庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

忘却と亡失

2012-08-31 23:22:00 | 自然


今日で八月も終わる。今月はなんだかんだと忙しい日々が続いた。昼間の気温はまだゆうに三十℃を超えて充分に暑い。だが、辺りに漂う空気は着実に秋の匂いが濃くなってきている。今日などは、湿度が低かったということもあるのだろう、気温のわりには爽やかで、別府の海に久々に入った西風順風が殊に心地良く感じた。16e7c25e.jpeg

しかし最近、なんだか忘れモノが多い。めんどくさい事はなるべく忘れ去ることにしている私にとって、忘却は得意技の一つではあるが、必要な物をどこかに置き忘れたりするのは、普通喜ばしいことではない。「普通」というのは「特別」があるからで、意図しない亡失が、より良い結果をもたらすことも、時々はある。

先日は愛用の板を堀江海岸に置き忘れて、どうやら引き潮の土産にしてしまった。今日の別府では、車内の定位置にハーネスが無いことに初めて気が付いた。これはどうも徳島のどこかで眠っているようだ。

新たに届いた板は、同じメーカーのまったく同じ板のはずだったのだが、幾つか気になっていた点をちゃんと仕様変更してあって、一言で言うと、更に快適に走り、楽に跳べるようになっていた。

ハーネスは、ジャンプの際のズレ上がりを嫌って、長い間、手製のフンドシを取り付けていたのだが、私が信頼する或るイントラ・ディーラーに相談したら、彼に「どんな種類のジャンプにもズレ上がることなく快適に使用できることは私が保証する」とまで言わしめる優れモノがあった。

話は少し跳躍するが、人間は記憶する動物であるがゆえに忘却する動物でもある。何の用にもならない過去はどんどん忘れ去ればよい。しかし、できれば消し去りたいと願うような過去でも、現在の自分が変化すれば、その意味付けも変化する。大きく変われば大きく変化する。過去の体験の意味・評価が変わるということは、言い換えれば「観え方が変わる」ということで、それは実質、自分の中で過去が変わるに等しいと言えるだろう。

深い苦悩や重い後悔の過去が、現在の喜びの原因となり、未来の成長の要因となることも確かに有るという事実は、すでに多くの人たちが、それぞれに貴重な例で示してくれている通りである。


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米国日本大使への書簡

2012-08-31 21:43:00 | 平和

 民主主義とは政府内部で権力を排除することではなく、共同体全体の権威を基にした法との協調によってのみ、権力の使用が許されることである。世界的な民主主義における権力とは、世界的共同体によって権威付けられることによって許される限りにおいて、使用され得るものである。
 ークウィンシー・ライト『過渡期における政治的状況』

 アメリカ合衆国・日本大使への書簡  2012年7月14日付

 拝啓、H・E・ジョン・V・ルース大使 閣下

昨年の九月の貴殿への書簡の中で、私は国際連合憲章が想定した「過渡期」に踏み出す必要性について示唆しました。私はまた、五常任理事国が。そのプロセスを開始することがほとんどできなくても、ヨーロッパ各国は強力な立場にある、という私の信念についても述べさせて頂きました。

先日、東京において、私はドイツ国・日本大使のフォルカー・スタンツェル博士と、「過渡期における安全保障の合意事項」について会談しました。続いて、彼に宛てた書簡(同封)の中で、アメリカ合衆国とドイツ国とが来《きた》る「広島の日」に、旧ドイツ国によって引き起こされた先の戦争全体への謝罪と、戦争終結の手段として実行された原爆投下に至る経緯の概要などを含めた「共同宣言」を発表することを提言しました。私はすでにインドの日刊紙・ステイツマン紙上に同趣獅フ小論を寄せています。

これまでにこのような提案が成されたことがあったかどうか、私は知りません。しかし、かつて、アメリカの指導者たちの心の中には、戦争が全面的に廃絶されるべきものであること、その目的のためにこそ原爆の使用が手段化されたのである、という考え方があったように私には思えてなりません。これに関連して、当時の合衆国大統領、ハリー・トルーマンは軍隊に向けた彼の対日戦勝演説の放送の中でこう述べています。「我々は地球上から戦争を廃絶しなければならない。地球が我々が知っている形で存続するのであれば。」

(同様の意図を合衆国が持っていたことの証拠は、アイゼンハワー大統領のスピーチの幾つかにも、1961年のマクロイ??ゾーリン合意の中にも現れています。)

