内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「ほんとうの故郷、ほんとうの人間、ほんとうの自分」― 種田山頭火「故郷」より

2025-02-02 09:49:03 | 読游摘録

 授業の準備の一環として、自由律俳句についてかつて書いた自分の論文を読み直していた。その論文は種田山頭火と尾崎放哉を主な考察対象としていた。引用句の確認のために、ちくま文庫版『山頭火句集』(村上護 編、1996年)をめくっていて、「故郷」と題された随筆に目が止まった。この随筆だけでなく、山頭火の多くの作品は「青空文庫」で読める。この随筆、ちくま文庫版の本文は歴史的仮名遣いで、送り仮名も今日の常用と異なるところがある。下に引用するのは、漢字語のうち、使用頻度の高い語を一定の枠内で平仮名に改めた岩波文庫『山頭火俳句集』(夏石番矢 編、2018年)の本文である(「新らしい」の送り仮名はそのまま)。

 家郷忘じ難しという。まことにそのとおりである。故郷はとうてい捨てきれないものである。それを愛する人は愛する意味において、それを憎む人は憎む意味において。
 さらにまた、予言者は故郷に容れられずという諺もある。えらい人はえらいが故に理解されない、変った者は変っているために爪弾きされる。しかし、拒まれても嘲られても、それを捨て得ないところに、人間性のいたましい発露がある。錦衣還郷が人情ならば、襤褸をさげて故園の山河をさまようのもまた人情である。
 近代人は故郷を失いつつある。故郷を持たない人間がふえてゆく。彼等の故郷は機械の間かも知れない。或はテーブルの上かも知れない。或はまた、闘争そのもの、享楽そのものかも知れない。しかしながら、身の故郷はいかにともあれ、私たちは心の故郷を離れてはならないと思う。
 自性を徹見して本地の風光に帰入する、この境地を禅門では「帰家穏座」と形容する。ここまで到達しなければ、ほんとうの故郷、ほんとうの人間、ほんとうの自分は見出せない。
 自分自身にたちかえる、ここから新らしい第一歩を踏み出さなければならない。そして歩み続けなければならない。
 私は今、ふるさとのほとりに庵居している。とうとうかえってきましたね――と慰められたり憐まれたりしながら、ひとりしずかに自然を観じ人事を観じている。余生いつまで保つかは解らないけれど、枯木死灰と化さないかぎり、ほんとうの故郷を欣求することは忘れていない。

(「三八九」復活第四集 昭和七年十二月十五日発行)

 家郷とか故郷とか、言葉としては知っていても、自分のこととして懐かしさとともにそれを実感することが私にはできない。失ったのではなく、そもそもないからだ。山頭火がいう「ほんとうの故郷」は、しかし、生まれ育った場所ではなく、「欣求」することによってはじめて見出されることもあるものなのだろう。見出せることが約束されているわけではけっしてないにしても。いや、「ほんとうの故郷」は、見出しそこに安住することが大事なのではなくて、死ぬまで「欣求」し続けることが大事なのかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「真の抒情詩としての生命的な達成」― 川口久雄『菅家文草 菅家後集』解説より

2025-01-28 00:29:33 | 読游摘録

 川口氏は、『菅家文草 菅家後集』解説の「結び、文学史的地位」を道真への深い敬愛と真率な共感がこめられた以下のような文章で締め括っている。

 道真の詩を虚心によめば、そこにいつの時代にもかわらぬ人間のかなしみ、人間の勁さと弱さ、この四季のうつりかわりのみずみずしさ、島国の自然の美しさが浮彫りされる。大和物語にみる恋愛追求の人間模様を背景に、平和な平安宮廷生活にくりひろげられる妖艶美を極めたきらびやかな文学精神の反面に、愛児を失い、両親を先立たせて慟哭する赤裸な人間性を吐露した作品、転任を余儀なくなれる役人生活の憂鬱、学者同志の嫉視反目のなかにあえぐ研究者のなやみ、教育者として学生を指導する喜びと悩み。最後に西府の謫所で呻吟するどん底人間の悲しみの告白―― 一人の人間の生涯の歴史が、彫り深く、あざやかな陰影をもって、かくも劇的に自照された例ありや。真の抒情詩としての生命的な達成がここにみられる。私は道真に対する新しい関心と批判がよびおこされることを信ずる。

