内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

灰色の冬の日の夕暮れに聞こえた幻聴 ― モーリス・ド・ゲランと和泉式部との間の微かな共鳴

2024-11-09 15:50:05 | 読游摘録

 フランス19世紀前半の日記に関する記事は今日で一旦終わりにする。このテーマはしかし私にとってはライフワークのようなものであるから、またいずれ立ち戻ることになるだろう。
 Michèle Leleu, Les journaux intimes, PUF, 1952 は、18世紀末から20世紀前半にかけて主にフランス語で書かれた日記についての最初のまとまった研究である。それは当時の心理学的知見に基づいた性格学的日記研究で、研究対象となった九十ほどのテキスト(その中には日記というカテゴリーに入れること自体に議論の余地があるものも含まれているが)をその性格において大きく三つのカテゴリーに分類し、そのいずれにも該当しないテキスト群を別立てでまとめ、さらにそれぞれのカテゴリーをいくつかのサブ・カテゴリーに分けて、それぞれにその特徴をテキストに即して考察するという細密な方法を採用している。
 しかし、ジョルジュ・ギュスドルフが指摘しているように(Georges Gusdorf, Les écritures du moi. Lignes de vie 1, Odile Jacob, 1991, p. 61)、それぞれの日記が書かれた時代についての歴史的考察には欠けている。
 この本の中には考察対象となった日記の本文が多数引用されており、それだけで貴重な資料にもなっている。ただし、そのなかには孫引きもあり、原典にまで遡って確認作業が行われていない引用もある。
 モーリス・ド・ゲランにもしばしば言及されており、その日記や書簡からの引用も少なくない。その一つが友人 Barbey d’Aurevilly 宛1838年4月11日付書簡の引用である。ただ、この引用はフランソワ・モーリヤックの日記からの孫引きである。この文章には、夭折した詩人モーリス・ド・ゲランの性格がよく表れていると思う。

Je déborde de larmes, moi qui souffre si singulièrement des larmes des autres. Un trouble mêlé de douleur et de charme s’est emparé de toute mon âme. L’avenir plein de ténèbres où je vais entrer, le présent qui me comble de biens et de maux, mon étrange cœur, d’incroyables combats, des épanchements d’affection à entraîner avec soi l’âme et la vie et tout ce que je puis être ; la beauté du jour, la puissance de l’air et du soleil, tout ce qui peut rendre éperdue une faible créature, me remplit et m’environne. 

Michèle Leleu, op. cit., p. 67.

私は涙で溢れかえっている。私はかくもひどく他の人たちの涙に苦しむ。痛みと魅惑が入り混じった混乱が私の魂全体を占拠している。これから私が入ろうとしている暗闇に満ちた未来、善と悪で私を満たす現在、私の奇妙な心、そこでは信じられないような数々の戦いが繰り広げられ、魂と命そして私がそうでありうるすべてを引きずっていく愛情がほとばしる。日の美しさ、大気と太陽の力、か弱い生き物を狂おしいまでにかき乱すあらゆるものが私を満たし、取り囲んでいる。

 この一節を読んだとき、和泉式部の名歌「冥きより冥き途にぞ入りぬべき」(この歌については今年5月4日の記事を参照されたし)とのまったく思いがけない共鳴を微かに聞く思いがした。それはしかし灰色の冬の日の夕暮れに老生の耳にだけ響いた幻聴に過ぎないかとも疑われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


