庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

『敗戦から65年:ドイツ人は「井の中の蛙」であるべきではない』

2012-07-24 22:27:00 | 平和
2010年8月28日 インド・「カルカッタ・ステイツマン」特別寄稿

敗戦から65年:ドイツ人は「井の中の蛙」であるべきではない

      歴史平和学者 クラウス・シルヒトマン 著

今年(2010)、第二次世界大戦後初めて、国連事務総長とアメリカ合衆国の日本大使がそろって広島を訪れ、毎年行われる原爆の記念式典に参加した。オバマ大統領は、彼の在任中には訪問することを約している。

ニューメキシコのロスアラモス実験場で、核科学者たちによって開発された原子爆弾は、1945年、すでにドイツが降伏し、ヨーロッパでの戦争が終結した後、日本を降伏させるために投下されたのだった。ニューメキシコの原爆工場で働いていた研究者により成るロスアラモス科学者協会(ALAS)は、1945年の11月、「この原子爆弾が多くの国々に所有された世界では・・・それは報復への恐浮ノよってのみ使用が躊躇《ためら》われるのであり、世界の恐浮ニ猜疑心が最終的に爆発に至ることは避けられないだろう」・・・と警告していた。

幸いなことに今日では、グローバルゼロ運動は公式な世界政策となった。しかし、ロスアラモスの科学者たちが考えていたのは、核が「世界的権威によってコントロールされること」で、そのためには、「ある程度の国家主権の制限」が必要になるということだった。しかし、グラウンド・ゼロから65年たっても、バン・キー・ムーン氏(国連事務総長)が広島の聴衆に語りかけたように、私たちは「いまだに核の傘の下で生きていて」、主権国家はその「主権」の一部たりとも手放そうとせず、必要ならいつでも戦争を始める権利をほとんど永久に捨て去ろうとはしない。

それでも、広島と長崎の惨状を見て、世界中の政治家たちは、国際問題を戦争で解決することはすでに適切な方法ではないと考えていた。戦後のドイツ連邦が、新しく創設された国際連合の要請に沿った軍隊制度を持つことを拒否した理由の一つもそうだった。いくぶん日本国憲法に似て、新しく作られたボン基本法には、当初、軍事・防衛を制度化する条項は含まれておらず、それに代るものとして、国連の方針に沿って国家の主権放棄を進める国際機関の強化に備えていた。そしてそれは結果的に、国家からその平和と安全を確かなものにするために用意しなければならない過大な軍事費という重荷から解放させるものだった。アインシュタインが言ったように、この時期は「私たちの(身近な)屋根の上から世界中の政府に向かって叫ぶ」時だったのである。

ガンジーはまだ戦時中の1942年8月のインドで、市民的不服従運動を導きながら、すでに次のように宣言している。「我々は井の中の蛙《かわず》でありたくはない。我々は世界連邦の樹立を目指す」・・・と。1947年のドイツでは、国際法の教授でもあり、ワシントンと東京で長く外交官を務めたウィリアム・グルーが、ドイツもまた「国連憲章が有効に使われ得ることを目指して、国際連合が連邦制の世界機構に発展すること」に反対しない・・・と述べた。
しかし、グルーは国家社会主義のファウスト(富と力のために精神を失う者)の天才的信奉者であるカール・シュミットの影響下に入ることになった。グルーは中央ヨーロッパをドイツ主導のものにすることを思い描き、同盟国が世界的機構を創り上げようとする努力に力を尽くすことはほとんどなかった。その後、東西ドイツは冷戦下における超大国間の猛火のごとき熾烈《しれつ》な対立の中に長く留まる事になるのである。

1950年、朝鮮危機が訪れたときに初めて、国連の集団安全保障システムが機能するかどうかが、きびしく試されることになった。国連加盟国は「その責任の履行を開始するために」、国連憲章・第106条に各国の注意を集め、透明な安全保障の合意を発動させるべく、安全保障理事会を機能させるプロセス、つまり、「特別協定成立前の五大国の責任」を履行すべきであった。

その移行過程では国連への権限委譲が必要になる。ドイツ憲法下で規定された国連への代表団の派遣は世界平和に向けて効果的に歩みを進める最も重要な第一歩となるべきであった。しかしこの年、西ドイツは過去の過ちを補い、自らが課した苦境から逃れるチャンスを逃した。過去の例は、1899年と1907年のハーグ平和会議にまで遡る。その時、大多数の参加国の願いや平和運動に反して、幾つかの大国が結束して国際裁判所の設立を拒否した結果、第一次世界大戦の勃発を招くことになったのである。

戦後ドイツで、長期に渡りキリスト教民主連盟の党首を務め、連邦首長でもあったコンラッド・アデナウアーは、ドイツの再軍備に熱心であった。グローバルに考えることができなかったのか、考えたくなかったのか、彼はカール・シュミットがそうであったように、ヨーロッパを「世界の母」であり、「国家主義の萌芽」の責任はフランス革命にあって、その結果、ドイツ国家社会主義とロシアの共産主義の過多およびイデオロギー的な追撃を与ることになったのだと考えていた。アデナウアーの最も重要な外交顧問がウィルヘルム・グルーであったことは驚くに足りない。

広島への原爆投下に続いて、ラジオ東京は以下のようなアメリカの新聞記事を放送した。「実質的に、人間も動物も、生きとし生けるもの全てが、文字通り、焼き尽くされた」。後に合衆国エネルギー省は、広島の即死者数は7万人、長崎では4万人と見積もっている。しかし、それに続く検閲によって、その惨状を現す死体や痛々しい犠牲者などの写真類の報道は禁止された。それらは、ドイツのアウシュビッツでのホロコーストを思い出させるものだったからである。天皇ヒロヒトはこの「新型で恐ろしい兵器」について、「多くの罪の無い生命を奪い、計り知れない痛手をもたらす力を持ったもの」と言及し「我々は戦い続けるべきであろうか?それは究極的な破局をもたらし、日本国を消滅させるだけではなく人類文明そのものの絶滅を招くかもしれない。」と語った。そして、8月14日、彼はャcダム宣言の受諾を命じたのである。

