20日(祝)に長野県木島平村の高山すみ子さんから電話がありました。『きいちご』が届いたのです。
高社郷開拓団集団自決事件の際、奇跡的に生き残った方です。私たちが5月9日に訪ねるのを心待ちにしてくれているようです。
お話をしているうちにいろいろなことがわかってきました。ぼくがこのブログで紹介した福島(飯山市)はお祖母ちゃんのふるさとだったのです。
昭和16年(ぼくが生まれた年、「大東亜戦争」を始めたのは12月8日)満州に渡るまで住んでいたそうです。小学校は今の東小です。菜の花公園のある丘に建つ学校です。高等小学校を終えるまで長い道のりを通ったと言います。
ぼくが何度も訪ねたことがあり、こんど皆さんを案内しようとしている”ふるさと”の原風景とは高山さんの故郷そのものだったのです。
「おらが案内したい」となんどもおっしゃってくれました。映画『阿弥陀堂だより』は見たかとも聞かれました。
第9回移動教室の現地ガイドは86歳になられた高山すみ子さんがやってくれます。こんな豪華な旅がどこにあるというのでしょう。
佐渡開拓団跡地での高社郷開拓団集団自決事件は満蒙開拓団にかかわる無数の悲劇の中でも取り立てて知られている歴史的事件であるようです。
山崎豊子さんの小説『大地の子』にも紹介されているそうです。この間の事情を書かれた「棄民」という文章があります。長くなりますが紹介します。
高山さん自身が書かれた本もあります。図書館で読めるかも知れません。
『ののさんになるんだよー満蒙開拓奈落の底から』日本図書センター刊行
棄民
1
敗戦後、侵攻したソ連によって武装を解除された日本軍兵士約60万人は、シベリアの強制収容所へ送られ、悲惨な年月を過ごしたことは前号に書いた。
一方、いちはやくソ連軍が国境を越えたという情報をつかんだ関東軍将校たちは、民間人には知らせずに、家族もろとも飛行機や列車で新京から通化に移った。移動したのではなくて逃げ出したのである。すでに大部分の関東軍も朝鮮半島との国境沿いに後退していた。
民間人155万人は、無防備のまま中国東北部(満州と当時呼んでいた地方)の奥地にとり残された。日本軍のうちで最強部隊とされた関東軍の一部は、負け戦の続く太平洋方面の戦力を補うために太平洋の島々に回されていた。その結果弱体化してしまった関東軍の員数合わせとして、当地の民間人の成人男子は、兵士として前年に徴兵されて、留守宅には老人と女子供だけしかいなかったという。
日本は、いつの時代でも、一般民衆は特権階級の犠牲にされてきたのだ。
2
ソ連国境に近い日本人の一開拓村に住む、松本勝男という国民学校1年生の少年を主人公とした山崎豊子の長編小説『大地の子』 (新潮文庫)は、ソ連軍の侵入から物語をはじめる。
ソ連侵入の非常サイレンによって、祖父、母、5歳と1歳半の2人の妹、そして彼の一家5人の逃避行が始まった。当初、彼の家族を含め、230名ほどの開拓村の人々は近くの関東軍基地を頼って行ったが、そこはすでにもぬけの殻だった。そこで無防備のまま170キロ離れた勃利に徒歩で向かった。勝男は5歳の妹を、母親は末の子を紐で背中にくくりつけて、敵軍に見つからぬように山中を進んでいったが、それは難渋をきわめていた。途中、末の子の息が絶えた。進むにつれ次第に敵の銃声が近づいてきた。幼い子供の泣き声が敵に発見されやすいので、5歳以下の子供たちは首を絞められて置き去りにされた。やがて祖父も息絶えた。
大きな川は、敵の追撃を阻むために、日本軍の手で橋を破壊されて渡れない。やむを得ずロープにすがって川を渡った。激流にのまれて流されてゆく者もいた。15日目に勃利に近く佐渡開拓団の住む村に入ったが、すでにそこには3000人以上の避難民がいる。周囲はすっかりソ連軍に包囲されていた。8月27日、ついに敵兵の攻撃が始まった。
「あ! またソ連兵が来るぞ、今度はもっと多勢だ!」
若い男が云うと、2人の女が、
「お願いです、その銃で撃ち殺して!」
と哀願した。土塀の外に、キラキラと無数に光る鉄カブトが迫って来た。男は、バーン、バーンと2人の女を撃ち殺した。
「兄ちゃん、僕も殺して!」
勝男も、頼んだ。