消えゆく日々の痕跡を記すことに時を費やすのは、神から恵まれた時を無にすることではないのか ― ウージェニー・ド・ゲラン『日記』より

2024-11-08 08:49:15 | 読游摘録

 『集英社世界文学大事典』(デジタル版)にはモーリス・ド・ゲランが立項されている。

フランスの詩人。散文詩の創始者の一人。南フランスのアルビ近郊ル・ケイラの館に生まれる。6歳の時に母を失うが,その代償を5歳年上の姉ウージェニー・ド・ゲランに見いだす。トゥルーズの神学校に入り,のちパリに出てコレージュ・スタニスラスに学ぶ。この時から故郷に残るウージェニーへ宛てた手紙が書き始められ,姉弟の「書簡集」が形成されることになる。1832年冬,ブルターニュのラムネーに合流して宗教的共同生活を送り,同時に内面的日記『緑の手帖』Cahier vert の執筆も始まる。翌年9月ラムネーと別れてパリに戻り,文学的活動を期待したが,「ヨーロッパ評論」誌等二,三の雑誌への執筆だけで生きていけるわけもなく,スタニスラス校で教鞭を執りながら,苦しい生活を送る。35年ごろに,散文詩の先駆とされる『サントール』Le Centaure を書き始めるが,モーリス自身これがどういうジャンルに属することになる作品であるのか,特別の意識はなかったと思われる。引き続いて同様の散文作品『酒神祭尼(ラ・バツカント)』La Bacchante(『日記・書簡・詩』所収)が書かれた。弱っていた身体に無理が重なり,36年ごろから結核の徴候を見せ始める。一時的に健康を回復した38年11月,植民地帰りの18歳になる娘カロリーヌ・ド・ジェルヴァンと結婚するが,幸福な時期は短く,翌年7月,モーリスはル・ケイラの館で没する。ジョルジュ・サンドの手により40年の「両世界評論」に『サントール』が発表され,さらにスタニスラス校時代の友人バルベー・ドールヴィイ,ギヨーム・スタニスラス・トレビュチヤンによって遺作が整理され,『遺稿集』Reliquiae(61),『日記・書簡・詩』Journal, lettres et poèmes(62)が出版された。

 この記述の中に出てくる5歳年上の姉ウージェニー・ド・ゲラン(1805‐1848)も同事典に立項されている。

フランスの女性詩人。詩人モーリス・ド・ゲランの姉。南フランス,アルビ近郊のル・ケイラの館に生まれ,神への深い信仰と,5歳年下の弟モーリスに対する愛情とのうちに,その生涯を送った。彼女自身の作品というものはなく,弟と交わされた書簡,弟の生前書き続けられた日記があるのみである。没後,バルベー・ドールヴィイらにより編集された『日記と書簡』Journal et Lettres(1862)が発表され,深い感性と優れた散文詩人としての才能が認められた。

 ウージェニーの日記は弟のそれとほぼ同時期に出版された。この日記はフランスで出版された個人の私的日記としては最初の商業的な成功を収めた。Philippe Lejeune & Catherine Bogaert, op. cit. は、おそらくその成功はこの日記が詩的感性と敬虔な態度との一つのお手本として若い女性たちに薦められたことに特に因るであろうと推測している。
 日記を人間以上に親愛な伴侶とした弟のモーリスと違って、姉のウージェニーは日記が自愛への誘惑という危険を孕んでいることに気づいており、日記に溺れかける自分を戒めるような記述が見られて興味深い。彼女の日記の一部はKindle版があり無料で読める。30歳の誕生日を3週間後に控えた1835年1月7日、こう記している。

C’est toujours livre ou plume que je touche en me levant, les livres pour prier, penser, réfléchir. Ce serait mon occupation de tout le jour si je suivais mon attrait, ce quelque chose qui m’attire au recueillement, à la contemplation intérieure. J’aime de m’arrêter avec mes pensées, de m’incliner pour ainsi dire sur chacune d’elles pour les respirer, pour en jouir avant qu’elles s’évaporent.

 子供の頃から一人物思いに耽ることが多かったようで、浮かんでは消えていく思いを味わうことに時を過ごすことに淫してしまう自分を冷静に見ている。同年3月1日にはこう記している。

Voilà bien longtemps que mon journal était délaissé. Je l’ai trouvé en ouvrant mon bureau, et la pensée d’y laisser un mot m’a reprise. Te dirai-je pourquoi je l’ai abandonné  ? C’est que je trouve perdu le temps que je mets à écrire. Nous devons compte à Dieu de nos minutes, et n’est-ce pas les mal employer que de tracer ici des jours qui s’en vont  ?

