川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

土佐三題

2009-03-16 07:53:54 | ふるさと 土佐・室戸
 15日(日)快晴 無風
 
 ①「室戸岬をやっているよ」という娘の電話でテレ朝を見る。空海の修行の地(みくろ洞)、室戸岬港でのタタキ料理、イルカと遊ぶ体験などが紹介される。良かったのは海洋深層水を利用したナス栽培とそれを利用した家庭料理の風景。ぼくの知らない今の室戸の人々の営みである。
 暇のある方はどうぞ訪ねて見てください。数日滞在してのんびり過ごすとここもまたいいところだと思うかも知れません。通りすがりでは室戸のいいところはわかりません。
 宿泊施設として活用するといいのは「国立室戸青少年自然の家」。
  http://muroto.niye.go.jp/
 
 二週間前までの申し込みが必要ですが家族や友人同士でも比較的気楽に利用できるようですよ。

 ②昼前に川越公園の河川敷の林を歩く。護岸工事が終わってさっぱりした関越道の橋の向こうの河川敷で土佐犬の闘犬大会をやっている。「関八州大会」とかで土浦や栃木の車も来ている。
 暫く覗いてみたがぼくにはとても「趣味ではない」。犬のかみ合わせである。こんなことがなんで面白いのか、てんでわからない。グロテスクという他はない。
 坂戸でも「よさこい」をやるようになり、土佐とのつながりが出来るのは嬉しいが、この「土佐」はごめんである。

 ③高知県東京事務所からメールが届くようになった。「高知県応援団メールマガジン」。これから月一回の配信だという。面白い情報があれば「川越だより」で紹介します。どうぞ、参考になさってください。
 高知県は沖縄県と並ぶ全国一貧しい県だ。沖縄からは日本中を元気付けるメッセージが数多く発信されている。高知はどうだろう。「川越だより」では大崎前教育長や澤山東洋町長などのメッセージを伝えてきた。
 少しでも生業(なりわい)が成り立つように、育ててもらったふるさとを応援したい。そのためにも高知のよさとは何か、それがとわれている。
 

待たれる北信濃の旅② 福島の棚田

2009-03-15 08:14:07 | 出会いの旅
 昨夕に待ち遠しかったニュースがありました。東京都の支援相談員をしているH
さんが4月からQ区で働くことが決まったのです。
 この1年は多摩のI市など遠くへの通勤を余儀なくされていました。その上、交通費もでないボランティア扱いでした。体の弱いお子さんがいます。よく頑張ったものです。
 これで僕たちが知っている東京都の支援相談員は4月から全て区市の非常勤職員として働くことが出来ます。この半年、気がかりだったことがともかく一段落。ここまで来るのに力を貸してくれた自治体で働く友人たちに改めて深く感謝します。
 
 Hさんは研究心旺盛なまっすぐな人です。せっかく親しんだI市の残留孤児夫妻や職員と別れるのがつらそうです。
 裁判に原告として参加したお父さんからはたくさんの人の役に立たなければならないのだから研鑽を積んで頑張れと叱咤されたそうです。
 残留孤児二世の若い友人たちがところを得てその力を発揮することができる。こんな嬉しいことはありません。妻と二人の夕食が盛り上がりました。

 
 「北信濃の風景」2回目は飯山市福島地区の棚田です。
 
 福島の棚田
http://www.mizumori.pref.nagano.jp/modules/pukiwiki/?%CA%A1%C5%E7%BF%B7%C5%C4%C9%FC%B3%E8%A4%CE%B5%B0%C0%D7

 菜の花公園からバスならほど近くです。千曲川の畔から山の上の村里に登ります。途中の寺の桜もみごとです。
 駐車場から棚田の中を登っていくと阿弥陀堂があります。この辺りから見下ろす風景も心が安まります。映画『阿弥陀堂だより』のロケ地となったそうです。阿弥陀堂は映画作りの遺産です。
 
 『阿弥陀堂だより』の里へようこそ http://www.city.iiyama.nagano.jp/amidadou/index.htm

待たれる北信濃の旅① 菜の花公園

2009-03-14 17:31:24 | 出会いの旅
 <きいちご多文化共生基金>の第9回移動教室は『花の北信濃に“ふるさと”の風景を訪ねて』ということで5月9日から1泊2日の旅です。昨日、案内を『きいちご』とともに皆さんに発送しました。日本語と中国語が交互に出てくる案内文です。道案内をするぼくの心はもう北信濃に飛んでいます。

 中国残留孤児や脱北帰国者の皆さんと過ごす2日間です。ぼくがどんな風景を見ていただきたいと思っているのか、思いつくままに皆さんにも紹介します。

 ①菜の花公園(飯山市)
まずはなんと言ってもこの風景です。青い文字をクリックしてください。「最優秀賞」を見終わったら「優秀賞」「入賞」と順々にクリックして風景を楽しんでください。http://www.city.iiyama.nagano.jp/nanohana/photo/2007syasinn/deji/1/index.html

 千曲(ちくま)川を望む丘の上に飯山市立東小学校があります。学校の裏から千曲川に向かって広がる菜の花畑の景観はなんと形容すればいいでしょうか。川の向こうには信越国境の山々が連なります。
 小学校唱歌「朧(おぼろ)月夜」の歌碑があります。作詞者の高野辰之はこの地方の人です。青い文字をクリックして「朧月夜」を捜してください。歌詞と曲が出てきます。

