、神秘主義者たることを欲しなかった人である。・・・・ただ孔子は、たしかに理想主義者であった。理想主義者であるがゆえに、孔子はしばしば挫折して成功することはなかった。世に出てからの孔子は、ほとんど挫折と漂白のうちに過ごしている。p8

・孔子は偉大な人格であった。中国では人の理想態を聖人という。聖とは、字の原義において、神の声を聞きうる人の意である。孔子を思想家というのは、必ずしも正しくない。孔子はソクラテスと同じように、何の著作も残さなかった。しかし、ともに神の声を聞きうる人であった。・・・人の思想がその行動によってのみ示される時、その人は哲人と呼ぶにふさわしいであろう。p9

天の思想 - むかし、天と地とは一つであり、神と人とは同じ世界に住んでいた。それで、心の精爽なものは、自由に神と交通することができた。神の声を聞きうるものは、聖者であった。p84

・人はみな所与の世界に生きる。何人も、その与えられた条件を超えることはできない。その与えられた条件を、もし体制と呼ぶとすれば、人はその体制の中に生きるのである。体制に従順することによって、充足が与えられるならば、人は幸福であるかもしれない。しかし体制が、人間の可能性を抑圧する力としてはたらくとき、人はその体制を超えようとする。そこに変革を求める。思想は、何らかの意味で変革を意図するところに生まれるものであるから、変革者は必ず思想家でなくてはならない。しかし、そのような思想や行動が、体制の中にある人に、受け入れられるはずはない。それで思想家は、しばしば反体制者となる。少なくとも、反体制者として扱われる。孔子は、そのような意味で反体制者であった。孔子が、その生涯の最も重要な時期を、亡命と漂白のうちに過ごしたのは、そのためである。孔子はその意味では、漂白の人であった。p110

・人は所与の世界に生きるものであるが、所与はその圏外に去ることによって変わりうるものである。また同時に、主体としての所与への関与の仕方によっても、変わりうる。むしろ厳密に言えば、所与を規定するものは、主体そのものに他ならないともいえよう。・・・所与の限界性を破りうるものは、天であった。孔子が天命を自覚したというのも、おそらくその時であろう。p159

・・・孔子は、この亡命中を、『夢と影』の中でくらした。理想と現実との相克の中に身を置いたが、しかし全てのものは、そのような厳しい矛盾の相克を通じてのみ、成就しうるのである。p152

巻懐(けんかい)とは、所与を超えることである。そこでは、主体が所与を規定する。それは単なる退隠ではなく、敗北ではない。その思想は、やがて荘周によって、深遠な哲理として組織される。p161

孔子が巻懐の心をもつようになったのは、衛で蘧伯玉(きょはくぎょく)の遺風に接してからのことである。・・・晩年の孔子は道を楽しんで疑うことのない生活であった。・・・ここには、隠居楽志の至境が謳歌されている。政治は浮雲のごとく、或るものはただ主体的な生活者としての自我のみである。それは陋巷(ろうこう)に居り、赤貧の中にあって、はじめてえられる。富と権力とを拒否するところにのみ、その喜びがある。その至境をおかすものがあれば、また大踏歩してこれを去るのみである。・・・いまや、所与と主体とは転換する、体制は完全に拒否される。君子の居るところこそ仁である。中原の混乱と腐敗を思えば、辺裔(へんえい)の地こそかえって至純の生活があろう。闘争の場は君子の住む世界ではない。そこでは純粋な自己を保つことができない。「道行われずんば、筏に乗じて海に浮かばん」(公冶長・コウヤチョウ)とさえいう。p157

時計草三首

2007-07-10 23:15:27 | 創作
どこまでも伸びる景色の時計草 ジャングルと化す庭のうれしき

茂りゆく驚異の花に問うてみる お前の意思はどこにあるのか

雨上がり裏戸に鰍ゥる時計草 顔に触れたる蔓(つる)の冷たさ

-寛太郎