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秋の比治山

2014-10-26 | 日記

比治山と初めて聞いたのは受験の時。受験の付き添いで(にかこつけて旅行したかったので)広島に来た母が、呉の、自分の叔母夫婦を呼び出し、一緒に比治山に行ったと聞かされた。

こちらの学校時代にも何度か行ったが、平和大通りは川で終わり、京橋川には自転車と人が渡れるくらいの木造の橋が架かっていた。

比治山も総じて地味で、ご便殿あとはただの広場、その上の美術館付近も広場、陸軍関係の慰霊碑、陸軍関係の墓地などが点在する丘だった。

そうそう今でもある放射線影響研究所は初めはABCCと呼ばれ、原爆の医学的影響を長期間にわたって研究する施設。地震に備えて建物は、屋根と壁が一体になった半円形は建築当時から。アメリカ人の研究者が今もいるはず。

ご便殿というのは、日清戦争のときに明治天皇が滞在した建物を広島城内から移築したものだとかで子供たちもお参りしてたそうだけど、1945年8月6日の爆風で倒壊したんじゃなかったかしら。

子供三人、比治山麓の幼稚園でお世話になったので、ご便殿あとは遠足で馴染の場所。

この20年余りできれいに整備されたけど、その前は何となく寂れた感じの場所だった。

と、私と比治山の関わりはそんな感じかな。同居人と付き合ってた頃、歩いて比治山まで。細い橋を渡って、平和大通りまで。底のの薄いかかとの高い靴でよくも歩いたこと。そこはそれ、若さということで。体重だって今よりだいぶ軽いので足裏に掛かる重さも違う。

 などとつまらないことはさておき・・・

ずっとタヌキだと思っていたけど、リスかも。いや写真見たらやっぱりタヌキ。この手すりはずっと昔からある。

なぜか次男を思い出す。きっと昔、家族でここへ来て次男が何か言うかするかしたのだと思う。今はおじさんだけど、小さくて可愛かった。当たり前か。今夜顔見せることになってます。一月振りくらいかな。いくつになっても、おじさんでも息子は息子、心配するし、余計なことも言いそうになるし。。。。

車道はぐるりと回っておりますが、柵の付け根の隙間から広場へ入ると近道ができます。

比治山で好きな場所。

行くところのネタが切れたら五人で来てたように思う。今はもう五人で出かけることはない。当たり前なので、寂しくはないし、それぞれの生活をしていることを喜ぶこととしよう。

こんなんがあちこちに。誰も手入れしないので草が生えています。

こちらは現代美術館開館に合わせて置かれたオブジェ。ブロンズ製。

名残のヤブミョウガ

シロダモ

サザンカがもう咲いている。

山の反対側は原爆の被害がなかったので、うっそうとした森になっている。カシ、クロキ、クスノキ、カクレミノなど。

森閑とした道を歩くと、街中にいるのを忘れそう。

季節は、足早に秋から晩秋、冬へと急いでいるのでありました。

 

 

