庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

フロリダ

2019-09-20 10:45:00 | 仏教
この世界は不思議な縁(関係性)でつながっているという話。
 
私にとってはもう何十年も興味が尽きない(あの)チャールズ・リンドバーグの奥さんで、アン・モロー・リンドバーグ(飛行家・冒険家・作家)の末娘のリーブさんが、お母さんが書いた名作『海からの贈りもの』の「前書き」を書いているのだが、その拙訳をこないだブログに載せた。
 
今後もし何かの成り行きで日本語訳のいずれかが増版されるようなことがあれば、横井庄一のように「恥ずかしながら」提供させて頂きたいと考えてはいるが、『海からの贈りもの』が書かれたのは、フロリダ半島の西海岸沖にある、キャプティバ島の小さなコテージだった。
 
(フロリダ州 西のキャプティバ島、東のメリット島)
 
私はあの9・11テロの翌年、空の関係でフロリダのオーランド近くに広大なエアフィールドを持つ、フランス系の知人が主催する「ワールド・コンベンション」に日本からは一人で参加して、いろいろと面白い体験をしたのだが、そのついでに、レインジャーとかいう四駆レンタカーで、半島の東海岸を走り回ったことがある。 
 
ケネディ宇宙センターにも寄った。あの辺りの海岸は、まあ当然ながら、地理学的には小さな日本のモノサシではとんでもなく長く広く、海砂も適度に細やかで気持ちが良かったので、少し拾ってビンに詰め持ち帰ったくらいだ。
 
一週間に及ぶコンベンションの合間に、近くでやっていた、あの国では有数の航空ショーの見物にも出かけて、かなり面白い風景も目にした。air show そのものではない、そこにやって来ていた人間が面白かったのだ。ある青年などは、自宅の庭から真っ赤な複葉機で飛んで来ていて、私と会ったときは、その翼にハンモックをかけて昼寝していた。私には、夢も危険も多き1920年代、バーンストーミング時代の風景そのもののように見えた。
 
(フロリダの住居。ダンの愛犬が横にいるから、彼が撮ってくれたんだろう。あの酒呑詩人は、この犬をfunnyと呼ぶと、毎回「funny ではないfannyだ!」と、うるさかった^^;)
 
これには、これまた変わり者の友人というか、年齢的には私の子供みたいな、自称発明家で「僕の夢はタイムマシンを作ることだ!」と真顔で語る、イギリス青年のジャイルズというのが、私が行くというので、あっという間にマイアミに飛んできた。よほど慌てて来たのか何だかしらんが、飛行機に靴を忘れたとかで、裸足でエアフィールドまでやって来た。「お前なぁ、靴ぐらいは履けよ」と言っても「こんなことは何も問題じゃない」と平然としている。そのうちこれを見かねた人がスリッパなどを与えてそれなりの風体にはなった。
 
松山の我が家にも3日ほどいたのだが、あんなおもろい青年はまあ滅多にいないだろう。彼はその後、日本の匠(たくみ)の技(わざ)的工業技術を或る方からしっかり学んで、あの国で航空関係の会社を立ち上げ、そこで作ったエンジンでヒマラヤ山脈を飛び越えたりして、世界的にもそこそこ有名になった。タイムマシンはまだ完成してないらしい。
 
ワニがウヨウヨいるから沼池にだけは不時着するな!・・・ということになっているエアフィールドの端に、いつものテントスタイルで一週間通して生活している間に、ここでも変な日本人が来ていると思われたらしい。何人かの人間がやってきてお友達になった。これがまた、まぁちょっと変わった素敵な方々だった。
 
なんだか気の合うダン・リースはニューハンプシャーから来た六十歳過ぎのペリカン大好き詩人。元は東欧に派遣されていた兵士で、人生の無常をよく感じていたそうだ。「仏教の世界観では、生命の永遠性を説いているんだが、あんたはどう思う?」と聞いたら、「生命が永遠であるはずなんかねー・・・」とか言いながら、頼みもしないのに、有名どころの詩の一節を、東部なまりでとうとうと暗唱し始める。まあ一杯やってるからかもしれない。毎晩のように聞いていても、多少の解説はあったんだが、何を言ってるのか、私にはサッパリ分からなかった。
 