「弾が一発しかない、お前は子供だから、大丈夫だろう」
と云うなり、男は、銃口を顎の下に当て、
「天皇陛下、万歳!」
と叫んで、足で引金をひいた。その銃声と同時に、ソ連兵たちは銃を乱射しながら続々と土塀をよじのぼって来た。勝男は今、死んだ男の死体の下に隠れた。生あたたかい血や脳味噌が頭にかかって来、唇に塩酸っぱいものが流れ込んで来、腹も足もぬるぬるとした。
気がつくと、同じ開拓村の者はほとんど死んでいた。生存者はわずかに顔見知りのおじさんと妹のあつ子と彼の3人だけだった。妹はひどい火傷を負っていた。やがて中国の農民がどこからともなく現れて、別々の男が3人を引き取ってゆく。こうして兄妹がそれぞれちがった運命を生きてゆくのであった。……
この小説は架空の話ではない。作者の山崎豊子は、事実だけにもとづいてこの小説を書いた。
3
彼女がこの大作を創作する際の資料の一つにしたかと思われる文章がある。「歴史と人物」昭和61年冬号に掲載された門脇朝秀「証言 惨!佐渡開拓団跡事件」である。それによると、小説の主人公勝男たちの開拓団一行が佐渡開拓団跡にたどり着いた8月24日には、すでに5つの開拓団、3千人ほどの民間人が集まっていた。彼らがどんな最期を遂げたのかを、その記事のなかの幾人かの証言が明らかにしてくれる。
万金山高社郷開拓団に所属する滝沢隆四郎は次のように証言する。この開拓団600名がこの地に着いた23日夕方近くに、不時着したソ連の偵察機一機を一部の団員が焼いてしまうという事件が起こった。ソ連軍は報復攻撃をしかけてくるだろう。そうかといって、安全な所に逃げるだけの余力はなかった。追い詰められた一行は集団自決の道を選ぶ。次の証言はなんとも哀れを誘う。
誰が持っていたのか、母親と子供たちには薄く口紅が塗られていた。一方、流れ出る血の海に足をとられながら、逃げようとする子供に銃を向ける若い父親。何もわからずに振り向いて父親を見る幼い姉妹。こうして馬小屋に積まれた死体はこの団だけで514体に達した。
開拓団とは何だったのか。昭和不況の真っ只中の1936年(昭和11年)に、日本政府は、満州国へ20年間で100万戸を移住させ、人口の10パーセントを日本人で占めようとする計画を発表した。それも、同一地方出身者で一移住村をつくらせようとしたのである。その計画の裏側には、農家の次男・三男対策というか、農村の過剰人口の解消という狙いもあった。その計画に協力した県には補助金を出すという。その頃貧しかった長野県は、補助金欲しさに、率先して開拓村をつくった。『大地の子』の主人公勝男が所属した開拓団信濃郷は、長野県の南信濃郷開拓団をモデルにした。
4
『大地の子』にふたたびもどろう。
一家が逃避行していた最中、息絶え絶えの祖父が嫁と勝男を手招きしてこう言った。
わしは、もう助からん、タキエ(嫁)と勝男に詫びたいんじゃ、一家を挙げて満州へ移ろうと云い出し、しぶる息子を説き伏せて、開拓団に加わったのは、このわしのせいじゃ、お前たちの将来のため、お国のためと思うてのことが、今、国からは見捨てられ、お前たちをこんな酷い目に遭わせてしもうた、息子は現地召集、嫁と孫たちまで、生き地獄にさらしてしもうたが、……
やがて、祖父は、骸骨のように痩せた体を異国の寂しい草原の木陰の下に横たえたまま死んでいった。
『大地の子』を読みながら、日本という国は、開拓団をつくって異郷の地へ送っておきながら、いざという土壇場では彼らを見捨ててしまったという重い事実に、頭を抱えてしまった。そのことがどうにも理解できなかったし、やり切れなかった。
事実をもっと深く確かめようとして昭和史関係の本を読みだした。当時の指導者たちはなぜそんな非道なことをしたのか。私はそのことにいつまでもこだわってしまった。ところが、前号で紹介した半藤一利『ソ連が満州に侵攻した夏』のある箇所を目にした時、思わず絶句してしまった。