http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/00_songs.html

 菜の花祭りは5月3~5日です。暖冬で福岡ではもう桜が咲いたとか。何とか菜の花の風景が9日まで持ちますように。

 ただいまの菜の花公園の風景です。http://www.hrr.mlit.go.jp/chikuma/livecamera/c1_nanohana.html

『きいちご』4号

2009-03-13 18:21:54 | 友人たち
 昨夕、帰宅すると『きいちご』4号が印刷所から届いていました。いつものようにカツヨシさんの力作です。
 4号の特徴は中国語の文章とその日本語訳が合わせて5本掲載されていることです。著者は田村さん、松山さん、山崎さん、阿部さん、許さん。中国残留孤児とその夫人です。
 昨年10月、「第8回きいちご移動教室」で訪ねた栃木県・足尾と奥日光の旅の感慨を綴っています。
 本来なら昨年末に発行した第3号に載るはずだったのですが、翻訳担当の忠幸さんの体調不良のため2ヶ月以上遅れたというわけです。筆者には申し訳ないことですが結果としてはいい『きいちご』が出来ました。
 翻訳を加藤さんが担当してくれました。ぼくの文京高校時代の生徒だった人で「ASIAN}というクラブで3年間一緒に活動しました。彼女が今やっている仕事をこの3月で辞め、翻訳や通訳の勉強を本格的に始めるというときに再会したのです。
二つ返事で引きうけてくれ、忠幸さんや高柳さんの助言を受けてしっかりした日本語訳が完成しました。
 言うなれば老壮青の新しい協働がはじまったわけで、ぼくにはそれがとても嬉しいのです。
 加藤さんが一文を寄せてくれました。

 私は10歳の時に母と妹の3人で来日しました。父がその2年前に来日して私たちを呼び寄せました。ただ、私たち家族が日本に来たきっかけはもっと前の世代の影響です。
 父方の祖母は日本で生まれました。当時はこどもが多かったため、祖母は中国にいる親戚に預けられ、その後、戦争で日本に戻れなくなりました。祖母が日本の家族と再会したのは国交が回復した1972年になってからなので、40年以上家族とバラバラに過ごしていたのです。


 昔、聞いたかも知れない話ですがもうスッカリ忘れていました。お祖母ちゃんは40年も親に会えなかったのです。戦争によって引き裂かれた家族がここにもいたのです。お陰で加藤さんのことをすこし知ることができました。
 数年ぶりの再会ですが新しい何かがはじまるかも知れない、そんな気にさせてくれます。

 昼前に101通をクロネコ便に載せました。日曜日には会員読者の手元に届くはずです。
 「川越だより」を読んでくださる皆さんの中で『きいちご』に関心を持った方が
いましたらご連絡ください。お届けします。

常磐炭坑?

2009-03-12 22:18:01 | 出会いの旅
 今夕7時過ぎに北茨城の旅から帰り着きました。二日目以後は何度か訪ねたところですがメモのつもりで記録しておきます。

 11日(水)晴れ 風寒し。
 八溝山(やみぞさん)に登る。頂上の展望台は有料、100円也。年輩のおじさんが入場料を徴収しているが一日どのくらいの収入になるのか、つい心配してしまう。風が冷たいので柱の影から那須連峰を遠望する。
 午後、北茨城市の天心記念五浦(いずら)美術館に向かう。途中で「炭坑前」というバス停を通過する。 県道10号の十石トンネルの手前で北茨城市南中郷というところ。付近の山に炭坑の施設らしきものが見える。今は廃鉱になっているが名前が残ったというわけだろう?「常磐炭坑」行きのバスにも出会った。
 常磐炭坑と言うからには常陸(ひたち)と磐城(いわき)にまたがる筈だが平(いわき市)が炭坑町であったことは知っていても常陸のどこに炭坑があったのか聞いたこともない。ヒントを貰ったことになる。

 北茨城・常磐炭坑跡http://homepage2.nifty.com/pisquen/visit/08/jouban01.htm

 美術館は前にも来たことがあるので妻が見学中、ぼくは車の中で昼寝。昨日の山歩きがかなりこたえている。
 今は千葉大が管理している六角堂を見る。岡倉天心の屋敷跡。大津港、平潟港を回った後、鵜の島温泉旅館に泊まる。

 12日(木)晴れ
 大洗で干物を買ったあと磯先神社の森を散歩。昼食はボリュウムたっぷりの磯魚の煮魚。
太平洋に沿って南下し、霞ヶ浦の小美玉市側の道を石岡へ。2月に走りきれなかったところ。正面に筑波の双耳峰。こちらにもレンコンの田圃がある。
 北関東自動車道が東北道までつながったというので高速道路で帰路に。
 
 今回の旅で気づいたことは各地で公共の宿が次々と閉鎖になっていること。ぼくが10年以上前に買った公共の宿の本は役に立たなくなっていくようだ。
 民間の宿泊施設の中に様々な経営努力をして安く泊まらせてくれるところがある。そういうところを捜して泊まる最初の旅になった。

大子(だいご)から

2009-03-12 20:48:15 | 出会いの旅
 2泊3日の小旅行中です。昨日は栃木県の那須烏山(なすからすやま)という町を訪ね、烏山城に登りました。
 市役所で道を聞き、山腹の忠霊塔跡で一休みしている同年輩の方にこの城について講義してもらいました。どこにもそれらしいことを書いたものが見当たらないのです。那須氏の末裔の城山だったようですが江戸時代は小藩ながら3万石の大名(大久保氏)の城だったといいます。
 行けども行けども山道ばかりです。途中に展望台があったので一休み。那珂川の流れの美しい烏山の町並みが俯瞰できます。いったん山をくだったところから再び登ると杉の林に出ます。あちこちに「二の丸跡」などという表示板があります。このあたりが城跡だったのでしょう。
 僕はあちこちの城跡を訪ねましたがこの烏山城のように放置されたままのところはなかったように思います。もちろん観光客の来た気配はありません。これはこれでいいのかもしれません。今はまったくの「山」に帰ったのです。
 昔、訪ねたことのある袋田の滝を見てホテル奥久慈館に泊まりました。
今日はこれから北茨城の海のほうに遊び日立の宿にもう一泊する予定です。すばらしい晴天です。


皇居前広場(続)

2009-03-09 22:59:56 | 政治・社会
 今日は宛名シールの印刷をし、きいちご4号の発送準備を終えました。封筒は丁度100枚です。勝義さんががんばって編集作業も終わったとのことですから12日か13日には第9回きいちご移動教室や花見の案内とともにクロネコ便に載せられます。

 皇居前広場について学んだことをもう少し紹介します。
 1952年の日本の独立まではこの広場は結構にぎわっていました。左派勢力は「人民広場」と呼んでいたほどです。どんな様子だったか書きうつしてみます。