私は、原子爆弾がもしもドイツに落とされていたら、この戦争廃絶という目標は達成されていたに違いないと確信しています。しかし、日本への原爆投下について同様のことを言うことはできません。恐らく、原爆を落とされたという事実は、その後日本が、自らの憲法の中で、戦争廃絶に向けての課題を扱うための視座に力を貸すことになったのでしょう。

先の書簡で述べさせて頂いたように、私は、この点に関して、両国がその歴史的に明白である、「特別な責任」を負うことによって、また、集団安全保障システムを目的とし、法的に「安全保障上の主権委譲」を定めた1949年憲法の趣獅ノよっても、ドイツ国がその移行過程への導因になると信じています。
(この“安全保障上の主権委譲”という言葉は、私が信書を交換しているジャン・ティンベルゲン教授が、国連安全保障理事会に向けて使った用語です)

私はまた、かつて植民地主義を採っていたフランスやイギリスが、インドのような偉大な国の代理役となるかもしれないことを提案させて頂きました。インドは、国連憲章の27条2項による「手続き条項」に従い、各国の合意さえあれば、当然、安全保障理事会の常任国の候補になってしかるべき国であります。

この目標達成への道のりは遠いものになるでしょうが、今はまさに、その過渡期に踏み出す時であり、ドイツと米国が共同声明を発表する時であります。

この件について、貴殿が米国政府に働きかける機会を見出して頂ければ、私の喜びこれに優るものはありません。

敬具

         自由・独立的、活動家かつ研究家: 歴史平和学者、クラウス・シルヒトマン

                                    日本語訳: 渡 辺 寛 爾

 同封:

・駐日ドイツ大使、フォルカー・スタンツェル博士宛ての書簡

・日刊紙ステイツマンへの寄稿記事

・クインシー・ライト著『過渡期における政治的状況(1942年)』

・IPRA(International Peace Research Association:国際平和研究協会)での私の講義(抜粋)

○カーボンコピー送付:駐日ドイツ大使、五常任理事国大使館、インド大使ほか


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湖畔の樹々

2012-08-30 13:24:00 | 創作
 夏の日の 湖畔の樹々の 木陰には 遠き昔の 日々まで集う
なつのひの こはんのきぎの こかげには とおきむかしの ひびまでつどう 

  ikedakohan.JPG

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鳩の卵

2012-08-27 11:47:00 | 自然

 中庭のゴールドクレストに野鳩が卵を産んだ。私が喫煙場所にしている部屋の真正面、ベランダから2mも離れていない。IMGP0565-s.jpg

 かなり以前から、この大木がたいそう気に入っている鳩が近所に住んでいて、時々ベランダの手すりを不器用に歩きながら、それとなく私の動きに注意していることには気付いていたし、私の方も鳥たちの来訪は大いに嬉しいことなので、「なんも悪いことはしないからいつでも好きなときにおいで」・・・ぐらいの気持ちで放っておいた。

それが、まさかこんな至近距離に質素な巣を構えて子作りをしているとは思ってもいなかった。しかも夫婦の二羽で。

人間の基準でいくと、これがまた、とんでもなく仲が良い。一羽はたぶんメスだろうが、少なくとも日中の大半の時間は卵を抱えているのでかなり痩せている。そこへカタワレがお腹にしっかりと餌を蓄えて帰ってきて、ツバメの親が子ツバメにするあの口移しの要領で、けなげに栄養を与えている。IMGP0567-s.jpg

とりあえず、たった一個の卵が無事に孵《かえ》って、家族がもう一羽増えるのを、そっと観察しながら楽しみにすることにする。

 

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再び徳島 2

2012-08-23 11:39:00 | 自然

この嘴(くちばし)だけ黄色く目立つ鵜君は、もう一つ見事な技を見せてくれた。螺旋(スパイラル)を描くランディング・アプローチである。

人間の世界では、どんな大型のジェット旅客機も小型のプロペラ機も、各種のマイクロライト機でも、さらに無動力のグライダーやパラグライダーでさえも、着陸の最後のアプローチ(ファイナル・アプローチ)は直線で行う。

アクロバット飛行を好むパラグライダーのパイロットが、たまにスパイラル・ダイブで地面スレスレまで急速に降下して、接地寸前に横向きの揚力を縦に戻しながら無事着陸することはある。これにはかなりの危険が伴い、当然、極めて高度な技量を必要とする。私にはとてもあんな器用なことはできない。しかし、それとても、大きなバネを縦にしたようなマヌーバ(軌跡)で、正確にはネジ状の螺旋スパイラルではない。