あの地の夜は春でも冷える。夜中あんまり寒いので彼のキャンピングカーから毛布を借りて、朝早く起きては少し離れた場所まで車で出かけ、日課の「正宗勤行」をして帰ってきたら、「お前、寒さに負けてホテルに泊まりに行っただろう!?」とか言うので、「いやいや、マジメな仏教徒は、毎朝、勤行プラクティスを欠かさないのだ!」と応えると、「それは良い心がけだな~・・・」などと感心していた。そのうち空を飛びたいと言い始めた。早速ちょこっと地上練習の基本を教えたのだが・・・まだ生きているんかなぁ・・・。
 
あと、記憶に鮮明なのは、ジャイルズ青年博士の師匠にあたるマイク・キャンベル氏。私より少し年上だった。彼は、もし航空界にもイギリス紳士みたいな人間がいたら、まさにこういう人のことをいうんだろう・・・というくらい、人間的に立派な方だった。弟子の友人とはいえ、こんな得体の知れないヘンテコな人間のために、キッチリとした礼を持って私のテント+住居タープまで来られて、慣れない正座をしたまま色々とお話しをした。私はお茶の道具も用意していたので、誰か訪ねて来たら、茶道の作法(全くいい加減な)をもって日本文化の一端を教えてあげよう・・・なんてことも考えていたんだ。この方とはその後もしばらくお付き合いが続いたが、私が地上の人になってからは連絡していない。
 
キリがないから、「ご縁」の話に移る。そういう訳で、フロリダは、北アメリカでは、私にとって数少ない想い出の土地だった。
 
(主催者デュフォー夫妻。「大事な事は忙しい人に頼め」と言う格言を教えてくれたのは、英語は私レベルの嫁さん、エリザベスだった。今は知らんが、フランス人はたいがい、英語を知らんぷりする。それがいいところだ。私もちょっと真似させてもらうことにした)
 
それが、今日、フェイスブックを見てみると、そのフロリダ半島のオーランド近くの東海岸、しかも地図で見たら、海の風読みスポーツにも最適にちがいない「メリット島」に住む、日蓮正宗・法華講の方から友達申請があった。ちょっとやりとりして、相当に篤信な方であることが分かった。今のオーランド周辺は混雑が酷いらしい。
 
「そのうち日本かフロリダでお会いできそうですね^^」「もちろんです!まちがいないでしょう!」なんて話になり、はは~・・・やっぱり広大深遠なこの「世界」の出来事は、目には見えない編み目のように、深いところでちゃんとつながっているんだ・・・という感を改めて深くした・・・・・というお話し。

文段 試訳 2

2019-02-12 08:27:00 | 仏教
これ則ち諸仏諸経の能生の根源にして、諸仏諸経の帰趣せらるる処なり。

故に十方三世の恒沙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。譬えば百千枝葉同じく一根に趣くが如し。

故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり。妙楽の所謂「正境に縁すれば功徳猶多し」とはこれなり。これ則ち蓮祖出世の本懐、本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行人所修の明鏡なり。

This namely is the root of what is capable of giving birth to all Buddhas and sutras, and where all Buddhas and sutras ultimately converge.

Therefore, the benefits of innumerable Buddhas in ten directions (eight points of the compass and above and below) and three existencies (past,present,future) and the benefits of innumerable sutras in ten directions and three existences converge in this hidden seed of the object of worship. For example, it's like hundreds or thousands of branches and leaves come down to one single root.

Therefore, the benefits of this Object of worship are immense and limitless, having mysterious function which is boundless and profound. Therefore, if you believe in this Object of worship and chant Nam-myo-ho-ren-ge-kyo even just for a while, every prayer comes true, every crime becomes extinct, every fortune comes in, every theory becomes clear. Miao-lo states "when you just make some relationship to the correct object, the benifit is still so much". This namely is the true purpose of the advent of the Great Saint Nichiren, the foremost of the Great Three Secret Laws, the true identity of the Buddhism of the Sowing, the clear mirror for practitioners of True Buddhism.