 1950年の広場での主な出来事 (原武史『皇居前広場』より)

 1.6  東京消防庁出初式
 2.2  米第一騎兵師団マニラデーパレード
 3.7  国会共闘委員会による労働者総決起大会
  11  フォード新車の日本企業への引渡し式
  17  全国中小企業危機突破国民大会
  25  国会共闘委員会労働者大会
 4.7  暴圧反対人民決起大会
   9  イースター早朝礼拝
  22  米第720陸軍憲兵大隊パレード
 5.1  第21回メーデー
   3  日本国憲法施行3周年記念式典  スクエアダンス大会
  20  米三軍統合記念日パレード
  24  英連邦軍エンパイアデーパレード
  27  米第71通信大隊司令官引継ぎ式
  30  米第8軍戦死者追悼式典
      5.30人民決起大会 皇居前広場での最後の集会)

 6.8  英連邦軍ジョージ6世誕生日記念パレード
  19  米8軍パレード
 625  朝鮮戦争勃発
 7.3  東京都公安条例公布施行
1019  国連軍パレード 国連旗授与式

 占領軍と左派の活動舞台であったことがわかります。朝鮮戦争を境にして左派の集会が消えます。決定的になったのは翌年のメーデー事件です。

 51年4.24  政府メーデーに皇居前広場の使用禁止をきめる
      27  GHQ 政府の決定を支持
 52年4.28  日本独立 東京地裁、政府の広場使用不許可処分取り消し判決 政府控訴
    5 1   血のメーデー事件

 メーデー事件についてはこのサイトの叙述を参考にしてください。http://yabusaka.moo.jp/maider.htm

 朝鮮戦争の時期(50年~53年)は日本国内でも社会主義を目指す勢力の活発な活動があり、GHQと吉田内閣はこれを徹底的に弾圧しました。メーデー事件もそのような時代背景の中で起きた事件といえます。
 講和条約発効で米軍が表舞台から消え、左派の革命運動が退潮するとともにこの広場は無人の空間になりました。
 「平成」になって戦前のような天皇制儀礼の場として利用する動きが見られます。90年の「天皇陛下御即位祝賀式」 99年「御即位10年をお祝いする国民祭典」など。
 広場を再び「神の国」の儀礼の場にしてはなりません。民主主義の時代にふさわしい公共の広場として活用する積極的な姿勢が望まれます。
       

皇居前広場

2009-03-08 23:55:04 | 政治・社会
7日(土)
 東京都高等学校教職員組合が「自由を求めて難民として生き抜いた都立高校生の証言を聞く」会を開催するというので何年ぶりかで日本教育会館に行くことにしました。
 証言するAさんは北朝鮮を脱出してきた人で、かつて「きいちご移動教室」に参加してくれたことがあります。しかし、彼女の辿ってきた人生をぼくはほとんど何も知りません。人々の前で話すのはこれが初めての筈です。

 好天に恵まれたのですこし歩くことにしました。有楽町線の桜田門で下り、皇居前広場、皇居東御苑を散歩して平川門から一橋の教育会館に向かいます。

 桜田門付近はマラソン大会参加者でいっぱいです。その雑踏を抜けると二重橋が見える辺りは外国人観光客と思われる人がちらほらといるだけで土曜日の午後といっても閑散としています。と、いうか、空間があまりに広くてそう感じるのかも知れません。二重橋近くに一人、坂下門の前に二人、警察官が立っていますが手持ちぶさたです。

 原武史という人が書いた『皇居前広場』(光文社新書)を読んだことがあります。この広場は46万5000平方mあり、「集会用の広場としては世界最大といわれる天安門広場の約44万平方mを上回る」そうです。
 95年に初めて中国を訪ねたとき、留学中の残留孤児3世の卒業生に天安門広場を案内して貰いました。儀仗兵が国歌に合わせて(?)五星紅旗を降納する様子を見ました。広さの感覚は忘れてしまいましたが四方が巨大な建物に囲まれていたような気がします。いやでも天安門事件(89年民主化を求める学生たちを「人民解放軍」が弾圧・虐殺した)を思い、想像を廻らしたのではないでしょうか。
 
 皇居前広場には1960年受験に来たとき伯父にはとバスでつれてきて貰いました。それから何度かは来ていますがその広さに目を見張ったのは初めてかも知れません。ここで集会をやったらどのくらいの人が入れるだろうかと考えたからでしょう。三方に高層ビルが見えますが北側は皇居です。青空の広がりは天安門広場とは比較にならないようにも思われます。

 ぼくは今年に入って二度この広場で国民集会をやるべしと書きました。スローガンは。「イスラエルとパレスチナは話し合いによって紛争解決をせよ」。「北朝鮮は拉致被害者を帰せ」。
 非戦非武装の憲法の下でぼけっとしていては平和は守れません。国民の一人一人が政治意識を高め、非暴力の国民運動で自国民を守り、世界の課題に意思表明していくのが憲法の指し示す道なのです。国民の意思を結集する大集会の開催は有効な方法の一つです。
 会場に皇居前広場を考えたのは広いのと交通の便がいいということからです。何せ東京駅の目の前です。全国どこからの人でもわかりやすく便利です。今日思いがけず広場に立ってその広さを確認したというわけです。

ところで皆さんはこの広場で集会があったなどということを聞いたことがありますか?集会といえば最大の「メーデー」が明治公園や代々木公園、日比谷公園です。皇居前広場は使用が出来ない規則でもあるのでしょうか。
 調べてみるとそんなことはないことがわかります。

  国民公園及び千鳥ケ淵戦没者墓苑管理規則(昭和34・5・6厚令13)
 
(通則)
第1条  皇居外苑、京都御苑及び新宿御苑(以下「国民公園」という。)並びに千鳥ケ淵戦没者墓苑(以下「墓苑」という。)の管理に関しては、この規則の定めるところによる。
(許可行為)
第2条  国民公園及び墓苑内においては、次の各号に掲げる行為は、環境大臣の許可を受けなければしてはならない。