ところが多くの鳥たちにとって、スパイラル・アプローチは当たり前の日常的技術だ。今回の鵜君は高度三十メートル辺りから右に旋回をはじめ、正確に旋回半径を縮小しながら五旋回ほどした後、彼が目星を付けておいた水面の或る一点に、ほとんど音もなく着水した。

自然に生きるものたちが、滅多なことでは、まず無理や無駄というものをしないことを、私はよく知っている。彼(彼女かもしれない)が、もっと単純な直線アプローチを採らなかった理由は、朝食の餌に供する小魚の様子を上空から正確に伺《うかが》い、もっとも効率的に必要量の食餌を済ませること・・・そして、それが彼にとって大きな喜びであっただろう・・・ということである。

動物や植物は人間のような言葉は使わない。しかし、それぞれの表現手段を持っていることに疑いの余地はない。ドリトル先生がオームのャ潟lシアに動物語を習い始めるとき、ャ潟lシアがまず教えたのが、「彼らは身体の動き全体を言葉にする」ということだった。

私も多くの人のように、少なくとも犬や猫やイルカが、身体だけでなく、その鳴き方や顔の表情で幾つかの感情や意思を現すことを知っているが、それ以外の動物たちも仲間内では、恐らく相当に明白な顔面表現も使っているのではないか・・・と想像している。

人間と他の動物たちの間に本質的な違いはなく、大きく見れば似たような身体器官を持ち、似たようなものを食べ、生きて死ぬことは同じである・・・という事実を、あのB・ラッセルも、かなり厳しかったはずのアメリカ生活時代に、『動物が喋れたら』と題する、彼らしい随想の中で述べている。

興味がある方は以下のリンクからお読み頂きたい。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/russell/ANIMALS.HTM
  


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再び徳島

2012-08-22 12:10:00 | 自然

先の日曜・月曜は徳島で過ごした。いつもの思い付きではあるが、松山周辺は当分風が弱く、昼間は耐え難く暑く、太平洋高気圧がまだまだ元気な天気図をどう見ても、徳島にはあの南寄りの風が入り続けるように思ったからでもある。

今回は日曜日の午前中から出発して、ノンストップで車を走らせたら、どれくらい速く到着するか試してみることにした。結果は約五時間。道中今まで、お店に寄ったり森や川を眺めたりの休み楽しみに、一時間以上使っていたということだ。

小松海岸に三時半に着いた頃には、すでにIさんは12㎡でグラハンに精出していた。南南東から7mほどの順風。昨年の7月に知り合ってから、彼の技術や道具にとっては、初めてのまともな風だった。 

もう一年以上が経過したわけだが、これまでご一緒した数回、海上走行には弱すぎたり強すぎたりで、一定角でカイトパワーを維持しながら走り続けるのは難しかったのだ。結果、数レグの三角走行ができるようになったので、この日を「初走行記念日」とした。後は、成功体験のイメージ・トレーニングやら、徹底した楽観主義の話やら、あれこれの思い付き話を暗くなるまで。 

この夜はいつもの私的小松海岸には珍しいことに、雨もカミナリもなく、対岸遠くに見える花火大会や、紀伊水道上空を覆うようにまたたく星々を眺めながら、涼しい夜を過ごした。翌日もほぼ同様の風。昼過ぎから4時間近くぶっ続けで自分の走りに没頭した。

最近見つけた吉野川上流域のパラダイスによって、徳島行きの楽しみは二倍になった。ここは愛媛の東のはずれ、徳島の西のはずれに位置している。一服休憩にはもってこいの場所である上に、ダムの上流にあたるから水が実に澄んでいる。IMGP0560-s.jpg

前回、水際の水中に腰を下ろして涼をとっていたら、たぶんアユの稚魚が大勢でやってきて、まるでドクター・フィッシュのごとく、私の脚の甲をツンツンとつつくのである。こんな嬉しい出来事も少ないだろう。

近くにはダイサギの夫婦か恋人たちが住んでいて、夜の暗がりの中で、「ガー、ギャー」とお話をする。「鳥類は夜目がきかない」というのは、一般論としては間違いである。百メートルほどの距離から、下流の一羽が少し控えめにグアーと鳴くと、零点数秒後に上流の一羽が元気にギャーと鳴き、そのやり取りを何回か繰り返しながら、互いの間隔を徐々に詰めていく様子が、暗闇の中でも手に取るように分かった。