日本が戦争犯罪を犯していたのであれば、日本を降伏させるために原爆の投下が必要だったのではないか・・・という議論がいまだになされている。しかしながら、1945年までの戦争では、一度それが起これば、今日のようには制御されることがなかった、という事実を理解しておく必要がある。戦争を終わらせるためには「何でもあり」であった。しかし、これは日本人全体を悪魔とみなすことを正当化しない。なんにしても、第一次世界大戦において日本は同盟国の一員であったし、戦争を終結させるために全てが許されるというルールはすべての日本国民を絶滅させることに如何なる許可を与えるものではない。

合衆国国務大臣だったウィリアム・フルブライトやジャスティス・オーウェン・J・ロバートと共に、アルバート・アインシュタインが、1945年の9月、ニューヨークタイムズ紙上の公開文書で、人類史上初の原爆投下は「広島市を破壊しただけではなく、我々が継承してきた時代遅れの政治理念まで破壊した」と述べたことは、よく知られていることである。

しかしながら、アインシュタインは後に後悔の念と共に「原爆は全てを変えたけれども、我々の考え方まで変えることはできなかった」と述べている。彼はまた、「私は常に日本への原爆使用を批難してきた。」とも書いている。元国務長官だったヘンリー・L・トンプソンは、1947年、原爆は「恐るべき破壊兵器以上のもの・・・心理的兵器である」という見解を持っていた。第二次世界大戦後も、また米ソの冷戦時代を通しても、同様の状況は続いているのである。

1946年1月24日、首相・幣原喜重郎は、ダグラス・マッカーサー元帥に対して戦争廃絶に向けての準備を提言している。これが後に、日本国憲法第九条(平和条項)となった。彼が議長を務めた3月の戦争調査委員会の会合で、彼は次のように語っている。

「他のどんな国家の憲法の中にも、この(第九条)のような規定が存在したことはない。さらに、原爆やその他の強力兵器への研究が減速することなく進められている現在、戦争の廃絶などは夢想家の戯言《たわごと》だと思う人々もいるだろう。しかしながら、今後続く技術の進歩開発によって、原子爆弾の何十倍何百倍もの威力を持った新しい破壊兵器が出現しないということを誰人も保証できない。もしそのような兵器が開発されれば、何百万人もの兵士も、何千もの艦船や航空機をもってしても、国家の安全を保障することはないだろう。ひとたび戦争が起これば、参戦国の都市は灰に変わり、その住民は数時間のうちに絶滅するだろう。今日、我々は戦争廃止宣言を高々と掲げながら、国際政治の広大な平原にただ一人で歩みを進めようとしているのだ。しかし、将来必ずや、世界中が戦争の恐浮ノ目覚め、同じ旗印の下に行進する日がやって来るであろう。」

1950年のユネスコ憲章が歌《うた》い、例えば、戦後(1949年)のドイツ憲法が規定したように、各国が「団結して平和を組織化するための次のステップに踏み出す準備」をしない限り、国際連合は「悲劇的な幻想」に終わるだろう。日本国憲法における戦争廃絶に向けての主張、国連憲章や民主憲法の数々はそのステップ、つまり、国際平和のための組織化を成功に導き、そのために今日取られなければならない手段を提唱している。ヨーロッパ連合と国際機構は手に手をとって進まなければならない。

かつてヨーロッパの議会に秩序があった頃、ドイツはヨーロッパで起こった多くの事件を制御する力によって、その国家目標を達成してきた。他の国々もそれぞれの合意のもとにドイツに続くだろう。しかしながら、それは大きな間違いだったのである。ドイツ連邦共和国はヨーロッパ中心主義から脱皮し、集団的安全体制を作り、厳格で効果的な国際的なコントロールによって恒久的に軍備を縮小し、世界平和を最優先させることで、グローバルな平和創設国家にならなければならない。軍備縮小は、国連が適当な権限を移譲され、集団安全保障のシステムが機能しさえすれば可能である。おそらくその時初めて、日本も国連の核の傘から離れて真に安全になるであろう。秋葉忠利・広島市長や他の識者が正しく提案したように。そして、それを達成するには、蛙は平和の王子と結婚しなければならないのである。

一言で言うと、ドイツは戦争廃絶を掲げる日本国憲法の動向に続かなければならない。そして、この問題について議論を始めなければならない。それによって、広島と長崎への原爆投下に対する謝罪は適所を得るだろう。しかし、それを成すべきはドイツなのであろうか、どうであろうか・・・?

日本語訳: 渡 辺 寛 爾                    

稀有なる平和学者

2012-07-24 22:23:00 | 平和

クラウス博士の記事小論の末A『ドイツ人は井の中の蛙であってはならない』がほぼ完了した。この希にして少なる人物については、今後さまざまな機会に書くことになるだろう。ここでは、ただ少しの紹介に留める。 

日本との同盟国・ナチスドイツが連合軍に敗北する1年余り前(1944年)にドイツで生まれ、青春時代にインドを放浪し、40歳を過ぎて歴史平和学の研究に進み、日本国の憲法史をテーマとして博士号を取得する。68歳の現在、日本人の妻と娘と共に埼玉県の日高市に住み、日本大学やインターナショナル高校で教鞭をとりながら、歴史平和学者として、時に日本の大臣に意見書簡を送り、時に各国大使に直言する。3e1466b4.jpeg 

彼はヨーロッパ戦線の末期に生まれた。私は太平洋戦争終結の9年後の生まれで、10年の歳の差があり、共に戦争体験はないに等しい。しかし、この世界には、体験しないと分からないことと、体験してしまうことで分からなくなることがある。一人の異性を深く愛さなければ愛の素晴らしさは分からない、しかしそれによって、この世界には実に多様な愛のかたちがあるという事実からは遠くなる。愛する一人が世界の全てになるからである。

戦争の最前線の現場では、理性よりも本能的・直感的感覚がものを言うだろう。彼がもし『コンバット』(ヨーロッパ戦線を舞台にしたアメリカ戦争番組)の戦場でサンダース軍曹と戦い、私が父のように連合艦隊の下士官としてスラバヤ沖海戦で英国主導艦隊を撃破していたら、あの戦争の意味を正しく捉えることは不可能に近くなっていただろう。