 このような讃辞を捧げることができる研究対象をもった研究者は幸せであると私は思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「人間の奥底にひそむやむにやまれぬ名付けがたいもの」― 川口久雄『菅家文草 菅家後集』解説より

2025-01-26 05:39:02 | 読游摘録

 岩波日本古典文学大系の川口久雄校注『菅家文草 菅家後集』(1966年)は、大岡信の道真論にとって「最も重要な拠りどころ」である。
 幸いなことに、弊日本学科には、同大系全巻がいつでもすぐに閲覧できるように共同研究室の書架に並んでいる。教員以外、それも古文を参照する必要がある二人の同僚以外、まず誰も開きもしない。いや、近づきもしないだろう。それに、現状では、寄贈された雑多な本が大系全巻の前を覆っていて、函の背表紙さえよく見えない。そんなきわめて「良好な」保管状態なので、全巻本体はほとんど新本のようにキレイなままだ。赴任十一年目だが、この間同大系をもっともよく利用しているのは私である。
 『菅家文草 菅家後集』を先日借り出してきた。全巻寄贈されてから三十年ほどになると思われるが、今回はじめて本体が函から取り出され、開かれたのは間違いない。
 同巻の校注者、川口久雄による巻頭解説は、本文だけで六十頁に及ぶ雄編である。大岡信はこの解説について、「多くの蒙を啓かれただけでなく、校注者川口氏の道真の文学によせる情熱にいたく感銘を受けた」と称賛している。同書は現在も道真研究の基本文献の一つとされている。
 大岡信が『詩人・菅原道真』のなかに引用しているその解説の一節を摘録しておきたい。

道真は晴れのとき、おおやけのときには、これまでの日本文学にみることのできなかった繊細妖艶を極めた美の世界をことばで構築してみせた。わたくしのとき、ひとりのときには、人間の奥底にひそむやむにやまれぬ名付けがたいものに肉迫して、これに表現を与えた。彼は十世紀の列島社会において、言葉の真の意味で文学したひとりの人間といえよう。彼はわが文学史の上で、和漢ふたつの領域に出入した、まれにみることばの魔術師であり、ことばとの格闘者であった。彼の作品における和習そのものが、ある意味ではかかる道筋の軌跡ともいえよう。彼は日本人の言語表現の能力の振幅をひろげ、多様さと豊富さとをもたらした。感情の微妙さ、繊細な顫動とてりかげりを自由に表現する技術と語法とをきりひらいた。彼の作品が千年の風雪にたえて生きのこりえたのも、あながち天神信仰のせいばかりではあるまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「詩人は独りぼっちでいてくれた方がよい」― 大岡信『詩人・菅原道真――うつしの美学』より

2025-01-25 00:00:00 | 読游摘録

 菅原道真の「冬夜九詠」の最後の一篇「残燈」。

耿耿(かうかう)たる寒き燈(とぼしび) 夜(よは)に書(ふみ)を讀む

煙嵐(えんらん)の牖(まど)を渡りて 如何にかせむ

微心半(なかば)死にて 頻に挑(かか)げ進めば

(くじ)き盡(つく)す 枯れ蒿(よもぎ) 一尺餘り

 耿々たる寒燈のもと 夜ふけて書を読む

 煙霧のごとき風が窓をうって どうしたらいいのか

 わが心も灯芯もなかば死なんとして なおも芯をかきたて読み進めば

 枯れよもぎの灯芯はついに燃え尽きてしまった一尺余り

 この詩そのものが心深く浸み込んできたばかりでなく、この詩についての大岡信の評釈にも私は心を打たれた。それは、ひとりの詩人が詩の制作現場でもうひとりの詩人と対話しているかのようである。その一節を省略なしに引用する。

