先日、坂戸のふるさとの湯で読んだ『読売新聞』のコラムで山形県上山(かみのやま)市の山元中学校が3月22日に閉校することを知りました。
私たちの世代の人なら記憶にある「山びこ学校」が姿を消していくのです。日本中、至る所で進行している過疎・少子高齢化の現実がもたらしたものですが、ぼくのようなものにもさびしさを感じさせます。無着成恭(むちゃくせいきょう)と山元中学校の生徒たちが精一杯作り上げた学びの精神は「ふるさと」が滅びていく今こそ、省みられるべきではないかと思われます。
「毎日新聞」(09年3月6日・山形版)の記事です。
「山びこ」の響きは…:半世紀経た山元中学校、冬から春/1
◇古里・山元を知る--地区調べ「誇り持たねば」
人間のねうちというものは、「人間のために」という一つの目的のため、もっとわかりやすくいえば、「山元村のために」という一つの目的をもって仕事をしているかどうかによってきまってくるものだということを教えられたのです。(無着成恭編「山びこ学校」より)
風も冷たくなった昨年11月中旬の上山市山元地区。狸森(むじなもり)集落の山元中体育館は、ソバの香りと、地区の住民数を上回る約500人の熱気に包まれた。「でわかおり」の収穫に合わせ、新ソバを味わう「山元そば祭り」。今年で25回を数える。
主婦に交じり、配ぜんや呼び込みを手伝った山元中3年の3人は集まった人に呼びかけた。「『ふるさと山元を知る』の発表を始めます」
00年に始まった総合学習。今まで古代米や雑穀を育て、文化祭で振る舞っていたが、今年3月の閉校を前に「地区を見つめ直そう」と調べた。生徒が3人だけのため文化祭が中止され、発表の舞台がそば祭りに移った。
江口奈々恵さん(15)は「山元の食」を調べた。農家から話を聞き、食用ほおずきケーキとワラビおこわを作った。「料理しても素材の味が感じられる」とまとめた。
「山元の緑」を調べたのは伊藤亜子さん(15)。植林された杉が多く、近年の国産材の需要減で手入れする人も激減した現状を知った。「このままでは山が荒れてしまう」と警鐘を鳴らした。
「緑は豊かで人は温かい。でも、携帯は通じず店は遠い。大人は地区をどう感じているのだろう」。田代耕大君(15)は「山元で生きる人」をテーマに大人に聞いて回った。「東京は便利だが水も空気もまずい。山元は不便だが畑で汗をかいてもおいしい水が飲める」「農林業はすべての土台だ」。みな誇りを持っていた。「一生暮らすつもりさ」の言葉に「僕も誇りを持たなければ」と思った。
「山びこ学校」で、山元村のために仕事をすることが大切と学んだ当時の子供の何人かが、その通りに仕事を続け、今の子供たちに誇りを伝えた。
かっぽう着姿で聴き入った中ノ森集落の団体職員、大宮裕子さん(48)は「地区には良さもあるし、課題もある。それを考えてくれて頼もしいし、うれしかった」と話した。白壁忠彦校長(54)は「生徒たちは地域から学んできた。地域にお返しをしたかった」と語る。
ずっと山元地区で育った3人。改めて気付いた地区の良さを胸に、4月から山形市の高校に進む。
◇ ◇
「山びこ学校」の舞台・山元村立(現上山市立)山元中学校は22日に閉校する。冬から春の山元地区を訪ねた。【細田元彰】=つづく
出典http://mainichi.jp/area/yamagata/news/20090306ddlk06040124000c.html
ぼくは手術後の抗ガン剤治療が一段落した06年5月、待ちかねたように山形に連れて行って貰い、偶然、「山びこ学校」を訪ねることが出来ました。当時の記事です。(『木苺』128号 06・7)
列島ところどころ ⑫ 山びこ学校
鈴木啓介(新宿山吹高校)
