2010年、五島列島の教会を訪ねた旅で出会った、五輪天主堂の衝撃は、今だ心の中で反芻されるほどのものでした。その折に書いたことですが・・
明治6年、キリスト教の禁令が解かれた日本。長崎・五島地区で日本人の手で建てられた最初期の天主堂として、明治14年の旧五輪天主堂、明治15年の立谷天主堂、江袋天主堂、そして明治12年の旧大明寺天主堂がありました。立谷、江袋は倒壊、焼失により既に無く、平成6年に明治村に移築された旧大明寺天主堂に会うこと・・これは、その頃からの夢でありました。
この建物は、明治12年に長崎湾の伊王島に建てられた教会堂です。フランス人宣教師プレル神父の指導のもと、伊王島の大工、大渡伊勢吉によって建てられたものと言われています。
昭和の終わり頃、既に老朽化が進行していた教会堂を明治村に移築することが決定。昭和20年代の増築である正面の鐘楼と土間も含めた修復、移築とされます。それは、見事な修復、移築であったと思わせられます。
外観は、木造単層切妻屋根、桟瓦葺き、普通の民家と変わりません。これは、長崎・五島地区の最初期の天主堂に共通に見られるもので、禁令が解かれて日が浅い時期の人の感情を反映したものと言われます。
内部に入れば、その印象は一転させられます。三廊式で正面に平面多角形の主祭壇。主廊部の天井は尖頭形8分割リブ・ヴォールト。側廊部は曲面とした棹縁天井。左側廊奥に、珍しい室内のルルドの祭壇を有します。
内部列柱間に二連アーチを用いることで、主廊の拡がりを確保するとともに、リブ・ヴォールトが空間に浮かんだような効果を生んでいるように思えます。
この教会堂は幸せです。明治村の最奥、入鹿池を望む高台に安住の地を与えられたように思われます。きっと、池の青い水は、あの長崎の伊王島の周囲の海を想い起こさせたことでしょう。(2012年4月)
「西海の教会堂を訪ねて(再録)」の最終回です。
明治6年、キリスト教の禁令が解かれた日本。長崎・五島地区で日本人の手で建てられた最初期の天主堂として、明治14年の旧五輪天主堂、明治15年の立谷天主堂、江袋天主堂、そして明治12年の旧大明寺天主堂がありました。立谷、江袋は倒壊、焼失により既に無く、平成6年に明治村に移築された旧大明寺天主堂に会うこと・・これは、その頃からの夢でありました。
この建物は、明治12年に長崎湾の伊王島に建てられた教会堂です。フランス人宣教師プレル神父の指導のもと、伊王島の大工、大渡伊勢吉によって建てられたものと言われています。
昭和の終わり頃、既に老朽化が進行していた教会堂を明治村に移築することが決定。昭和20年代の増築である正面の鐘楼と土間も含めた修復、移築とされます。それは、見事な修復、移築であったと思わせられます。
外観は、木造単層切妻屋根、桟瓦葺き、普通の民家と変わりません。これは、長崎・五島地区の最初期の天主堂に共通に見られるもので、禁令が解かれて日が浅い時期の人の感情を反映したものと言われます。
内部に入れば、その印象は一転させられます。三廊式で正面に平面多角形の主祭壇。主廊部の天井は尖頭形8分割リブ・ヴォールト。側廊部は曲面とした棹縁天井。左側廊奥に、珍しい室内のルルドの祭壇を有します。
内部列柱間に二連アーチを用いることで、主廊の拡がりを確保するとともに、リブ・ヴォールトが空間に浮かんだような効果を生んでいるように思えます。
この教会堂は幸せです。明治村の最奥、入鹿池を望む高台に安住の地を与えられたように思われます。きっと、池の青い水は、あの長崎の伊王島の周囲の海を想い起こさせたことでしょう。(2012年4月)
「西海の教会堂を訪ねて(再録)」の最終回です。
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