事務所の周りの水田に、おとといぐらいから水が引き込まれ始め、昨日ぐらいから田植えが始まった。
この付近の水田耕作のための水は、千鳥川の少し上流を、数箇所の可動堰でせき止めて溜めた水を、必要な季節にだけ、用水路を通じて配水することによって賄われている。
今年は、いまのところ、そのようにして配水するための水に困る事も無く、この付近では順調に田植えが行われつつある。
農家にとっては忙しい時期に入ったが、この季節になると、子どもの頃に感じた両親のことを思い出す。
私が中学生になるぐらいの頃までは、今のように田植え機もなく、稲の苗を苗床で育て、それをかがって、直径10cm程度の束にして、そのような苗の束を各水田まで運び、それを小分けにしながら、全て人力で手植えをしていた。
田植えの季節になると、親類に「加勢人」に来てもらい、苗床の苗かがりをやってもらったり、一枚の田んぼを数人がかりで、中腰のまま田植えをしたりと、とても忙しい日々が始まる。
母親は、朝早くから起き出して、朝食の準備をしたり、手洗いでの洗濯をしたりと、家事一般を済ませた後に、本題の田植えの作業をこなしたりと、休む間もなく働き続ける。
父親は、その日に植える予定の田んぼの代掻きなどで忙しく働きまわり、肉体を酷使せざるを得ない状況が続く。
子どもの私たちは、学校から帰ってからや、学校が休みの日には、必ず田んぼに出て田植えの手伝いをする。
そのような状況が三週間近く続いていた。
肉体を酷使しているものだから、その期間の途中から、両親の機嫌が悪くなり、子どもの私たちは、両親の顔色を伺いながら行動するような日々がしばらく続く。
そして自分の家の全ての田んぼの田植えが終わった日の夕食時に、父親がかならず言っていた言葉があった。
「今年も田植えん、よーよし終わっただい。こいでいつ死んでんよかだい。」と言うのが口癖で、ほっとした穏やかな表情でコップのビールを飲み干していた。
子どもの私としては、そんなに簡単に死なれては困ると、真剣に思ったものだった。
稲作を主体とする農業をしていた父親にとっては、田んぼに苗を植えてしまえば、あとは定期的な少しの管理作業の労働だけで、お日様と水などの自然が稲を育ててくれるという安心感から出ていた言葉であったのだろう。
古来よりの稲作の作業形態は、機械化によって様変わりしてきてはいるが、田植えが終わった時の心持は、昔と同じなのではないかと思う。
「いつ死んでんよかだい。」と言っていた父親は、20年前に59歳で他界した。
戦争にも徴兵され、機械化される前からの、きつい肉体労働の農業を営み、私たち子ども四人を育て上げてくれた、怒ると怖い父親だったが、少し早い旅立ちだったと思う。
しかし、父親が他界した当時、大阪で暮らしていた私と妻子は、父親の他界という出来事が無かったならば、このようにしてこの町で暮らしていたかどうかは分からない。
子育ても自然の多いこの町で出来た事が良かったと思えるし、何よりも自分の心が、父親をはじめ先祖が入っている墓を護っているということで安らぎがある。
田植えの季節になると、ついそのような事を思ってしまう。
豊田かずき
この付近の水田耕作のための水は、千鳥川の少し上流を、数箇所の可動堰でせき止めて溜めた水を、必要な季節にだけ、用水路を通じて配水することによって賄われている。
今年は、いまのところ、そのようにして配水するための水に困る事も無く、この付近では順調に田植えが行われつつある。
農家にとっては忙しい時期に入ったが、この季節になると、子どもの頃に感じた両親のことを思い出す。
私が中学生になるぐらいの頃までは、今のように田植え機もなく、稲の苗を苗床で育て、それをかがって、直径10cm程度の束にして、そのような苗の束を各水田まで運び、それを小分けにしながら、全て人力で手植えをしていた。
田植えの季節になると、親類に「加勢人」に来てもらい、苗床の苗かがりをやってもらったり、一枚の田んぼを数人がかりで、中腰のまま田植えをしたりと、とても忙しい日々が始まる。
母親は、朝早くから起き出して、朝食の準備をしたり、手洗いでの洗濯をしたりと、家事一般を済ませた後に、本題の田植えの作業をこなしたりと、休む間もなく働き続ける。
父親は、その日に植える予定の田んぼの代掻きなどで忙しく働きまわり、肉体を酷使せざるを得ない状況が続く。
子どもの私たちは、学校から帰ってからや、学校が休みの日には、必ず田んぼに出て田植えの手伝いをする。
そのような状況が三週間近く続いていた。
肉体を酷使しているものだから、その期間の途中から、両親の機嫌が悪くなり、子どもの私たちは、両親の顔色を伺いながら行動するような日々がしばらく続く。
そして自分の家の全ての田んぼの田植えが終わった日の夕食時に、父親がかならず言っていた言葉があった。
「今年も田植えん、よーよし終わっただい。こいでいつ死んでんよかだい。」と言うのが口癖で、ほっとした穏やかな表情でコップのビールを飲み干していた。
子どもの私としては、そんなに簡単に死なれては困ると、真剣に思ったものだった。
稲作を主体とする農業をしていた父親にとっては、田んぼに苗を植えてしまえば、あとは定期的な少しの管理作業の労働だけで、お日様と水などの自然が稲を育ててくれるという安心感から出ていた言葉であったのだろう。
古来よりの稲作の作業形態は、機械化によって様変わりしてきてはいるが、田植えが終わった時の心持は、昔と同じなのではないかと思う。
「いつ死んでんよかだい。」と言っていた父親は、20年前に59歳で他界した。
戦争にも徴兵され、機械化される前からの、きつい肉体労働の農業を営み、私たち子ども四人を育て上げてくれた、怒ると怖い父親だったが、少し早い旅立ちだったと思う。
しかし、父親が他界した当時、大阪で暮らしていた私と妻子は、父親の他界という出来事が無かったならば、このようにしてこの町で暮らしていたかどうかは分からない。
子育ても自然の多いこの町で出来た事が良かったと思えるし、何よりも自分の心が、父親をはじめ先祖が入っている墓を護っているということで安らぎがある。
田植えの季節になると、ついそのような事を思ってしまう。
豊田かずき