物を販売し、又は、頒布すること。
業として写真を撮影すること。
興行を行うこと。
集会を催し、又は示威行進を行うこと。
池又はほりに鳥類又は魚類を放すこと。
池又はほりで舟遊し、又は舟遊させること。
別に定める施設を使用すること。
(一部改正=昭46総令41)
(許可申請書)
第3条  前条の許可を受けようとする者は、別記様式第一による許可申請書を環境大臣に提出しなければならない。


 「 集会を催し、又は示威行進を行うこと」は環境大臣の許可を得れば可能なのです。
 メーデー事件以後禁止になっているのかと思ったら共産党の機関誌「赤旗」にこんな解説が載っています。
 
 皇居前広場は現在は環境省が管理していますが、許可を得れば集会ができるという管理規則はそのまま残っています。いま中央メーデーは代々木公園で開かれており、皇居前広場の使用申し込みがされていないのは、環境の変化などの諸条件を考慮しての主催者の判断だと思われます。
(出典)
「皇居前広場」が使われなくなったのは?http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-05-01/ftp20080501faq12_01_0.html

 「環境の変化など」により主催者が使用申請をしなくなったのだと書いてあります。「環境の変化」とはどういうことを指すのでしょう?

 いずれにしても国民の財産ですから当然のことながら集会も示威行進も出来るのです。行き詰まっている拉致問題の打開を目指して国会に議席を有する全ての政党の共催で国民集会を開くというのはどうでしょうか。「拉致被害者を帰せ」という一点に絞って国民の意思を結集し、我々の怒りを北朝鮮の独裁者に示すのです。
 戦争と戦力を放棄した国民の底力を侮ってはならないことを教えてやるのです。むかしは50万人が集まったとあります。ほんとうは100万人くらいは入れるのかも知れません。どなたかが研究して実現のために働いてくれないかな。 


 万感胸に迫る絶唱 田月仙さんhttp://blog.goo.ne.jp/admin.php?fid=editentry&eid=a7a9fe7e3616cf3cc55bd3ae3d46f6e4

高社郷(こうしゃごう)開拓団の悲劇

2009-03-07 09:38:41 | 中国残留日本人孤児
6日(金) 午後、本格的な雨の中を歩いて街に出ました。郵便局で貯金証書の再発行を申請し、文房具店で宛名ラベルを買ってきました。何年ぶりかではいた長靴は劣化して水が滲みてくるは、傘の効果がないのか下着まで濡れるは、で、散々ですが「雨中の行軍」は結構壮快でした。3年前の手術以来、こんな体験は初めてです。
 滑稽なのはこのラベルが使い物にならなかったことです。娘が帰ってきて指南を受けながらいざ印刷と言うときにぼくのパソコンには適していないと言うことがわかったのです。基礎的な知識がないために起きたことです。こういうこともあろうかとレシートだけはとってあります。明日またやり直しです。

 夜遅くなってから信州北部にあるはずの満蒙開拓団の慰霊碑などの所在を調べました。5月の「きいちご移動教室」の学びの場にするためです。

 目的地の木島平村に高山すみ子さんという方がおられ高社郷開拓団の悲劇を語り続けていることを知りました。

    95年10月13日の「毎日新聞」(長野県版)

 高山すみ子さん(72)=木島平村=ら高社郷開拓団の避難民は一九四五年八月二十三日、やっとの思いで佐渡開拓団跡にたどり着いた。しかし、ソ連軍に囲まれ脱出は不可能、と団では自決することを決めた。翌日、団の解散式で副団長が涙を流して訴えた。「生きて辱めを受けるより、死して護国の礎となろう」。その晩から、順次自決していった。

 「あるお母さんは小さな子供を井戸に投げ込んだのさ。そしたら、中は死体でいっぱいで、その上に落ちたから、まだ生きてる。それで、『お母さん、言うこと聞くから助けて、お母さん』って泣き声が井戸から聞こえてな。お母さんの方はたまげたけど、石を投げつけて殺してしまった」。高山さんは目を赤くしながらも話し続ける。

 高山さんも三歳の長男と一歳の長女に、最後まで隠し持っていたキャラメルを食べさせ、言い聞かせた。「『ノノさん(仏様)になって、内地へ帰るんだ。ノノさんになったらな、じいちゃんとこ行くんで、白いまんま(ご飯)がたくさん食べれるよ』ってな。すると、まんまと聞いてうれしかったのか、ニッコリ笑ってな『早く連れてって』て言うんさ。それで、『東の方へ手を合わせれば行けるんだ』っておれが手を合わせたら、まねして一生懸命手を合わせて……。そこを男衆に頼んで銃で撃ってもらった」

 ここまで話したところで、あふれる涙でしゃべれなくなった。それでも、とぎれとぎれに口を開く。「あの時のことは、絶対忘れられねえ」

 二人の死を見届けて、いよいよ高山さんの番になった時。「さあ、かあちゃんも今いくぞって目をつぶったら、ソ連の戦車が来て、おれを撃とうとした人が戦車に撃たれちまった」。高山さんはそのまま数日気を失った。気付いた時は、天井までぎっしりと積まれた死体の中にいた。「ああ、生きてるんだ。ここで死んじゃならねえってことなんだ。そう思って逃げ出した」

 妊娠中だった高山さんは逃げる途中に流産した。そんな体では帰国は無理だと自決を勧められたこともあった。けれども「どんなことがあっても生きて帰って、ここで何があったか日本に伝えなければと、それだけを考えてたんだ」。歴史の、そして戦争の証人になろうという意地が、五百キロ近い逃避行を支えてくれた。

 帰国後、高山さんは出征から帰った夫との間で子供を産み、今では孫もいる平和な家庭を築いた。しかし、満州で失った子供たちを忘れられるわけがない。佐渡開拓団跡に来たのは八四年に続いて二回目。「子供をここに置いてきたんだよ。どんなことしたって、何年たったって、子供に謝りに来ないとならねえ」

