内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

And the Life goes on ― たまゆらの記(九)

2014-12-31 12:00:00 | 随想

 「幽明界を異にする」という表現がある。「幽」があの世を、「明」がこの世を指し、それぞれ異なった世界に別れること、つまり死別を意味する。一般的には、「幽界」は、「冥界」「冥土」の類義語、死んだ人たちが行く世界を意味し、この世を意味する「顕界」の対義語である。
 その人は、教会に新たに据え付けるステンドグラスのデザインの基本的なコンセプトとしてデザイナーの方に「光」と伝え、牧師さんが「風」とそれに和し、デザイナーの方はその両コンセプトに基づいて見事なステンドグラスを実現してくださった。その人の病床にデザイナーの方ご自身が届けてくださったステンドグラスの写真を見て、その人は出来栄えにとても満足していた。
 残念ながら、その人には、そのステンドグラスそのものを肉眼で見る時間も体力も残されていなかったが、葬儀は、そのステンドグラスを背景として、その人自身が死の直前に選んだ、この五月に九十七歳で亡くなられた隣家の義姉の作品である陶板絵二枚が棺の左右に配され、その周りが白と紫の花々に飾られただけの、簡素だが品格ある祭壇で行われた。式中、晴れ渡った空からの光がステンドグラスを通して会堂内に射し込んでいた。
 その人は、肉体の消滅とともに幽界に去ったのではなく、これまでとは違った仕方で、その人を想うこの世に生きる者たちの間に生き続けている。

 

 

 

 

 

 


Life is good ! 善き哉、人生! ― たまゆらの記(八)

2014-12-30 12:42:54 | 随想

 その人が長年幼稚園で共に働き、そして四十年余りに渡って、常に心の支えとして、頼りとし、相談し、励まされ、その人の家族も皆、一方ならぬお世話になっている方に、その人の葬儀の中で、「送る言葉」をいただいた。それはその人のたっての願いでもあった。
 その「送る言葉」は、その方にしか書くことができない掛け替えのない文章だった。その方自身は、それを「消えていい言葉」と考えられ、その言葉が記された紙を棺の中におさめられた。しかし、その言葉は、残された家族にとって大切な宝物であり、その方にお願いして、原稿を頂戴した。
 その中で三度繰り返された言葉が今日の記事のタイトルになっている。そこには万感の思いがこもっており、聴く者たちの心を強く打たずにはおかなかった。

Life is good !
善き哉、人生!

 

 

 

 

 

 


遺言ノート ― たまゆらの記(七)

2014-12-29 11:42:12 | 随想

 その人は、今月に入ってから、身近な人たち一人一人に遺す言葉を「遺言ノート」に、丁寧な字で、思いを込めて、書き付けていった。その死後、それらの人たちは、それぞれ、自分に遺されたその人の言葉を読んだ。
 その「遺言」の宛先の一人である二十歳になる孫娘は、今、フランスにいる。その父親は、娘に、「あなたの祖母の余命は数えられている。いつ連絡が入いるかもわからない。そのつもりでいなさい」と伝えてから、帰国した。
 その孫娘は、小さい頃から中学生になる頃まで、お祖母ちゃんが大好きで、夏の一時帰国の度毎、その側を離れることなく、「お祖母ちゃんの子になりたい」とまで言っていた。その人も、孫を心から愛していた。「自慢の孫」だったと遺言ノートに記されている。
 しかし、そのどちらの所為でもない理由によって、一つ屋根の下に暮らしながら、孫娘は、祖母に対して、ほとんど口も利かないような冷淡な態度を取るようになってしまった。
 その人が亡くなってから三日後、葬儀の前日、その人の息子は、孫娘への遺言を書き写し、本人にメールで伝えた。そこには、「自立した女性になって下さい。**子なら立派に出来ます。誰の人生でもありません。**子自身のものです。人に寄りかからず、自由な心で前へ進んで下さい。きっと道は開けていくでしょう」とある。
 それを読んだ孫娘からその父親への返事は、以下のようであった。

最後にもう一度だけおばあちゃんと話す機会が欲しかったです。
素直じゃなくなっていったきっかけもはっきり覚えているし、後悔してもしきれません。
もっと早く大人になればよかった。

