内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

シモンドンと西田を繋いでくれた蝸牛 ― ジルベール・シモンドンを読む(48)

2016-04-08 06:09:04 | 哲学

 今日の記事の内容は、タイトルからも予想されるように、ちょっと「緩め」です。
 昨日の朝は、このブログの記事を投稿してから、朝七時の開門時間に合わせてプールに行きました。自宅から徒歩でも六分ほどのところにあるプールなのですが、ここ二週間ほどは自転車で行っています。行き帰りの時間を少しでも節約するためです(地下駐車場から自転車を出し入れしている時間も含めると、徒歩での行き帰りと比べて、一分ほどしか違わないのですが)。なのためにかって? 決まっているじゃないですかぁ、それだけいっそう学問に打ち込む時間を確保するためですよぉ(信じるか信じないかは読み手の自由です)。
 でも、昨日の朝は、小雨が降っていたので、傘を差して徒歩でプールに行きました(なんか、小学生の日記みたいですね)。プールからの帰り道、自宅近くの歩道で、横断中らしき蝸牛を危うく踏みつけそうになりました。最近の自分の読解ペースを蝸牛くんの移動のそれに喩えたりしていましたから、妙に親しみが湧いてきて、「お互いに頑張ろうね」という、何か同志的な気分のようなものを一方的に抱き、「踏み潰されないように気をつけるんだよ」と心内で声を掛けながら、その脇を通り過ぎたのではありました。
 さて、今日から読む段落は、「転導」という、一筋縄では行かない、しかし大変生産性に富んだ、個体化論の根本概念を、あれやこれやの類似概念から、「そやないでぇ、そんなんとは違うて最初から言うてるやん」って、シモンドン先生が一生懸命区別しようとしてはるところです。

La transduction n’est donc pas seulement démarche de l’esprit ; elle est aussi intuition, puisqu’elle est ce par quoi une structure apparaît dans un domaine de problématique comme apportant la résolution des problèmes posés.

転導とは、それゆえ、単に精神の歩みではなく、それはまた、直観でもある。というのも、すでに明らかなように、転導とは、ある問題性を持った領域に、そこに提起された諸問題に解決をもたらすものとして一つの構造がそれによって現れるところのものだからである。

 もしこの一節を西田幾多郎大人がお読みになったとしたら、どう反応しただろうと想像を逞しくしてみました。
 「そりゃぁ、まさにわしのいう行為的直観じゃ」って、思わず膝を打ち、「よう言ってくれはりましたな」ってシモンドンに即座に手紙を送ったんじゃないかなあ。あるいは、もしシモンドンが目の前にいたとしたら、「わしの言いたかったことをここまで分かってくれた人は、西洋人ではあんただけや」って、握手を求めたのではないかなあ。