 悲惨さ、無念さ、残酷さ……。どんな言葉でも表現しきれない現実が、腹を痛めた子供との別離をも生んだ。それが「戦争」だった。

 佐渡開拓団跡に着いた団員たちは、酒やお菓子を供えて、犠牲者の慰霊をはじめた。高山さんは少し離れたところで、目をつぶり、じっと祈っていた。五十年前、なすすべもなく死んでいった子供と生き残ったという重荷を背負ってきた母親。悲劇の地に再び立ち、いったい、何を語り合っていたのだろうか。涙を浮かべたその姿には近寄りがたい厳しさがあり、それ以上話しかけることができなかった。
  出典      http://blogs.yahoo.co.jp/mainichi_shibanu/18986387.html

 高社山(こうしゃざん)はこの辺りの代表的な山です。山の北側は日本有数の豪雪地帯です。この山のお陰で雪が少ないのですと南側の小布施町に住む友人が語っていました。
 その山の名を冠した開拓団の悲劇です。85になられたはずの高山さんは今も元気に活動しておられるでしょうか。07年に上田市の集会でお話しされています。移動教室の参加者は残留孤児とその家族が大半です。高山さんとお会いできるようにしたいものです。
 高山さんの証言が載っている立派な体験記が発行されています。

 『福寿草』 私たちの戦争体験記
       
       発行   木島平公民館
        〒389-2302
        長野県下高井郡木島平村大字往郷914-6
        TEL0269-82-2350
       編集    木島平村戦争体験記編集委員会
         木島平村教育委員会内
 出典http://m-take-web.hp.infoseek.co.jp/tihou40.html

 10年前の発行です。ぼくが暫く前、宿舎になる村営のホテルの方に調べて貰ったときにはこのような手がかりは何も得られなかったのです。歴史を伝えていくことはほんとうに難しいことなんですね。
 
 犠牲者の慰霊行事について報じた記事があります。中野市東山の満州開拓者殉難慰霊塔で少なくとも05年までは高社郷開拓団の慰霊祭が行われていたことがわかります。こんどの旅でここは是非訪ねようと思います。

  満州開拓団「高社郷同志会」http://www.shinshu.co.jp/local/2005/050902/n05.html

坂戸・住吉の河津桜

2009-03-06 07:35:17 | 川越・近郊
【川越だより】のアクセス・ランキング
アクセスとランキングの状況を表示します。ランキングは上位10000件まで表示されます。

過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)


   日付   閲覧数 訪問者数 ランキング
2009.03.05(木) 482 PV 150 IP 5580 位 / 1193961ブログ
2009.03.04(水) 452 PV 144 IP 6133 位 / 1193484ブログ
2009.03.03(火) 365 PV 121 IP 7610 位 / 1192977ブログ
2009.03.02(月) 452 PV 150 IP 5508 位 / 1192391ブログ
2009.03.01(日) 378 PV 116 IP 7647 位 / 1191909ブログ
2009.02.28(土) 410 PV 128 IP 6264 位 / 1191360ブログ
2009.02.27(金) 366 PV 131 IP 6434 位 / 1190846ブログ

過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)


   日付        閲覧数 訪問者数 ランキング
2009.02.22 ~ 2009.02.28 3160 PV 1024 IP 5786 位 / 1191360ブログ
2009.02.15 ~ 2009.02.21 3015 PV 1045 IP 5855 位 / 1187475ブログ
2009.02.08 ~ 2009.02.14 2731 PV 985 IP 6665 位 / 1183545ブログ

 「川越だより」がランキングされているのを始めてみました。今月末で2周年になります。昔、ぼくの生徒だった人や友人たちに読んでもらえれば嬉しいと身辺雑記をつづっているだけです。これからも宜しくお願いします。


 5日(木)。定例の水くみ(都幾川町)に行く途中で住吉の桜を見にいってきました。前夜、ニュースでやっていたのを妻が覚えていたのです。
近年、川縁に植えたばかりで本場・河津には及ぶべくもありませんが、里の楽しみを作ろうという人々の共同作品です。そういえば坂戸には「よさこい」もあります。単調な平野の町ににぎわいを作りだそうとする試みが活発なのでしょう。

 例によって素晴らしい写真をご覧ください。

 比企の丘からhttp://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/e/df0d17ec033916743447201e1c668a4a

 川に沿って歩いたあと、住吉神社、西光寺に寄る。たいした距離ではありませんが疲れてしまいました。午後には同じ坂戸のふるさとの湯に浸り、帰宅とともに今日も「夕寝」。

名簿づくり

2009-03-05 21:20:06 | 中国残留日本人孤児
 昨日は天候も悪く、寒い一日だったので家にこもって一日中パソコンに向かっていました。
 いつもの通り「川越だより」を出したあと、「きいちご多文化共生基金」の会員名簿づくりを始めました。「基金」が発足してまもなく2年になるというのにきちんとした名簿がないのです。
 この会の目的は中国残留孤児や脱北帰国者などのかたがたと交流を深め日本社会への定着を支援することです。難しいことは何もやりません。一緒に旅をしたり、遊んだり、学んだりします。
 会員は一年間に1000円程度以上の寄付をする事になっています。しかし、これとて「原則として」です。出来る人が出来る範囲で拠出すればいいのです。要は参加し、交流することなのです。
 ですから一度でも活動に参加した人は全て会員に登録して「移動教室」などの案内を届けます。
 参加者名簿はそのたび毎に作っていたのですが、昨日やっと、それらを統合し会員名簿を作ったのです。氏名・住所・電話番号の他に生年月日が記載されているのが特徴です。これは旅行などの際、保険にはいるときに必要だからです。
 大人から子供まで140人ほどの名前が登録されました。日本人、在日コリアン、漢人、中国帰国者(残留孤児とその家族)、モンゴル人、中国朝鮮族など様々ですが残留孤児とその家族が圧倒的多数です。
 一人一人の情報を入力しながらこれらの人との出会いや表情を思い出します。バスの旅は大家族のようだと言われた方がいますが、ぼくにとっても大切なお一人お一人です。
 名簿の完成で案内漏れがなくなるのは一安心です。忠幸さんとカツヨシサンに点検をお願いしました。