5月18日から山形県の置賜(おきたま)地方に連れて行ってもらった。飯豊(いいで)町の「源流の森センター」では〈草木塔〉というものの存在を知った。草木にも魂が宿るという信仰(?)から森林を伐採したあとに建てたものらしい。置賜という地名がアイヌ語に由来するというという説と共に自然と共に生きてきたこの地方の人々の精神世界を垣間見るようで興味深かった。
20日、蔵王に向かう途中で、車窓に〈山元〉という標識が見えたような気がして、車を止めてもらった。近くに山元小中学校があった。地図でどんなに探しても見あたらなかった、あの「山びこ学校」に偶然、行き当たったのだ。ぼくは「山元」という学校の名前さえ忘れていて、上山市の地図とにらめっこすれば思い出すかとやってみたがダメだった。山元村が消えてから山元という固有名詞は地図のうえから消えていたのだ。
興奮がまださめないうちに狭い校地内を探索してみたが「山びこ学校」のしるしは見つからず、歴史の彼方に消されてしまったのかと思った。この日は土曜日で、ものをたずねる人影もない。車に帰ろうとして学校の入り口にきたとき、尊徳像のそばに大きな石があるのに気づいた。
それが「〈きかんしゃ〉から起つ鳥」と命名された山びこ学校の記念碑だったのだ。片方の面に「2004年8月吉日 無着成恭」の署名入りで『〈山びこ学校〉の合い言葉』が刻まれている。
おれたちはきかんしゃだ きかんしゃの子どもは
いつも力を合わせていこう かげでこそこそしないでいこう
いいことは進んで実行しよう 働くことがいちばんすきになろう
なんでもなぜ?と考える人になろう
いつでももっといい方法がないか探そう
もう一方の面には佐藤清之助さんの〈山〉。
私は学校よりも山がすきです
それでも字が読めないと困ります
そばに〈山びこ学校の碑について〉という説明文の石碑もある。
文集〈山びこ学校〉は、昭和二十六年三月に青銅社から発行されました。この本は昭和二十三年四月、山元中学校に入学した四十三人の生徒が、師範学校を出てはじめて教師になった当時二十一歳の無着成恭先生の指導のもとで三年間にわたってつくられた学級文集〈きかんしゃ〉(全十五号)を底本にして編集されたものです。
その頃の日本は敗戦という憂き目にあい、経済的にも文化的にもたいへん貧しく、学校教育も混乱の中にありました。一方で新しく始まった〈民主主義〉が新鮮な響きを持って迎えられた時代でもありました。そうした世相の中で刊行された〈山びこ学校〉は、新たな日本を構築する独創的な教育の実践として広く報道され、映画化されたり、中国語や英語に翻訳されるなどして、外国にも紹介されました。
そして半世紀を過ぎた今日でも〈戦後民主主義教育の記念碑〉といわれ、多くの人に読み継がれています。この碑はその意義と足跡を後世に伝えるだけにとどまらず、新しい世代に向けての日本の教育や文化、そしてこの地域、山元の発展の礎となることを願い建立したものです。
なお〈碑〉に刻んである六つのことばは〈きかんしゃ〉の創刊号に掲載された無着先生の詩の中にあるもので〈山びこ学校〉のすべてを貫く精神であり信条ともいえるものです。 平成十六年(2004)八月
ぼくは感動に浸りながらこれらのモニュメントを建てたのは誰かという疑問にとりつかれた。説明文の下方に『〈きかんしゃ〉の同人』として43人の姓名が当時の姓のまま刻まれている石版があるのでこれらの人々なのであろうか。教育委員会や学校はどういう風に関与したのだろう。
そんなとき自転車に乗った一人の少年が近づいてきて挨拶してくれた。43人の一人、江口俊一さんの孫で昴志君といい、小5だという。
今春から山元小学校は休校となり、今は別の学校に通っていること、中学も近く休校となる見込みであることを教えてくれた。冬の雪の深さや友達のことを語る昴志君の表情や仕草は恥じらいを含みながらも聡明さを感じさせ、今時こんな子供がいるのかとぼくは心から嬉しくなった。
ぼくらが学校に近い谷間の村を車で一周して帰ろうとするときに自転車でまたあらわれて見送ってくれた。昴志君にあって山形の旅はぼくにとって印象深いものとなった。