ヨーロッパの戦史を開いてみるとわかるが、敗戦を覚悟した国家や軍が真先に行うべきことは、非戦闘民の安全を図ることである。あのヒトラーでさえソ連軍の侵攻から自国の非戦闘民を救うために、200万人もの民を4ヶ月も以前から陸・海・空全軍を使って安全地帯へと移送させていたのである。日本はなぜそうしなかったのか。著者は、日本の国や軍の指導者の考え方には「民を救う」という発想はなかったと言い、こう分析する。
日本の場合は、国も軍も、そうしたきびしい敗戦の国際常識にすら無知であった。だが、考えてみれば、日本の軍隊はそのように形成されていなかったのである。国民の軍隊ではなく、天皇の軍隊であった。国体護持軍であり、そのための作戦命令は至上であった。
『大地の子』の主人公勝男とあつ子は、中国人に引き取られてからどう生きていったのだろう。
5
中3の国語の教科書「国語 3」 (光村図書)に「お辞儀する人」という安西均の詩が載っている。この詩は、中国残留孤児の存在を私たちに知らせる。「だれにともなく深く一礼」する劉桂琴さんの「お辞儀」を前にして、私は絶句するばかりである。
お辞儀する人
安西均
中国残留孤児の第7次訪日団45人は、3月3日(昭和60年)
午前十時十分、成田空港から日航横で中国へ戻って行った。
それを報道する翌日の朝刊の写真には―
めいめい手を振って別れの
挨拶をする、一行から少し離れ、
床に手荷物の紙バリクを置き、
こちらに向って、深々と
頭を下げてゐる女のひと。
劉桂琴さんといふそうだ。
推定(何と悲しい文字だらう)
前夜、叔父と名乗る人が、空港へ
駆けつけてきたが、別人だった。
記者団の質問に「日本が私の生みの親、
中国が育ての親です」と答えたきり、
深夜、ホテルの自室で、大好きな
ハルピンの民謡を歌ってゐたそうだ。
桂琴さんの写真に添へて「だれにともなく
深く一礼」と説明がある。だれにともなく!
こんなにも美しく、哀しいお辞儀の姿を、
私はかつて見たことがない、ただの一度も。
私は思わず胸のうちで、この姿に
会釈を返す。このひとが戻っていく国の言葉で
〈再見(ツアイチェン)〉と言ひたい気がする。
東京の空までが、春近い気配にうるみ、
じっと雨を耐へてゐる朝だ。
出典http://ogaki.web.infoseek.co.jp/motto29.htm
高社郷開拓団集団自決事件の際、奇跡的に生き残った方です。私たちが5月9日に訪ねるのを心待ちにしてくれているようです。
お話をしているうちにいろいろなことがわかってきました。ぼくがこのブログで紹介した福島(飯山市)はお祖母ちゃんのふるさとだったのです。
昭和16年(ぼくが生まれた年、「大東亜戦争」を始めたのは12月8日)満州に渡るまで住んでいたそうです。小学校は今の東小です。菜の花公園のある丘に建つ学校です。高等小学校を終えるまで長い道のりを通ったと言います。
ぼくが何度も訪ねたことがあり、こんど皆さんを案内しようとしている”ふるさと”の原風景とは高山さんの故郷そのものだったのです。
「おらが案内したい」となんどもおっしゃってくれました。映画『阿弥陀堂だより』は見たかとも聞かれました。
第9回移動教室の現地ガイドは86歳になられた高山すみ子さんがやってくれます。こんな豪華な旅がどこにあるというのでしょう。
佐渡開拓団跡地での高社郷開拓団集団自決事件は満蒙開拓団にかかわる無数の悲劇の中でも取り立てて知られている歴史的事件であるようです。
山崎豊子さんの小説『大地の子』にも紹介されているそうです。この間の事情を書かれた「棄民」という文章があります。長くなりますが紹介します。
高山さん自身が書かれた本もあります。図書館で読めるかも知れません。
『ののさんになるんだよー満蒙開拓奈落の底から』日本図書センター刊行
棄民
1
敗戦後、侵攻したソ連によって武装を解除された日本軍兵士約60万人は、シベリアの強制収容所へ送られ、悲惨な年月を過ごしたことは前号に書いた。
一方、いちはやくソ連軍が国境を越えたという情報をつかんだ関東軍将校たちは、民間人には知らせずに、家族もろとも飛行機や列車で新京から通化に移った。移動したのではなくて逃げ出したのである。すでに大部分の関東軍も朝鮮半島との国境沿いに後退していた。