 夜になってこんどはメール便のタックシールの宛名入力に挑戦しました。娘が装置をつくってくれ、ぼくは名前や〒番号・住所を原簿からコピーして貼り付けていくだけです。やったことがないことに挑戦することに臆病この上ないのですが、やっているうちに調子に乗り、真夜中までかかってこれも完成しました。
 夕方に昼寝(?)をしているので体力もOKです。今まではぼくが宛名書きをそのたび毎にしていました。これがうまくいくと仮にぼくが出来ないときでも妻などにやってもらえます。
 きいちご基金の事務局は「前期高齢者」ばかりです。「中国語」にかかわる全て(翻訳・通訳・連絡・資料づくり)は忠幸さん。機関誌『きいちご』にかかわることはカツヨシさん。庶務・企画立案はぼく。それぞれに老化に伴う症状がありますが若い人の助力を得て与えてくれた仕事を楽しんでいます。
 近く『きいちご』第4号ができあがります。5月9日からの第9回『きいちご移動教室』の案内とともに来週末には会員の下に届けることが出来るでしょう。
 心の通う友人たちに恵まれてささやかなりとはいえ、市民としての活動を続けられることは幸せそのものです。
 
 
 

『小蓮の恋人』

2009-03-04 06:53:25 | 中国残留日本人孤児

昔、読んだ『小蓮(シャオリェン)の恋人』というノンフィクション作品を書架から探し出して再読しました。この本は井田真木子という人が92年に文春から刊行しています。ぼくは93年2月23日に卒業生・李さんの薦めで購入したと書いてあります。
 再読のきっかけは一昨夜、満智子さんと電話で話をしていて、実はこの人が「小蓮」その人であることを思い知ったからです。ぼくが満智子さんと交流するようになったのは昨年の春、中国残留孤児の支援相談員の仕事を紹介したときからです。初めてあったのは秋になって一緒に足尾にバス旅行をしたときです。いずれの時かにこのことは聞いていたのにスッカリ忘れていたのです。(ぼくの忘却力はかなりのスピードで増強されています)。
 91年9月14日、満智子さんが中国吉林省の故郷の村を10年ぶりに訪ねるところからこの物語ははじまります。驚くべきことに登場人物は全て実名で一族の集合写真が巻頭を飾っています。お母さんとお姉さんの姿もばっちりです。先のバス旅行で友達になったばかりです。
 こうなるとさすがのぼくも熱心な読者になります。昔、読んだはずなのに何一つ思い出さず、我ながらあきれます。『恋愛』と『帰郷』をテーマに残留孤児2世の若者たちの世界に切り込んだ優れたドキュメントだと思われます。

文春文庫版http://www.amazon.co.jp/gp/product/416755402X/ref=olp_product_details?ie=UTF8&me=&seller=
 

 作者の井田さんは若くして亡くなられたようです。18年経った今、満智子さんはこの作品を読み返したと言います。何かをやって自分を精一杯生かしたい、自分は何をやりたいのか? 真剣に考える人です。こんどは自分の言葉でそれを書いてみたい、とも思っているようです。
 

 この本の的確な紹介記事があります。どうぞ、参考になさってください。http://alkali.gooside.com/books/albk0307.html

 

【アルカリ】0307
99/ 09/07(火)
『小蓮(シャオリェン)の恋人』
(井田真木子・文春文庫・515円+税)

 中国残留孤児二世の青春

 中国残留孤児のことが話題になったのはいつのことだったろう。15年前? いや、もう20年も昔だろうか。

 数十年の時を経て日本人だという名乗りをあげた人たちの姿をテレビでよく見た。日本人にはとても見えない。やっぱり、中国で育てば中国人になるんだろうかと、思った。

 いつの間にか残留孤児探しのブームも去り、彼らの生活が話題になることは滅多になくなる。熱しやすく冷めやすい、世間の人たちの習いではあるけれど。

 不意に中国残留孤児の子供たちが登場した映画『新宿黒社会』を見たとき、まるで関心のなかった彼らのことが気になりはじめた。

 『新宿黒社会』の主人公は椎名桔平が演じる刑事だ。残留孤児二世として十代半ばで日本にやってきて、必死に日本語を覚え、警察大学校を卒業し警官になる。新聞が記事にするほど優等生の残留孤児二世。しかし、彼は日本で孤立無援のまま貧しい暮らしをしている両親のために汚職に手を染め、そのうえ、グレてチンピラの仲間入りをした弟のために歌舞伎町の中国マフィアと一戦交えなくてはならなくなる。主人公の姿は残留孤児ブームに湧いた頃を思うと、薄ら寒い。残留孤児ブームって一体何だったんだろう。そして、そのブームがきっかけで日本にやってきた人たちはどうなったのか。

 すっかり忘却の彼方にあった残留孤児たちの二世が、長じて日本社会とどうつきあっているのか。その気になって調べてみれば、その報道のされ方は二通りしかない。

 苦心を重ねたうえで立身出世した美談か、日本社会に溶け込めず、グレて暴力と犯罪に走る過酷な現実か。

 井田真木子は残留孤児の二世たちを描くと決めたとき、その二つのステレオタイプにはハマらない青春を描きたいと思った、という。ニュース・ヴァリューを持たないかも知れないが、リアルに近い残留孤児二世たちの姿を見てみたいと。

 そこで、東京の下町で中国総菜の弁当屋を営んでいる王家を取材する。主人公は、20歳の満智子=王成蓮。日本に移り住んで10年がたつ。彼女は、自分のなかに、20歳の日本人の自分と、10歳で成長を止めてしまった中国人の自分がいるという。そして、そのアンバランスさが苦しいと訴える。彼女の中の少女を成長させるために、著者は彼女と二人で10年間一度も訪れる機会がなかった彼女の故郷へと旅をする。

 残留孤児ブームが起こった頃、中国の農村部は極端に貧しかった。人民公社が農政を牛耳り、農民はどれだけ収穫高を上げようとも豊かにはならず、農政の失敗は容易に飢餓を招いた。

 だから、残留孤児たちは一族郎党を引き連れて日本を目指す。

 そして、その結果、彼らが日本の文化とのギャップに苦しみ、差別に悩まされようとも、故郷を捨てたという罪悪感が残った。彼らは貧しさをコネを使って脱することが出来たというわけだ。

