昨日はちょっと寒い思いをした15年もののスプリングが、私の身体の中から、再び記憶の片端を引き出し始めた。
これを購入したのは、1996年8月の南アフリカだ。航空スメ[ツの一種であるPPG(動力を使うパラグライダー)世界戦の第一回で、たまたま日本代表の一人に選ばれた私が、こんな遠い国に行くことにしたのは、一つにはもちろん、自分の力量がどの程度のものか知りたかったこと。一つは、この分野に生きる世界の人たちの姿勢(考え方や振舞い方)を知りたかったこと。
そして、もう一つは、ちょうど前年の95年に、稀有(けう)なる人権闘争の勇者「ネルソン・マンデラ」が見事な政権交代を成し遂げ、アパルトヘイト(人種隔離政策)が廃止された直後の国家の有様をこの目で確かめておきたかったこと。この三つだった。
もっとも、その過去、ウィンドサーフィンやパラグライダーの多くの競技大会に、自らに可能な限りの情熱と労力を注いで来ていた私は、すでに「自分がほんとうにやりたいことは、どうやら他人(ひと)と競い争うことではない」ということに気づいていたから、最初の目的はオマケのようなものだった。
パイロンを回ったり、スピード・ディスタンスなど競技上のタスクを消化する本来の仕事など、ほとんどそっちのけで、どこまでも続く赤いアフリカの大地や、雪の薄化粧に輝く遠くの山々、多少のブッシュが覆う台地や谷間に点々と散らばる家々、少し低空飛行すると大きく手を振る住民の笑顔との出会い・・・など、いわば「非接触型交流」とでもいうものを楽しみ過ぎている私に、勝敗にこだわらざるを得ないチームリーダーが多少なりともイラついたのも無理はない。
世界選手権の初回ということもあり、参加国は開催国・南アにヨーロッパの数カ国とアジアでは日本のみ、PPGの参加選手は20数名。世界戦数回目のマイクロライト・重心移動型(トライク)が50名ほど。エアフィールドはインド洋に面する観光都市・ダーバンから車で2時間ほど内陸部に入ったクワズール・ナタールの片田舎にあった。小さな地方空港ほどの広さはあり、普段は主にマイクロライトの離着陸場として使われているということで、周囲は厳重な金網で覆われいる。毎日のブリーフィングや食事会は広大な格納庫で行われた。
予想通りというべきか、未だにというべきか・・・この金網の内側で黒人を見かけることはく、設置された簡易トイレは白人用と黒人用に明確に区分されていた。色は黒いが一応黄色系の私は両方使って何の問題も起こらなかったから、主催者側のほとんどが、よく知らない極東から来た、下手な英語や意味のないフランス語を使う、更に訳の分からない人間をどう扱ったらいいのか戸惑っていたのかもしれない。
時に、競技を見物に来ていた白人の男の子が「日本という国はどこにあるのか、どんな家に住んでいるのか、どんなお金を使ってるのか・・・」などと、無邪気な好奇心を満面に現しながら聞いてきた。すぐにお父さんが飛んで来て「すみません・・・日本人を初めて見たものですから・・・」と丁寧に謝られたが、子供好きな私が気を悪くする理由はない。都市部と違って全くの田舎町だから、はるか遠くの国々の人たちとの遭遇はやはり稀なことだったのだろう。
気象が悪くて飛べない時は、金網の外側を散歩した。すぐ横のゴミ捨て場では、ボロを着た5歳前後の黒人の子供たちが数人遊んでいる。話をしようと近づくと、いくぶん怪訝(けげん)な面持ちで大きく目を見張り、じっとこちらを見ている。
私はャPットからアメを一つかみ取り出して、「これ、どうだい?」と声をかけた。すると、彼らはちょっと躊躇(ちゅうちょ)の色を見せた後、驚いたことに、全ての子供が、土ゴミで汚れた両手をお椀のように差し出して、拝むようにアメを受け取り、ちゃんと礼の言葉を返した。一つの世界を分断するような「金網」は、せめて子供の世界からは消滅しなければならない。