誰だったか、「人間の行動は深い思慮に基づくべきだが、ひとたび行動を始めたら、考えは停止するべきである(するしかない)」と言った先人がいる。私の経験でもこの言は正しいと思われる。人間は深く静かに思索しながら、同時に、速やかで時に激しい行動をとることはできない。これは、どんなスメ[ツに携わっている人間にも即座に分かる道理だ。しかも、戦争は殺し合いの世界だから、体験そのものが、体験主体の消滅を意味することもある。

クラウス先生についてちょっと書こうと思い付いたら、また話が長くなりそうな雰囲気だ。こんな時間、この類《たぐい》を書き始めるとまた寝れなくなりそうなので、以下に、幾つかリンクを記して、今夜はこの辺で終わりにする。

なお、末燉eは来る広島・長崎の原爆記念日前後、何らかの形で活字になる可能性があるが、ここにも、次のエントリーで全文を記載しておく。興味がある方は一読いただいて、ご意見頂ければありがたいと思う。

リンクー1: 世界から見た今の日本  

リンク??2  ジャパンタイムズでの紹介(末L事)



クラウス博士紹介記事 ジャパンタイムズ

2012-07-11 10:05:00 | 平和

 2019年7月21日、参院の通常選挙がもうじきやって来る。選ばれる国会議員は、もちろん国政に関わっていくわけで、彼ら(といっても大方は法務官僚)が作る法律は、否応なく我々国民すべてを強制する。

ところが、今回(だけではない)の争点、従って勝敗のャCントは、言うまでもなく「改憲」、なかんずく「第九条の平和条項」をどうするか・・・ということになるだろう。

「押しつけ憲法論」が架空の作りごとであるという事実は、もうとうの前から、知る人は知っている。その確たる証拠も公開済みだ。必要ならここへも何回でも掲載する。

しかし、憲法について、私たち国民がまず知るべきことは、憲法はそこらの法令などとは全く異なり、向き(ベクトル)が逆になっているということだ。

つまり、「法令は国民を拘束し、憲法は法令や、それらを作る人間を拘束する」という大原則で、これが、現在日本国が採用している、「立憲民主主義」の要だ。だからまあ、所謂「権力」周辺の人たちが、人権規定や平和条項などを「押しつけられた」と感じるのは当然と言えば当然のことではある。

だがしかし、そもそも、憲法によって拘束されるべき人たちが、これら「憲法論議に火を付け扇動しようとする人たち」に成り上り下がりしてどうするか!、それを私たち国民が是としてどうするか!・・・ということである。改正にせよ改悪にせよ、それは統治を余儀なくされる国民の側から起こるものでなければならない。

日本という国家が、先のバカげた戦争で、数え切れないほどの悲劇や苦悩の末に「生み出した」平和条項の尊く希有なることを、世界中に向かって、声高に叫び続けている一人の人物を、今回ここでも紹介する。

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『歴史平和学者クラウス博士の紹介記事』

 ジャパンタイムズ 2003年3月15日


《 歴史学者 平和に向けて 国際連合への明確な権限委譲の道を探求 》

 by:アンジェラ・ジェフス  末F渡辺かんじ japantimes-interview-s.jpg


ドイツ生まれのクラウス・シルヒトマン氏は歴史平和学者である。その人生後半において、あらゆる意味での「探求者」としての生き方を見出した学者だ。

彼は現在、埼玉県の日高市に住んでいる。私たちは、ちょうとジャパンタイムズ社との中間地点にある、彼がかつて教鞭をとっていた上智大学の校門前で会うことにした。彼の最大の関心事は国際連合に何が起こっているかだったが、インドへ研究旅行に出かける準備中でもあった。これは彼をアメリカのイラク攻撃から近い場所に置くことになる。彼の当面の疑問は、そこで何が起こるのか?・・・ということであった。

「国際連合は、現在、世界政府に代わる役割を果たすべく、大変な努力をしていることが分かります」「しかし、国際連合には、何の統治権も、平和に向けての権限委譲もなく、それが本来達成すべき内容を考えると制限された状態にあります」更に彼は言う。「実に日本の平和憲法第9条は世界政府の樹立を目指しているのです」

世界平和への提案は、国際連合で半世紀以上も扱われています・・・彼は説明を続ける。

通常、ある議案が提出されたら、次に続く民主的なステップは何でしょう? その議案は支持される必要があります。では、その前には何が成されるべきでしょう? 議論です。そして、投票という審判を受けることになるのです。国連に本当の権力を持たせるという問題は、今まで公式には議論されたことがありませんでした。どの国も日本の戦争廃絶への動きを支持するという提案をしなかったからです。

彼は第二次世界大戦が終焉する一年と三ヶ月前にハンブルグに生を受けたが、東西分断という紛争の悪夢はほんの10年余り前に終わったばかりだった。「心の中に傷はありません。母が私を守ってくれました。しかし、戦争の問題は10代の頃から私の心の中の大きな部分を占めていました」そして、彼は「白いミルクが黒色に変わる」という一行を入れてヒロシマを詠った詩を書いたことを思い起こす。

彼は件p家になろうと思い立って高等学校を中退したが徴兵を逃れたいと思った。ローマでの一年間を絵画と音楽(トロンボーンジャズ)で過ごした。学生時代に仏教についての書物を読んだこともあり、赤レンガの学校の内で学ぶよりも外の世界で学ぶ方がより良いと判断した。そして、1964年に陸路でインドに向かう。「トルコで知り合った友人がパキスタンで病気になったので、その後は一人旅でした」

バラナシ(北インド、ガンジス川左岸にある。ヒンズー教の聖なる七都市の一つ)に着いてから半年間、彼は仏教徒の法衣を着る。その後ヒンズー教徒に招かれて、市内のサンスクリット大学で中国語と日本語を学びながら、同時に教えた。「今でも勉強を続けていれたらなあ、と思います」その後、彼はグラフィックデザインの工房を開くためにネパールに向かう。しかし、それは失敗して、西ベンガルでソーシャルワークと地域振興の仕事に携わることになる。

カーリーの寺院に滞在した後、「狂人のように放浪しながら」最終的にクラウスは巡礼の旅に出た。動物の皮を縫い合わせ、その上にワックスとニスを塗って一艘のカヤックを作り、ガンジス河を下る。「その後の二年間、ほとんど徒歩でインド中を旅しました」