文段 試訳

2019-02-11 08:18:00 | 仏教
夫れ当抄に明かす所の観心の本尊とは、一代諸経の中には但法華経、法華経二十八品の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底深秘の大法にして本地唯密の正法なり。

此の本尊に人あり法あり。人は謂く、久遠元初の境智冥合、自受用報身。法は謂く、久遠名字の本地難思の境智の妙法なり。法に即してこれ人、人に即してこれ法、人法の名は殊なれども、その体は恒に一なり。その体は一なりと雖も、而も人法宛然なり。応に知るべし、当抄は人即法の本尊の御抄なるのみ。

観心本尊抄文段 上  富山大石寺二十六世 日寛
                    
The Object of worship for Observing the Mind disclosed in this writing is, only the Lotus Sutra in the sacred teachings of the Buddha's lifetime, only the Life Span chapter of the essential teachings in twenty eight chapters of the Lotus Sutra, only the great Law deeply hidden in the depth of the sentences and the originally mystic and ultimate entity of the True Buddha in the Life Span chapter of the Lotus Sutra.

There are two aspects of the Person and the Law with this object of worship. The person is the fusion of objective reality and subjective widsom of the origin of the True Buddha's enlightenment in the infinite past, Buddha with the property of intrinsically perfect wisdom. The Law is Myo-ho, the name of the origin of the True Buddha's enlightenment in the infinite past, the ultimate entity most difficult to understand, the unity of the objective reality and subject wisdom. The Law namely is the Person, the Person namely is the Law. Names are different though, the entity is always the same one. The entity is the same though, there are two as they were. So bear in mind that this is just the writing about the true object of worship, oneness of the Person and the Law.

Commentaries on "the Object of worship for Observing the Mind" Vol-1

The 26th high priest of Fuji Taisekiji, Nichikan

少々重たい話だけれど

2016-03-25 14:22:00 | 仏教
重たい話だけれど・・・合法的に人を殺すことを死刑と言う。法律家は「違法性が阻却される」などと言う。歴代法相の中にも執行命令を出さなかった人もいる。鳩山邦夫のように1年で13人、今の岩城光英は半年で4人・・・の人を殺した人もいる。

この違いはどこから出てくるのか。やはり、人間・生命・自分自身を「どう見ているか」の違いにちがいない。

「どんな人間も悪魔にするのだから、私は戦争に反対し、どんな人間も悪魔ではないのだから、私は死刑に反対する」と言ったのは、加藤周一だった。悪逆非道の性分は、法務大臣という部分権力の人間の中には皆無なのか。

そんなことはない。どんな人間も戦争の現場では悪魔にされるではないか。どんな悪人も母の胎内から奇跡のように生まれ出るではないか。

仏法には、十界、十界互具、百界千如、一念三千の根本法理がある。一端を言えば、地獄のような極悪の生命の中にも、尊極の仏の生命が厳存しているという、容易には理解することも信じることもできない内容だ。


しかし、この深淵な法理の大樹の一葉でも、自分の中に感じ想うところあれば、一人の人間の生命を抹殺せよ・・・などという命令を出せる訳がないだろう。

ことのついでに、「戦争に行って人を殺して来い」と命ずる人間たちと同じく、「法に則って人を殺せ」と命ずる人間たちに、「あなた方は間違っている」と、ここでも言っておきたい。

中庸のすすめ

2016-02-04 19:20:00 | 仏教
昨年はフェイスブックが面白く、マメにあれこれしているうちに、こちらがお休みになっていた。また、ぼちぼち少しはまとまったことを、書いていこうと思う。

SNSの功罪は、あちこちで論じられているようだが、およそ人間が作り出す道具はどんなものにも、利点と欠点がある。それは道具自体の問題の場合もあり、使う人間の問題もあり、使う環境の問題もあって、並(な)べて語ることは難しい。