競技は1週間続き、最初の数日、私たちはエアフィールドから車で半時間ほど離れたところに宿を取っていた。これがまた、英国人の植民地支配が典型的に現れたような大農園の中にあって、宿の主に「あなたの所有地はどこまでか?」と聞いたら、周囲をグルリと指差しながら「だいたい見えなくなるところまで・・・」と答えた。広大な敷地内には使用人の黒人家族が何組か住んでいた。
実は、私は他の2人のメンバーよりも数日早くダーバン入りしていて、そう寒くもない冬のインド洋でブギーボードのサーフィンをしていた。これがホテル近くのサーフショップで例のスプリングを購入した理由なのだが、近くの海岸では、たまたまサーフィンの世界大会をやっていた。偶然の計らいで、当時世界のトップクラスと呼ばれるサーファーたちの波乗り見物の機会にも恵まれたのは有り難いことだ。
ところが、いくぶん冷ための大波に2日連続でもまれたら、3日目から熱と寒気がやってきた。たちの悪い風邪を引いてしまったのだ。38度前後の熱と体のだるさが抜けないのは実に困ったことで、現地の薬局で求めたカゼ薬は全く利かなかった。農園の宿の主に、もうちょっとましな薬はないか・・・と所望しても、それ以上のものはないと言う。
客人係で、貧しい小屋のような家に住む黒人使用人にことの事情を話したら、アスピリン系の錠剤を幾つか持ってきて「これを飲んでくれ」と言う。彼女にとってはたぶん貴重な家族の常備薬の一種だったに違いない。そのおかげで熱もいくぶん収まり、競技は1日休んだだけで無事終わったのだが、この変な体調の悪さは帰国してからもしばらく続き、私はこの病に「アフリカ風邪」と命名した。
それにしても、ウェットスーツの類ではもっとも薄手で夏の季節に使うはずのこれを、なんで「スプリング=春」なんて呼ぶのか・・・3mm生地の長ズボン半そでツナギは、今でも「シーガル」というらしい。これまた、なんで「シーガル=カモメ」なのか・・・知ってる人がいたら教えて下され。
今日のトラックログは、新しいカイトエリアの一つとして候補に上がっている、別府湾の向こう岸の砂浜から眺めてみた。直線でたったの4kmほどの距離だ。衛星写真で見る限りでは、ずいぶん広くてきれいな浜ではないか。問題はどんな風がどの程度入るかだが、別府がハズレの時に大アタリだったりしたら、こんなに有り難いことも少ない。
19㎡・22km
何でもそうだろう・・・自分にとってどんなに楽しいことでも、他人(ひと)にとってどうかは分からない。しかし、自分が美味いと思った食べ物や好みとする事物を、それなりの興味を示す人たちと共に味わい楽しみたいという素朴な気持ちは、人類が集団生活を始めた大昔から変わらぬ相当に原初的な感情で、ほとんど本能的なものではないかと思う。
もっとも、こんな気持ちの大小強弱も人により、私の場合は多分に「お人よし」の、場合によっては単なる「おせっかい」の類(たぐい)かもしれないことは充分に承知している。
ところで、今日は今治の大西支所にちょっと寄って、「ボランティア用ゴミ袋」を、とりあえず40枚もらってきた。好きで始めた海岸清曹フ用に供するためで、ゴミがある程度集まって(すでにちょっとした小山になっている)、このゴミ袋に分別し整理しておけば、適当な日に市の清窓ヌの車が取りに来る段取りになっている。
漂流ゴミは次々に流れ着くので、当面終わりのない作業ということにはなるのだが・・・放置ボート横のバケツに不燃用と可燃用のゴミ袋をとりあえず数十枚入れてあるので、興味がある人は自由に使えば良い。
あらためて言うまでもなく、この浜だけでなく日本国中のあらゆる海浜は全国民の財産で、管理の大方を国家の出先機関や地方の公共団体に任せてあるにすぎない。本来、私のものでもあるしあなたのものでもある。(いやいや、ほんとうは全ての生き物の共有財産なのだよ・・・という声がどこかから聞こえる^^;)