うちに帰ってから新宿区立の図書館にある山びこ学校に関わる本を借りて読んでみた。『山びこ学校』(角川文庫),『遠い〈山びこ〉―無着成恭と教え子たちの四十年』(佐野真一著 文芸春秋社)、『山びこ学校ものがたり―あの頃、こんな教育があった』(佐藤籐三郎著 清流出版)、『続山びこ学校』(無着成恭著 むぎ書房)。
ぼくは山びこ学校について何も知っていなかった。そして、無着成恭と43人の子供たちの3年間の営為に深く感動した。子供たち一人一人が生活の現実を刻んだ作文を教材として認識を共有し、深め、解決のための行動を模索する。子供たち一人一人の生活の現実ときり結ぶ無着の生き方は子供たちの大きな励ましになり、生き方を考える原点になったのだろう。
40年たち、50年たち、無着成恭の実践の不充分さを指摘する人もこの人と出会うことの出来た喜びを隠そうとはしていない。ぼくは教員生活を終えようとするときに山びこ学校と出会った。もう少し早かったらという思いがある。刺激にもなり、点検軸にもなる〈戦後民主主義教育の記念碑〉である。
※ここまで書き終えてから本棚の奥に百合出版(1966年5月10日第9版)の『山びこ学校』を発見した。1966年2月27日の『朝日ジャーナル』の記事(「山びこ学校」杉浦明平)がはさみこまれているところを見ると、大島高校に就職した年に読んだものと思われる。横戸惣重「私たちが大きくなったとき」の「私の家には財産があり、機械があるというだけで、頭を下げられたり頼まれたりするのだ」のところに線が引いてある。今回も同じところに線を引いたのである。
明日の閉校式には無着さんや山びこ学校のリーダーだった佐藤籐三郎さんなども参列されるのでしょうか。これらの人々の友と村と社会を思い、どう生きたらよいかを考え、自分たちに出来ることに挑戦し続けた営みは、学ぶとはどういうことかと問う人々にヒントと励ましを与え続けるに違いありません。
私たちの世代の人なら記憶にある「山びこ学校」が姿を消していくのです。日本中、至る所で進行している過疎・少子高齢化の現実がもたらしたものですが、ぼくのようなものにもさびしさを感じさせます。無着成恭(むちゃくせいきょう)と山元中学校の生徒たちが精一杯作り上げた学びの精神は「ふるさと」が滅びていく今こそ、省みられるべきではないかと思われます。
「毎日新聞」(09年3月6日・山形版)の記事です。
「山びこ」の響きは…:半世紀経た山元中学校、冬から春/1
◇古里・山元を知る--地区調べ「誇り持たねば」
人間のねうちというものは、「人間のために」という一つの目的のため、もっとわかりやすくいえば、「山元村のために」という一つの目的をもって仕事をしているかどうかによってきまってくるものだということを教えられたのです。(無着成恭編「山びこ学校」より)
風も冷たくなった昨年11月中旬の上山市山元地区。狸森(むじなもり)集落の山元中体育館は、ソバの香りと、地区の住民数を上回る約500人の熱気に包まれた。「でわかおり」の収穫に合わせ、新ソバを味わう「山元そば祭り」。今年で25回を数える。
主婦に交じり、配ぜんや呼び込みを手伝った山元中3年の3人は集まった人に呼びかけた。「『ふるさと山元を知る』の発表を始めます」
00年に始まった総合学習。今まで古代米や雑穀を育て、文化祭で振る舞っていたが、今年3月の閉校を前に「地区を見つめ直そう」と調べた。生徒が3人だけのため文化祭が中止され、発表の舞台がそば祭りに移った。
江口奈々恵さん(15)は「山元の食」を調べた。農家から話を聞き、食用ほおずきケーキとワラビおこわを作った。「料理しても素材の味が感じられる」とまとめた。
「山元の緑」を調べたのは伊藤亜子さん(15)。植林された杉が多く、近年の国産材の需要減で手入れする人も激減した現状を知った。「このままでは山が荒れてしまう」と警鐘を鳴らした。