 こう書きながら、おそらく、孫娘は、悔恨の涙を流していたことだろう。しかし、責められるべきは、孫娘ではない。孫娘が祖母に対して素直になれなくなってしまった理由は、その両親にあるのだから。
 遺言ノートに込められたその人の願いが叶うようにこれから生きていこう、と息子は思う。息子とその娘は、来夏の帰国時に、一緒にその人の墓参りに行くことを約した。

 

 

 

 

 

 

 


償うことさえできず ― たまゆらの記(六)

2014-12-28 12:15:27 | 随想

 その人の生き方を、少しでも、たとえ拙い仕方ででも、言葉にしておきたい、と息子は思う。
 しかし、それは、贖罪のためではない。その人に歯の浮くような頌歌を捧げることや、その人を無欠の聖人として祭壇に祭りあげることで、自ら負うべき重荷を軽減したり、自分の罪を誤魔化したりしたいのではない。あたかも一つの作品のように見事に完結したその生涯は、それ自体でその人を知る人たちを今も動かし続けているのだから、それについて駄文を弄したところで何になろう。
 息子がその人にまったく不当にも負わせることになった長年の重荷と心労とは、その人の命を奪った病の、控えめに言ったとしても、大きな誘因であっただろう。その重荷と心労がなければ、その人はもっと長生きができただろう。少なくとも、晩年をもっと楽しく生きることができただろう。それに十二分に値する苦難の人生を生きてきた人だった。
 その人がもういない今となっては、もはやその人に対して償うことさえできない。








「日記」という意志 ― たまゆらの記(五)

2014-12-27 12:12:15 | 随想

 その人は、数十年にわたって、毎日、ただの一日も欠かすことなく、日記を付けていた。集文館の赤い表紙の小型三年活用新日記を愛用していた。一日八行、その日の出来事が時系列に沿って、簡潔に記されている。旅行にも携行し、旅先で付けていた。あるいは、旅先でのメモを基に後で当該日付に普段と同じように記入していた。
 死の八日前の十二月十四日、三十九年前に亡くなったその人の夫の命日まで、その日記は自筆で丁寧に記されている。とても綺麗な楷書を書く人だったが、自筆での最後二日間の字は、若干乱れている。ずっと日記用として使っていた夫の形見のパーカーのボールペンは手に持つのにもう重すぎたのだろう、その二日間は軽いフェルトペンで記されている。その後、死の四日前の十八日まで、娘に口述筆記させ、日記を継続している。
 その最後の日記に記されているのは、主治医の往診、介護用ベッドの搬入、娘婿の来訪、見舞客五名の名前、友人が持参してくれた自作のブリザードフラワーについて「素敵!」、排便・排尿の記録。「おむつ着用」、この一言で日記は途切れている。







記憶の「泉」― 覚えられた千二百人の子供たち たまゆらの記(三)

2014-12-25 13:27:00 | 随想

 その人は、単なる一在園児の母に過ぎなかった三年間を除いた、最初のきっかけであった事務手伝いというパートタイムのときから数えれば、四十年間、ある幼稚園に関わり続けた。もうすぐ八十に手が届くという年齢になって、周囲に切望され、とうとう園長になった。それを一時帰国の際に本人から聞かされた息子は、冗談混じりに、「前代未聞のすごい出世だね」と言ったら、「それどころじゃないわよ。本当に大変なんだから」と応えたその顔には、自分でやれるだけのことはやり尽くそうという静かな覚悟が感じられた。
 二〇一一年三月までの園長としての三年間は、その人の幼稚園との関わりの集大成でもあり、存亡がかかった幼稚園最大の危機を、園の先生たち・保護者たちと共に闘いつつ乗り越えた困難な時でもあった。八十歳で園長退任後も財務理事として園に関わり続け、経営の安定化に貢献し、その引き継ぎを後任者に行ったのが死の四日前であった。文字通り「生涯現役」を貫いたのである。
 その人には、物や数字で残せるような作品や業績があるわけではない。しかし、彼女を知るすべての人が驚嘆するのは、卒園生とその家族すべてについての生ける記憶である。
 卒園後十年以上たって久しぶりに園を訪ねてきた卒園生に「〇〇ちゃん、久しぶりね」と瞬時にその子を名前で呼び、満面の笑顔で迎えるのだった。「〇〇ちゃんは今どうしているのかな」と、もう四十代のはずの卒園生のことを話題にすると、たちどころに、その卒園生が今どこに住んでいて、どんな仕事をし、結婚しているのか、子供はいるのか、あるいはその他の消息について答えてくれた。昨日、最後の別れに親子三代同園卒園の祖母・母・娘三人が来てくれたとき、「自分たちが忘れていることまで先生は覚えていてくれた」と言っていた。このような例は、枚挙に暇がない。
 千二百人を超える卒園生たちとその家族は、このように、その人によって常に覚えられていた。それを可能にしていたのは、単なる記憶力のよさということではもちろんない。それは、一人一人の子どもへの湧き出るような愛情によってその深みと広がりが増し続けた記憶の「泉」である。











