庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

織田が浜 その1 序

2019-06-29 08:55:00 | 追憶
織田が浜 その1 序

昨日は、織田が浜の南に続く唐子浜で、喫茶店を経営しているS君のカイト体験講習だった。風が今ひとつだったので、静かな別府の海を見ながら、1時間ほどいろいろなお話をした。その中で、彼のお店に以前住まわれていた、私とほぼ同年代のお父さんが、(あの)織田が浜問題の当時、東村の埋め立て反対派の一人としてご苦労されていたということを知った。

この地の、あの出来事については、幼い頃から渚(なぎさ)で育ち、単なる愛情以上のものを持つ私としても少し書いておきたいと思い、関係資料をいくらか集めて、さてそろそろ始めようか・・・と考えていた矢先である。ここでもまた不思議なご縁だ。
 
では、「バカの話」を改題して「織田が浜」につなげる。「バカ」と「ハマ」にどんな関係があるのかは後で分かるだろう。私の高校時代から現在に続くできごとの数々だから、相当に長い話になると思う。

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「織田が浜・埋立反対運動」・・・もう四半世紀以上前、あれほど広く話題になり、多くの方々の人生の明暗に関係した「自然保護運動」を、2019年の現在、どれほど多くの人が覚えているだろうか。あのころ私は30代で、海や空の世界に、単なる趣味を超えた領域で広く深く接しながら、この運動を遠くから見ていた。
 
この話には、数人の実名が登場する。私には忘れがたい方々で、まだご存命で現役の方もいれば、すでに亡くなった方もいる。最初に今治市に住む矢野君に登場してもらうが、まずは、「織田が浜・埋立反対運動」の概要を、現在、立教大学・社会学部教授の関礼子さん(博士)が、東京都立大学・博士課程でまとめた論文から、そのまま引用して紹介する。彼女のこの論文は、「自然」の意味そのものに迫ろうとする力作でもある。
 
「織田が浜埋立反対運動」の概要
 
愛媛県の北東部に位置する今治市は、 瀬戸内海に面した、人口約12万の地方中核都市である。この地は明治期から綿織物を中心とした工業地帯として、 また中国地方や九州、近畿とを結ぶ港湾都市として栄えていた。少なからず港に依存してきた今治市で、織田が浜埋立を含む第三次港湾建設が「問題」となる契機は、 1983年2月、今治市長が第三次港湾計画の促進を愛媛県知事に陳情したことだった。間題となった織田が浜は、今治市街から僅か2~3kmに位置し、幅50~70m、 長さ1.8 km にわたって続く遠浅の砂浜である。
 
市当局が貨物港建設のために埋立計画を進めていることが明らかになるや否や、織田が浜地元三地区(旧富田村下三地域)の喜田村、拝志、東村が反対の声をあげ、住民を中心とする運動を展開した。運動の中心的役割を果たしたのが 「織田が浜を守る会」(「守る会」と略称)である。「守る会」を中心とした運動の経過は以下のようなものである。
 
(1) 運動発生期: 運動の核となる「守る会」の結成、地元三地区から今治市全域への運動の拡大の時期(1983年2月~1984年3月)。「守る会」は、結成と同時に、1万人を目標とする署名運動を展開し、3月には目標を倍以上うわまわる20、745人の署名を添え、織田が浜保存の請願書を提出した。この請願は不採択となるが、「守る会」は署名活動を継続、 6月議会に新たに47、866人の署名と請願書を提出、継続審議に至った。
 
また、環境庁など関係各機関への陳情を行う一方で、諸団体の連合組織として「今治織田が浜を守る会」(同様に「守る会」と略称)を結成した(表1、 表2参照)。 運動行為者の主張は、 ①都市計画公園の埋立は許されない。②現市長の選挙公約に「東村等の白砂青松を積極的に保全する」とあり、 埋立は公約違反である、 ③貸物港が建設されて問もない時期に新たな貨物港を建設する必要はない、 ④アセスメントに不備がある、という点だった。
 
(2) 拡大期 :訴訟提訴から市長選挙、埋立起工式をはさんで第一審判決が下されるまで(1984年3月~1988年11月)。「守る会」は、世論の喚起とそれによる織田が浜保全を狙った運動の一環として、 全国規模で署名運動を展開するとともに、1984年3月には訴訟提起に踏み切った。裁判での請求の趣獅ヘ、、埋立計画地である東村海岸公園地先(織田が浜)埋立の公金支出差止で、その根拠は瀬戸内海の埋立に特別の配慮を求める「瀬戸内海環境保全特別措置法(瀬戸内法)」第13条および「公有水面埋立法」第4条の埋立免許基準違反である。
 
