フランス19世紀前半の日記に関する記事は今日で一旦終わりにする。このテーマはしかし私にとってはライフワークのようなものであるから、またいずれ立ち戻ることになるだろう。
Michèle Leleu, Les journaux intimes, PUF, 1952 は、18世紀末から20世紀前半にかけて主にフランス語で書かれた日記についての最初のまとまった研究である。それは当時の心理学的知見に基づいた性格学的日記研究で、研究対象となった九十ほどのテキスト(その中には日記というカテゴリーに入れること自体に議論の余地があるものも含まれているが)をその性格において大きく三つのカテゴリーに分類し、そのいずれにも該当しないテキスト群を別立てでまとめ、さらにそれぞれのカテゴリーをいくつかのサブ・カテゴリーに分けて、それぞれにその特徴をテキストに即して考察するという細密な方法を採用している。
しかし、ジョルジュ・ギュスドルフが指摘しているように(Georges Gusdorf, Les écritures du moi. Lignes de vie 1, Odile Jacob, 1991, p. 61)、それぞれの日記が書かれた時代についての歴史的考察には欠けている。
この本の中には考察対象となった日記の本文が多数引用されており、それだけで貴重な資料にもなっている。ただし、そのなかには孫引きもあり、原典にまで遡って確認作業が行われていない引用もある。
モーリス・ド・ゲランにもしばしば言及されており、その日記や書簡からの引用も少なくない。その一つが友人 Barbey d’Aurevilly 宛1838年4月11日付書簡の引用である。ただ、この引用はフランソワ・モーリヤックの日記からの孫引きである。この文章には、夭折した詩人モーリス・ド・ゲランの性格がよく表れていると思う。
Je déborde de larmes, moi qui souffre si singulièrement des larmes des autres. Un trouble mêlé de douleur et de charme s’est emparé de toute mon âme. L’avenir plein de ténèbres où je vais entrer, le présent qui me comble de biens et de maux, mon étrange cœur, d’incroyables combats, des épanchements d’affection à entraîner avec soi l’âme et la vie et tout ce que je puis être ; la beauté du jour, la puissance de l’air et du soleil, tout ce qui peut rendre éperdue une faible créature, me remplit et m’environne.
Michèle Leleu, op. cit., p. 67.
私は涙で溢れかえっている。私はかくもひどく他の人たちの涙に苦しむ。痛みと魅惑が入り混じった混乱が私の魂全体を占拠している。これから私が入ろうとしている暗闇に満ちた未来、善と悪で私を満たす現在、私の奇妙な心、そこでは信じられないような数々の戦いが繰り広げられ、魂と命そして私がそうでありうるすべてを引きずっていく愛情がほとばしる。日の美しさ、大気と太陽の力、か弱い生き物を狂おしいまでにかき乱すあらゆるものが私を満たし、取り囲んでいる。
この一節を読んだとき、和泉式部の名歌「冥きより冥き途にぞ入りぬべき」(この歌については今年5月4日の記事を参照されたし)とのまったく思いがけない共鳴を微かに聞く思いがした。それはしかし灰色の冬の日の夕暮れに老生の耳にだけ響いた幻聴に過ぎないかとも疑われる。