今日で八月も終わる。今月はなんだかんだと忙しい日々が続いた。昼間の気温はまだゆうに三十℃を超えて充分に暑い。だが、辺りに漂う空気は着実に秋の匂いが濃くなってきている。今日などは、湿度が低かったということもあるのだろう、気温のわりには爽やかで、別府の海に久々に入った西風順風が殊に心地良く感じた。
しかし最近、なんだか忘れモノが多い。めんどくさい事はなるべく忘れ去ることにしている私にとって、忘却は得意技の一つではあるが、必要な物をどこかに置き忘れたりするのは、普通喜ばしいことではない。「普通」というのは「特別」があるからで、意図しない亡失が、より良い結果をもたらすことも、時々はある。
先日は愛用の板を堀江海岸に置き忘れて、どうやら引き潮の土産にしてしまった。今日の別府では、車内の定位置にハーネスが無いことに初めて気が付いた。これはどうも徳島のどこかで眠っているようだ。
新たに届いた板は、同じメーカーのまったく同じ板のはずだったのだが、幾つか気になっていた点をちゃんと仕様変更してあって、一言で言うと、更に快適に走り、楽に跳べるようになっていた。
ハーネスは、ジャンプの際のズレ上がりを嫌って、長い間、手製のフンドシを取り付けていたのだが、私が信頼する或るイントラ・ディーラーに相談したら、彼に「どんな種類のジャンプにもズレ上がることなく快適に使用できることは私が保証する」とまで言わしめる優れモノがあった。
話は少し跳躍するが、人間は記憶する動物であるがゆえに忘却する動物でもある。何の用にもならない過去はどんどん忘れ去ればよい。しかし、できれば消し去りたいと願うような過去でも、現在の自分が変化すれば、その意味付けも変化する。大きく変われば大きく変化する。過去の体験の意味・評価が変わるということは、言い換えれば「観え方が変わる」ということで、それは実質、自分の中で過去が変わるに等しいと言えるだろう。
深い苦悩や重い後悔の過去が、現在の喜びの原因となり、未来の成長の要因となることも確かに有るという事実は、すでに多くの人たちが、それぞれに貴重な例で示してくれている通りである。