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「戦後日本住宅伝説」を鑑賞する

2014-10-26 | 日記

広島市現代美術館で12.7まで

家から比治山までチャリンコで。南麓に自転車停めてあとは山を登る。美術館まで10分くらいかな。

横から周り込みます。見えてきました。

完成は25年くらい前だったかな。その前は木がまばらに植わった広場だった。

展示は1953年丹下健三の住居から、1976年安藤忠雄の住吉の長屋まで16点。といっても現物は不可能なので、写真と設計図、模型などで。

各作品は一点ずつ、大型のタペストリーで展示しています。建物の雰囲気がよりリアルに実感できます。

右は美術館テラス。

清家清「私の家」 

仕切りのない大空間を、簡単な壁が緩やかに視線を遮る。ドアはない。

家の内外の床を同じ鉄平石で仕上げる。畳の床はキャスター付きの可動式で、庭にも持ち出せる。気持ちよさそう。

初め両親の住まいにする予定が「住みにくい」と断られ、建築家本人が住むようになったとか。

篠原一夫 「白の家」 昭和モダンの趣。実父が家業の傍ら、建築会社に勤めていたので、当時はこんな感じのパンフなどが家によくあった。

宮脇檀 「松川ボックス」吹き抜けの居間と二階の居室。開放的。

菊竹清訓 「スカイハウス」 部屋の周りにテラスを巡らす。

磯崎新 「新宿スカイハウス」

一階の広い居間。階段を上がって二階半分が居室。残りは広い吹き抜け。

同級生の家によく似ている。遊びに行ったのは1961年頃。この家の発表が1957年だから、こんな建て方がその後流行したのかもしれない。

家の中で視線が抜ける。南側の広い開口部から光が入り、20畳くらいの板張りの部屋。片隅に小さな台所。横に四畳半くらいの和室。彼女はトントンと階段を上がり、自分の部屋から必要なものを持ってまた降りてきた。

それが全部目で追える。

当時、こてこての伝統的な日本家屋に大家族で住んでいた中学生の私は、一人っ子の彼女の軽やかな生活が珍しかった。

あの家、今でもあるんだろうか。

坂本一成 「水無瀬の家」 コンセプトのないのがコンセプトという趣きの家。でも当時は出窓の連続というのも新しかったと思う。

伊藤豊雄 「中野本町の家」

建築家の姉と娘二人のための家。中庭を取り囲む半円形の家には、時刻によって光と影が刻々と形を変え、自然の感じられる心地よい空間になっている。

人に住んでほしくないということで壊され、現存しないとか。それも一つの考えだけど惜しいことをした。しかしこの建物の考え方は他の建築家にも影響を与えたと思われます。

石山修武 「幻庵」

空中に浮かぶカプセルは別荘として建てられた。屋根と壁が一体化して緩やかな曲線で表現されている。

中に居ると、繭の中のような安心感があったのかも。

黒川紀章 「中銀カプセルタワービル」

1972年建設当時、何かの番組で見た記憶がある。カプセルを積み重ねた近未来的ビル。とっても斬新だったと思う。

三畳くらいの空間に仕事の設備一式と、反対側はユニットバス。今のカプセルホテルの嚆矢?

オープンリールのテープレコーダー、ダイヤル式の電話機などが42年前という時代を感じさせる。

安藤忠雄 「住吉の長屋」

有名な建物。建てられた場所は下町の間口の狭い家がぎっしり並ぶ一帯。視線を遮り光と風を入れる。斬新な建物。

そして庭を挟んでお互いの部屋が見えるのがとても解放感がある。

高松の商店街にstepという外階段のビルがあったけど、今はもうないらしい。残念。でもgreen greenなどはその延長上の考えかも。


 

1953年から1976年までの20年余りは、日本が戦後復興を果たし、経済が高度成長した時代。

人が都市に集まり、空間的制約の中で、伝統を生かしつつ、より良い暮らしのための建築が求められた時代。どの建築家も、今という時代をどう解釈し、人が生活するためには何が必要かをいろいろと考えた、その足跡が分かってたいそう刺激的、かつ面白かった。

東京オリンピックの巨大な公共建築にも個人の家にも貫かれている時代の精神があるとしたなら、自由とか軽さ、発展への信仰、心地よさの追求かなと思った。

今は古い街並みがちょっとしたブームですが(わたしだけかもしれんが)、時代が自信を失い、とりあえず近代より前の揺るぎない時代へ回帰する風潮かなとも思う。

どの建築家も光、風、視線、家の中での動きやすさなどをとてもよく考えていると思う。さすが建築家と私が褒めるのも変な話ですが。

好きな家は清家清に磯崎新、開放的なのがいいと思う。土地が狭い場合は断然安藤忠雄。

吉田桂二の本で読んだけど、一つ一つの部屋を小さく区切ったのではどんな大豪邸でも広く感じられない。人は複数の部屋に同時にいるわけではないのだからというくだりがあった。

むしろ狭い家こそ小さく区切るのをやめて、広い空間で住みたいものと思った。

私はもう家を建てることもないだろうけど、23年前に増改築したとき、南北方向に窓を多く取り、居間も8畳から11畳+畳4.5畳へと広くした。今思ったらもっと広くしたらよかった。広い部屋が一つあると大勢で集まって安心。そして楽しい。

素晴らしい家をたくさん見て、元気が出た。また明日から頑張ろう。建築は絵画と違って耐用年数があるのが残念。

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