1976年にドイツに帰る。「ワールドパスメ[ト」を発行していたゲリー・デイビスの「世界市民」の話を聞いて、世界政府の仕事を始め、平和運動の活動家になる。1980年に世界連邦機構の議長に選任されから、幾つかの国連の会議を含む国際会議に出席する。そして、民主的で実際的な「世界憲法」を収集する作業をする。

この仕事や後の歴史平和社会学会の会員であることを通して、彼は「平和社会学者」とか「歴史平和研究家」とか「平和歴史学者」というような肩書きを持つこととなる。「コンピューターで私の名前を検索してみてください。少なからぬ記事や論文が出てくると思います」

彼が本気になって、キール大学で政治科学、歴史、国際法の研究を始めたのは41歳の時である。(私は「遅咲きの花なんですよ」彼は冗談で言う)1990年に博士号を取得した後、日本政府のベルリンセンターの奨学金を得て日本で研究を続けることになる。

彼の研究テーマは日本の政治家であり平和主義者であった幣原喜重郎(1872-1951)だった。「彼は1920年代の国際政治の舞台で中心的な役割を演じていました。当時、日本は主権国として、西欧諸国が政治目標と理解されていたこと、つまり戦争を中止・廃止して効果的な世界平和機構と創設しようという動きを支持しながら、それに積極的に参加する努力もしていたのです」

幣原は1945年10月から1946年5月まで首相でしたが、戦争廃止をうたった日本国憲法9条を1946年1月24日にダグラス・マッカーサーに提案したのも彼であります。「実業家としても、彼は日本の国益に反するようなことに関係しなかった。決定的に他と異なっていたのは彼が採った方法でした」

クラウスは、日本政府が外国からの圧力に抗して9条の精神を守ることについてずっと良心的であると信じている。

「読売新聞が一国平和主義を批判しながら改憲の議論を提起するなど、9条は侵食され続けていますが、その「軍事力を使わない」という中心の一点は変わっていません。だから、日本が自衛隊を持つ限り、他の国々は、なんとしても、戦争の悪習から脱するために国家主権を制限するという9条を「支持」することによって、日本が“一国平和主義”であるという境遇を認めなければいけません」

もし他の国、例えばドイツなどアメリカのブッシュ政権の戦争挑発主義に対抗する勇気を持った国が、この貴重な日本国憲法的「行動」を支持するならば、その議案は公式な議論討論の場に開かれたものとなるでしょう。そして、国際連合の戦争廃止問題についての議論は、どんな国にとっても反対することは非常に困難なものとなるでしょう。

「もし充分な数の国々が先例に従うならば・・・」彼は続ける。「安全保障理事会の常任理事国を含む全ての国々、そして結果的にはアメリカも武装解除することがあり得ます」

もちろん多くの障害があるだろう。今現在、富と力はごく限られた国々が握っている。より公平な富の分配が行われるようにならなければ、不平等が存在する世界中の大部分に根強い怒りが滞留する。例えばアメリカは、世界人口の6%にすぎないが、世界中の富の50%を独占している。

「私たちは、ベルリンの壁が崩壊した後の1990年代、“平和の配当”ともいえるものを全て浪費しましました。良いチャンスを逃してしまったのです。ヨーロッパは国連に入って、「我々は国連を支持する」と言うべきです。私たちは国連に本物の力を与えなければなりません。そのために国連はあるのですから。しかし、そのプロセスにおいてはアメリカの力を必要とするかもしれません。もしヨーロッパの国々が、日本が成し遂げたように、国家主権の一部を放棄することによって国連に合法的に権限を与えるなら、アメリカも協力するでしょう」



クラウス博士の紹介記事

2012-07-11 09:44:00 | 平和

『歴史平和学者クラウス博士の紹介記事』

ジャパンタイムズ 2003年3月15日

《 歴史学者 平和に向けて 国際連合への明確な権限委譲の道を探求 》

by:アンジェラ・ジェフス  末F渡辺寛爾 japantimes-interview-s.jpg

ドイツ生まれのクラウス・シルヒトマン氏は歴史平和学者である。その人生後半において、あらゆる意味での「探求者」としての生き方を見出した学者だ。

彼は現在、埼玉県の日高市に住んでいる。私たちは、ちょうとジャパンタイムズ社との中間地点にある、彼がかつて教鞭をとっていた上智大学の校門前で会うことにした。彼の最大の関心事は国際連合に何が起こっているかだったが、インドへ研究旅行に出かける準備中でもあった。これは彼をアメリカのイラク攻撃から近い場所に置くことになる。彼の当面の疑問は、そこで何が起こるのか?・・・ということであった。

「国際連合は、現在、世界政府に代わる役割を果たすべく、大変な努力をしていることが分かります」「しかし、国際連合には、何の統治権も、平和に向けての権限委譲もなく、それが本来達成すべき内容を考えると制限された状態にあります」更に彼は言う。「実に日本の平和憲法第9条は世界政府の樹立を目指しているのです」

世界平和への提案は、国際連合で半世紀以上も扱われています・・・彼は説明を続ける。

通常、ある議案が提出されたら、次に続く民主的なステップは何でしょうか? その議案は支持される必要があります。では、その前には何が成されるべきでしょう? 議論です。そして、投票という審判を受けることになるのです。国連に本当の権力を持たせるという問題は、今まで公式には議論されたことがありませんでした。どの国も日本の戦争廃絶への動きを支持するという提案をしなかったからです。

彼は第二次世界大戦が終焉する一年と三ヶ月前にハンブルグに生を受けたが、東西分断という紛争の悪夢はほんの10年余り前に終わったばかりだった。「心の中に傷はありません。母が私を守ってくれました。しかし、戦争の問題は10代の頃から私の心の中の大きな部分を占めていました」そして、彼は「白いミルクが黒色に変わる」という一行を入れてヒロシマを詠った詩を書いたことを思い起こす。

彼は件p家になろうと思い立って高等学校を中退したが徴兵を逃れたいと思った。ローマでの一年間を絵画と音楽(トロンボーンジャズ)で過ごした。学生時代に仏教についての書物を読んだこともあり、赤レンガの学校の内で学ぶよりも外の世界で学ぶ方がより良いと判断した。そして、1964年に陸路でインドに向かう。「トルコで知り合った友人がパキスタンで病気になったので、その後は一人旅でした」

