授業の準備の一環として、自由律俳句についてかつて書いた自分の論文を読み直していた。その論文は種田山頭火と尾崎放哉を主な考察対象としていた。引用句の確認のために、ちくま文庫版『山頭火句集』(村上護 編、1996年)をめくっていて、「故郷」と題された随筆に目が止まった。この随筆だけでなく、山頭火の多くの作品は「青空文庫」で読める。この随筆、ちくま文庫版の本文は歴史的仮名遣いで、送り仮名も今日の常用と異なるところがある。下に引用するのは、漢字語のうち、使用頻度の高い語を一定の枠内で平仮名に改めた岩波文庫『山頭火俳句集』(夏石番矢 編、2018年)の本文である(「新らしい」の送り仮名はそのまま)。
家郷忘じ難しという。まことにそのとおりである。故郷はとうてい捨てきれないものである。それを愛する人は愛する意味において、それを憎む人は憎む意味において。
さらにまた、予言者は故郷に容れられずという諺もある。えらい人はえらいが故に理解されない、変った者は変っているために爪弾きされる。しかし、拒まれても嘲られても、それを捨て得ないところに、人間性のいたましい発露がある。錦衣還郷が人情ならば、襤褸をさげて故園の山河をさまようのもまた人情である。
近代人は故郷を失いつつある。故郷を持たない人間がふえてゆく。彼等の故郷は機械の間かも知れない。或はテーブルの上かも知れない。或はまた、闘争そのもの、享楽そのものかも知れない。しかしながら、身の故郷はいかにともあれ、私たちは心の故郷を離れてはならないと思う。
自性を徹見して本地の風光に帰入する、この境地を禅門では「帰家穏座」と形容する。ここまで到達しなければ、ほんとうの故郷、ほんとうの人間、ほんとうの自分は見出せない。
自分自身にたちかえる、ここから新らしい第一歩を踏み出さなければならない。そして歩み続けなければならない。
私は今、ふるさとのほとりに庵居している。とうとうかえってきましたね――と慰められたり憐まれたりしながら、ひとりしずかに自然を観じ人事を観じている。余生いつまで保つかは解らないけれど、枯木死灰と化さないかぎり、ほんとうの故郷を欣求することは忘れていない。
(「三八九」復活第四集 昭和七年十二月十五日発行)
家郷とか故郷とか、言葉としては知っていても、自分のこととして懐かしさとともにそれを実感することが私にはできない。失ったのではなく、そもそもないからだ。山頭火がいう「ほんとうの故郷」は、しかし、生まれ育った場所ではなく、「欣求」することによってはじめて見出されることもあるものなのだろう。見出せることが約束されているわけではけっしてないにしても。いや、「ほんとうの故郷」は、見出しそこに安住することが大事なのではなくて、死ぬまで「欣求」し続けることが大事なのかも知れない。