 「微心」は、自らの心と燈火の芯とのダブル・イメージでしょうが、この「微心半死頻挑進」という一行は、詩句の内側からむくむくと渦が湧き立ってくるような運動の美をもっています。それが次の「折尽枯蒿一尺余」の詩句に向かってのしかかり、一緒にどっと倒れ伏す感じを生み出しているのは、みごとというほかありません。

 道真はこういう内省的で瞑想的な詩において、あきらかに現代の詩人です。つまり今もなお生きている詩人です。

 中国の詩に深く学び、模倣を通じてその形式をわがものとし、官僚としての自身の生活に密着取材することを通じて詩の中身を独創的なものに鍛えあげ、つまりは「うつし」そのものにおいて独創性を発揮したのが、菅原道真という詩人の生成過程の、秘密でも何でもない秘密だったのだと言えるでしょう。

 この人の悲劇に終った生涯は神話化されるにふさわしいものでしたが、私はこの詩人の詩を読むことを通じて、彼の神話を解体し、制作現場の詩人を呼び戻そうと思うのです。その観点からすれば、詩人は独りぼっちでいてくれた方がよい。透明度が高いからです。道真の讃岐が、そして大宰府が重要なのはそのためです。

 


この世での「居場所のなさ」を生きてゆくということ ― 浮舟と紫式部の場合

2025-01-03 17:04:19 | 読游摘録

 『源氏物語』に登場する数多くの女性たちのなかでも浮舟ほどこの世の中での「居場所のなさ」に苦しめられた女性はいないでしょう。彼女は受肉せる「居場所のなさ」だとさえ言いたくなるほどです。
 浮舟の母君は、娘の身の上を「中空に、ところせき御身なり」と嘆いていますし、浮舟自身、「降り乱れ汀に凍るう雪よりも中空にてぞわれは消ぬべき」などという絶望感に打ちひしがれた歌を詠み、「まろは、いかで死なばや。世づかず心うかりける身かな。かくうきこともあるためしは、下種などの中にだに多くやはある」(「私はなんとかして死んでしまいたい。世間でも聞いたことのないほどのつらい身の上だもの。こんなにつらい目に遭う人は、下々の者の中でもそうはいないでしょうに」角田光代訳)と言って、突っ伏してしまうのですから。
 浮舟は、薫と匂宮との板挟みに苦しんだ挙げ句、川に身を投げる決意をするわけですが、入水には至らずに、行き倒れているところを横川僧都らの一行に救助されてしまいます。死ねないのです。ついに出家して平穏な日々が続くかと思いきや、薫の使いがやってくる。それを受けて僧都は浮舟に還俗を勧める始末です。でも、彼女はそれに屈しない。
 そんな浮舟だからこそ、「だれにも拠らずに生きてきた浮舟には、『源氏物語』に登場した女性たちが持てなかった未来も、またあるのではないか」(角田光代訳『源氏物語 8』(河出文庫、2024年、「文庫版あとがき」)という見方も出てきます。
 そもそも作者である紫式部自身、この世には自分の居場所がないという実存感覚に生涯何度も苦しめられた人であったことが『紫式部日記』『紫式部集』を読むとわかります。
 角田光代氏は前出の「文庫版あとがき」で次のような興味深い考察を提示しています。

 おちぶれた女性が、何にも属することなく生き、生きる場所を得て、その場所を失いそうになったとき、さて彼女はどうするのか――。源氏物語を書きはじめた最初からそう思っていたとは私は思わない。途中から、紫式部のなかで書きたいことが変わったのだと想像する。
 母を失い、姉を失い、友を失い、夫を失い、宮仕えをせざるを得なかった作者は、書くことによって、「紫式部」となった。もしかしたら、一度自身をも失ったのち、自分に向けて歌を書き連ねることで自身を獲得していった浮舟は、作者の分身と考えることもできるかもしれない。