「緑は豊かで人は温かい。でも、携帯は通じず店は遠い。大人は地区をどう感じているのだろう」。田代耕大君(15)は「山元で生きる人」をテーマに大人に聞いて回った。「東京は便利だが水も空気もまずい。山元は不便だが畑で汗をかいてもおいしい水が飲める」「農林業はすべての土台だ」。みな誇りを持っていた。「一生暮らすつもりさ」の言葉に「僕も誇りを持たなければ」と思った。
「山びこ学校」で、山元村のために仕事をすることが大切と学んだ当時の子供の何人かが、その通りに仕事を続け、今の子供たちに誇りを伝えた。
かっぽう着姿で聴き入った中ノ森集落の団体職員、大宮裕子さん(48)は「地区には良さもあるし、課題もある。それを考えてくれて頼もしいし、うれしかった」と話した。白壁忠彦校長(54)は「生徒たちは地域から学んできた。地域にお返しをしたかった」と語る。
ずっと山元地区で育った3人。改めて気付いた地区の良さを胸に、4月から山形市の高校に進む。
◇ ◇
「山びこ学校」の舞台・山元村立(現上山市立)山元中学校は22日に閉校する。冬から春の山元地区を訪ねた。【細田元彰】=つづく
出典http://mainichi.jp/area/yamagata/news/20090306ddlk06040124000c.html
ぼくは手術後の抗ガン剤治療が一段落した06年5月、待ちかねたように山形に連れて行って貰い、偶然、「山びこ学校」を訪ねることが出来ました。当時の記事です。(『木苺』128号 06・7)
列島ところどころ ⑫ 山びこ学校
鈴木啓介(新宿山吹高校)
5月18日から山形県の置賜(おきたま)地方に連れて行ってもらった。飯豊(いいで)町の「源流の森センター」では〈草木塔〉というものの存在を知った。草木にも魂が宿るという信仰(?)から森林を伐採したあとに建てたものらしい。置賜という地名がアイヌ語に由来するというという説と共に自然と共に生きてきたこの地方の人々の精神世界を垣間見るようで興味深かった。
20日、蔵王に向かう途中で、車窓に〈山元〉という標識が見えたような気がして、車を止めてもらった。近くに山元小中学校があった。地図でどんなに探しても見あたらなかった、あの「山びこ学校」に偶然、行き当たったのだ。ぼくは「山元」という学校の名前さえ忘れていて、上山市の地図とにらめっこすれば思い出すかとやってみたがダメだった。山元村が消えてから山元という固有名詞は地図のうえから消えていたのだ。
興奮がまださめないうちに狭い校地内を探索してみたが「山びこ学校」のしるしは見つからず、歴史の彼方に消されてしまったのかと思った。この日は土曜日で、ものをたずねる人影もない。車に帰ろうとして学校の入り口にきたとき、尊徳像のそばに大きな石があるのに気づいた。
それが「〈きかんしゃ〉から起つ鳥」と命名された山びこ学校の記念碑だったのだ。片方の面に「2004年8月吉日 無着成恭」の署名入りで『〈山びこ学校〉の合い言葉』が刻まれている。
おれたちはきかんしゃだ きかんしゃの子どもは
いつも力を合わせていこう かげでこそこそしないでいこう
いいことは進んで実行しよう 働くことがいちばんすきになろう
なんでもなぜ?と考える人になろう
いつでももっといい方法がないか探そう
もう一方の面には佐藤清之助さんの〈山〉。
私は学校よりも山がすきです
それでも字が読めないと困ります
そばに〈山びこ学校の碑について〉という説明文の石碑もある。
文集〈山びこ学校〉は、昭和二十六年三月に青銅社から発行されました。この本は昭和二十三年四月、山元中学校に入学した四十三人の生徒が、師範学校を出てはじめて教師になった当時二十一歳の無着成恭先生の指導のもとで三年間にわたってつくられた学級文集〈きかんしゃ〉(全十五号)を底本にして編集されたものです。