バラナシ(北インド、ガンジス川左岸にある。ヒンズー教の聖なる七都市の一つ)に着いてから半年間、彼は仏教徒の法衣を着る。その後ヒンズー教徒に招かれて、市内のサンスクリット大学で中国語と日本語を学びながら、同時に教えた。「今でも勉強を続けていれたらなあ、と思います」その後、彼はグラフィックデザインの工房を開くためにネパールに向かう。しかし、それは失敗して、西ベンガルでソーシャルワークと地域振興の仕事に携わることになる。

カーリーの寺院に滞在した後、「狂人のように放浪しながら」最終的にクラウスは巡礼の旅に出た。動物の皮を縫い合わせ、その上にワックスとニスを塗って一艘のカヤックを作り、ガンジス河を下る。「その後の二年間、ほとんど徒歩でインド中を旅しました」

1976年にドイツに帰る。「ワールドパスメ[ト」を発行していたゲリー・デイビスの「世界市民」の話を聞いて、世界政府の仕事を始め、平和運動の活動家になる。1980年に世界連邦機構の議長に選任されから、幾つかの国連の会議を含む国際会議に出席する。そして、民主的で実際的な「世界憲法」を収集する作業をする。

この仕事や後の歴史平和社会学会の会員であることを通して、彼は「平和社会学者」とか「歴史平和研究家」とか「平和歴史学者」というような肩書きを持つこととなる。「コンピューターで私の名前を検索してみてください。少なからぬ記事や論文が出てくると思います」

彼が本気になって、キール大学で政治科学、歴史、国際法の研究を始めたのは41歳の時である。(私は「遅咲きの花なんですよ」彼は冗談で言う)1990年に博士号を取得した後、日本政府のベルリンセンターの奨学金を得て日本で研究を続けることになる。

彼の研究テーマは日本の政治家であり平和主義者であった幣原喜重郎(1872-1951)だった。「彼は1920年代の国際政治の舞台で中心的な役割を演じていました。当時、日本は主権国として、西欧諸国が政治目標と理解されていたこと、つまり戦争を中止・廃止して効果的な世界平和機構と創設しようという動きを支持しながら、それに積極的に参加する努力もしていたのです」

幣原は1945年10月から1946年5月まで首相でしたが、戦争廃止をうたった日本国憲法9条を1946年1月24日にダグラス・マッカーサーに提案したのも彼であります。「実業家としても、彼は日本の国益に反するようなことに関係しなかった。決定的に他と異なっていたのは彼が採った方法でした」

クラウスは、日本政府が外国からの圧力に抗して9条の精神を守ることについてずっと良心的であると信じている。

「読売新聞が一国平和主義を批判しながら改憲の議論を提起するなど、9条は侵食され続けていますが、その′R事力を使わない≠ニいう中心の一点は変わっていません。だから、日本が自衛隊を持つ限り、他の国々は、なんとしても、戦争の悪習から脱するために国家主権を制限するという9条を「支持」することによって、日本が“一国平和主義”であるという境遇を認めなければいけません」

もし他の国、例えばドイツなどアメリカのブッシュ政権の戦争挑発主義に対抗する勇気を持った国が、この貴重な日本国憲法的「行動」を支持するならば、その議案は公式な議論討論の場に開かれたものとなるでしょう。そして、国際連合の戦争廃止問題についての議論は、どんな国にとっても反対することは非常に困難なものとなるでしょう。

「もし充分な数の国々が先例に従うならば・・・」彼は続ける。「安全保障理事会の常任理事国を含む全ての国々、そして結果的にはアメリカも武装解除することがあり得ます」

もちろん多くの障害があるだろう。今現在、富と力はごく限られた国々が握っている。より公平な富の分配が行われるようにならなければ、不平等が存在する世界中の大部分に根強い怒りが滞留する。例えばアメリカは、世界人口の6%にすぎないが、世界中の富の50%を独占している。

「私たちは、ベルリンの壁が崩壊した後の1990年代、“平和の配当”ともいえるものを全て浪費しましました。良いチャンスを逃してしまったのです。ヨーロッパは国連に入って、「我々は国連を支持する」と言うべきです。私たちは国連に本物の力を与えなければなりません。そのために国連はあるのですから。しかし、そのプロセスにおいてはアメリカの力を必要とするかもしれません。もしヨーロッパの国々が、日本が成し遂げたように、国家主権の一部を放棄することによって国連に合法的に権限を与えるなら、アメリカも協力するでしょう」

 


クラウス博士

2012-06-05 07:27:00 | 平和

久方ぶりにクラウス博士からメールを頂いた。近況の連絡と近々出版される論文書"The Law of Peace Constitutions and Collective Security - Japan's Motion to Abolish War"『平和憲法と集団的安全保障??戦争廃絶に向けた日本の動き』(寛太郎的拙訳)の案内だ。

人と人との出合いは偶然と必然との出合いでもあるらしい。もう10年ほど前に、たまたま彼のWEBサイトに行き当たった私は、一人のドイツ人研究者が日本の平和憲法にただならぬ造詣と期待を持ち、国際連合の限界と可能性についても、およそ私と同じ見方をしていることを知った。

中学3年の弁論大会で「世界政府を作る」なんて幼稚な大ボラを披露して先生方の失笑を買い、親父に「もっと落ち着いてまともなことを言え!」と怒られた少年が、その後、長い学生時代後半の研究課題に選んだのが国際法であり、中心テーマは国際連合だった。

やがて、私の関心は、世界の平和から一人の人間の、畢竟(ひっきょう)自分自身の心の平和という、更に切実な問題に移っていくのであるが、少なくとも法的には、世界平和のために作られた国際連合の理想の行き着くところは、詰まるところ「世界連邦政府」の構築ということになるだろう・・・という結論は、今もまったく変っていない。

その祉=[ルを差し上げると直ぐに丁寧な返事があり、ここから静かな交流が始まった。やがて彼の記事や外務大臣への提言類などの末?ニをお手伝いすることになるのだが、その興味深い来歴を知るにつれて、彼の生き方そのものにも心魅かれるようになった。これは一度お会いしておかなければならないと思った。