 だから、中国が恐ろしい。自分たちが捨てた故国が。

 しかし、一方で日本の社会で彼らが得られるポジションは決して高くない。日本の学校教育のレベルの高さに、不自由な日本語でついていくのは難しい。したがって、豊かな国日本で、彼らがその豊かさを十分に享受できないということがままある。しかも、中国人の感覚では家族という概念は親類縁者に拡大していく。つまり、貧乏な家族にたくさんの人間がいる、ということだ。

 しかし、満智子の帰郷は意外な発見をもたらした。それは、人民公社がなくなり、徐々に開放政策をとりつつある中国では、かつての貧しかった村が確実に豊かになりつつあるということである。その発見は、満智子が日本と中国を結びつけていくきっかけになる。ようやく、自分のなかの中国人と日本人が折り合いをつけていけそうな希望が見えてくる。

 本書は、日本人の血を頼って海を渡った家族がどのように日本社会で生きたかを描いたノンフィクションだ。そして、その焦点を二世たちの結婚問題に絞ることで、明確に残留孤児一家の社会的ポジションを浮き彫りにする。そして、同時に異文化に戸惑いながら、たくましく生きていく人々の光と影を鮮やかに描いている。

 同性愛者たちの生き方を描いた『もうひとつの青春』では、いささか理屈っぽさが鼻についた井田真木子だが、本書は『プロレス少女伝説』と並んで、ぼくの好きな本である。彼女の作品はいずれも一筋縄では行かない多様な主題を扱っているが、本書は異文化というハードルをいかに乗り越えていくかを個性的な視点で描いたノンフィクションとして古典になっていくだろう。

 一読して、敬愛する近藤紘一の『サイゴンから来た妻と娘』ほかのシリーズを思い出した。共通しているのは、日本人がとかくうらやましがるバイリンガルが決してラッキーなばかりではないという苦い現実を描いていることだ。しかも、そこには、彼ら宿命のバイリンガルたちへの優しさが溢れんばかりにある。決して声高には語っていないけれども。

 日本人は、今も昔も、異文化に対してナイーブかつ鈍感なところがあって、そのあたりはやっぱ島国? だからなのかもしれないが、これからはどんどん変わって行くだろう。しかし、そのときに異文化コミュニケーションを甘く見ないこと! が繰り返し語られていくに違いない。本書はそういう意味でも読みごたえのある本だ。



吉野の梅郷

2009-03-03 22:31:11 | 川越・近郊
 ぱっとしない日和続きなので閉じこもっています。今夜は雪とか?
 昨日は晴れてきたので昼前に思いついて青梅の吉野梅郷に連れて行って貰いました。風があり花粉も飛ぶ一日でしたがおかげで楽しい思いをすることが出来ました。
 圏央道が開通し、家から1時間程度です。昔来たときとはイメージが変わっていて、「梅の公園」としてきれいに整備されています。

 青梅・梅の公園 http://www.omekanko.gr.jp/ume/kouen.htm

 絶景ポイントはこちらと書いてあったので天満宮の裏山に登ってみました。目の前の小高い丘に白と赤ピンクの梅の素晴らしい景観が広がっています。月曜日というのに我々のような前期高齢者を中心とする人の群れでいっぱいです。日だまりのしばふの上で弁当を広げる人もたくさんいます。今日は風があって野外の昼食は無理だろうと持ってこなかったのが少し悔やまれます。
 山を下りて向こうの丘に行こうとして、ここからが有料の公園となっていることに気づきます。一人200円也。ゆっくりゆっくりですが一番高い尾根筋の道を歩きました。越生の梅園とちがって梅畑ではありません。一山が梅の公園として行き届いた整備がされているのです。一番上から見ると吉野の桜のように自然の景観かと感じます。
 あちこちに玄海つつじの花も咲いています。今年も梅は無理かなあ(花粉のせいで)と思っていたのでほんとうに嬉しいプレゼントでした。
 帰りは青梅市街に近い塩船観音に詣で裏山をひと歩き。例によって鐘楼の鐘を撞かせて貰います。殷々と無人の(?)奥山に響きます。展望所からは富士山。ここの裏山は広大なツツジ苑です。花の頃には忘れないで訪ねたいものです。

「日本一あったかい北高校」

2009-03-02 08:24:20 | こどもたち 学校 教育
 今朝は高知のコニヤンのメールを読んで「喜び」や「嬉しさ」をしっかりと堪能する世界に引き込まれました。その事情を皆さんにも紹介します。

 <コニヤンからのメール>
拝復。
メールをありがとうございました。
すばらしい
昨日の感動の卒業式の
模様をアップしましたので
ぜひご覧下さい。
取り急ぎお礼まで。
コニヤン

 <さっそくに開いたコニヤンのブログ>

 宜しかったら皆さんも下の青い文字群をクリックしてみてください。3月1日に何があったか、が、コニヤンのこみ上げる喜びとともに知ることが出来ます。

 「感動の高知北高校定時制昼間部・夜間部の卒業式」

 http://blogs.yahoo.co.jp/gogokoniyan/47220099.html


 コニヤンがお子さんの卒業式のあと、保護者を代表して教職員に「謝辞」を述べることはその朝、知らされており、ぼくはお祝いのメッセージを送ったのでした。重なりますがコニヤンの「謝辞」を再録します。