都市計画公園に指定されている海浜の現状変更=埋立の可否が、瀬戸内法を根拠として法廷に持ち込まれたはじめての裁判は、 1、000人を越える原告による住民訴訟として争われた (表3)。「守る会」は、裁判係争中も引き続き署名・陳情を続け、 1984年8月には中央港湾審議会から「異例の差戻し」答申を引き出したため、 市側は埋立位置を200m北西にずらす計画修正を行った。 1986年1月の市長選挙では、「守る会」の代表である飯塚芳夫が78歳の高齢で、しかも持病の発作で病院に人院したにもかかわらず、対立候補として立候補、現職市長35.868票に対し、 12.037票の批判票を獲得した。翌1987年の2月に飯塚は死去、 4月には埋立起工式が行われた。また8月に第17回自然保護織田が浜大会が開催された。翌年11月の地裁判決までが、反対運動のビークであった。
 
(3) 収縮期:第一審判決以降(1988年11月~1996年の現在まで)。埋立開始以降、織田が浜埋立反対運動は主に法廷闘争として展開された。1988年11月の第一審判決は、都市計画公園である織田が浜の海浜保全はなされるべきだが、 海浜保全地区においても埋立は許されるとして原告側訴えを棄却した。その後、控訴審判決(1991年5月)、最高裁判決(1993年9月)、高裁差戻し審判決(1994年6月)を経て、最高裁にて上告を棄却され (1995年7月)、 11年にわたる裁判は住民敗訴に終わった。1995年6月には埋立及び港湾建設工事が完了、 港湾施設の本格的使用が始まった(羽生1995: 14)。
 
(その2につづく)
 





 


公共の財産

2019-06-26 17:22:00 | 自然
「公共の財産」について、公物、公共用物・・・云々の法律的な話は、横に置いといてまったく差し支えない。ここでは、海岸に限ってお話しする。
 
字義的に「公共」は「社会一般。公衆。おおやけ」、「財産」は「財貨と資産。所有する土地、家屋、家具、金銭、貴金属・・等」など、そこら辺の辞書に載っている意味で充分だ。ほとんどの人は「みんなのモノ」程度に理解しているだろうし、それで間違いではない。
 
本来「みんな」の中には、あなたも、私も、その他の人々もぜんぶ入っている。つまり、みんなのモノは、私のモノでもあり、あなたのモノでもあり、その他の方々のモノでもある。なんだか、桂枝雀の「茶漬け閻魔」に出てくる「あなたは私、私はあなた、あなたはあなた、私はわたし」みたいだが・・・「私以外の人の迷惑にならない限り、私は自分の所有物を自由に使うことができる」というのが大原則だ。(他者の自由権を侵害しない限りの自由・・・なんてめんどくさいことはここでは言わない)
 
ただ、「多くの方々が分かってないなぁ」と私がよく思うのは、「みんなのモノ」のとらえ方で、それらは、それらを管理している、例えば海岸なら地方公共団体の長、一級河川なら国土交通大臣のモノでは決してないということだ。彼らは公務員として、私たち私人から支給された税金という食い扶持(ぶち)で生活を立てながら(もちろん彼らも私人としては税を納めているが)、「みんなのモノ」の管理を委任されているに過ぎない。要は「所有」と「管理」を混同しているわけだ。マンションの所有者と管理者の区別などは簡単につくのに・・・。
 
海岸を「自分のモノ」だと自覚してないから、平気でゴミを捨てたり、「あなたやその他の方のモノ」だと思ってないから、醜い仕切りを付けてみたり、ときどきバカになる海岸管理者や地方公務員(警察)がたまに顔を出すと、彼らを恐れないまでも遠慮したりして、せっかくの自由を檻(おり)に入れ、人生の貴重な楽しみのある部分を減少させているように見えることがある。
 
もう一重立ち入った話をすれば、海岸も山も川も空も、本来、誰のモノでもないのだが、この辺りの話しはまたの機会にする。

 