早朝には、これも近くに居を構えているにちがいない鵜《う》が一羽やってきて、まことに見事な直線ローパスを見せてくれた。高度は三十センチほどだろう。もちろん羽ばたいているのだが、鏡のような水面がまったく乱れないのである。

地面効果というか水面効果というか・・・航空の世界ではそれなりに高度な理論や技術以上のものを、彼らは自然のままに身に付けているのだ。

(つづく)



 

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無駄がない

2012-08-21 08:15:00 | 創作
 鵜の鳥の 三十センチの ローパスに 鏡の水面 揺れることなし
 
うのとりの 三十センチの ローパスに かがみのみずも ゆれることなし
 
※ ローパス=超低空飛行

  着水に 螺旋で降りる 鵜の鳥は 餌の在り処を 必ずや知る 
ちゃくすいに らせんでおりる うのとりは えさのありかを かならずやしる  

  IMGP0562-s.jpg

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お盆

2012-08-16 22:37:00 | 海と風

今年は近年に珍しく忙しいお盆になった。11・12日と田舎で過ごした後、13~15日まで、仲間数人と徳島キャンプ。今回は以前からの計画に従い、風に従ったわけではないので、風に恵まれなくてもどういうことはなかったのだが、風は、まあ、無いより有る方が、この季節、涼しくて良いに決まっている。GOPR0564-s.jpg

しかし、13日も14日も最大3m程度。カイトで水上走行するには足りない。そこで活躍してくれたのがSUPだ。小松海岸にいつものナイス・ウェイブは無かったし、サーファーの皆さんの数もずいぶん少なかったけれど、瀬戸内側に比べると格段に波長の長い小波でSUPサーフィンみたいなものをしたり、ただプッカリ浮かんで大空を眺めたり・・・こういう海との付き合い方も大いに良しではないか。

13日の夜は、コック長M君のおかげで、大雨やカミナリの中、まことに楽しいバーベキュー晩餐会になった。徳島のIさんは、両日のグラハン(地上練習)で2m程度の風でもカイト操作を楽むコツを覚えたと思う。

最終15日は、一緒に松山周辺まで移動して、北の端から南の端までの主要エリアを見物し、最終的には塩屋海岸の南風5m前後のガスティ・ウィンドでそれなりの練習ができた。西に落ちる夕陽を眺めながら、私は「ありがたい」と思った。s-GOPR0715.jpg

今回、特に忙しい・・・と感じた理由は、学生時代からの友人I君夫妻を、長崎から私の田舎に急きょ招くことになったからだ。彼とはすでに35年近くの付き合いで、互いに大概のことは、じゅうぶん知っているはずなのに、たまに会うと、私も彼もあっという間にあの二十代の学生時代に戻り、その上に、その後の数十年の人生で起こった多くの出来事が重なる。

したがって、あの頃の話や、この頃の話や、あれこれの話などが始まると、文字通り止まらなくなる。つまり、再会で許された貴重な時間に多くのことを話そうとするから、「忙しい」ということになったわけで、他に理由はない。


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漢字がなければ

2012-08-10 23:56:00 | 言葉

夜の九時を回っても、机上のアナログ温度計の針は33℃を指し、壁鰍ッのデジタル温度計は32.8℃を示している。こんな夜に、まともなことは書けるわけがないので、少しだけ、まともでないことを書いてみようと思う。私にとっては、ものを「書く」という行為は、ものを「読む」ことと並んで、幾らか「人間らしく生きる」ために、ほとんど抜きがたい習いになっているのかもしれない。

それは、ずいぶん昔、人間の「言葉」というものを覚えた時に始まり、その言葉によって自分の外側に広がる広大な世界が、「そら」とか「うみ」とか「やま」とか「かわ」・・・などに分別され、自分の中の小さな世界に映し出されて理解可能なものに変わることの、驚きや喜びの時期を通過していることは言うまでもない。 

次に文字を覚える段階がやってきて、この時点から「読み・書き」が始まるわけだが、実は、人類が・・・などというとまた大きな話になるから、日本に限って言うと、この国に朝鮮半島を経て中国から漢字という文字が入ってきたのは、この国が、まだ「国」という体裁を整えていなかった紀元の初め辺りではないかという説を採用してみる。それでも、まだ二千年ほどしか経っていない。 

それ以前の弥生時代、更に以前の縄文時代と呼ばれる、ゆうに万年を超える長い年月、日本には現在知られているような文字は存在しなかった。しかし、もちろん音を伴う言葉は存在し続ける。私もいわゆる「口承」の世界の一分を知らないわけではなかった。しかし、その口承の「ことば」の世界がどれほど豊かなものであったか・・・ということに想像を巡らすようになったのは、わりあい最近のことだ。 