 消えゆく日々の痕跡を記すことに時間を費やすことは神から恵まれた時間を無にすることではないのかと自問する。しかし、彼女の心は揺れている。日記に今の自分の日々を記すことには抗しがたい魅惑がある。

Cependant j’y trouve du charme, et me complais ensuite à revoir le sentier de ma vie dans ma solitude. Quand j’ai rouvert ce cahier et que j’en ai lu quelques pages, j’ai pensé que dans vingt ans, si je vis, ce serait pour moi plaisir délicieux de le lire, de me retrouver là comme dans un miroir qui garderait mes jeunes traits. Je ne suis plus jeune pourtant, mais à cinquante ans je trouverai que je l’étais à présent. Ce plaisir donc, je me le donne.

 日記を再び開き、かつて書かれた自分の文章を読めば、そのときの自分がまるで鏡のなかにその当時の自分の姿を見るように映っている。今から二十年後、もし私がまだ生きていたら、今日の記事を読むことで、たとえそのときもう若くはなくても、若かった自分を再び見出して、うっとりとすることだろう。
 しかし、1848年に43歳で亡くなった彼女にはその機会は訪れなかった。それでも、こう記した日から数年後に日記を読み返して、若き日を懐かしむ甘美な時を恵まれたこともあったかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


弱き魂に寄り添う最愛の伴侶としての日記 ― モーリス・ド・ゲラン『緑の手帳』

2024-11-07 12:33:53 | 読游摘録

 Philippe Lejeune & Catherine Bogaert, Le journal intime. Histoire et anthologie によると、フランス革命期から1860年代まで、フランスで個人の日記が出版されることはなかった。そもそもそのような発想そのものがなかった。それは、この時期、自分のためだけに付ける日記が流行する一方、日記を付けている人たちが他者の日記を読む機会はまったくなかったということである。それぞれ自分だけの日記という親密な言語空間のなかで秘かに言葉を紡いでいた。
 当時夭折した詩人、モーリス・ド・ゲラン(Maurice de Guérin, 1810‐1839)は近年評価されるようになって全集も刊行されている。ゲランにとってその日記『緑の手帳 Le Cahier vert 』は、人間以上に信頼できる魂をもった親友、いや、最愛の伴侶であった。1834年4月20日にゲランはこう記している。

O mon cahier, tu n’es pas pour moi un amas de papier, quelque chose d’insensible, d’inanimé ; non, tu es vivant, tu as une âme, une intelligence, de l’amour, de la bonté, de la compassion, de la patience, de la charité, de la sympathie pure et inaltérable. Tu es pour moi ce que je n’ai pas trouvé parmi les hommes, cet être tendre et dévoué qui s’attache à une âme faible et maladive, qui l’enveloppe de son affection, qui seul comprend son langage, devine son cœur, compatit à ses tristesses, s’enivre de ses joies, la fait reposer sur son sein ou s’incline pas moments sur elle pour se reposer à son tour ; car c’est donner une grande consolation à celui que l’on aime que de s’appuyer sur lui pour prendre du sommeil ou du repos.

Œuvres. Le Cahier vert, Pages sans titre, Poème, Lettres à Barbey d’Aurevilly, édition de Marie-Catherine Huet-Brichard, Classique Garnier, « Classiques Jaunes », 2011, p. 119.

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日記の美学 ― 草稿と生成の美学、あるいは完成を目的としない持続の美学

2024-11-05 18:46:18 | 読游摘録

 昨日までの三日間引用したマルク=アントワーヌ・ジュリアンの日記論に関する一節は私にとってはとても興味深かったが、Philippe Lejeune & Catherine Bogaert, Le journal intime. Histoire et anthologie には他にも編者によるさまざまに刺激的な考察が鏤められていて、なかなかの好著だと思う。
 折に触れての思索を手帳に記すという習慣をもっていたモラリストである Joseph Joubert (1754-1824) に関心をもつようになったのも本書のなかのほんの僅かな彼への二回の言及おかげである。その一つを引用する前に、集英社世界文学大事典(電子版)のジョセフ・ジュベールの項をまるごと引用する。

