北朝鮮のミサイル発射実験を前にして、日米のイージス艦が日本近海に展開するなど準戦時体制がとられるようになりました。北朝鮮の独裁者がいつでも核弾頭を日本やアメリカに落とせるぞと威嚇するための実験です。どうしたらこのような蛮行をやめさせられるのか?
民主党を始め野党ははっきりとした考えを示し、国民的議論をしなければなりません。私たちも無関心を装ってはいられません。事態がこのまま進行すれば取り返しのつかないことになりかねないのです。
かくいうぼくも2年9月17日までは「北朝鮮」について意識してふれないようにしてきました。在日コリアンの人権にかかわる社会運動を生涯の課題としてきた者としてはこの上なく無責任な態度です。9・17の衝撃をきっかけにこの態度を改めて自分に出来ることを模索してきました。
しかし、今このような事態に立ち至ってどうしたらいいのか、考えもまとまらないのが実情です。皆さんは、どうですか?
9・17以後、ぼくが書いたいくつかの文章を思いつくままに紹介します。何かの参考になればと思います。
拉致被害者家族と出会うとき(上)
〈7.20 在日コリアンと日本人の集い〉について
鈴木啓介
〈9.17と私〉
02年9月17日の日朝ピョンヤン会談の日は、「有本恵子さんなどを返してくれるかな」と同僚たちと雑談していただけに、〈5人生存、8人死亡〉というニュースは私にとって大きな衝撃だった。そして、今まであいまいにしてきた〈北朝鮮の独裁政権―それをささえる朝鮮総連〉との関係をはっきり〈対決〉へと踏み切らせることになった。私は自分の日和見を思わないわけにはいかなかった。
私が「帰還事業」で北朝鮮に帰ったひとびとがきびしい生活にさらされていることを知ったのは70年代末のことである。そのころの私は在日コリアンの生徒たちとつきあっていく上で親の歩んできた歴史や子どもを育てていく上での考えといったものを知っておくことは不可欠と考え、在学しているすべてのコリアンの生徒の家庭を訪問した。
そんなおり、何度も「先生は日教組ですか」ということばとともに、北の親族から来た手紙をみせられた。薬や生活用品を送ってほしいという内容である。自分の兄弟姉妹を「北」に送ることに関与しながら、今なお、帰った人々がどんな状況にあるかを知ろうともしない日本人教師への強い不信感の表明であったろう。私はおたおたしながら自分の頭で判断することの重要さと自分の行動に伴う責任の重さというものを思い知らされた。
80年代に入ると「凍土の共和国」が『統一日報』(在日韓国人系の日刊紙)に連載され、北の人々の窮状は独裁政権によってもたらされたものであり、帰国者は金政権にとって在日コリアンから収奪するための人質であることをはっきりと知るようになる。そのころ、北の独裁者とは「倶ニ天ヲ戴カズ」と口走ったことを覚えている。
しかし、近年になって、飢餓や拉致が明白になってからも、私はそのことを正面にすえて生徒たちといっしょに考えるということをしてこなかった。北朝鮮の独裁政権への批判が朝鮮民族への偏見を助長することになりはしないかと怖れたためでもあるが、けっきょくのところ自分のハラが据わっていないところからくる日和見ではなかったかと今は思う。
私がかかわってきた〈多文化共生をめざす〉在日韓国・朝鮮人生徒の教育を考える会(以下「考える会」とする)や全国在日朝鮮人教育研究協議会にしても、その活動の中で私は北朝鮮や総連との距離を意識してとるようにしてきたが、けっして正面から批判することをしなかった。それはけっきょくのところ、孤立することや批判をうけることが怖くてめんどうであり、組織を分裂に導くと考えたからではなかったか。
そんな日和見が拉致被害者やその家族に長い孤独なたたかいを強いてきたのであり、北朝鮮の民衆の苦難をいっそう深めたのである。9.17の衝撃はそんないいかげんな自分を打ち砕くのに充分であった。(つづく)
『木苺』116号(04年3月発行)より
民主党を始め野党ははっきりとした考えを示し、国民的議論をしなければなりません。私たちも無関心を装ってはいられません。事態がこのまま進行すれば取り返しのつかないことになりかねないのです。
かくいうぼくも2年9月17日までは「北朝鮮」について意識してふれないようにしてきました。在日コリアンの人権にかかわる社会運動を生涯の課題としてきた者としてはこの上なく無責任な態度です。9・17の衝撃をきっかけにこの態度を改めて自分に出来ることを模索してきました。
しかし、今このような事態に立ち至ってどうしたらいいのか、考えもまとまらないのが実情です。皆さんは、どうですか?
9・17以後、ぼくが書いたいくつかの文章を思いつくままに紹介します。何かの参考になればと思います。
拉致被害者家族と出会うとき(上)
〈7.20 在日コリアンと日本人の集い〉について
鈴木啓介
〈9.17と私〉
02年9月17日の日朝ピョンヤン会談の日は、「有本恵子さんなどを返してくれるかな」と同僚たちと雑談していただけに、〈5人生存、8人死亡〉というニュースは私にとって大きな衝撃だった。そして、今まであいまいにしてきた〈北朝鮮の独裁政権―それをささえる朝鮮総連〉との関係をはっきり〈対決〉へと踏み切らせることになった。私は自分の日和見を思わないわけにはいかなかった。
私が「帰還事業」で北朝鮮に帰ったひとびとがきびしい生活にさらされていることを知ったのは70年代末のことである。そのころの私は在日コリアンの生徒たちとつきあっていく上で親の歩んできた歴史や子どもを育てていく上での考えといったものを知っておくことは不可欠と考え、在学しているすべてのコリアンの生徒の家庭を訪問した。
そんなおり、何度も「先生は日教組ですか」ということばとともに、北の親族から来た手紙をみせられた。薬や生活用品を送ってほしいという内容である。自分の兄弟姉妹を「北」に送ることに関与しながら、今なお、帰った人々がどんな状況にあるかを知ろうともしない日本人教師への強い不信感の表明であったろう。私はおたおたしながら自分の頭で判断することの重要さと自分の行動に伴う責任の重さというものを思い知らされた。
80年代に入ると「凍土の共和国」が『統一日報』(在日韓国人系の日刊紙)に連載され、北の人々の窮状は独裁政権によってもたらされたものであり、帰国者は金政権にとって在日コリアンから収奪するための人質であることをはっきりと知るようになる。そのころ、北の独裁者とは「倶ニ天ヲ戴カズ」と口走ったことを覚えている。
しかし、近年になって、飢餓や拉致が明白になってからも、私はそのことを正面にすえて生徒たちといっしょに考えるということをしてこなかった。北朝鮮の独裁政権への批判が朝鮮民族への偏見を助長することになりはしないかと怖れたためでもあるが、けっきょくのところ自分のハラが据わっていないところからくる日和見ではなかったかと今は思う。
私がかかわってきた〈多文化共生をめざす〉在日韓国・朝鮮人生徒の教育を考える会(以下「考える会」とする)や全国在日朝鮮人教育研究協議会にしても、その活動の中で私は北朝鮮や総連との距離を意識してとるようにしてきたが、けっして正面から批判することをしなかった。それはけっきょくのところ、孤立することや批判をうけることが怖くてめんどうであり、組織を分裂に導くと考えたからではなかったか。
そんな日和見が拉致被害者やその家族に長い孤独なたたかいを強いてきたのであり、北朝鮮の民衆の苦難をいっそう深めたのである。9.17の衝撃はそんないいかげんな自分を打ち砕くのに充分であった。(つづく)
『木苺』116号(04年3月発行)より