 山本淳子氏は『紫式部ひとり語り』(角川ソフィア文庫、2020年)のなかで次のように紫式部に自問させています。

 寡婦であったときには寡婦の「身」のつらさがあった。女房となれば女房の「身」のつらさがある。それだけではなく、女房生活によって私は否応なく価値観を塗り替えさせられた。「本当の私」だと思っていた私が、内側から変わってゆく。私の本当の居場所は、どこなのだろう。

 そして、山本氏は、「現実に適応しない心なら、その居場所は虚構にしかない」(『紫式部日記』角川ソフィア文庫「解説」)と、この世での居場所のなさが紫式部を創作へと向かわせた起動因であると見ています。しかし、それは虚構への逃避ではありません。

いづくとも 身をやるかたの 知られねば うしと見つつも ながらふるかな

 この歌は、「居場所のない」この世をそれと知りつつ生き続ける覚悟が晩年の式部にはできていたことを示してはいないでしょうか。この歌の評釈については、2014年12月1日の記事2024年2月7日の記事を参照していただければ幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「居場所がない」と感じるのは現代人だけではない ―『源氏物語』のなかの形容詞「所狭し」の数例を手掛かりとして

2025-01-02 23:59:59 | 読游摘録

 「居場所」という言葉の用例をあれこれ調べていて、まだ漠然とした印象の域を出ないのですが、近年、いや、もう少しだけ正確に言えば、二十一世紀に入ってから、かなり重要な意味づけとともにこの語を使う例が増えているように思われます。
 現代日本語のなかで増している「居場所」という言葉の「重み」は、現代日本社会のなかで「居場所」と名指される時空間の喪失が引き起こす問題が深刻化していることの反映だと言えそうにも思えます。
 「居場所」という言葉の翻訳での使用例を少し調べてみて、この言葉に対する感性の世代間の違いもあるのかも知れないと思うようにもなりました。
 昨日の記事で取り上げたパスカルの『パンセ』の訳について言えば、長年高く評価されてきた定番的な前田陽一訳(1966年)では、「居場所」の使用例はゼロです。それに対して、最新訳である岩波文庫の塩川徹也訳(2015年)では、昨日言及した箇所を含めて、四例を数えます。ただ、私見では、「居場所」が最適の訳語かどうかは必ずしも自明ではありません。ですが、その問題には今日の記事では立ち入りません。
 別の例を挙げると、『源氏物語』の現代語訳のなかでも近年特によく読まれている瀬戸内寂聴訳(初版1998年)と角田光代訳(2017年)とを比べてみると、前者で「居場所」という言葉が用いられているのはたった一箇所(夕顔)であるのに対して、後者では六箇所で用いられています。しかも、前者の使用例は「現在居る場所」「居どころ」というニュートラルな意味に過ぎません。1964年刊行の玉上琢彌訳では三箇所で用いられていますが、やはりいずれも「今居る所」という意味です。「自分の家なのに居場所がない」とか「クラスに居場所がない」とか「この世界(あるいは社会)に自分の居場所はない」といった現代的な用法ではありません。
 ところが、角田訳では、玉上訳や瀬戸内訳と同様な意味での用例もニ箇所ありますが、その他の四例は登場人物のこの世での在り方にかかわる箇所で以下のように用いられています。「この世に自分の居場所などない」(宿木)「中将の君は居場所もないように思い」(宿木)「この世に私の居場所はない」(宿木)「この娘は本当に頼りなく、居場所もない身の上なのだ」(浮舟)の四例です。
 この四例のうち、「中将の君は」云々(原文は「はしたなく思ひて」)を除く三例の原文では、「所狭し(ところせし)」という形容詞が用いられています。この形容詞およびその派生形は『源氏物語』だけでも60例以上あり、どの学習古語辞典もかなり詳しく説明しているいわゆる重要基本古語の一つです。
 『古典基礎語辞典』でも一頁三段組のうちの二段分を超える量のスペースが「所狭し」の解説と語釈に割かれています。その解説を読むと、「所狭し」には「居場所がない」という表現ではカヴァーできない意味領域もありますが、「いる場所が窮屈である。自由勝手にできない、身の置き所がない、あるいは肩身が狭い、などの居心地が悪く苦しい感情を表すことも多い」とあるように、まさに「居場所がない」に対応する意味で用いられている用例もあることがわかります。
 古語「所狭し」の用例のいくつかから、「居場所がない」と感じるのは現代人固有の感覚ではなく、時代の如何に関わりなく、この世に棲まう人間を襲いうる実存感覚であると言えそうです。
 しかし、まさにそうであればこそ、現代人が感じる「居場所のなさ」の特異性はどこにあるのかという問いは、安易な一般化に陥らない仕方で問われなくてはなりません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