フランスのモラリスト。ドルドーニュ県モンチニャックに生まれ,トゥルーズに学び,のちパリに出て,ダランベール,レチフ・ド・ラ・ブルトンヌ,ディドロらと知り合い,フォンターヌと親交を結ぶ。恐怖政治期はパリを離れるが,総裁政府成立後戻って,シャトーブリヤンを知り,やがて彼の『キリスト教精髄』などの著作に助言を与えることになる。結婚により経済的保証を得た彼は,一時フォンターヌの後援で視学官の地位に就く(1809)が,生涯,静穏な生活を送った。しかし彼は出入りしたボーモン夫人 Pauline de Beaumont のサロンで,会話の才により評判となるものの,社会的名声を得たわけではなく,その完璧主義の故にまとまった著作を残したわけでもなかった。随想集『パンセ』Pensées(1838)は,彼が書き残した断編を,その死後シャトーブリヤンがまとめ,刊行したものである。考察の対象は,政治,文学,哲学と多岐にわたり,その理知は静謐な雰囲気を漂わせて,時代の党派的熱狂とは無縁である。「共和制は君主制の病の唯一の治療法であり,君主制は共和制の病の唯一の治療法だ」(1791)。またその表現は比喩を多用しユーモアと詩情に富む。「私の精神と性格は寒がりだ。穏やかな寛容という温度が必要なのだ」(1802)。シャトーブリヤンは彼を「ラ・フォンテーヌの心をしたプラトン」と評した。ラ・ロシュフコーの圭角とは対照的であろう。彼の『書簡集』Correspondance(49)も思考と文体の明晰において卓越するが,その文業の全容が明らかになったのは死後100年を経た,『手帖』Les Carnets de Joseph Joubert(1938)の刊行による。

 上掲書のなかのジュベールへの二つの言及箇所のうち特に私の注意を引いたのは以下の一節である。

La forme du journal déplace l’attention vers le processus de création, rend la pensée plus libre, plus ouverte à ses réflexion autant que son résultat. Dès le début du XIXe siècle, Pierre-Hyacinthe Azaïs avait été sensible à cette nouvelle dynamique et l’avait théorisée. Cette esthétique du brouillon et de la genèse explique en partie la progressive intégration du journal, depuis le XIXe siècle, dans le canon des genres littéraires, et le goût du public pour les carnets d’écrivains, ou pour les penseurs qui, de Joseph Joubert à Émile Cioran, ont fondu journal et maxime et daté leurs pensées. D’une manière plus générale, on peut dire que, dans beaucoup d’activités humaines, le journal est une méthode de travail. (op. cit., p. 31)

 日記という形式は思考の創造過程へと注意を向かわせ、思考をより自由にし、その結果におとらず内省活動そのものにも開かれたものとする。そこに一つの美学、草稿と生成の美学の誕生を見ることもできる。あるいは、完成を目的としない持続の美学とも言うことができるかもしれない。このような認知が日記を文学の一つのジャンルへと昇格させる。かくして、日記は日付をもった省察録というそれ固有の地位を獲得する。日記は、一つの思考の形であり、思考の方法であるとも言えよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


オンリー・サイテーション・モード‐19世紀フランス社会における日記の効用について(3)日記の功利主義的善用

2024-11-04 23:59:59 | 読游摘録

 昨日の記事で見たような日記を全部つけるとなると毎日相当の時間をそのために割かなくてはならないではないか。それでは毎日の自分の振る舞いを効率的に自己管理するというそもそもの日記の目的に反するのではないか。こうした疑問は当該の日記帳刊行当時からあったようだ。それに対してマルク=アントワーヌ・ジュリアンは次のように答えたという。

 À l’objection du temps requis par ce travail, il répondait que ce n’était pas si long (ne perd-on pas beaucoup de temps dans une journée ?) et que c’était un bon investissement (on y gagne plus qu’on n’y perd). Par exemple au sujet du Biomètre : « De même qu’on s’habitue sans peine à remonter sa montre, tous les matins ou tous les soirs, on peut, avec une égale facilité, inscrire sur notre livret, chaque matin, à se lever, ou le soir, avant de se livrer au sommeil, les emplois des vingt-quatre heures qui ont précédé. » Marc-Antoine Jullien est intarissable sur les avantages de sa méthode. Elle donnera à chacun – ce sont ses mots – un miroir moral, un thermomètre moral, une montre morale, une boussole morale, un ressort moral, une balance morale, un panorama moral et un guide moral… (op. cit., p. 93)