堀江の浜の踊り場に「わが庭と思わば、ところかまわず糞もさせまじ」とかいう標語旗がなびいている。まことに下手な「五・七・五」だなぁ・・・と見るたびに思うが、「わが庭」というのは全くその通りで、海浜が「自分の所有物である」ということを自覚すれば、そもそも「ボランティアなんとか」なんて言葉は必要なくなる。まあ「ボランティア」の原義は「自主的に」という意味だから、そう無理のない表現ではある。
カイトサーフィンはただ走ったり飛んだりするだけでも充分楽しいのであるが、いろんな形で回っていて感じることは、何らかのエネルギーが身体の中に注入される感覚が生まれるということだ。これは単なる三半規管のイタズラかもしれない。
しかし、物体が一定方向に進行しながら回転すると、その軌跡は螺旋(らせん)を描くことになり、螺旋構造や螺旋運動は、小は電子の原子内運動やDNAの二重螺旋から、中はツル植物や瀬戸の渦潮や竜巻の数々、大は猛烈な速度で自転・公転しながら進む地球、そして、おそらく壮大なる銀河の宇宙的運行に至るまで、じつに様々な場所にその美しい形を現しながら存在している。
カイトサーフィンの疲れが残らない原因の一つを、こんなところに求めようとするのは、あまりにトンデモナイ思い付きなのだろうか・・・^^;
ただ、カイトサーフィンの不思議の一つは、この歳になっても疲れを明くる日まで持ち越すことがほとんどないということだ。それがどうしてなのか・・・幾つか思い当たる節があるのでまた近いうちに整理してみる。何はともあれ、いろんな意味で、これほど刺激的かつ魅力的な海のスメ[ツは稀(まれ)かもしれない。
明日の風はもっと西寄りに振れて、今日より幾分は走りやすいものになるだろう。
昨日書いたT君の話には、國弘正雄と関係する導入部分がある。ことのついでに、UPしておく。
國弘先生のことを書こうとすると、どうしてもT君との思い出を辿らざるを得なくなる。T君とは、同郷の中学の2学年先輩で、私が1年坊主の時に理科部の部長や生徒会長をしていた人だ。若い時の森進一にそっくりで、その聡明で温和な性格は校内の誰にも好かれていた。この年代の2年先輩というと、はるか高い場所にいる大人のように見えるものだが、彼の柔らかで気さくな人柄には、ほとんど年齢差を感じさせないものがあった。1年生の2学期から理科部に入部して、私はすぐに彼のことを「T君」と呼ぶようになった。
理科部では全くの自由が支配していた。各自適当な自由研究の成果を思いついた時にまとめて、理科新聞を発行することのほかに特別な活動をしていたわけではない。当時の新聞はガリ版刷りで、私はピンホールカメラの原理を図入りで解説したりしたのを覚えている。彼が卒業した後、2年生の私が部長を引き継ぐことになったのもその自由の空気のためで、要するに誰がリーダーになっても部活動の内容には何も影響しなかったということだ。夏休みのある日、山を二つ隔てた彼の家に泊まりに行った夜、近くの小学校の天体望遠鏡を校庭に引っ張り出して、初めて土星の輪を見た時の感動を忘れることはない。
T君とは取り止めもない未来のことや他愛のない悩みごとなど実に様々な話をしたが、私は彼と一緒にいること自体が嬉しかったのだ。1年足らずのうちに、彼は海を隔てた街の進学校に進み、2年後に私も後に続いた。もちろんこの間も暇を見つけては彼の家に遊びに行った。彼とは英語が好きな点でも嗜好が一致していて、この頃すでに、彼は大学に進んだら是非とも留学したいという話をしていた。そして実際、岡山大学の理学部に進んだ後、サンケイ・スカラシップに合格してアメリカの東海岸に1年間留学することになる。
