こんにちは浦田関夫です

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日本学術会議の歴史

2020年10月24日 06時37分36秒 | Weblog

 市が首相が、日本学術会議が推薦した会員を「任命拒否」したことで、「日本学術会議」について少し調べてっみました。

 日本学術会議が産声をあげたのは、私が生まれた1949年です。
発足にあたって掲げたのは、戦後の反省から「学問の自由」でした。
戦後の反省として、
「今後は、科学が文化国家ないし平和国家の基礎であるという確信の下に、わが国の平和的復興と人類の福祉増進のために貢献せんこと」を誓ったのです。

 戦後の反省の一つに、1933年の京都大学で、「滝川事件」があったそうです。
私もはじめて聞く事件です。
当時の政府が、「刑法読本」の著者である滝川幸辰教授を「危険思想」の持ち主だとして休職を命じたものです。

 滝川教授の学説は、
①「社会環境をよくしなければ、刑罰をいくら重くしても犯罪はなくならない」
②「妻の姦通(かんつう=不倫)だけを犯罪にし、夫の姦通を不問にするのはおかしい」
という極まともな内容です

 戦後、学術会議は政府から独立して職務を果たす機関として設立されました。
当時の吉田茂首相も設立の祝辞で、「国の機関ではありますが、その使命達成のためには、時々の政治的便宜のための制肘(せいちゅう=自由な行動を妨げること)を受けることのないよう、高度の自主性が与えられておる」と述べています。

 いま菅義偉首相は、会員の任命を拒否するという「抑圧」行為をしています。
特定の学者を排除することで「学問の自由」も侵害しています。
滝川事件当時の政府に共通する強権的な手法です。

 私は、「学問は平和のためのものでなければならない」
「そうするためには、学問思想の自由を守らねばならない」
だから、平和のためのたたかいが必要なのではないでしょうか。

 「日本学術会議のあり方」へと議論のすり替えは許されません。

 

 

 

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