 私たちが毎日習慣的に行っているその他のことと同じで、決まった時間に同じように行えばたいした時間は取らないし、日記をつけることは、それによって失うものよりも得るもののほうが大きい。要するにこれが彼の言いたいことで、引用の最後の一文に見られるようないろいろな言葉を連ねて自身の考案した日記帳のメリットを喧伝しているが、一言で言えば、我が日記帳は、自身の毎日の生活と行動を管理するのに役に立つ道具あるいは計測器のようなものとして機能すると言いたいのである。
 19世紀前半の日記帳の流行には、このような功利主義な発想も働いていたことを見逃してはならないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


オンリー・サイテーション・モード‐19世紀フランス社会における日記の効用について(2)自分のことを第三人称で日記に記す効用

2024-11-03 21:31:28 | 読游摘録

 昨日の続きを引用する。

Marc-Antoine Jullien proposait donc de tenir en parallèle les trois livres suivants : un Mémorial analytique, ou Journal des faits et observations, où l’on pouvait développer longuement chaque jour un ou deux faits intéressants. Il était conseillé d’y écrire en parlant de soi à la troisième personne, comme d’un étranger, sous des noms convenus qu’on pouvait changer à volonté. « On n’est pas retenu par aucune considération d’amour-propre, de respect humain, de fausse modestie, de vanité ou d’orgueil » ; un Agenda général, ou Livret pratique d’emploi du temps, lui-même divisé en six sous-livrets, où l’on enregistrait sommairement tous les faits de la vie quotidienne, avec, à la fin de chaque mois, une « Revue du mois » ; un Biomètre, purement quantitatif et chiffré, où l’on évaluait le temps passé chaque jour à chaque type d’occupation. (op. cit., p. 92-93) 

 マルク=アントワーヌ・ジュリアンは、次の三冊を並行して保管することを提案した。一冊は「分析的メモリアル」あるいは「事実と観察の日記」。そこには、毎日一つか二つの興味深い事実をじっくりと展開することができる。 彼が勧めるのは、自分自身について、まるで他人のことのように、自由に適当な名前を付けながら第三人称で書くことである。 こうすれば、「自己愛、人への忖度、偽りの謙虚さ、虚栄心、プライドなどなど、いかなるものにもとらわれない」で書けるだろうという。一冊は「一般的な日記」あるいは「実用的な日課帖」。それ自体は六つの小冊子に分かれており、そこには日常生活のあらゆる事実が要約して記録される。それらに加えて、もう一冊は毎月末に付ける「今月のレビュー」。 これは「バイオネーター」とも呼ばれ、純粋に定量的で数値化された記録で、一日に各種の所用に費やした時間の評定をする。
 自分のことを第三人称で書くというアイデアは確かに試してみるに値するように思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


オンリー・サイテーション・モード‐19世紀フランス社会における日記の効用について(1)

2024-11-02 18:51:32 | 読游摘録

 18世紀末からフランス社会の日常生活のなかで日記がどのような役割を果たすようになったのか。それを垣間見るために、先日言及した Marc-Antoine Jullien の日記論を Philippe Lejeune & Catherine Bogaert, Le journal intime. Histoire et anthologie, Textuel, 2006 から引用する。

À partir de la fin du XVIIIe siècle, le journal apparaît comme un moyen d’éducation, moral, mais aussi pratique. En observant avec précision l’emploi de son temps au cours de la journée, on peut l’utiliser mieux, corriger des excès, rétablir des équilibres. C’était l’idée de Marc-Antoine Jullien (1775-1848), homme d’action (dès l’âge de dix-sept ans, il se met au service de la Révolution) et de pensée (il est l’auteur de traité d’éducation, inspirés en partie de Pestalozzi). Son œuvre clé, Essai sur l’emploi du temps (1810), expose une méthode de surveillance dont on peut penser qu’elle est l’équivalent, pour le temps, de ce qu’est pour l’espace la méthode proposée en 1790 par l’Anglais Bentham (son « panoptique », projet d’architecture nouvelle pour les prisons, où, d’un point central, on peut voir tout ce qui se passe). Il propose d’appliquer à la vie individuelle les trois méthodes qui ont fait le succès de la civilisation moderne : la méthode religieuse et philosophique de l’examen de conscience et de conduite ; la méthode militaire d’inspection ; et la méthode commerciale de tenue des livres en partie double. Il a publié à cet effet des séries de livres qu’il suffisait de remplir en suivant les indications. Son plan d’éducation est destiné d’abord aux jeunes garçons (de quinze à vingt-cinq ans) des classes supérieures. A-t-il été appliqué à grande échelle ? C’est difficile à dire, mais il indique une tendance. Et l’œuvre d’importants diaristes comme Maine de Biran (1766-1824) et Amiel (1821-1861) porte trace de son influence. (p. 92)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