T君が高校時代に心酔したのが、同時通訳者で当時テレビやラジオの英語教育番組でも大活躍していた國弘正雄だった。彼は尊敬する國弘先生の書物を何冊か熟読してその感想文を送った。間もなく、先生の丁寧な返答が著書数冊と共にT君の元に届いた。「立派な人物とはこういう人のことを言うのだね・・・」それを聞いて、私もその通りだと思った。
その後、私が大学進学を考えるようになって、国際商科大学(現在の東京国際大学)を有力な選択枝にしたのは、この大学で國弘先生が国際関係論を担当していたからだった。そしてやがて、私は学生生活最初の1年間をこの大学で過ごすことになる。当時の先生はまだ40代半ばで意気溌剌としていた。派手な柄のまぶしいようなネクタイをしめた彼が教場に颯爽と登場すると、あたりの空気がピンと引き締まった。あの歯切れの良い早口で一時間半とうとうと話し終えるとさっと姿を消す。やはり随分お忙しいのだろうな・・・50人に満たない小さな教室の、たいがい一番前の席に座っていた私は、ステージに立つスター歌手を見るような気持ちで彼の姿を見ていた。世界中に広がっていたはずのその講義の細部を、今ほとんど覚えていないのは奇妙なことだが、人はその話の内容だけから影響を受けるのではない。
結局、ある理由で、私はこの暖かい大学を一年で去り、明治大学に籍を移すことになる。当時の担当教授にはずいぶんご心配をかけ、不義理を残したままでいる。
國弘先生は、後に政治の世界にも関係するようになり参議院議員にもなって更に活動の場を広げられた。終始、平和と市民の側に立つリベラルな立場を堅持された。ただ、何年か前にテレビでお姿を拝見した時は随分痩せられて、様々なご苦労の痕が色濃く残っているように見受けられた。現在は政治からも身を引き、英国の客員教授や明治大学の軍縮平和研究所特別顧問もされている。ちょっと不思議な縁だと勝手に思っている。ともかくお元気で長生きしていただきたい。
さて、T君の話であるが、その後の彼について語るには、私の心の準備はまだ整っていない。その時が来たら、また書きたい。
人間がこの世界に生まれ出て、その本性ともいえる「純粋性」をまだ失なっていない年頃・・・十代から二十代にかけての、いわゆる青春時代における人との出会いほど、その後の人生に大きく影響を与える要因も少ないだろう。
加藤周一については以前少し触れたが、私にはもう一人、折りあるごとに思い出さずにいられない人物がいる。それがT君だ。この春の紀州旅行の帰りが、東北地震の影響で陸路に代り、岡山に立ち寄ることになったのも、その数ヶ月以前に、彼に関する情報を調べていたら、市内の蓮昌寺という寺の一角にT地蔵なるものが建立されていることを知ったからだった。偶然か否か、彼は岡山大学で地震を研究していた学者の卵だった。
「人間は過去の事実を変えることはできないが、過去の事実の評価(意味)は変えることができる」・・・ある恩師の言葉だ。時は過去・現在・未来へと進行し、過ぎ去った過去の出来事に変化を加えることはできない。しかし、現在の自分が変われば、未来が変わるのは当然として、過去の事実の意味付けまで確かに変わるのだ・・・と心底納得したとき、私の目から大きなウロコがボロリと落ちた。ある事実の意味・評価が変わるということは、まさに事実の内容そのものが変わるに等しいことではないか・・・。
その後、私は、自分の未来について案ずることが少なくなり、「今この現在を行き切ること」に意を注ぐようになっただけでなく、人間の歴史全般に心惹(ひ)かれるようになった。そして、自分が関係した過去の出来事についても、時々思い返してその「意味づけ」がどう変化していくか・・・ということにも興味を持つようになった。
T君の話に戻る。以下、数年前の記事を転記。
中学・高校・大学と、極めて多感な期間を通して、私に大きな影響を与え続けた友人のT君について書くには、まだ充分な準備が整っているとは言いがたい。しかし、その準備はいつ完了するとも言えない種類のものでもあるので、少し書いて今後の資料にしておきたい。
