昨日は小田原ガイドになるための講習の11回目だった。
今回のお題は 小田原城 (画像は今年春)
戦国最大規模の中世城郭だったとのこと。
しかし現在の天守閣は江戸時代のものを再現しており、土で築かれた戦国時代のものとは違うらしい。
関西では当時でも石垣の城が大半だが、関東はまだ土塁だった。
砂質の関西は石垣で固めなければ崩れてしまうが、関東ローム層はカチカチになって崩れにくいから石垣は必要なかったとのこと。
講習では城の歴代変遷等を学んだが、小田原城といえばお城を中心に配された壁、総構(そうがまえ)だろう。
(以前に総構を歩いた記事は こちら )
壁は内側から 二の丸外郭・三の丸外郭・総構 の3重で、まるで ウォールシーナ・ローゼ・マリア だな。
武田信玄や上杉謙信の攻撃を退けた時期には三の丸外郭までしかなく、その外の城下町は略奪/陵辱の苦しみを受けた。
それに心を痛めた領主である北条氏は、長さ9kmに至る大外郭の総構で町ごと囲んだということだ。
その土塁はこのような構造。
攻撃側は堀底で動きを奪われ、守備側の矢の餌食になる運命しか残されていない。
ただでさえ登りにくいこの関東ローム層の法面に、水を撒くことで更に滑りやすくすることまで考えていたらしい。
この構えには当時破竹の勢いだった豊臣秀吉も力押しはできず、包囲戦を選ぶしかなかった。
これに100日耐えた北条氏も家臣と民のことを考え、自分と引き換えに無血開城を選んだとのこと。
早雲から氏直までの約100年に渡る後北条氏の終焉だ。
さて今回の講師は小田原城天守閣館館長。
この人ねえ、「俺がやった」とか「俺が身体をはって止めた」とかの自慢話が結構随所に。
それさえなけりゃ興味深い良い講習だったんだけど ねぇ
まあ良かった点は吸収し、気になるところは反面教師として自分を律していくとすればいっか。
そこまで含めると有意義な講習だったのかもね。
余話だけど、小柳ルミ子のデビュー曲「私の城下町」のジャケ写真はここ小田原城だったらしい。
格子戸を くぐり抜け 見上げる夕焼けの空に ~ ♪
俺は記憶あるけど、大半が知らない世代だろうな 今はね~