「すべてよし」 ― たまゆらの記(二)

2014-12-24 23:19:17 | 随想

 すでに自分の死が間近に迫っていることを明白に自覚していたその人は、連日訪れる多数の見舞客を、その都度、満面の笑顔で、「来てくれてありがとう。会えてよかったわ」と迎えながら、それらの人たちの手を両手で握り、しばらく思い出話に花を咲かせていた。そして、別れ際には、手を振りながら、「さようなら」と一人一人の方に最後の別れを笑顔で告げていた。
 その死の三日前、ふと見舞客が途切れたとき、傍らの息子が「疲れていませんか」と聞くと、「うん、疲れるけど、これは心地良い疲れ、そのお陰で夜はよく眠れる」と、目を閉じ、ふーっと深く一つ息をつき、わずかに口元で微笑むと、「すべてよし」とその人は呟いた。

 

 

 

 

 

 


花摘む乙女の呼び鈴 ― たまゆらの記(一)

2014-12-23 23:29:30 | 随想

 八四才の誕生日を迎える今月まで、癌に侵されていることを知りつつ、可能なかぎり自宅で自律した一人暮らしを続けていたその人は、今月初めより、自律歩行が困難になり、自宅での在宅医療・看護を受けるようになった。それ以来、その娘は泊まり込み、付きっきりで世話をした。海外で暮らすその息子は、十七日に帰国して、枕辺に駆けつけた。息子の帰国までは何としても生き延びようとしていたその人は、息子の手を取って再会を喜んだ。
 息子の帰国の翌日、その人は、娘と息子に、その家に百年伝わる真鍮製の花摘む乙女の形をした呼び鈴を探し出して枕元に持って来てくれるよう頼んだ。寝たきりの自分が子供たちを呼ぶためにそれを使いたいからだという。息子も娘も、自分たちが幼少の頃、庭で遊び呆けていると、夕食の準備が調ったことを知らせるためにその人が鳴らす、涼しげに夕空に響く鈴の音を覚えている。その鈴は、三十九年前に亡くなったその人の夫が海外出張に行く度に買ってきた世界各国の人形たちが所狭しと並べられた硝子張りの飾り戸棚の中にどこかにあるはずだとその人は言う。
 娘がまず探した。飾り棚の中を隈なく探したが見つからなかった。その人はそんなはずはないと言う。今度は息子が探した。息子はその飾り棚だけでなく、家族三世代の想い出が染み込んでいるサイドボードの中を探してみたが、やはり見つからなかった。「おかしいわねえ、飾り棚の中に必ずあるはずよ」とその人は言う。息子は、翌日また別の場所を探してみると、その人に約す。
 翌朝、誰よりも早く起きた息子は、まず、もう一度飾り棚を探してみようと、その前に立った。驚いたことに、昨日あれほど探して見つからなかった鈴が棚の手前に並べられた人形の間に立っている。それを手にとった息子は、笑いながらその人の枕元で、「不思議だね、鈴、棚の前列の目につきやすいところにあったよ」と、その人の目の間にかざして、鳴らせてみせた。「まるで自分で歩いて出てきたみたいだね」と冗談交じりに息子が言うと、「そうね。あなたたちが探しものが下手だから、自分で歩いて出てきたのよ」と、満足そうにその鈴を眺めながら、その人も笑った。娘にもその話をし、三人でまた笑った。
 その鈴は、その人が寝たままでもすぐに取れるところに、小さな藁の籠に入れて吊るされた。ときどき、娘や息子、隣の家に住むその人の姪が来ては、その鈴を鳴らして、昔を懐かしんだ。
 しかし、その真鍮製の花摘む乙女の鈴は、衰弱し始めたその人が手に持って鳴らすには重すぎた。三日後、その人は、その鈴を一度も鳴らすことなく、息を引き取った。鈴は、今、その人を生前見舞った人たち、死後最後のお別れに来た人たちが持ってきた花々に囲まれて、ひっそりと佇んでいる。