民間人155万人は、無防備のまま中国東北部(満州と当時呼んでいた地方)の奥地にとり残された。日本軍のうちで最強部隊とされた関東軍の一部は、負け戦の続く太平洋方面の戦力を補うために太平洋の島々に回されていた。その結果弱体化してしまった関東軍の員数合わせとして、当地の民間人の成人男子は、兵士として前年に徴兵されて、留守宅には老人と女子供だけしかいなかったという。
日本は、いつの時代でも、一般民衆は特権階級の犠牲にされてきたのだ。
2
ソ連国境に近い日本人の一開拓村に住む、松本勝男という国民学校1年生の少年を主人公とした山崎豊子の長編小説『大地の子』 (新潮文庫)は、ソ連軍の侵入から物語をはじめる。
ソ連侵入の非常サイレンによって、祖父、母、5歳と1歳半の2人の妹、そして彼の一家5人の逃避行が始まった。当初、彼の家族を含め、230名ほどの開拓村の人々は近くの関東軍基地を頼って行ったが、そこはすでにもぬけの殻だった。そこで無防備のまま170キロ離れた勃利に徒歩で向かった。勝男は5歳の妹を、母親は末の子を紐で背中にくくりつけて、敵軍に見つからぬように山中を進んでいったが、それは難渋をきわめていた。途中、末の子の息が絶えた。進むにつれ次第に敵の銃声が近づいてきた。幼い子供の泣き声が敵に発見されやすいので、5歳以下の子供たちは首を絞められて置き去りにされた。やがて祖父も息絶えた。
大きな川は、敵の追撃を阻むために、日本軍の手で橋を破壊されて渡れない。やむを得ずロープにすがって川を渡った。激流にのまれて流されてゆく者もいた。15日目に勃利に近く佐渡開拓団の住む村に入ったが、すでにそこには3000人以上の避難民がいる。周囲はすっかりソ連軍に包囲されていた。8月27日、ついに敵兵の攻撃が始まった。
「あ! またソ連兵が来るぞ、今度はもっと多勢だ!」
若い男が云うと、2人の女が、
「お願いです、その銃で撃ち殺して!」
と哀願した。土塀の外に、キラキラと無数に光る鉄カブトが迫って来た。男は、バーン、バーンと2人の女を撃ち殺した。
「兄ちゃん、僕も殺して!」
勝男も、頼んだ。
「弾が一発しかない、お前は子供だから、大丈夫だろう」
と云うなり、男は、銃口を顎の下に当て、
「天皇陛下、万歳!」
と叫んで、足で引金をひいた。その銃声と同時に、ソ連兵たちは銃を乱射しながら続々と土塀をよじのぼって来た。勝男は今、死んだ男の死体の下に隠れた。生あたたかい血や脳味噌が頭にかかって来、唇に塩酸っぱいものが流れ込んで来、腹も足もぬるぬるとした。
気がつくと、同じ開拓村の者はほとんど死んでいた。生存者はわずかに顔見知りのおじさんと妹のあつ子と彼の3人だけだった。妹はひどい火傷を負っていた。やがて中国の農民がどこからともなく現れて、別々の男が3人を引き取ってゆく。こうして兄妹がそれぞれちがった運命を生きてゆくのであった。……
この小説は架空の話ではない。作者の山崎豊子は、事実だけにもとづいてこの小説を書いた。
3
彼女がこの大作を創作する際の資料の一つにしたかと思われる文章がある。「歴史と人物」昭和61年冬号に掲載された門脇朝秀「証言 惨!佐渡開拓団跡事件」である。それによると、小説の主人公勝男たちの開拓団一行が佐渡開拓団跡にたどり着いた8月24日には、すでに5つの開拓団、3千人ほどの民間人が集まっていた。彼らがどんな最期を遂げたのかを、その記事のなかの幾人かの証言が明らかにしてくれる。
万金山高社郷開拓団に所属する滝沢隆四郎は次のように証言する。この開拓団600名がこの地に着いた23日夕方近くに、不時着したソ連の偵察機一機を一部の団員が焼いてしまうという事件が起こった。ソ連軍は報復攻撃をしかけてくるだろう。そうかといって、安全な所に逃げるだけの余力はなかった。追い詰められた一行は集団自決の道を選ぶ。次の証言はなんとも哀れを誘う。
誰が持っていたのか、母親と子供たちには薄く口紅が塗られていた。一方、流れ出る血の海に足をとられながら、逃げようとする子供に銃を向ける若い父親。何もわからずに振り向いて父親を見る幼い姉妹。こうして馬小屋に積まれた死体はこの団だけで514体に達した。