長良川(木曽川)の出会い その2 聞き上手

2019-06-21 10:33:00 | 海と風
Yさんは、警察官と私のやり取りの始終を側(そば)で見ていた。これはちょっと、とんでもない人がやって来た・・・と思ったかもしれない。ただ私は、当たり前のことを、(私なりの)丁寧な言葉遣いに、ほんの僅かな愛情と感謝の気持ちを添えて、「真っすぐ正直な姿勢」で話したに過ぎない。
風待ち潮待ちの様子なので、「ちょっと座ってお話ししませんか?」とイスを出し、コンビニで当たったブラックコーヒーを渡した。彼はいつまでも立ったままで座ろうとしない。もっとも、ウェットスーツがまだ充分に乾いてなくて遠慮していただけなのかもしれない。
年齢は40代中頃。名古屋らしく自動車関係の仕事で他所から転勤してきた。しばしばタイにもカイトをしに行く。クラブ員は転勤族が多い。風がない日は河口付近でタコ釣りをする人もいる。川向かいの大きな建物はレガッタの施設。近辺の河川敷林に住むキツネが時々現れる。彼のクラブは登録上100名ほどのメンバーがいて、イントラはSFの店長T氏である。メンバーの中に、警官にウェットスーツを剥がされて連行された人がいる・・・等など、ということをお聞きした。
私は近年、所謂(いわゆる)「肩書きや外見」だけで人物を判断することはまずない。人間にとって本当に大切なのは、「何を信念として、何をどう語り、何をどう行うか」つまり「信と言と行」・・・というのが私の信念の一端でもある。
それを観るには、ある程度の時間を必要とするのが普通だが、「一目会ったその日から」ということもある。そして、彼はいかにも温厚で誠実そうな人だった。それは最初に「期限付き許可証」云々を私に伝えるときの、話し方や物腰でも推察していた。よし、この際だから少し立ち入った話しを聞いてもらおう、と思った。
それから1時間半ほどの間、かなりの早口で、まずは簡単な自己紹介から、「公共の財産」の本来の意味。自由と責任と自律の問題。コンペやレースの魅力と問題点。海や空の相当に面白い話しの幾つか。カイト特有の魅力と危険性。イントラや指導者の資質の問題。ショップスクールの意義と限界。今後のこの世界の見通し・・・等など、他愛ない笑い話も間に挟みながら・・・まあ、人にもよるけれど、私の弟子や仲間なら数年はかかりそうな内容の要点部分を、思いつくままに語らせて頂いた。
彼は、ほとんど目を白黒させ、時々大きくうなずきながら聞いていた。まったく忍耐強く、聞き上手な人だった。こういう方は、それがどんな仕事や職場でも、人に慕われ、それなりの地位を得るだろう。いやもう既ににそうなっているだろう。
その後、風も潮も少し満ちてきた頃に、同じクラブの後輩フォイルが一人やって来た。このクラブでフォイル乗りはまだ数名ということだ。ザーザーと音が聞こえそうな逆潮(風と潮流が同じ向き)の中で悪戦苦闘していたが、私は二人の微笑ましい関係を遠くから見ながら、やっぱりナチュラル・スメ[ツは良いなぁ・・・などと思っていた。
しばらくすると上がって来たので、「ほんと軽いですよ~」というオゾンのシングルバテンを少し振らせてもらった。彼が使っていたのはフォイルや板を含めて試乗用で、12㎡、ライン長22m。まあ、こんなもんだろう、というのが私の感想。やはり翼端の失速域は増大している、ピッチ角が少し浅すぎる、という印象も話させてもらった。ただ、モーゼスのフリーライド用カーボンフォイルには若干気持ちが動いた。
人生の旅の多くは、茶道でいう「一期一会」だし、私がカイト関係でここに来ることはたぶんもうないだろう(フォイル・カイトの視点から見て、そう魅力的な環境ではない)。しかし、ここでもまた、まことに良い「出会い」を得た。


長良川の出会い その1 警察官

2019-06-18 20:16:00 | 海と風
いろいろと忙しい旅もあと数日。先だって遠くにカイトを見かけた愛知県長良川。往路、車中泊した河川敷(河口から10キロほど上流)に行ってみると、やはり今日も来ていた。

なんとオゾンのモノバテン12平米とモーゼスのフォイルが置いてある。しかし、川幅は思ったより狭く、これは私のじゃ出れそうもないわ…と道具の近くで周囲を観察していたら、持ち主(Yさん)が警官2人と現れた。

