何か永六輔の「大往生」のさらに上を行くような題名ですが、その永六輔が帯を書いています。
鎌田實流「死を語る」なのですが、いつもながら独特のユーモアにくるまれていて、笑いと涙ありであたたかな余韻に浸りながら読み終えることができます。
こんな本を書く気になったのも著者が65歳になり、そろそろいろんな店閉まいのための準備を始めたこともあるみたいです。得意だったスキーで腓骨粉砕骨折をしたというのも肉体的衰えをいやおうなしに突き付けたかもしれません。
私もこの2月で61歳になり年金受給世代に突入しました。図書館で思わず手にとって借りてしまったのも何か求める心があるのでしょう。そういえば椎名誠の「死について考える」もついこの間読んだのでした。
自分的にはまだまだ人生の元は取っていないとは思っていますが、そろそろいろいろ棚卸が必要な時期に差し掛かっては来ています。生物的にはいつ血管が詰まってもはちけてもおかしくないでしょうし、悪性新生物に浸潤されていてもおかしくありませんし、いつ事故に遭うかもわかりません。現に親しい年下の人でも理不尽にも鬼籍に入った人もいます。
それでも60歳を過ぎても死は怖くてたまらないのですが、死を学べば自由になり、いつかきっと怖くなくなる…
人間は死ぬとき4つの痛みがあるという。
「体の痛み」今はきちんと緩和ケアをすれば肉体的苦痛はかなり取り除かれるみたいです。
「心の痛み」受容できるまでには「なんで」という恨みとか恐怖にさいなまれるでしょう。
「社会的な痛み」社会の中で自分がやり残したことがあると心が痛むこと。
「スピルチュアルな痛み」この世からいなくなることの悲しみ、魂の懊悩。
自分の人生を生ききり後悔の残らないように歩んでいけば、スピリチュアルな痛みも和らぐかもしれない。でもそれって煩悩だらけの凡人には結構むつかしいよね。
死を受け止めるための練習という章で「カマタの遺書」が書いてありましたが自分の考えをまとめて書くということは大切ですが、今はこうでも先のことはわからないし、延命治療については家族は家族で本人とはまた違う思いがどうしてあります。
人工呼吸器などいらないし胃ろうなどは措いてくれるなと書いてあるのですが、助かると思う時は最善を尽くすのが周りの愛する人の思いです。
父は脳溢血で倒れて嚥下障害になり結局胃ろうを置きました。もちろんリハビリも行ったのですが、高齢ということもあり意欲もなく状況は改善しませんでした。経管栄養では家に帰ることもできず、結局胃ろうという選択になったのですが、認知は進んでいたとはいえ意識はあり受け答えもできる中では必要だったと今でも思っています。経管栄養は嫌がって何回も外してしまうし、リハビリも効果なく経口摂取はできないとなると、嚥下できないならもう栄養が取れずに衰えていくだけですとは言えませんでした。
結果は父は自宅へ退院でき1年半以上を自宅で過ごすことができました。少しでもリハビリになるかとスプーンでお酒も飲ませたのですが、あれだけ酒好きな父もスプーン3杯でもういいと限界。父本人にとってあの1年半は幸せだったのかと今でも自問自答しているのですが、家族にとっては胃ろうと選択は間違っていなかったと思っています。
この本にはいろいろな人の最後の姿が書いてありますが、改めて自分の人生の棚卸をどうするか考えさせられました。
自分の人生を振り返ってみるといろいろ恥ずかしいことも多く喜びも悲しみも怒りもありますが、今現在は私が知り合った人のすべてに感謝してお別れできればと思っています。
ところで最後の章で菅原文太さんのことが取り上げられているのですが、この本の出版は2013年7月。文太さん、昨年亡くなったのですが、この部分は図らずも素晴らしい追悼文になってしまいました。私は高倉健の網走番外地とか昭和残侠伝シリーズなどはテレビ放映されたものしか知らないのですが、仁義なき戦いは同時代として封切りで見ていてよりシンパシーを感じていました。この本に書いてある文太さんも限りある生を自分で決めて精一杯生きていこうとした覚悟は格好いい。
でも私ならやっぱり覚悟もできずにジタバタして喚きちらし、泣き暮らし、恨み言を言いながらかもしれません。そんな格好悪い姿を見せるのも一つの生き様…