視線は身体の一部である ― プラトン『ティマイオス』より

2024-12-29 08:26:58 | 読游摘録

 ある本を、拙論のなかである議論を構成するための一齣としてその一節を利用するという浅ましい魂胆を離れて、虚心坦懐、とまで言えばこれは明らかに言い過ぎになるが、特にこれという目的もなく探しものもなく読むことで、実利のために読んだときには印象に残らなかった箇所がおのずから目に飛び込んでくるということがある。
 今回、今月の文庫新刊のなかで気を引かれたというだけで購入した『ティマイオス』を読んでいてそういうことが昨日あった。さっと一読みして、「あっ、これ、面白い」と直感的に思った箇所があった(45b-46a)。視線は身体の一部である、より詳しくは、自己身体の内部の火である視線は日の光の中で外なるものと同族として一体となり、全体として一つの身体を形成する、という話である。ちょっと長い引用になる。

 神々は器官の中でも光をもたらす眼を最初に作り上げて据えつけましたが、それは以下のような原因によってでした。すなわち、火の中でも焼くことはできないが、穏やかな(へーメロン)光をもたらすことはできるもの、日々の昼間(へーメラ)にふさわしいものを、神々は身体(眼の一部)となるように工夫しました。というのも、私たちの内部にはそれと兄弟である混じりけのない火があって、神々はそれが眼を通って流れ出るようにしたからです。その際、眼全体も滑らかで稠密なものにしましたが、とりわけ眼の中心部分を圧縮して、〔その組織よりも〕粗い他のものはすべて堰き止め、先に述べたような純粋な火だけが通り抜けるようにしました。それゆえ、視線の流れの周囲に昼間の光があるときには、似たものが似たものへと飛び出していって一緒になり、眼から一直線上に、内から出ていくものが外からやって来るものと衝突して抵抗する方向へと、同族のものとなった一つの身体が形成されました。すると、その身体全体は同質なので、作用も同様に受けることになり、自分が何に触れようと、他の何が自分に触れようと、それらのものの運動を、その身体全体を通して魂まで伝達し、私たちがそれによって見ると言っている感覚をもたらしました。
 しかし、夜になって同族の火が退くと、それ(視線)は断ち切られてしまいました。なぜなら、それは似ていないものに向かって出ていくので、自分が異なったものとなって消えてしまうからです。隣接する空気は火をもっていないので、それと一緒に結びつくことがもはやできないからです。したがって、それは見ることをやめ、さらに眠りを誘うものとなります。というのは、神々が視覚を保護するために工夫した瞼というものが閉じるときには、それは内部の火の力を閉じ込めるので、その力が内部の運動を分散させて均等にし、運動が均等になると平静が生じるからです。その際、生じた平静が大きいときには夢の少ない眠りがやって来ますが、何か比較的大きい運動がまだ残っているときには、それがどんなもので、どこにのこっているかによって、それに応じた種類と量の幻が生じます。その幻は、内部で映し出されたものなのに、目覚めたときには外部にあったかのように思い出されるのです。