岡山大学の理学部に進学したT君は、まもなくスカラシップでアメリカ東海岸に留学し、日本に帰ってから大学院に進んで学者の道を歩み始めた。専門は地質学で、1976年の論文は『マグニチュード3.9の地震の表面波解析による発震機構の決定』となっている。
当時の私にとって最初の大学を辞めるという選択は大問題だった。四国の片田舎に育った私には、関東周辺に身寄りも知り合いもなく、埼玉の下宿を出て新たな受験準備をするために江戸川傍のボロアパートに引越しするのも、電話帳をめくって適当に探り当てた不動産屋が、たまたま小岩にあったからというに過ぎない。
この計画については誰にも相談することなく、長い夏休みが終わった頃から着々と準備に着手し、受験直前になって、両親にも教授にも下宿屋の婆さんにもその結論だけを告げた。全ての人が反対した。
T君も例外ではなかった。そして、彼の反対理由は「君の気持ちは分からんでもないが、学問は場所を選ばない。大学が替わったからといって君の悩みや疑問は解決しないだろう。K大学はできたばかりの小さい大学で、M大学ほど名は通ってないが、素晴らしい先生がいて暖かい環境があるではないか。君は実より名を取るのか・・・」というようなことだった。
私が転学を考えた理由は「名を取る」ことよりも深刻なものだったが、この時はそれ以上のことを話すことはなかった。彼自身も自己の進路についての悩みを抱えていたに違いない。温厚な彼には珍しく厳しい返答だった。
結局、私は周囲の全ての反対を押し切って転学し、新しい環境で新しい生活を始めることになった。今から思うとムチャクチャな学生生活だ。しかし、20歳前後の男の生き方などというものは、凡そ無茶なもので、自由と苦悩をその本質とするものだろう。
2歳年上のT君は、私などよりはるかに堅実な生き方や考え方をしているようだった。私も新しい環境に慣れて、学内学外で色々と忙しくするようになった。T君も、大学院に進んで何かと忙しいらしく相互の連絡も途絶えがちになった。しかし、私は折に触れて彼の存在を思い出しながら、彼が博士課程に進んだらちょっとした祝いでもしに行こうか・・・などと考えていた。
そして、私が22歳の4月、親父が仕事の用事で東京に出てきた。年に一回あるかないかのことだ。都内のホテルで久しぶりに豪華な食事をした後で、父が重い表情でャcリと言った。「T君が死んだよ・・・」「もっと早く知らせるべきだったのかもしれないが、お前が落ち込むのは目に見えているから、今まで言わずにいた・・・」
ホテルの華やかな食堂が一気に明かりを失った。「なんで・・・?」「去年の大学院の忘年会の後、行方不明になってね・・・大騒ぎになったんだが・・・少し暖かくなって、下宿の近くの池に沈んでいるのが見つかったらしい・・・」私は言葉を失った。
アルコールに弱い私と違ってT君は強かった。一杯やると「学問とは、我が人生の目的とは、世界平和とは・・・」等など、大きな話になるのが大概だったが、それは単なる酔っ払いのホラ話ではなかった。素面の時でもこの種の話題については真面目に議論することがよくあったからだ。ひとしきり話し終えると気絶したようにどこでも寝てしまう豪放なところもあった。
後で聞いた状況を総合すると、12月末の非常に寒い夜、院の教授や仲間と大酒を飲んだ帰りに、道中、池のほとりで立小便でもしようとして足元がふらつき、冷たい水の中に落ちてそのまま寝てしまったのだろう・・・ということだった。
24歳の彼の死はあまりに唐突で理不尽だった。もうあの笑顔も涼やかな目も二度と見ることはできないのだ。もうこの世界のどこを探しても彼はいないのだ。それ以来、どんな人間も避けて通れないにもかかわらず、まともに向き合うことを容易に許さない「死の問題」が、私の心の隅から離れることはなくなった。そして否応(いやおう)なく、この日々の現実世界が相対化することになった。