例えば「かく」という、現在では、文字を「書く」、絵を「描く」、背中を「掻く」・・・などと細かく分けて表現されるものの全てが、土や岩や土器の表面を「引っかく」の「ひく」+「かく」の「かく」に源を持っていることなどの意味を少し深く考えると、これはちょっと大変なことかもしれない・・・などと思ったりする。 

つまり、今は当たり前のように漢字を使って限定しながら使い分けている一つの「ことば」が、今よりもずっと多くの意味を内包していたということで、それだけ大昔の日本人の心の世界、心によって映し出している世界そのものが、より大らかで豊かなものだったのではないか・・・ということである。 

さらに日本にやって来た漢字は、それまでの「ことば」(大和ことば)に漢字の音訓を宛てた万葉仮名から、遂には、カタカナやひらがなに姿を変えることで、極めて洗練された表音文字になった。これはまさに、文字の体裁を伴った原点復帰とも言えるものではないか。だから、カタカナやひらがなだけで書かれたものを読み取るには、相当に豊かな想像力を必要とする。平安朝の女流文学のように。 

私の祖祖母は三日に一升の焼酎を欠かさない大酒飲みで、煙管《きせる》タバコを楽しみとしていた。どんな本も読んでいるのを見たことがなく、カタカナしか書かなかったけれども、八十七歳で亡くなるまで晩年の数十年間、老齢期にありがちな小言や愚痴とは無縁で、まったく飄々《ひょうひょう》と楽しげに生き通した。私の姉などは彼女を老年期の生き方の理想形と評価している。 

ひょとしたら、漢字など読めも書けもしない方が、より気楽な人生を送れるのかもしれない。


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ャ塔ンの夢

2012-08-07 20:39:00 | 追憶

昨夜は蒸し暑かった。いつもの川べりに車を停めて、川面で揺れる市内の灯りや、夜半過ぎに東の雲間から現れたおぼろ月を眺めながら、様々な想いの漂うままにボンヤリと過ごした。ゆるい北風に乗って流れてくる畑の肥やしの臭いに、懐かしさや鬱陶《うっとう》しさを感じたりしながら・・・。

昨夕は、対岸のどこかで間欠的にャ塔ンと乾いた音が響いていた。たぶん花火師か誰かが、こんな時期から阿波踊りの祭りの準備でもしているんだろうな・・・などと思っていたら、今朝の夜明け前にはャ塔ンが三倍くらいに増えている。そうか!・・・昔、島の田舎の田んぼでもよく使われていた、あのカーバイトガスを使ったスズメ脅しだ。私が小学校時代にした悪戯《わるさ》の一つが、T字型円筒の下部に設置された、強烈な臭いを放つ固形のカーバイトを、仲間と少々盗んで花火にするということだった。

まず間違いなくこの音が引き金になったのだろう。明け方近く鮮明な夢を見た。父が関係する夢だ。彼は、戦争中、重巡洋艦の「那智」や「妙高」で高射砲を担当し、終戦時には佐世保沖・高島の高射砲陣地の指揮をしていた。そして、突っ込んでくる敵機の爆撃や機銃綜ヒとの真剣勝負の現場がどれほど凄まじいことになるか・・・などについて、彼なりの脚色とユーモアを交えながら、幼い私に繰り返し話していた。

男の子はたいてい父親の武勇談を好む。しかし、その戦争の現場が、単に面白おかしい武勇の舞台だけではなかったことも、彼の横腹から背中に抜けた貫通銃創の傷跡が生々しく語っていた。

今朝の夢の内容は、およそいつものごとく支離滅裂。なんでか私が父に成り代わっていて、舞台は南方マリアナ沖ではなく、終戦後の混乱期に、来島海峡を挟む二漁協の間に起こった漁場を巡る争いの戦場だった。

そこで高射砲が使われるわけがないのだが、私は、自分が守る小さな漁村に、対岸に存在する大漁協の連中が数百人乗り込み、攻め込んできた二隻の鉄国D目がけて、高射砲みたいなものをドンパチ打ちまくっていた。 

この小さな一地方の、愚かにも激しかった漁業紛争についても、子供の頃によく聞いたことがある。当時は全国的な話題にもなったらしい。身近で起こった歴史的小話としては、それなりに面白いと思うので、またどこかで書くことがあるかもしれない。


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