   謝辞

保護者を代表しまして僭越ではございますが、一言ご挨拶をさせていただきます。

 私たち保護者は、子どもが日本一あったかい北高校で学んだことを誇りに思

っています。これも、ひとえに、北高校教職員の皆様のいつもあったかい、心

のこもったご指導、ご支援のおかげであると心より感謝申し上げます。



 さて、この場で、個人的なことを申し上げることをお許しください。

 私の息子のことをふりかえってみますと、北高校に入学するまでの道のりは、

親としても苦しかったし、それ以上に、息子自身は悩み、苦しんでいた時期がありました。

入学後も1年間は、私と、いろいろとぶつかりあうこともたびたびでした。

しかし、2年3年と歳を経るごとに、北高校で、あたたかい仲間や先生方と出会い、

息子は少しずつですが、人間としての幅を広げて大きく育ちました。

北高校で息子は、ほんとうに人間として生きていくために大切な「優しさ」を育んでいただき、

人間として生きていくために必要な「感性」を磨かせていただきました。

そして、「人間力」としての経験値が著しくアップしました。

 このことは、将来どのような苦しいことがあっても自分からやっていこうとする確かな

「自分づくり」となったと私は思っています。このことは、親としましても「宝物」だと思っています。

子どもの成長とともに私自身も親として、ずいぶんと成長したように思います。

私は、息子から、苦しいことがあっても、前向きに生きていこうとする

「肯定脳」という「魔法のメガネ」で世の中を見ていくことのすばらしさを教えてもらいました。

希望をもって前向きに生きていくことを教えてもらいました。

そうした、日々の心の耕しをていねいにしていただいた北高校教職員の皆様にあらためてお礼を言いたいのです。



ほんとうに北高校に行って学べてよかった、

ここにおいでの保護者のみなさんの共通の思いではないかと思います。

子どもも保護者もこの北高校で共に成長させていただきました。

本当にありがとうございました。

              

多分途中で泪のために私は、つまるだろうと予想される。

それでいいと思っている。

とにかく生のオヤジの思いを姿を

息子に伝えること。

こういう機会を与えてもらったことを

うれしく思っている。


  <お祝いのメッセージ>ぼくがコニヤンに送ったメール

息子さんが自ら選んで学んだ
学校である。この学校の何がどんな風に素晴らしかったかはぼ
くにはよく解っていないが、本人がよしとしているのであれば
その選択は正しかったのだろう。晴れの日を迎えた子と父に心
から祝福のメッセージを送りたい。
 コニヤンの言葉を受けて北高校の職員は大きな励ましを受け
ることだろう。大崎さんの心にかなった学校を創っていってほ
しいものだ。


 コニヤンの息子さんが進んだ高校が定時制昼間部の学校であることを初めて知りました。そこにはコニヤンの所を終えて入学する人たちも多いのですね。東京で言えばぼくが勤めていた新宿山吹高校のような学校です。
 コニヤンの息子さんは中学までは私立の進学校に通っています。高校生になるとき、自ら北高校を選んだとこのブログで読みました。15の少年がどんな思いから決断したことでしょうか。
 ぼくも私立の中学校の卒業生です。何時の頃からであったか学校のあり方に疑問を持ったことがあります。自ら強く望んで進学したにもかかわらず、これでいいのかという違和感のようなものを感じたのです。しかし、その疑念の根源を言葉に出来るようになるまでにはその後長い月日を要しました。
 コニヤンは北高校を「日本一あったかい」といい、「優しさ」を育んでくれたと述べています。学校の具体的な姿は見えませんがコニヤンが言っているからには社交辞令ではありません。<「優しさ」を育む>という言葉ほど、今の学校に縁の遠い言葉はないでしょう。見せかけの優しさは氾濫していますが。
 父親と葛藤しながらも父の仕事を尊敬していた15歳の息子さんの心が見えるような気がします。このまま進学したら見失ってしまうかも知れない「優しさ」という価値に彼は気づくことが出来ていたのでしょう。

 父と子がどう生きたらいいのかと切磋琢磨する世界をのぞき見て、いい思いをさせて貰いました。
 


卒業生二人

2009-03-01 11:36:36 | 友人たち
 このところ土曜日になると友人たちに電話して交流しています。働き盛りの人でも在宅している割合が高いので比較的ゆっくり話が出来るからです。

 昨日は池商OBの明子さん。学校関係のボランティアに励んでいた人ですが中年になって保育士の資格取得に挑戦している筈です。
 元気な声を久しぶりに聞きます。保育士の国家試験にはとうに合格し、近くの保育園で働いていました。四十肩の症状が重くリハビリ中だと言います。このため朝夕だけのパートタイム勤務を余儀なくされています。
 大学を卒業する長女の就職が決まり、芸大に進学した次女は母親に借金して、近くドイツに旅立つとか。二人の娘さんがそれぞれにしっかり自分の道を歩んでいる様子です。さすがに明子さんの子どもたちだなあ。ぼくも嬉しくなります。
 この人の、子どもたちを見る目の確かさをいつか『木苺』に紹介したことがあります。『太陽の子』のふうちゃんがお母さんになったのか、と書きました。自分の子供だけでなく、子どもたちに注ぐ目が公平で愛情に基礎づけられています。高校生の時から温和でおとなしそうに見えた人です。芯が強く、行動力があることに驚かされたのは比較的最近のことです。
 前々から遊びに行く約束をしていながら、昨年はぼくの入院などで行けなかったのです。5月にはコントラバスの奏者である娘さんの演奏会が上野の学校であるというので出かける約束をしました。春の楽しみが一つ増えてルンルン気分です。

 夜になって文京OBのIくんと13年ぶりに話をしました。海上自衛隊がソマリア沖に派遣されるというニュースを見て会ってみたいと思ったのです。
 彼が3年生の時、ぼくはHR副担任。政治経済の授業で憲法と自衛隊を廻って討論会をやりました。卒業後、防衛大に入り、今は海上自衛官になっているはずです。
 昔聞いた携帯番号で通じました。今は護衛艦「たかなみ」の幹部で、インド洋の給油作戦にも従事したようです。今回ははずれたがソマリア沖に派遣される可能性もあるといいます。
 近く横須賀に帰港したら、遊びに来てくれるはずです。会えれば彼の学生時代に防衛大学を案内して貰って以来です。久しぶりにゆっくり話を聞かせて貰い、意見を交流します。実現すればありがたく、嬉しい再会です。
 彼のお陰で抽象的な存在でしかなかった自衛隊がぼくの中で多少具体的な像を結ぶようになりました。当然のことながら考えに違いはあります。だからこそ気がかりで、大切な卒業生です。
 軍事のことに疎いままです。夜遅くまでパソコンで護衛艦について勉強しました。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%81%BF_(%E8%AD%B7%E8%A1%9B%E8%89%A6)