怪しい中年だったテニスクラブ

いつも半分酔っ払っていながらテニスをするという不健康なテニスクラブの活動日誌

「資本主義の終焉と歴史の危機」水野和夫

2015-03-13 07:22:48 | 
かつては私の学んでいた大学では、経済学原論はⅠとⅡがあり、近代経済学とマルクス経済学がどちらも必修単位でした。
今となっては、マルクス経済学は見る影もないのですが、その分資本主義を大きな目で俯瞰する理論が消えてしまった気がします。こうしてみるとマルクス経済学なるものはソビエト連邦という社会主義国があったからこそ政治経済学として成り立っていたもので、理論経済学としては価値がなかったものということになるのでしょうか。マルクスの言葉を微にいり細に入り検討して精緻化されたにもかかわらず現状分析にほとんど無効だった経済学というのは何だったかと思います。でも大きな目で歴史の流れを俯瞰するにはいまだ有効性のあるツールとは思っているのですが、歴史的必然性などという盲信をはぎ取ってのあくまで分析手段としての一つのツールです。
で、最近の経済書を見るとアベノミクスに賛成反対というものばかりで、長期予想と言っても1年後?そんな中でも水野和夫は超長期の視点から資本主義というものを眺めその現在と未来を俯瞰しています。
この本は週刊ダイヤモンドで2014年の経済書ランキングでベスト1をとったもの。新聞などの書評でも取り上げられていて、図書館でも予約が殺到。決して流行の売れる本ではないと思うのですが、私は年末に予約して2月以上待ってやっと先日借りることができました。

この本で資本主義を見る時のキーは「金利」。
キリスト教から利子が公認されて以降、金利の推移を見ていくと長い16世紀の利子率革命があり、今は21世紀の利子率革命の時期にあたる。利子率は資本利潤率と同じもので、16世紀にはジェノバで山のてっぺんまでブドウ畑となり投資が隅々まで行き渡って革命と言えるほど利子率が低下した。投資先がなく資本主義が資本主義として機能していない状態だったのです。
この16世紀の利子率革命では、ヨーロッパの陸の国スペインの時代から海を制したイギリスへの覇権の交代があり、新大陸などからの収奪という空間革命がおこります。海の支配を通じて先進国は途上国を支配収奪することによって、市場規模を拡大し資本利潤率=利子率を確保していったのです。
ところが20世紀後半には先進国と新興国が一体化してきて資源価格も自由にならなくなり一方的な収奪ができなくなってきました。地理的物的空間としては徐々に先進国としてのフロンティア、辺境がなくなってきたのです。
ここで20世紀末になり新たなフロンティアとして「電子・金融空間」が現われます。グローバリゼーションの名のもとに国際資本が国境を自由に超え、レバレッジを高めることによって金融による利潤の極大化を目指すということが起きました。その額はおよそ140兆ドル!回転率を考えると金融経済はこの何倍かの規模になるのですが、世界の実物経済は74.2兆ドルとか。
このグローバリゼーションは「中心」と「周辺」の組換え作業でした。途上国が成長して新興国になるとともに新たな自国の中の「周辺」としてアメリカのサブプライム層を、日本の非正規社員を、EUにおけるギリシャ(ギリシャについては著者の表現ですが少し異論があります)を必要としたのです。
しかしその電子金融空間もリーマンショックで崩壊してしまいました。
そこでバブル崩壊後の状況を打破するために日本をはじめとしてアメリカも量的緩和を導入するのですが、その結果は21世紀の利子率革命です。余剰マネーは世界を駆け回っているのですが、利益をもたらす投資先はなく行き場を失っています。新興国に過剰な設備投資が行われ、おそらく頻繁にバブルとその崩壊が起こるのでしょう。成長率が低下してきている中国はそろそろ弾けるかもしれません。
日本について言えばアベノミクスで量的緩和をやってもなかなか設備投資は増えません。あえて言えば現在の日本ではもはや需要をけん引する買うべきものがなくなっているかもしれません。成長を前提とした資本主義のシステムが終焉を迎えているのでしょうか。
ところで資本主義の誕生と16世紀の利子率革命については、経済史の議論では突っ込みどころ満載と言うか先人の分厚い論考があります。スペインが陸の大国と言うのはどうかと思われますしオランダ、イギリスがスペインからヘゲモニーを奪うことができたのは重商主義による国内産業の振興を伴ったからなのか簡単には割り切れません。収奪できる周辺が必要であり、絶えず周辺としてのフロンティアを求めていたのは確かだったのですが。
著者はすでにフロンティアがどこにもなくなった以上、資本主義は終焉すると言っています。ただしそこからどういうシステムが生まれるかについては正直にわからないということですが、ゼロ成長社会が定常社会になるのではとだけ言っています。
無理やり「周辺」を作るのではなく、「必要なものが必要な時に、必要な場所で手に入る」ゼロ金利、ゼロ成長の豊かな社会を実現できればということです。それを支える政治体制、思想、文化の姿をもたらす思想家の出現が待たれます。
新書版200ページばかりの本ですが、中身は本当に濃いです。為替がどうとか貿易赤字がどうとかという些末な議論ではなく、歴史の中での現在の位置づけを考えさせられます。
しかし、資本主義の終焉をうたっているにもかかわらず、その後の展望を明確に示せないという限り、資本主義の延命策を探る議論を止めれないとも思いますし、延命策はそれなりに意義はあるとも思います。。
ところで最近「21世紀の資本」で話題のピケティは、膨大な各国のデータをもとに資本利益率>成長率を実証して、格差はどんどん拡大するので資産課税を提言しています。野口悠紀雄など日本には当てはまらないという意見も多いのですが、この場合利子率=資本利潤率とすると今までの議論と合わないような気がします。少なくとも21世紀に入っての利子率革命の時代はどう説明するのでしょうか。大部のピケティの本を読んでいないのにこんなことを言うのもなんですけど。
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