開拓団とは何だったのか。昭和不況の真っ只中の1936年(昭和11年)に、日本政府は、満州国へ20年間で100万戸を移住させ、人口の10パーセントを日本人で占めようとする計画を発表した。それも、同一地方出身者で一移住村をつくらせようとしたのである。その計画の裏側には、農家の次男・三男対策というか、農村の過剰人口の解消という狙いもあった。その計画に協力した県には補助金を出すという。その頃貧しかった長野県は、補助金欲しさに、率先して開拓村をつくった。『大地の子』の主人公勝男が所属した開拓団信濃郷は、長野県の南信濃郷開拓団をモデルにした。
4
『大地の子』にふたたびもどろう。
一家が逃避行していた最中、息絶え絶えの祖父が嫁と勝男を手招きしてこう言った。
わしは、もう助からん、タキエ(嫁)と勝男に詫びたいんじゃ、一家を挙げて満州へ移ろうと云い出し、しぶる息子を説き伏せて、開拓団に加わったのは、このわしのせいじゃ、お前たちの将来のため、お国のためと思うてのことが、今、国からは見捨てられ、お前たちをこんな酷い目に遭わせてしもうた、息子は現地召集、嫁と孫たちまで、生き地獄にさらしてしもうたが、……
やがて、祖父は、骸骨のように痩せた体を異国の寂しい草原の木陰の下に横たえたまま死んでいった。
『大地の子』を読みながら、日本という国は、開拓団をつくって異郷の地へ送っておきながら、いざという土壇場では彼らを見捨ててしまったという重い事実に、頭を抱えてしまった。そのことがどうにも理解できなかったし、やり切れなかった。
事実をもっと深く確かめようとして昭和史関係の本を読みだした。当時の指導者たちはなぜそんな非道なことをしたのか。私はそのことにいつまでもこだわってしまった。ところが、前号で紹介した半藤一利『ソ連が満州に侵攻した夏』のある箇所を目にした時、思わず絶句してしまった。
ヨーロッパの戦史を開いてみるとわかるが、敗戦を覚悟した国家や軍が真先に行うべきことは、非戦闘民の安全を図ることである。あのヒトラーでさえソ連軍の侵攻から自国の非戦闘民を救うために、200万人もの民を4ヶ月も以前から陸・海・空全軍を使って安全地帯へと移送させていたのである。日本はなぜそうしなかったのか。著者は、日本の国や軍の指導者の考え方には「民を救う」という発想はなかったと言い、こう分析する。
日本の場合は、国も軍も、そうしたきびしい敗戦の国際常識にすら無知であった。だが、考えてみれば、日本の軍隊はそのように形成されていなかったのである。国民の軍隊ではなく、天皇の軍隊であった。国体護持軍であり、そのための作戦命令は至上であった。
『大地の子』の主人公勝男とあつ子は、中国人に引き取られてからどう生きていったのだろう。
5
中3の国語の教科書「国語 3」 (光村図書)に「お辞儀する人」という安西均の詩が載っている。この詩は、中国残留孤児の存在を私たちに知らせる。「だれにともなく深く一礼」する劉桂琴さんの「お辞儀」を前にして、私は絶句するばかりである。
お辞儀する人
安西均
中国残留孤児の第7次訪日団45人は、3月3日(昭和60年)
午前十時十分、成田空港から日航横で中国へ戻って行った。
それを報道する翌日の朝刊の写真には―
めいめい手を振って別れの
挨拶をする、一行から少し離れ、
床に手荷物の紙バリクを置き、
こちらに向って、深々と
頭を下げてゐる女のひと。
劉桂琴さんといふそうだ。
推定(何と悲しい文字だらう)
前夜、叔父と名乗る人が、空港へ
駆けつけてきたが、別人だった。
記者団の質問に「日本が私の生みの親、
中国が育ての親です」と答えたきり、
深夜、ホテルの自室で、大好きな
ハルピンの民謡を歌ってゐたそうだ。
桂琴さんの写真に添へて「だれにともなく
深く一礼」と説明がある。だれにともなく!
こんなにも美しく、哀しいお辞儀の姿を、
私はかつて見たことがない、ただの一度も。
私は思わず胸のうちで、この姿に
会釈を返す。このひとが戻っていく国の言葉で
〈再見(ツアイチェン)〉と言ひたい気がする。
東京の空までが、春近い気配にうるみ、
じっと雨を耐へてゐる朝だ。
出典http://ogaki.web.infoseek.co.jp/motto29.htm