警官の一人が、「あなたもお仲間ですか?」と聞く。「初対面ですが、まあ同類です」と答えると、「ちょっと運転免許証を見せてください」と言うので、取り敢えず四人で私の車まで移動した。「この河川敷は乗り入れるだけで違法です」などということや、Yさんのクラブは国土交通省から「期限付き許可証」を得ている・・などという事情を途中で聞きながら、私はすぐにコトの次第の察しがついた。

「まあ見せてもいいが、個人情報だからね。まずあなたの所属と名前を聞かせてください」とメモを取りながら、20代中頃の警官に向かって話すと、若干ムッとした表情で「T警察の地域課のNです」と答えた。「愛媛ではこんな事はまずないがなぁ」言うと、N君が「あっちとこっちは違いますから」と、およそ予想通りの答えが返ってきた。「君、一級河川の管理はどこがやってるの?」とツッコミを入れたくなったけれども、私は今回この方達の教育をするために来ているわけではない。

免許証を入れたケースを左手に持ったまま「よくちゃんと所属氏名が言えたねぇ」と褒めてあげた。彼はどうしていいか分からなくなったらしい。「ともかく暑い中、ご苦労さんだね」「いえいえ仕事ですから」・・・可愛い青年ではないか。若手警官はこれぐらい元気なほうがいい。だんだん場の空気が変わっていくのが手に取るように分かる。

「さて、免許証どうしようか?」「もう結構です」「まぁ、ちょっと見せてあげるよ」ケースに入れたまま、水戸黄門で印籠を出すように、彼の目の前に出した。彼はチラリとだけそれを見て「ああ、確かに愛媛県ですね」と一言。私は思わず笑い出しそうになった。

このやりとりを見ていた三十代中頃の先輩警官は途中で離れて、何やら電話し始めた。このなんだか変な旅人にどう対応していいものか、と上司に相談しているわけだ。 しばらくして戻って言うには、「近頃、この辺にゴミを捨てる人が多くて、国交省の出張所が対応しきれなくなり、警察署に仕事を振ってきた。釣り糸が散乱していたり、バーベキューの後始末ができていなかったりで大変なんです・・・」ということだった。そりゃそうだ。河川管理に警察官が登場するなんて普通はおかしいだろう。「カイトでそんなことする人はいないよ。ほんとご苦労さま。車は一応移動しておくから」「はい、分かってます」…以上で終わり…と思っていたら15分ぐらいして、さっきの先輩警官がニコニコしながら再びやってきた。

「今度はどうしたの?」「このクラブのメンバーということで、ご自由にカイトを楽しまれてください!」…それだけ言うために…なんて律儀な警察官だ。どんな世界にもバカはいるものだが、我々国民の生命・安全と財産は、こういう真面目な方々によっても守られていることを、たまには思い出して良い。

「本当にありがとう!松山に来る機会があったら、道後温泉にでも入ったらいいよ」「ありがとうございます!」 私たちは握手をして別れた。この後のSFのY さんとの楽しくも濃密なお話しは(その2に)つづく。

・海抜0メートルのこの辺は、汽水域で潮の干満により川幅が大きく変わるということが後でわかった。

ウクレレ

2019-06-10 10:20:00 | その他

昨日の午後は、風が落ち西日の暑い堀江海岸で、生のウクレレを初めて聞いた。地元愛媛はもとより、この6月だけでも滋賀、名古屋と演奏活動に忙しい「ブルーラグーン ストンパーズ」のボーカル・ウクレレ、Yさんの生演奏を数曲。

https://bluelagoonstompers.com/


いろいろ楽しいお話しを交えながら耳を傾けていると、だんだん眠たくなってきた。今朝は5時半起き。上質のウクレレの音(ね)には、人を眠りに誘う効能もあるらしい。写真やビデオも少し撮らせて頂いたので、編集して後にUPする。私の中で眠っていたあの音楽の虫が、またまた目を覚ますかもしれない。



母の卒寿

2019-06-09 05:56:00 | その他
昨日は母が卒寿(90歳)を迎えた。ピンピンしている。3年前に左膝が人工関節になり、ますます良く動き、相変わらず良くしゃべる。