 この所説を鵜呑みにするわけにはいかないけれど、「世界の見方を学び直す」(メルロ=ポンティ『知覚の現象学』序文)ための一つの契機には充分になると思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「唯一無二の宇宙」― 『ティマイオス』の宇宙論的プラトニック生態学

2024-12-28 09:57:23 | 読游摘録

 『ティマイオス』(講談社学術文庫)の紙版の書誌情報によると、本文は304頁であるから、訳者自身が「訳者あとがき」で言っているように、「分量的には小著」である。しかも、『ティマイオス』本文の訳自体は本書全体の半分以下であり、訳注が約2割を占め、訳者解説は3割を超える。この例外的な構成は、『ティマイオス』の内容そのものの哲学的「質量」の大きさとその解釈史の厚みと奥行きが桁外れであることを示している。
 訳者解説の冒頭で訳者は『ティマイオス』の哲学史的な位置づけを次のように説明している。

 現代のプラトン研究者に、プラトンの主著は何かと尋ねたら、おそらくたいていの人は『国家』と答えるだろう。確かに、『国家』にはプラトン哲学のエッセンスが詰め込まれており、質量ともに主著と呼ばれるのにふさわしい。それにもかかわらず、プラトニズムの長い歴史から見れば、プラトンの対話篇の中で最も大きな影響力をもった著作は『ティマイオス』であった。神による宇宙の制作とさまざまな自然学的理論が論じられる本書は、プラトンの対話篇の中ではむしろ特殊なものと言えるが、古くからプラトンの信奉者たちによって重視されてきた。とりわけ、前一世紀から後三世紀にかけてのいわゆる中期プラトン主義と、それに続く新プラトン主義の時代には、この書はプラトンの著作の中でも特権的な地位を占めてきた。古代後期から中世を通じてのプラトニズムの歴史は、『ティマイオス』の解釈史だったと言っても過言ではない。この伝統が近代まで及んでいることは、例えばラファエロの有名な壁画《アテネの学堂》の中で、プラトンが手にしている書物が『ティマイオス』であることに象徴的に現れている。

 博士論文の中で西田幾多郎における〈場所〉について考察する箇所で、『ティマイオス』の中で初めて「コーラ」(chôra)という語が出てくる一節(52a-b)を参照したことがある。参照した Luc Brisson の仏訳(GF Flammarion, 1992. 現在入手できるのは2017年刊の改訂第6版)当該箇所には今でも付箋が貼ったままになっている。その箇所を土屋睦廣氏の新訳で引用しよう。

 以上のことがそのとおりだとすれば、次のことに同意しなくてはなりません。すなわち、第一には、同一を保つ形相が存在します。それは生じることも滅びることもなく、自分の中によそから他のものを受け入れることもなく、自分がどこか他のものの中に入ってこともなく、目に見えず、他の仕方で感覚されることもないもので、これを考察することは知性の働きの役割です。これと同じ名で呼ばれ、これに似ているのが第二のものです。これは感覚されるもの、生じるもので、常に動いていて、ある場所に生じては再びそこから滅び去っていくもので、感覚とともに思惑によって捉えられるものです。また第三に、常に存在している場の種類があります。これは消滅を受け入れることなく、生成するすべてのものに居場所を提供し、感覚によらずに何かの非嫡出の理性の働きによって触れられるもので、かろうじて信じられるものです。まさにこれに目を向けながら、私たちは夢を見て、こんな主張をします。「存在するものはすべて、どこかある場所に、何らかの場を占めてあるのでなければならない。地上にも天にも、どこにもないようなものは、そもそも何も存在しないのだ」と。