すべての人間存在にとって原初的な所与である「体感」と近代固有の倒錯的「自体愛」との境界線はどこに引かれるべきか

2024-10-18 15:06:08 | 読游摘録

 先日話題にした Georges Vigarello の Le sentiment de soi. Histoire de la perception du corps XVIe – XIXe に出てくる cénesthésie という概念についてスタロバンスキー の論文 « Le concept de cénesthésie et les idées neuropsychologiques de Moritz Sciff », Gesnerus, numéro spécial, Histoire de la nature et des sciences naturelles, vol. 34, 1977 が参照されている。すぐに読みたいと思ったのだが、同誌の電子版はないようで、ストラスブール国立大学図書館にでも出向いて閲覧するしかない。
 それは万聖節の休みまで待つとして、スタロバンスキーの他の著作にも cénesthésie への言及が見られるかも知れないと思い、電子書籍版を所有している Le corps et ses raisons, Éditions du Seuil, coll. « La Librairie du XXIe siècle », 2020 を検索してみたら十箇所以上ヒットしただけでなく、巻末の事項索引にもちゃんと立項してあった。しかし、この本で、cénesthésie  という概念が十九世紀に登場する経緯については、上掲の論文への参照が求められており、詳しいことはわからない。
 ただ、cénesthésie についての言及箇所がもっとも多い巻頭論文 « Médecins et philosophes à l’écoute du corps » の終わりの方で « où tracer la ligne de démarcation entre une cénesthésie, qui serait l’une des données primaires de toute existence humaine, et une écoute du corps, qui serait, elle, la conséquence, hypocondriaque ou perverse, d’un investissement narcissique ou auto-érotique ? » という問いは避けがたいとしているのが注目される。
 「(内的)体感」がすべての人間存在にとって原初的な所与であるのに対して、「身体の声を聴くこと」がナルシシズムや自体愛というヒポコンドリーや倒錯的傾向の結果でもありうるとき、両者の境界線はどこに引かれるべきか、という問いである。
 身体の声に過度の注意を払うことは、外界との生き生きとした接触を阻害し、いわば自己身体への「ひきこもり」を引き起こしかねない。言い換えれば、身体の声があまりにも大きく体内で反響しているとき、それは魂の衰弱の徴なのかも知れない、ということである。


内側から感じられている〈からだ〉の居場所で自己感は育まれる

2024-10-12 08:56:57 | 読游摘録

 昨日の記事の終わりで予告したように、まず『ケアとは何か』のなかから「自己感」という言葉使われている表現及び文章を拾い上げてみる。

自己感が失われて孤独のうちに閉じ込められる苦痛のモード

〈からだ〉の緊張をゼロにすることが自己感の回復につながるという考え方

〈からだ〉の感覚にもとづく自己感

社会のなかで生きる私たちにとって、一対一の人間関係でつくられる自己感はごく一部であり、そのほとんどは複数の人と共に居る環境で生まれる。

居場所は、自己感が育まれる場所でもある。周囲の人が自分のことを深く知っている場合も知らない場合もあるだろうが、見守りの連続性とあるがままの存在の肯定がそこにはある。