人は死んだらどうなるのか・・・死後の世界は有るのか無いのか・・・もし無いとしたら人生の意味はどこにあるのか、もし有るとしたらそれはどの様なものであり、この生の世界とどういう関係性を持っているのか・・・人間が太古の時代から問い続けてきた容易には解けそうもない問題がそこにあった。
その答えを、幾多の哲人や先人の言葉の中に見出すのは簡単なことだ。それらの中にはそれなりの説得力もあり、なんとなく分かったような気になるものもある。しかし、どのような考え方を採用しても、一人の有為な人間が人生半ばにもならない若さでこの世界から突然消滅し、一方私のように無為な人間がその2倍以上もの年月この世界に存在し続けていることの必然性を、合理的に説明し、更に実証することは難しいだろう。
最近の私は、生死を有無の範疇で捉えようとすること自体に無理があるのではないかと考え始めているが、この大問題と真正面から向き合い、自己の中にゆるぎない解答を見出すには、まだ相当の時間がかかるのかもしれない。
この部屋は朝の9時前にして、気温が30度を越え、真夏の蒸し暑さ。しかし、この暑さこそが、海や風読みスメ[ツの有り難さを何倍にもするのだ。
一昨日の別府は初夏の順風、昨日は微風だったが空は夏色。そして今日、この気圧傾斜だと、ほぼ満点の南西風に恵まれるだろう。昼からまたちょっとトビウオになってこよう。
・・・・ということで、本日の走りはトラックログの通り。最初のひと吹きは北西5??8m、別府の海をこんな角度で走ったのは初めてだ。そのままクローズドホールドで太陽石油まで行ってやろうかと思うくらい面白い北西風だったのだが、19㎡でオーバー気味になったのでひとまず海岸に戻り、一服しているうちにいつもの南西に振れて5m前後。風はともかく海面の様子は芳しいものではなかった。エッジの引っかかり具合で板の動きが決まるカイトサーフィンにとって、波長の読めないグシャグシャで中途半端な波の中で、気持ちの良いジャンプやジャイブをするのは至難の技だ。
23km
昨日は、フランクリンがカミナリから電気を採取するために凧を使ったということを書いた。これはアメリカで育った人間なら、たぶん誰でも知っている小学校の教科書にも出てくるような話で、彼が残した『ベンジャミン・フランクリンの自伝』は、彼の地では聖書の次に愛読者の多い本かもしれない。もちろん、この本の著作権は、はるか昔に切れているので、今は全くの無料で原作を読むことができる。奇跡のシステム・インターネットのおかげだ。
日本語訳は、いつかどこかで読んだような気もするが、カミナリ実験のくだり以外はほとんど覚えがないので、早速、キンドル用に一冊と関連サイトから落としたPDFに目を通すことにした。そしたらなんと、目次の何行目かに「エレクトリック・カイト」なる項目があるではないか。そのまま訳せば「電気凧」・・・なんと魅惑的な響きだろう・・・太陽電池で飛行機が飛ぶ時代だ、電気で動くカイトがあったら、どんなことになるのか・・・。
もちろん彼のカイトは電気で飛び回ることはないのだが、その命名の仕方自体が楽しいではないか。この部分をサラッと読むと、「十字に組んだ木枠に絹の布を張って、接続した麻ひもは水で充分濡らし、操作する人は家屋や物陰に隠れ、ゴムの手袋をして・・・・」などと目に浮かぶような説明が続く。何かの足しになるかもしれないから、ちょっと部分訳してUPしようかとも思ったが、アマゾン書店で探せば、末{がたぶん古本1円くらいで出ているだろうから、その必要もあるまい。
他にも、彼の自伝には「フランクリンの十三徳」という人生訓みたいなものがあって、今でも多くの成功者の心得として広く読まれているらしい。これについても思い付いたことがあるので、またいつか書く。