 博論では、プラトンの〈コーラ〉との違いを際立たせることで西田の〈場所〉について論じることが目的だったが、そのような狭隘な目的を離れて、今こうして久方ぶりに『ティマイオス』を清新な日本語訳で読み直すとき、生態学的観点という別の新たな光のもとにプラトンの宇宙論が立ち現れてくるような気がする。
 『ティマイオス』の美しい最終節を引いて今日の記事を閉じることにする。

 それでは、これで万有に関する私たちの話は今やすでに終わりに来た、と言うことにしましょう。というのも、この宇宙は、死すべき生き物と不死なる生き物を受け取って、このようにして満たされ、目に見える生き物を包括する、それ自身、目に見える生き物として、知性の対象の似像である感覚されうる神として、最大で、最善で、最も美しく、最も完全なものとして生まれたからです。これこそが、唯一無二の宇宙なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「愛をつかみながら、そして愛につかまれないように無私に愛することは難しい」― ウィトゲンシュタイン『哲学宗教日記 1930-1932 / 1936-1937』より

2024-12-27 09:26:02 | 読游摘録

 講談社学術文庫の今月の新刊ニ冊、ウィトゲンシュタイン『哲学宗教日記 1930-1932 / 1936-1937』(鬼界彰夫訳)とプラトン『ティマイオス』(土屋睦廣訳)の電子書籍版を22日に購入。
 前者の原本は2005年に講談社から刊行され、長らく品切れのために入手困難だったが、今回若干の修正を施して学術文庫化された。後者は学術文庫のための新訳。「プラトニズムの歴史は『ティマイオス』の解釈史にほかならない」(訳者あとがき)にもかかわらず、これまで文庫版の日本語訳はなかった。どちらもまことに慶賀すべき出版だと思う。
 今日は前者から摘録する。
 この日記は、ウィトゲンシュタインの死後40年以上の歳月を経た1993年に発見された。本書はその全訳である。この発見以前にはその存在すら知られていなかったこの日記は、「これまで十分に明らかでなかったウィトゲンシュタインの内的な精神生活、彼の宗教体験、そして彼の哲学的変遷の過程に新しい光を当てるものである」(訳者の「はじめに」より)。
 「『論理哲学論考』から『哲学探究』への巨大な思想的変遷を実現するために哲学者が潜り抜けなければならなかった魂の内的な葛藤と闘いの、血がにじみ出るような生々しい記録だと言うことができるだろう」(「学術文庫版まえがき」より)。
 「『哲学探究』という書物に関心のある読者に対して本日記は、この高名な哲学書に隠されながらもどこかに漂っている著者の実存の響きというものが生み出された現場を提示するだろう。だが何より本日記は、哲学的思考の可能性というものが思考者自身の生(実存)の質に深く依存していることを身をもって示すことにより、哲学がいかに真剣なものなのか(ものであらざるをえないのか)を我々に教えるものだ(同「まえがき」より)。
 この日記の第一部(1930‐1932)が書き綴られていた当時、ウィトゲンシュタインには愛する女性がいた。マルガリート・レスピンガーである。1926年に当時ウィトゲンシュタインが居候していた姉マルガレーテ・ストロンボー邸で二人は出逢い、交際が始まった。マルガリートは、1904年4月18日スイスのベルン生まれ、裕福なスイス人実業家の子女。1930年4月26日、41歳の誕生日を迎えたウィトゲンシュタインは彼女から誕生日プレゼントとしてハンカチを贈られる。その日の日記にウィトゲンシュタインはこう記している。

 私の頭はとても興奮しやすい。今日マルガリートから誕生日にハンカチをもらった。どんな言葉であっても、そのほうが私にはもっとうれしかっただろうし、そしてキスだったらさらにもっとうれしかっただろうけど、それでも私は喜んだ。
 今生きている人間の中で、彼女を失うことは私にとって最も大きな打撃だろう。私は軽はずみでこう言っているのではない。というのも私は彼女を愛している、あるいは愛したいと願っているからだ。