その頃の日本は敗戦という憂き目にあい、経済的にも文化的にもたいへん貧しく、学校教育も混乱の中にありました。一方で新しく始まった〈民主主義〉が新鮮な響きを持って迎えられた時代でもありました。そうした世相の中で刊行された〈山びこ学校〉は、新たな日本を構築する独創的な教育の実践として広く報道され、映画化されたり、中国語や英語に翻訳されるなどして、外国にも紹介されました。
そして半世紀を過ぎた今日でも〈戦後民主主義教育の記念碑〉といわれ、多くの人に読み継がれています。この碑はその意義と足跡を後世に伝えるだけにとどまらず、新しい世代に向けての日本の教育や文化、そしてこの地域、山元の発展の礎となることを願い建立したものです。
なお〈碑〉に刻んである六つのことばは〈きかんしゃ〉の創刊号に掲載された無着先生の詩の中にあるもので〈山びこ学校〉のすべてを貫く精神であり信条ともいえるものです。 平成十六年(2004)八月
ぼくは感動に浸りながらこれらのモニュメントを建てたのは誰かという疑問にとりつかれた。説明文の下方に『〈きかんしゃ〉の同人』として43人の姓名が当時の姓のまま刻まれている石版があるのでこれらの人々なのであろうか。教育委員会や学校はどういう風に関与したのだろう。
そんなとき自転車に乗った一人の少年が近づいてきて挨拶してくれた。43人の一人、江口俊一さんの孫で昴志君といい、小5だという。
今春から山元小学校は休校となり、今は別の学校に通っていること、中学も近く休校となる見込みであることを教えてくれた。冬の雪の深さや友達のことを語る昴志君の表情や仕草は恥じらいを含みながらも聡明さを感じさせ、今時こんな子供がいるのかとぼくは心から嬉しくなった。
ぼくらが学校に近い谷間の村を車で一周して帰ろうとするときに自転車でまたあらわれて見送ってくれた。昴志君にあって山形の旅はぼくにとって印象深いものとなった。
うちに帰ってから新宿区立の図書館にある山びこ学校に関わる本を借りて読んでみた。『山びこ学校』(角川文庫),『遠い〈山びこ〉―無着成恭と教え子たちの四十年』(佐野真一著 文芸春秋社)、『山びこ学校ものがたり―あの頃、こんな教育があった』(佐藤籐三郎著 清流出版)、『続山びこ学校』(無着成恭著 むぎ書房)。
ぼくは山びこ学校について何も知っていなかった。そして、無着成恭と43人の子供たちの3年間の営為に深く感動した。子供たち一人一人が生活の現実を刻んだ作文を教材として認識を共有し、深め、解決のための行動を模索する。子供たち一人一人の生活の現実ときり結ぶ無着の生き方は子供たちの大きな励ましになり、生き方を考える原点になったのだろう。
40年たち、50年たち、無着成恭の実践の不充分さを指摘する人もこの人と出会うことの出来た喜びを隠そうとはしていない。ぼくは教員生活を終えようとするときに山びこ学校と出会った。もう少し早かったらという思いがある。刺激にもなり、点検軸にもなる〈戦後民主主義教育の記念碑〉である。
※ここまで書き終えてから本棚の奥に百合出版(1966年5月10日第9版)の『山びこ学校』を発見した。1966年2月27日の『朝日ジャーナル』の記事(「山びこ学校」杉浦明平)がはさみこまれているところを見ると、大島高校に就職した年に読んだものと思われる。横戸惣重「私たちが大きくなったとき」の「私の家には財産があり、機械があるというだけで、頭を下げられたり頼まれたりするのだ」のところに線が引いてある。今回も同じところに線を引いたのである。
明日の閉校式には無着さんや山びこ学校のリーダーだった佐藤籐三郎さんなども参列されるのでしょうか。これらの人々の友と村と社会を思い、どう生きたらよいかを考え、自分たちに出来ることに挑戦し続けた営みは、学ぶとはどういうことかと問う人々にヒントと励ましを与え続けるに違いありません。