しかし、およそ言えることは、どんなことでも「過ぎたるは及ばざるがごとし」で、或ることを必要以上に、あるいは自分の分を超えてやり過ぎると、どこかに無理が生じて、あんまり良い結果は生まれない。

儒教の説く「中庸の徳」を律儀に実践すれば、場合によっては「中途半端」の誹りを受けることになるだろうけれど、どんなに楽しいことも、利益を生むことも、自己を高めるであろうことも、程よいところで休止を入れて自己を省みるという作業を挟まないと、大概はやりすぎになることは、すでに経験則が証明している。

ではその「程よいところ」を見つけるにはどうすればよいか・・・これが相当に難しい。だからこそ、孔子様はくり返してその徳義を説いたわけだが、私が想うところ、その奥義を身に着けるには、それなりの修行が必要だということだ。

ではそれは、どういう修行か・・・結論から言うと「自然の在り方に習う」ということである。

自然の云々と言ったって、そう簡単なことではないではないか、という声が聞こえてくる。確かにそう簡単ではないかもしれない。しかし、日常の習慣にすればそう難しいことでもない。

未だ熟達からは遠いけれども、私が採用している方法を少し紹介してみる。

まず、先達である動物や植物の生き方に習うということである。なぜなら、彼らが何かを「やりすぎる」ということは、まずないからである。

習うことの始まりは・・・終わりもそうかもしれないが・・・よ~く観察するということである。例えば、お家で飼っている犬や猫、近くの木々に停まるスズメやハトを、まあ一時間もじっくり見ていれば、彼らが何を想い、何を楽しみにしながら生きているかが分かってくる。彼らはたいがい淡々と生きている。

もっと時間があるときは、どんな植物でもいい、半日ほどじっと眺めてみる。これにはそれなりの忍耐が必要だが、花や樹木が好きな人間にはそう苦にならないだろう。容易に分かることは、植物たちは自分で何かをどうこうしようとまずは思ってないらしい、ということだ。受け身的といえば受け身的。

自然万物は能動的でもあり受動的な存在でもあるらしい、というところで、私たち現代人、特に文明世界の人間はあまりに能動に過ぎて忙しく、自分を追い詰めているようである。

そのわけは、単に科学技術や社会制度が云々という以外に、歴史的・思想的・宗教的な背景があるのだけれども、ここでは触れない。

もう一つ、というか、私が最も大事と思うことは、自分の中に正しく確たる、生きた宇宙観・世界観・人間観を持つことである。つまりは哲学・宗教ということになってしまうなぁ・・・。

そんな重宝なものがそう簡単に持てるかい・・・とたいがいの人は思うだろう。ところがこれが割合身近にあるのである。

それは、仏教とか仏法と呼ばれる世界宗教で、私たち日本人の場合、飛鳥時代の聖徳太子や奈良時代の鑑真和尚以来、きわめて馴染みの有る、ご縁の深い宗教の一つだ。

仏教なんて、もう時代遅れで、すでに人類が月へ降り、次は火星に移住・・・なんて科学万能の世界には無用の長物だろう・・・なんて思っている人は、ちょっと考え直した方が良い。

なぜなら、それは相伝(そうでん)仏法という、真の仏教の在り方を知らないということと、現代科学の最先端が、デカルト已来の物心二元論やニュートン力学などの近代物理学を、既に大きく超えたところにあるという事実を知らないにすぎないからである。

少なくとも現代物理学の最先端は、物(モノ)と心を分別する合理性を失い、つまり物の世界をとことん突き詰めると、心の世界と区別がつかなくなってしまうという、従来の常識的な世界観からすれば、とんでもない革命が起こっていて、物理学者の多くが「さてどうしたものか・・・」と茫然としているところだからである。

そして、仏教の世界では、そんな議論は、とうの昔に解決済みで、その法理の片端を言えば「色心不二」とか「依正不二」とかの「二而不二(ににふに)」の深義とその実践方法が、「これでもか!」・・・というくらい広く深く探求され、展開され尽くされているからである。

今回は、この辺りが、私の中庸的書き込みの「程よいところ」らしい。