 しかし、5月9日の日記にはこう記している。

私は R.[マルガリート・レスピンガー]に夢中だ。もちろんずいぶん前からそうなのだが、とりわけ今激しく夢中なのだ。けれども、十中八九絶望的だということはわかっている。つまり、いつ何時彼女が婚約し、結婚するかもしれない、という覚悟を私はしなければならないのだ。そしてそれが私にとってきわめて大きな苦痛になろうことはわかっている。だから、いつか切れてしまうことがわかっているこの紐に自分の全体重をかけるべきでない、ということもわかっている。つまり私は両足で大地にしっかりと立ち続け、紐はただつかむだけにしておき、それにぶら下がるべきではないのだ。でもこれが難しいのだ。愛をつかみながら、そして愛につかまれないように無私に愛することは難しい。――うまく行かなくなったとき、それを負けゲームと見なす必要がなく、「心構えはできていた、それでも事は申し分ない」と言えるように愛することは難しい。

 マルガリートへの愛は、ウィトゲンシュタインに、喜びと同じほど、あるいはそれ以上に、苦しみを与えるものであったようである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「この世界の中に何らか統計学と「必然性」以外のものを発見しようという希望を棄てることを欲しない人たち」― レフ・シェストフ『悲劇の哲学』と九鬼周造『偶然性の問題』より」

2024-12-19 13:17:26 | 読游摘録

 昨日話題にしたル・モンド紙の記事のうち授業で翻訳の課題対象としたのは最初の三分の一くらいで、学生たちの日本語訳はおよそ800字前後である。
 その部分の最後の一文は、 « les statistiques qui fondent les calculs des algorithmes tendent à réduire le possible au probable, et que cela est en contradiction avec la singularité de la langue, qui est une condition de toute pensée véritable. » となっている。「アルゴリズム計算の基礎となる統計データは、可能性を蓋然性に縮小する傾向があり、このことは、すべての真の思考の条件である言語の特異性と矛盾する」というほどの意味である。
 「ありうること」を過去のデータに基づいて「ありそうなこと」へと還元してしまうのが統計であり、それに基礎を置くアルゴリズム計算は、人間の真の思考の条件であるところの、これまではなかったけれども「ありうる」ことを考えるができるという言語の特性とは相容れない。筆者はそう言いたいのであろう。
 この一文で言及されている言語の特異性について、同記事の後続部分にさらに立ちった説明があるわけではないから、これ以上突っ込んでもしょうがないのだが、アルゴリズム計算は必ずしも思考の自由を妨げるわけではなく、むしろそれを基礎づけもするのであるから、このような一面的な論拠によってAIに対して人間の自由で創造的思考を擁護することは難しいと思う。
 ただ、統計データ、蓋然性、さらには必然性のみに依拠し、偶然性を排除してしまうことが思考の自由、創造的な発想、未知なるものとの邂逅へと開かれた心などを萎縮させてしまうということはあるだろう。
 九鬼周造は『偶然性の問題』の序説で、レフ・シェストフの『悲劇の哲学』なかの言葉を借りて、「我々は「この世界の中に何らか統計学と「必然性」以外のものを発見しようという希望を棄てることを欲しない人たち」に属する」と宣言している。九鬼が参照しているのは『悲劇の哲学』の仏訳(1926年)で、 その原文は « ceux qui ne veulent pas renoncer à l’espoir de découvrir dans le monde autre chose que la statistique et la « nécessité » » (Léon Chestov, La philosophie de la tragédie, Le Bruit du Temps, 2012, p. 49) となっている。
 AIがあらゆる分野を席巻する現代、「偶然性の存在論的構造と形而上学的理由とをでき得る限り開明に齎すことを願う」『偶然性の問題』は新たな光の下に読み直されるべきときなのかも知れない。