8年ほど前になる、すでに60歳を超える彼の風貌について色々と想像を巡らせながら、埼玉の日高市にあるお宅を、学生時代からの友人と訪ねた。雨の中、博士は自転車で駅まで迎えに来ていた。

お会いした瞬間、遠い昔どこかで親しくしていたような懐かしい感覚が私の胸を満たした。たぶん多くの人が経験するだろう「初めて来た場所なのに以前から確かに知っている!」というあの奇妙な感じに似た感覚。

その人柄は私の想像とほとんど寸部の違いもなく、虚飾とは無縁、思慮深く誠実でユーモアを忘れない学究の紳士が、ドイツの哲学書の中から姿を現した・・・というような風貌だった。

質素なお宅は借家で、やはりドイツ人の女性件p家と二人で共同生活をしていた。本や書類が雑然と積まれた小さな部屋で、お茶をよばれながら過ごした幸せな数時間を忘れることはない。

してみると、博士は現在68歳ということになる。いつかはこちらにもお招きしたいとは思っているが、限られた時間との相談ということになるだろう。

(後に電話でお話しているうちに、過去の事実と私の記憶の間に多少のズレがあることが分かった。わずかなことだが訂正しておく。6/11)



UNESCOでのスピーチ

2006-01-30 19:53:39 | 平和
「クラウス博士 UNESCOでのスピーチ」

皆さん、こんにちは。創立25周年、誠におめでとうございます。

ユネスコ憲章・序文に「戦争は人間の心の中で起こるものだから、平和の砦も人間の心の中に築かなければならない」とあります。ユネスコはこの目標に向かってたゆみなく歩んできました。

しかしながら、私たちは確かな平和からはまだ遠いところにいます。アンドリュー・マーチンは1952年のユネスコ出版物で「5年経った現在でも、国連の警察機能の解除に対する準備は絶望的に不十分です・・・国連憲章が完全に実行されれば、安全保障理事会はその決定したことを強制するのに必要な物理的な力を備えることになるでしょう・・・大きな問題は国際連合を構成する国々が“主権を委任することをためらっている”ことにあります」と述べています。

更に今日(こんにち)でさえ、国際連合の集団安全保障には強制力がありません。それに替わって、大国やイラク戦争での“有志連合”各国”が独自の判断で、平和を確保すると同時にそれぞれの国家的利益に奉仕しようとしています。

現在のアメリカは、かつて世界の警察であろうとしたプロイセンのように見えます。しかし、プロイセンと違うのは、アメリカは集団安全保障を、働かせ操作できるものとすることに多大な関心を持っているということです。ヨーロッパの国々はそうはいきません。ヨーロッパ各国はアメリカにはできないことができる、つまり、軍事的方法を捨てて、主権を国際連合の安全保障理事会に委任し、その集団安全保障システムを機能させるということです。実際にそうなって、各国が通常兵器においても核兵器においても軍備撤廃を始めれば、国連憲章106条の下にあるアメリカや他の常任理事国は、その“過渡的期間”が“安全の空白期間”にはならないと思わなければならなくなるでしょう。ネーション・ステイツ(民族国家)が軍備を完全放棄することができないのは明白ですが、そうすることで、憲章106条の下にある大国が互いに力の均衡を保ちながら、その他多くの国々を平和的に軍備放棄に向かわせることになるのです。

ドイツ憲法とその歴史が、私たちドイツ人に、今日我々が置かれた宿命的なコースを変革し得る鍵を与えてくれているということを、私は喜びを持って表明したいと思います。ドイツは間もなく行動を起こすでしょう。ともかく、私たちは皆“悪の枢軸”の一部ではないし、愚か者でもありません。ドイツは、民主的集合体であり法の支配に基づいた合法的かつ強力な代表より成る国際司法裁判所と連携しながら、国際連合が効果的に機能するプロセスを開始する引き金役になることができます。

国際連合を、より民主的により効果的なものにするという目的達成のために、ユネスコが負った役割は極めて重要なものであります。次の25年の活動が実り多きものになることを祈っております。

ご清聴、ありがとうございました。
"I appreciate your carefully listening to my humble speech. Thank you." ...this is just my humble addition.

麻生外相への手紙

2006-01-29 19:20:18 | 平和
拝啓、外務大臣・麻生太郎 殿

「国連改革に向けての運動2007」は、現在の国際法及び憲法に基づいて、速やかに国際連合を改革するための実際的な方策について研究しその成果を広報することを趣獅ニしています。

私たち(※1)は、議論の多い日本国憲法第9条が戦争廃絶に向けての公然たる国際法的条項であると信じています。

世界平和への最短距離は、例えば私の国ドイツのような大国が日本の(先駆的)行動を支持することです。ドイツは国際司法裁判所の司法判断に従い、集団安全保障体制が実効性を持つべく、適宣、立法政策によって、国連が主導する集団安全保障を積極的に支持することをその憲法で宣言しています。

もし、ドイツ(ドイツはまだ“プロイセンの鷲”(※2)から大きくは脱皮していないのですから、これは適当な呼び名ではないかもしれませんが)のような国が、国連総会において日本国憲法第9条を支持する表明をしたなら、おそらく1961年のマクロ・ゾーリン協定の内容に沿って戦争の慣習を廃止しようという広範な議論が始まるでしょう。それは私が希望するところでもあります。(「マクロイ・ゾーリン協定」については、湯川 秀樹・朝永 振一郎・坂田 昌一 (編集)による『平和時代を創造するために―科学者は訴える』P206-P209 (1963年) に含まれている。)

更に、私たちは核と全般的な軍備撤廃への近道がインドとの協力にあると考えます。
(これについては私の出版物を2つ同封します)

戦前に4回外務大臣を務められた貴殿の先任者にあたる外務大臣、幣原喜重郎氏によって見事に示されたように、貴外務省には確かな先見性と誠実さがあるはずです。私は、日本政府が冷静な決断によって更に懸命な方法を考慮するだろうと信じています。(この最後の一文は変わる可能性もありますが・・・クラウス)