仲間が見守るなかで、語りながらたどっていく自己の歴史の再認識というプロセスが、新たな自己感を生み出す。

ウィニコットは、この「誰かの前で独りになる力」が、自己感の形成にとって非常に大事なステップになると論じた。

 昨日の記事のなかの言及箇所および上掲の引用箇所での「自己感」の用例から帰納的にまず導けることは、自己感は自己一人では形成されえない、ということである。自分独りで自己感を形成することはできない。自己感は他者との共同性を前提とする。孤独あるいは孤立は自己感を喪失した状態である。
 自己感は複数の他者との関係性のなかで形成される。しかし、それは、自己のあり方はつねに他者たちによって規定あるいは制約されているということではない。むしろ他者から見守られている場所に包摂されてこそ、人は自己の〈個〉としての存在を肯定することができ、創造性を発揮することができる。
 自己感は〈からだ〉と不可分である。この〈からだ〉も同書のキーワードの一つだが、〈からだ〉とは、外から観察された身体ではなく、本人に内側から感じられている身体のことで、つねに〈こころ〉と混じり合い、両者の境界は曖昧である。
 この〈からだ〉は、それ自体で実体として存在するものではなく、それが「居る」あるいは「居られる」場所においてはじめて安定的に形成されうる。
 この〈からだ〉において感じられている感情・情念・情動が自己感の内実を成す。これらの内実がそれとしてまるごと生きられかつ表現されうるとき(つまり見守られ表現できる場所があるとき)、自己感は安定的である。ところが、なんらかの内的あるいは外的要因によってそれらが抑圧・否定・無視され表現の場所を失うとき、自己感は不安定化する。表現の場所(つまり居場所)の喪失が決定的となれば自己感は崩壊する。
 端的に言えば、自己感とは、私たちが内側から感じている〈からだ〉のことだ。
 この〈からだ〉についての理解を深めるために、明日の記事では、『ケアとは何か』には登場しない概念 cénesthésie を補助線として導入する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「自己感」あるいは「見守られている中で独りになれること」について

2024-10-11 08:27:27 | 読游摘録

 村上靖彦氏が「自己感」という概念にその著書の中で言及するときは、明示的にであれ暗示的にであれ、ウィニコットの sense of self を参照しており、この意味での自己感は「ホールディング(抱っこ)」構造において形成される。ウィニコットは、乳幼児の母子関係をモデルにこの構造についての考察を展開しているが、村上氏によれば、「ホールディングは、抱っこによって愛情を注ぎ、体を支えることだけを指すのではない」(『母親の孤独から回復する』 以下引用及び参照は同書に拠る)。「ミルクを与えること、温度を保つこと、刺激を減らすこと、といった環境を安定させるためのすべての気遣いの総称である」。「乳児期の母子関係だけでなく、人間のあらゆる成長段階で潜在的にこの構造が確立されていることが心身の健康の要件になる」。
 村上氏はそこからさらにグループが生むホールディングまで考察を拡張する。村上氏は自身がフィールドワークを行った「MY TREE西成グループ」というプログラムで学んだことを基に次のように述べる。このグループは、重い虐待に追い込まれた母親を対象としているが、多くの参加者は自分自身が暴力や虐待の被害者でもある。このプログラムは、もともとは職権保護や公的機関の介入による同意で分離された親子の再統合を促進することを意図して考案された。

そこでは暴力や貧困に苦しむお互いの人生を聴き、語り、声を出し、声をかけられるグループが、互いに互いをホールドする。そのとき、グループは(かつては出会い損ねて外傷となった)出来事との出会い直しを可能にする。ホールディングとは、言語を絶するような出来事を受けとめるための構造のことでもある。

 同書には、ウィニコットを直接参照しながら自己感に言及している箇所がもう一つある。マーガレット・リトルという、幼少期のネグレクトと環境の混乱に由来する後遺症から深い抑うつに陥っていた女性のウィニコットによる治療過程が述べられている箇所である。

(三時間のセッションの中で)ほぼ二時間の沈黙ののちにようやく患者が現実感を獲得し、その場をウィニコットと共有できるようになる場面が描かれている。静かな状態から出発することで初めて自己感を見出し、創造的な活動ができることを、ウィニコットはさまざまな臨床事例の中で観察してきた。思考を働かせる手前にある落ち着きは、思考を用いた創造的活動の基盤となる。「見守られた中で独りになれること」が創造性の出発点になる。つまり、見守られる中で「私はいる」と自己を見出すことが、傷についての深く自由な語りを可能にする。私たちの人生は「独りから始まる」としても、つながりの回復を通して「独りになれる」強さに変化する。

 明日の記事では『ケアとは何か』の中からやはり自己感に言及されている箇所を拾い出し、そのうえで自己感についての私見を述べることにする。