前日、家内と帰省の折、花屋に寄った。蝶が数頭飛んでいた。いつも色とりどりの花に囲まれて・・・良い仕事だと思う。類は友を呼ぶ。ゴミにはゴミが集まるように、花には花が寄ってくる。隣家の庭の花壇も丁寧に手入れがされていて、紫陽花がきれいだった。







海からの贈りもの 前書き 2

2019-06-08 21:50:00 | 創作
母がこれを書いたのは、フロリダのガルフ海岸のキャプティバ島の砂浜近くにあった小さなコテージに滞在中のことである。多くの人達が、その小屋が何処のどれであったかを知りたがった。しかし、フロリダの友人が最初にその場所を見つけた時にはすでに、とうの昔にその小屋は無くなっていたと話していた。長いことその話しが本当だと知りながら、それでもなお、私は母が1955年に著した「海からの贈りもの」一冊を持って、最近の一週間をキャプティバ島で過ごした。ただ単に私自身に「穴を通すため」(注)に。私がメキシコ湾の海岸で探していたのは作家の小屋ではなく、作家の死やその後に残された遺産の経過、公にされた家族の歴史に関係する祝事や行事、そして私的な私たち家族についての暴露話や議論の幾つかについて調べるためであった。私は再び、助けを求めて彼女に目を向けていた。(前書き3につづく)
(注)原文の"Reeve"は、筆者の名前「リーブ」と、動詞としての"reeve"「ロープなどを穴に通して固定する」という意味をかけている。






贈海からのりもの 前書き 1

2019-06-08 21:49:00 | 創作
母は五十年以上前にこの本を出したが、私は本書をその後五十回は読んだように思う。これはあながち誇張ではない。「海からの贈りもの」が初めて出たのは私が十歳の時で、今回の版で私は六十歳である。恥ずかしながら告白すると、私は二十歳代になるまで、この本を読んだことがなかった。もっとも、こういうことは私に限らず、作家の子供たちにとって珍しいことではない。今では少なくても年に一回、時には二回以上読むこともある。一年間の、また人生のあらゆる季節に、この本を読む。しかし、この1955年の母の書物が新鮮さを失ったとか、そこに含まれている智恵が、私の人生や、時と共に私が学んできたことに適用できなくなったと感じたことは一度もない。 
https://www.youtube.com/watch?v=Ot4xMgf9Kc0&t=12s


海からの贈りもの 前書きの謎

2019-06-08 21:42:00 | 創作
アン・モロー・リンドバーグの "GIFT FROM THE SEA" は、吉田健一の70版を超える『海からの贈物』、1994年には落合恵子の『海からの贈りもの』として末{が出ている。私が何回か読んだのは吉田氏のだが、最近サラッと目を通した落合さんのは、いかにも女性的な言葉使いで味があった。末ヘ原典とは別の創作物であり、訳者の数だけ作品がある。

「50周年記念版」の原典は何年か前にKindle版で読んだ。それには作者の末娘で作家のリーブ・リンドバーグさんの前書きがあり、オーディブルで聞ける彼女自身の肉声も、3カ所のわずかな違いを除いて同じ内容である。ところが、先日手に入れたハードカバー本を見てみると「60周年記念版」になっていて、同じ2015年出版にもかかわらず、前書きの内容もリーブさんの年齢も10年の違いがある。

60歳と70歳。女性の年齢を10も違(たが)えばちょっと大きな問題ではないか・・・と思って、今は70を超えているはずの彼女の声を、YouTubeの講演で確認した。その知的な快活性に変化はない。しかし、やはりオーディブルの声よりも若干歳を経ている感じがする。

この「謎」はそのうち解けるとして、この「前書き」の末獅ンることにした。本文を味読する上で参考になるかもしれない。全部でわずか1000語余りの内容だ。元より祖訳・拙訳で、たぶん途中で話しがあちこち跳ぶだろう。数回で終える予定。



別府の雲と花

2019-06-07 08:16:00 | 自然
今日の別府の風は若干怪しかった。雲行きも怪しかったので撮っておいた。左はまず飛行機雲。右のがよく分からない。

川崎時代に、これに近い地震雲で翌日の震度3~4を予言して、友人たちを驚かせたことがある。方角は松山から見て西方向。もっとも近年の日本列島は、この程度の地震はいつどこで起きても不思議ではない。

幅50mほどの実に小さな渚だが、これからの季節、幾種類かの花でいくらか色づく。今回は浜昼顔(ハマヒルガオ)と浜大根(ハマダイコン)。