織田が浜 その1 序
昨日は、織田が浜の南に続く唐子浜で、喫茶店を経営しているS君のカイト体験講習だった。風が今ひとつだったので、静かな別府の海を見ながら、1時間ほどいろいろなお話をした。その中で、彼のお店に以前住まわれていた、私とほぼ同年代のお父さんが、(あの)織田が浜問題の当時、東村の埋め立て反対派の一人としてご苦労されていたということを知った。
この地の、あの出来事については、幼い頃から渚(なぎさ)で育ち、単なる愛情以上のものを持つ私としても少し書いておきたいと思い、関係資料をいくらか集めて、さてそろそろ始めようか・・・と考えていた矢先である。ここでもまた不思議なご縁だ。
昨日は、織田が浜の南に続く唐子浜で、喫茶店を経営しているS君のカイト体験講習だった。風が今ひとつだったので、静かな別府の海を見ながら、1時間ほどいろいろなお話をした。その中で、彼のお店に以前住まわれていた、私とほぼ同年代のお父さんが、(あの)織田が浜問題の当時、東村の埋め立て反対派の一人としてご苦労されていたということを知った。
この地の、あの出来事については、幼い頃から渚(なぎさ)で育ち、単なる愛情以上のものを持つ私としても少し書いておきたいと思い、関係資料をいくらか集めて、さてそろそろ始めようか・・・と考えていた矢先である。ここでもまた不思議なご縁だ。
では、「バカの話」を改題して「織田が浜」につなげる。「バカ」と「ハマ」にどんな関係があるのかは後で分かるだろう。私の高校時代から現在に続くできごとの数々だから、相当に長い話になると思う。
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「織田が浜・埋立反対運動」・・・もう四半世紀以上前、あれほど広く話題になり、多くの方々の人生の明暗に関係した「自然保護運動」を、2019年の現在、どれほど多くの人が覚えているだろうか。あのころ私は30代で、海や空の世界に、単なる趣味を超えた領域で広く深く接しながら、この運動を遠くから見ていた。
この話には、数人の実名が登場する。私には忘れがたい方々で、まだご存命で現役の方もいれば、すでに亡くなった方もいる。最初に今治市に住む矢野君に登場してもらうが、まずは、「織田が浜・埋立反対運動」の概要を、現在、立教大学・社会学部教授の関礼子さん(博士)が、東京都立大学・博士課程でまとめた論文から、そのまま引用して紹介する。彼女のこの論文は、「自然」の意味そのものに迫ろうとする力作でもある。
「織田が浜埋立反対運動」の概要
愛媛県の北東部に位置する今治市は、 瀬戸内海に面した、人口約12万の地方中核都市である。この地は明治期から綿織物を中心とした工業地帯として、 また中国地方や九州、近畿とを結ぶ港湾都市として栄えていた。少なからず港に依存してきた今治市で、織田が浜埋立を含む第三次港湾建設が「問題」となる契機は、 1983年2月、今治市長が第三次港湾計画の促進を愛媛県知事に陳情したことだった。間題となった織田が浜は、今治市街から僅か2~3kmに位置し、幅50~70m、 長さ1.8 km にわたって続く遠浅の砂浜である。
市当局が貨物港建設のために埋立計画を進めていることが明らかになるや否や、織田が浜地元三地区(旧富田村下三地域)の喜田村、拝志、東村が反対の声をあげ、住民を中心とする運動を展開した。運動の中心的役割を果たしたのが 「織田が浜を守る会」(「守る会」と略称)である。「守る会」を中心とした運動の経過は以下のようなものである。
(1) 運動発生期: 運動の核となる「守る会」の結成、地元三地区から今治市全域への運動の拡大の時期(1983年2月~1984年3月)。「守る会」は、結成と同時に、1万人を目標とする署名運動を展開し、3月には目標を倍以上うわまわる20、745人の署名を添え、織田が浜保存の請願書を提出した。この請願は不採択となるが、「守る会」は署名活動を継続、 6月議会に新たに47、866人の署名と請願書を提出、継続審議に至った。
また、環境庁など関係各機関への陳情を行う一方で、諸団体の連合組織として「今治織田が浜を守る会」(同様に「守る会」と略称)を結成した(表1、 表2参照)。 運動行為者の主張は、 ①都市計画公園の埋立は許されない。②現市長の選挙公約に「東村等の白砂青松を積極的に保全する」とあり、 埋立は公約違反である、 ③貸物港が建設されて問もない時期に新たな貨物港を建設する必要はない、 ④アセスメントに不備がある、という点だった。
(2) 拡大期 :訴訟提訴から市長選挙、埋立起工式をはさんで第一審判決が下されるまで(1984年3月~1988年11月)。「守る会」は、世論の喚起とそれによる織田が浜保全を狙った運動の一環として、 全国規模で署名運動を展開するとともに、1984年3月には訴訟提起に踏み切った。裁判での請求の趣獅ヘ、、埋立計画地である東村海岸公園地先(織田が浜)埋立の公金支出差止で、その根拠は瀬戸内海の埋立に特別の配慮を求める「瀬戸内海環境保全特別措置法(瀬戸内法)」第13条および「公有水面埋立法」第4条の埋立免許基準違反である。
都市計画公園に指定されている海浜の現状変更=埋立の可否が、瀬戸内法を根拠として法廷に持ち込まれたはじめての裁判は、 1、000人を越える原告による住民訴訟として争われた (表3)。「守る会」は、裁判係争中も引き続き署名・陳情を続け、 1984年8月には中央港湾審議会から「異例の差戻し」答申を引き出したため、 市側は埋立位置を200m北西にずらす計画修正を行った。 1986年1月の市長選挙では、「守る会」の代表である飯塚芳夫が78歳の高齢で、しかも持病の発作で病院に人院したにもかかわらず、対立候補として立候補、現職市長35.868票に対し、 12.037票の批判票を獲得した。翌1987年の2月に飯塚は死去、 4月には埋立起工式が行われた。また8月に第17回自然保護織田が浜大会が開催された。翌年11月の地裁判決までが、反対運動のビークであった。
(3) 収縮期:第一審判決以降(1988年11月~1996年の現在まで)。埋立開始以降、織田が浜埋立反対運動は主に法廷闘争として展開された。1988年11月の第一審判決は、都市計画公園である織田が浜の海浜保全はなされるべきだが、 海浜保全地区においても埋立は許されるとして原告側訴えを棄却した。その後、控訴審判決(1991年5月)、最高裁判決(1993年9月)、高裁差戻し審判決(1994年6月)を経て、最高裁にて上告を棄却され (1995年7月)、 11年にわたる裁判は住民敗訴に終わった。1995年6月には埋立及び港湾建設工事が完了、 港湾施設の本格的使用が始まった(羽生1995: 14)。
(その2につづく)
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