昨日は若干八歳のカイトボーダーR君の体型に合わせるために、FM君から頂いた122cmツインチップのフット・ストラップ位置を変更する作業に取り鰍ゥった。頑丈に粘着されたフットパット剥がしに朝から少々汗をかき、先日、測っておいたデルリン位置にチェックを入れて堀江のF君の元へ持っていく。
彼はすでにメスネジに丸パッキンを蝋着《ろうちゃく》させた部品を4個作って待っていてくれた。特殊なドリルでデッキからボトムに穴を開け、そのパッキン付きメスネジを適当な位置に固定するのだが、その作業手順の素早く鮮やかなこと・・・板を抑《おさ》えて彼の器用な手際《てぎわ》を見ながら、私は、空関係の友人であり職人技術者でもるO君のことを思い出していた。
O君は、ある大企業のスカイスメ[ツ部門でPPGユニット製作の責に任じていた男だが、彼が作ったエンジンユニットは、世界中のPPG(モーターパラ)愛好家に信頼され、後に、新任社長の一声で、この企業が空の分野から撤退した後も、次々に舞い込む注文や部品の供給や面唐ネ問い合わせへの対応に孤軍奮闘していた。
私は十年近くそのディーラーをしていた。利に疎《うと》い職人気質の彼とはどこか気が合うところがあって少し深い付き合いをすることになるのだが、互いに共通した意見の一つは、「いわゆるモノ作りの世界で、「巧《たく》みの技」を保持している国は、日本とドイツとイタリアである。その理由はこれらの国々の巧み職人の長い伝統の中にあり、ほとんど遺伝的ともいえる繊細な美的感性と洗練された件p的才能によるものであろう」というものだった。
実際、十九世紀末期に現代のハンググライダーに酷似したものや複葉型にしたような飛行道具を創作し、二千回以上にもわたる滑空実験を繰り返しながら揚力・抗力(揚抗比)などの諸データを蓄積して、二十世紀初頭のライト兄弟による動力飛行を導いたのは、ドイツのオットー・リリエンタールだった。イタリアの十五世紀には、あの超天才・レオナルド・ダビンチがいた。彼は成人してから四十年間に渡って飛行の問題にも取り組み、鳥の飛行翼の構造を解剖学的に解明し考案したオーニソプター(羽ばたき翼)で人間の筋力が最大に働くように考えたり、ヘリコプターの原型らしきもののスケッチを残しているのは有名な事実である。このような製図は十八世紀後半までのどんな航空関係者にも知られることは無かった。
あまり広くは知られてないが、日本でも、幾らか有名な愛媛・八幡浜の二宮忠八に先立つこと百年以上の江戸時代中期、備前(岡山)の表具師(家具職人)・浮田幸吉《うきたこうきち》は、リリエンタールの滑空翼に似たものを自作して、橋の欄干からの滑空飛行に成功した・・・という間接資料がある。
PPG(モーターパラ)に関しては、フランスのアドベンチャー社が先駆けるのだが、使用エンジンはドイツ製のソロ210《ツーテン》という頑強この上ないものだったし、ドイツのフレッシュブリーズ社は当然、長い間これを使っていた。イタリアのフライプロダクツ社も同様。日本ではある零細企業の極めて優秀な職人が航空用の超小型二気筒250ccエンジンを作り上げて、世界のPPGフライヤーを驚かせた。このエンジンの信頼性は他の群を抜いていた。私が南アの世界戦で使ったのもこのタイプで、競技用に持ち込んだ3台を含めた5台が、大会終了後、現地で完売したことはどこかの記事にも書いた。
巧み職人の世界が空の世界に跳躍すると、またまた長い長いお話しが始まる。また別の機会に触れることもあるだろう。