敬具

※1:同封の「UNFOR2007支持者一覧」をご覧下さい。
※2:例えば、オーストリアの2ユーロ硬貨には平和主義者のベルタ・フォン・シュットナーが、一方ドイツの硬貨はまだ鷲が刻印されている。


川口外相への手紙

2006-01-29 19:14:35 | 平和
拝啓 川口外務大臣殿

昨年6月11日に差し上げた手紙の内容に追記させて頂きたいと存じます。これは原文と日本語訳をWEB上でも公開させ頂いております。

前回、国連改革の為の「二段階アプローチ」の利点と、それが明らかに実際的ものであることについて触れました。その第一段階では、国連常任理事国の第5番目の国について論じました。そして、ヨーロッパ連合が一つの議席で足りたならば、空いた議席は、例えばインドなどの素晴らしい国に分け与えることが可能となり、その結果、国連の国際的代表機関としての信頼性を高めることが出来るということにも触れました。

実際、ECの支持団体が最近行った世論調査では、70%がUNSC(国連安全保障理事会)の代表権はヨーロッパで一議席であることを支持しています。しかし、「ヨーロッパ一議席」はインドが常任理事国になるための不可欠の条件ではなく、インドがより早い時期に議席を得るためのより望ましい条件であって、ヨーロッパ諸国が国連の機能強化のために行動を起こすかどうかとは関係がない、という結論を持つに至りました。

インドは、もし日本が支持するならば、NNPT(核非拡散条約)6条の義務を果たし、核兵器全廃を達成するのに最高の保証となるでしょう。

ここでは平和憲法である日本国憲法第九条について二、三述べさせてください。

私は、責任ある立場の政治家が、この戦争廃止条項を改正することを考え、それが即、軍国主義に傾斜するであろうとは思いません。実際、過去において、法制局は幾つもの解釈を採用することによって、9条の本質的部分を保持しようとしてきました。更に、ほとんどの改正論者もまた平和主義的精神を保持したいと願ってきました。

9条の解釈論議は、大切な原則を守るために取られた合法的手段でありました。彼ら自身も、どのような形であれ、その原則を破壊するような提案をしているのではありません。政治家は自衛の道、つまり国際情勢が要求するなら、国家の安全保障のためにある種の手段を取るべきであると訴えるかもしれません。これはインドが核保有を選択した道でした。日本の自衛隊も、憲法上の基盤を失えば、国連憲章51条による合法性を主張することで、この考え方の範疇に陥る可能性があります。

そして、今般漏れ伝えられてきている危険性や限界点の存在は、あなた方政府筋はよくご存知のことと思います。その危険性や限界点について以下に述べます。

(1)そうこうしている内に、この大原則が結局、実際上失われてしまうかもしれません。

(2)日本は、未だ国際社会では確立されていない「正義と秩序と(法の支配)を基調とする国際平和」という9条の平和条項に実効的に基礎を置くことによって「安全性に裏付けられた理想的な存在」として国際的な信用を勝ち得てきました。もし万が一、日本がこの信念を変えるならば、その普遍原則である「政治道徳」に対する決意と信頼や「世界中の平和愛好家の信頼と正義」を放棄するものとなり、近い将来における真の軍備放棄の希望を捨てさせることになってしまうでしょう。

(3)9条を改正することによって、現在の防衛庁の地位を防衛省などに格上する必要を生じ、更に大幅な憲法改正につながるということを公に明らかにしなければ、日本の民主主義は重大な危機に直面するでしょう。

(4)そして、国連の集団的自衛権を認める国連憲章51条の集団安全保障を混乱させる危険性があります。

いずれにしても、これは単なる推測です。何故なら、私は日本国民が9条に関してどのような改正も許さないと考えているからです。私自身は、日本国憲法第9条は、高知市の植木枝盛の家がそうであるように、(私の講演内容を同封します)日本の宝であるだけでなく世界の宝だと信じています。

それはほんとうに世界中の宝物です。特にドイツ人としての私にとっては遺産とも言うべきものです。9条は、元々ナチの支配するドイツに「落とされるはずであった」原子爆弾が落とされてしまった日本国が自ら生み出した偉大な結実であるからです。

私はヨーロッパの「中心力」であるドイツ政府が、日本が憲法9条を堅持することの重要性に気づき、近未来の集団安全保障の仕組みを構築する上で大いに参考にしてもらいたいと切に願っています。そして、それが、日本の存立を支え、軍事力によらない紛争の解決や、法の支配に基づく「協調的世界秩序」(シュレーダー首相)の素晴らしさや可能性に対する信頼を強めることになるであろうと確信しています。

貴方の外相への再就任を祝福させていただきます。

敬具

Ph.D. クラウス・シルヒトマン

2003年11月26日 

CC:インド外相 スリ・ジャシュワント・シンハ、インド防衛大臣 スリ・ジョージ・フェルナンデス、ドイツ外相 ジョシュカ・フィッシャー、国際連合常任理事国委員会 インド及び日本大使、前国連大使 ユキオ・サトウ、 総理付事務官 ユキオ・オオモト、大使 サクラ・タニオ、インド国家安全事務官 スリ・バラジェシュ・ミシュラ、M.S.シュワミナサン教授 他


クラウス博士

2006-01-27 19:53:07 | 平和
幾分、仕事とも関係してくるが、ブログは何かと便利なので新しくカテゴリーを設けて、クラウス先生関係の原稿をこちらにもUPしておくことにした。
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歴史平和学者クラウス博士の紹介記事
ジャパンタイムズ 2003年3月15日
《 歴史学者 平和に向けて 国際連合への明確な権限委譲の道を探求 》
by:アンジェラ・ジェフス  末F寛太郎

ドイツ生まれのクラウス・シルヒトマン氏は歴史平和学者である。その人生後半において、あらゆる意味での「探求者」としての生き方を見出した学者だ。

彼は現在、埼玉県の日高市に住んでいる。私たちは、ちょうとジャパンタイムズ社との中間地点にある、彼がかつて教鞭をとっていた上智大学の校門前で会うことにした。彼の最大の関心事は国際連合に何が起こっているかだったが、インドへ研究旅行に出かける準備中でもあった。これは彼をアメリカのイラク攻撃から近い場所に置くことになる。彼の当面の疑問は、そこで何が起こるのか?・・・ということであった。

