庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

一郎と竜馬

2007-03-06 11:18:56 | 言葉
最近、面白いテレビ番組によく行き当たる。特に準備したり予約したりして観るわけではない。たまたまテレビを付けたら、ドキッとしたり胸の奥にスッと落ちる言葉を話す人物が登場していて思わず聞き入ってしまう・・・という具合だ。たぶん、心のアンテナが知らずと好みの方向を向いているのだろう。

先日は、歌手の椎名林檎と野球の一郎の対談もの。椎名は数多い現代女性歌手の中でも飛び抜けて個性的だと私は勝手に評価している人だが、今回は一郎の話。「(歳を取って)体に脂肪が付くのは仕方がない。心に脂肪が付いたらダメだ。」「私は自分を大事にする。自分を大事にしない人間は他人(ひと)も大事にできない。」・・・みたいなことをいつもはあまり見せない熱い表情で語っていた。

全くその通りだ。最も身近な存在である自分を大事にできない人間が他人を大事にできるわけがない。ところが、狭く内側に閉じた社会では、ほんとうに「自分を大事に」しながら生きようとする人間は、たいていは疎外され孤立する。

そのような社会集団を支えているのは「私たちも自分を抑え隠して生きているんだからあなたもそうしなさい・・・」というような、まあ云わば柵の中の羊の論理だ。ちょっと激しい用語を使うと、権力に従順な「奴隷の幸せ」ということになる。この姿勢が日本という島国で発展すると「海の文化・村の文化」の村の文化になるらしい。

それが過ぎると、教育でも政治でもあらゆる学問・産業の分野などでも、どれほど多くの害悪を成すかは、さほど遠くまで歴史を遡らなくても、現今の世相を観ればきわめて明らかなように思える。



昨夜は、女優の麻矢ゆきが案内する坂本竜馬の番組。途中からだがこれも面白かった。そして、結びに現れる竜馬の詩(うた)が「世の人は われをなんとも ゆはばいえ わがなするところは われのみぞしる」である。これもやはり、自分を大事にした人間の言葉である。

竜馬の業績は今ここに書くまでもないだろう。あるいは、時代を先駆する人間の宿命かもしれないが、自らの感性や考えや生き方を大切にしながら自信を持って自分らしく生きることは、どんな人にとっても楽しいことに違いないし、やろうと思えばできることである。というより、自然の中の生きものたちは皆、本来的にそうして生きているのだから、できない方がおかしいのだ。
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