まだまだ修行が足りません。
鎌田實流「死を語る」なのですが、いつもながら独特のユーモアにくるまれていて、笑いと涙ありであたたかな余韻に浸りながら読み終えることができます。
こんな本を書く気になったのも著者が65歳になり、そろそろいろんな店閉まいのための準備を始めたこともあるみたいです。得意だったスキーで腓骨粉砕骨折をしたというのも肉体的衰えをいやおうなしに突き付けたかもしれません。
私もこの2月で61歳になり年金受給世代に突入しました。図書館で思わず手にとって借りてしまったのも何か求める心があるのでしょう。そういえば椎名誠の「死について考える」もついこの間読んだのでした。
自分的にはまだまだ人生の元は取っていないとは思っていますが、そろそろいろいろ棚卸が必要な時期に差し掛かっては来ています。生物的にはいつ血管が詰まってもはちけてもおかしくないでしょうし、悪性新生物に浸潤されていてもおかしくありませんし、いつ事故に遭うかもわかりません。現に親しい年下の人でも理不尽にも鬼籍に入った人もいます。
それでも60歳を過ぎても死は怖くてたまらないのですが、死を学べば自由になり、いつかきっと怖くなくなる…
人間は死ぬとき4つの痛みがあるという。
「体の痛み」今はきちんと緩和ケアをすれば肉体的苦痛はかなり取り除かれるみたいです。
「心の痛み」受容できるまでには「なんで」という恨みとか恐怖にさいなまれるでしょう。
「社会的な痛み」社会の中で自分がやり残したことがあると心が痛むこと。
「スピルチュアルな痛み」この世からいなくなることの悲しみ、魂の懊悩。
自分の人生を生ききり後悔の残らないように歩んでいけば、スピリチュアルな痛みも和らぐかもしれない。でもそれって煩悩だらけの凡人には結構むつかしいよね。
死を受け止めるための練習という章で「カマタの遺書」が書いてありましたが自分の考えをまとめて書くということは大切ですが、今はこうでも先のことはわからないし、延命治療については家族は家族で本人とはまた違う思いがどうしてあります。
人工呼吸器などいらないし胃ろうなどは措いてくれるなと書いてあるのですが、助かると思う時は最善を尽くすのが周りの愛する人の思いです。
父は脳溢血で倒れて嚥下障害になり結局胃ろうを置きました。もちろんリハビリも行ったのですが、高齢ということもあり意欲もなく状況は改善しませんでした。経管栄養では家に帰ることもできず、結局胃ろうという選択になったのですが、認知は進んでいたとはいえ意識はあり受け答えもできる中では必要だったと今でも思っています。経管栄養は嫌がって何回も外してしまうし、リハビリも効果なく経口摂取はできないとなると、嚥下できないならもう栄養が取れずに衰えていくだけですとは言えませんでした。
結果は父は自宅へ退院でき1年半以上を自宅で過ごすことができました。少しでもリハビリになるかとスプーンでお酒も飲ませたのですが、あれだけ酒好きな父もスプーン3杯でもういいと限界。父本人にとってあの1年半は幸せだったのかと今でも自問自答しているのですが、家族にとっては胃ろうと選択は間違っていなかったと思っています。
この本にはいろいろな人の最後の姿が書いてありますが、改めて自分の人生の棚卸をどうするか考えさせられました。
自分の人生を振り返ってみるといろいろ恥ずかしいことも多く喜びも悲しみも怒りもありますが、今現在は私が知り合った人のすべてに感謝してお別れできればと思っています。
ところで最後の章で菅原文太さんのことが取り上げられているのですが、この本の出版は2013年7月。文太さん、昨年亡くなったのですが、この部分は図らずも素晴らしい追悼文になってしまいました。私は高倉健の網走番外地とか昭和残侠伝シリーズなどはテレビ放映されたものしか知らないのですが、仁義なき戦いは同時代として封切りで見ていてよりシンパシーを感じていました。この本に書いてある文太さんも限りある生を自分で決めて精一杯生きていこうとした覚悟は格好いい。
でも私ならやっぱり覚悟もできずにジタバタして喚きちらし、泣き暮らし、恨み言を言いながらかもしれません。そんな格好悪い姿を見せるのも一つの生き様…
まだまだ修行が足りません。