「国際連合は、現在、世界政府に代わる役割を果たすべく、大変な努力をしていることが分かります」「しかし、国際連合には、何の統治権も、平和に向けての権限委譲もなく、それが本来達成すべき内容を考えると制限された状態にあります」更に彼は言う。「実に日本の平和憲法第9条は世界政府の樹立を目指しているのです」

世界平和への提案は、国際連合で半世紀以上も扱われています・・・彼は説明を続ける。

通常、ある議案が提出されたら、次に続く民主的なステップは何でしょう? その議案は支持される必要があります。では、その前には何が成されるべきでしょう? 議論です。そして、投票という審判を受けることになるのです。国連に本当の権力を持たせるという問題は、今まで公式には議論されたことがありませんでした。どの国も日本の戦争廃絶への動きを支持するという提案をしなかったからです。

彼は第二次世界大戦が終焉する一年と三ヶ月前にハンブルグに生を受けたが、東西分断という紛争の悪夢はほんの10年余り前に終わったばかりだった。「心の中に傷はありません。母が私を守ってくれました。しかし、戦争の問題は10代の頃から私の心の中の大きな部分を占めていました」そして、彼は「白いミルクが黒色に変わる」という一行を入れてヒロシマを詠った詩を書いたことを思い起こす。

彼は件p家になろうと思い立って高等学校を中退したが徴兵を逃れたいと思った。ローマでの一年間を絵画と音楽(トロンボーンジャズ)で過ごした。学生時代に仏教についての書物を読んだこともあり、赤レンガの学校の内で学ぶよりも外の世界で学ぶ方がより良いと判断した。そして、1964年に陸路でインドに向かう。「トルコで知り合った友人がパキスタンで病気になったので、その後は一人旅でした」

バラナシ(北インド、ガンジス川左岸にある。ヒンズー教の聖なる七都市の一つ)に着いてから半年間、彼は仏教徒の法衣を着る。その後ヒンズー教徒に招かれて、市内のサンスクリット大学で中国語と日本語を学びながら、同時に教えた。「今でも勉強を続けていれたらなあ、と思います」その後、彼はグラフィックデザインの工房を開くためにネパールに向かう。しかし、それは失敗して、西ベンガルでソーシャルワークと地域振興の仕事に携わることになる。

カーリーの寺院に滞在した後、「狂人のように放浪しながら」最終的にクラウスは巡礼の旅に出た。動物の皮を縫い合わせ、その上にワックスとニスを塗って一艘のカヤックを作り、ガンジス河を下る。「その後の二年間、ほとんど徒歩でインド中を旅しました」

1976年にドイツに帰る。「ワールドパスメ[ト」を発行していたゲリー・デイビスの「世界市民」の話を聞いて、世界政府の仕事を始め、平和運動の活動家になる。1980年に世界連邦機構の議長に選任されから、幾つかの国連の会議を含む国際会議に出席する。そして、民主的で実際的な「世界憲法」を収集する作業をする。

この仕事や後の歴史平和社会学会の会員であることを通して、彼は「平和社会学者」とか「歴史平和研究家」とか「平和歴史学者」というような肩書きを持つこととなる。「コンピューターで私の名前を検索してみてください。少なからぬ記事や論文が出てくると思います」

彼が本気になって、キール大学で政治科学、歴史、国際法の研究を始めたのは41歳の時である。(私は「遅咲きの花なんですよ」彼は冗談で言う)1990年に博士号を取得した後、日本政府のベルリンセンターの奨学金を得て日本で研究を続けることになる。

彼の研究テーマは日本の政治家であり平和主義者であった幣原喜重郎(1872-1951)だった。「彼は1920年代の国際政治の舞台で中心的な役割を演じていました。当時、日本は主権国として、西欧諸国が政治目標と理解されていたこと、つまり戦争を中止・廃止して効果的な世界平和機構と創設しようという動きを支持しながら、それに積極的に参加する努力もしていたのです」

幣原は1945年10月から1946年5月まで首相でしたが、戦争廃止をうたった日本国憲法9条を1946年1月24日にダグラス・マッカーサーに提案したのも彼であります。「実業家としても、彼は日本の国益に反するようなことに関係しなかった。決定的に他と異なっていたのは彼が採った方法でした」

クラウスは、日本政府が外国からの圧力に抗して9条の精神を守ることについてずっと良心的であると信じている。

「読売新聞が一国平和主義を批判しながら改憲の議論を提起するなど、9条は侵食され続けていますが、その′R事力を使わない≠ニいう中心の一点は変わっていません。だから、日本が自衛隊を持つ限り、他の国々は、なんとしても、戦争の悪習から脱するために国家主権を制限するという9条を「支持」することによって、日本が“一国平和主義”であるという境遇を認めなければいけません」

もし他の国、例えばドイツなどアメリカのブッシュ政権の戦争挑発主義に対抗する勇気を持った国が、この貴重な日本国憲法的「行動」を支持するならば、その議案は公式な議論討論の場に開かれたものとなるでしょう。そして、国際連合の戦争廃止問題についての議論は、どんな国にとっても反対することは非常に困難なものとなるでしょう。

「もし充分な数の国々が先例に従うならば・・・」彼は続ける。「安全保障理事会の常任理事国を含む全ての国々、そして結果的にはアメリカも武装解除することがあり得ます」

もちろん多くの障害があるだろう。今現在、富と力はごく限られた国々が握っている。より公平な富の分配が行われるようにならなければ、不平等が存在する世界中の大部分に根強い怒りが滞留する。例えばアメリカは、世界人口の6%にすぎないが、世界中の富の50%を独占している。

「私たちは、ベルリンの壁が崩壊した後の1990年代、“平和の配当”ともいえるものを全て浪費しましました。良いチャンスを逃してしまったのです。ヨーロッパは国連に入って、「我々は国連を支持する」と言うべきです。私たちは国連に本物の力を与えなければなりません。そのために国連はあるのですから。しかし、そのプロセスにおいてはアメリカの力を必要とするかもしれません。もしヨーロッパの国々が、日本が成し遂げたように、国家主権の一部を放棄することによって国連に合法的に権限を与えるなら、アメリカも協力するでしょう。」