内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

都市の勃興・市民階級の成立と贖罪の場としての煉獄の誕生とダンテの「煉獄篇」

2024-06-24 04:51:27 | 読游摘録

 「煉獄」という言葉は聖書にはない。煉獄という考え方は十二世紀半ばにカトリックの教義に取り入れられたことは一昨日の記事で見た。「聖書に帰れ」を標榜するプロテスタントはだから煉獄を認めない。ダンテの時代にも煉獄の場所や構造が確定していたわけではない。
 講談社学術文庫版『神曲』(全三巻、2014年)の訳者原基晶氏による「「煉獄篇」を読む前に」から、「煉獄篇」がそのなかで構想された歴史的文脈とダンテが煉獄を構想した理由とを簡潔に記している箇所(「煉獄篇」p. 7-8)を摘録しておく。

 キリスト教が興ってから長期間、死後の世界は天国と地獄の二つに分かれていた。これは世界が貴族とそれ以外の人々の二つに分かれていたことを反映している。その中では、聖職者はまだ一つの階級を構成していなかった。なぜなら彼らもまた貴族出身の支配者以外の何者でもなかったからだ。ところが、商業経済が栄えて封建制の農業経済にとって代わり、都市が勃興してくると、第三の勢力である市民が台頭してきた。
 こうして社会が、上層階級(貴族・高位聖職者)、中間層(都市市民)、下層階級(農民や都市労働者)に分かれると、死後の世界も、天国、煉獄、地獄の三階級に分かれた。高貴ささえ貴族の占有物としないダンテにとって、高貴とは、血統でも、教皇に代表される聖職者として神に近いことでもなく、生き方の問題となり、それとともに死後の世界における人の高貴さの判定も複雑になった。ダンテにとって、多種多様で複雑な人生に死後の世界を対応させるためには、贖罪の場である煉獄が必要だったのである。
 ダンテの煉獄は、それまでよくあったように地下にあるのではなく、地上で最も高い山の頂、天国のすぐそばにある。そして煉獄の魂は、生前に犯した七つの大罪を七つの円状をなす環道において罰を受けて償い、贖罪は債務に例えられ、その精算が終わると天国に昇天する。煉獄の罰は地獄のようでありながら、そこでの滞在時間は犯した罪の重さによって計られ、それは都市の商人の合理主義を思い起こさせる。
 もしも人の生が、『神曲』冒頭で述べられているように、天国へと向かう歩みであるならば、煉獄とは、ここに見られるようにまさしく生の延長である。実際、煉獄だけは永遠ではなく、最後の審判の後では無人になる。まるで現世のように。そして地上の世界に平和をもたらし、人々が神、つまり天国を思って生きる世界を実現するというダンテの満たされなかった願望は、煉獄にその場所を持つこととなった。煉獄はダンテによってはじめて確固たる存在になったとされるが、それは、彼の願望が一つの世界となって結晶したものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「近代ヨーロッパ」の陰に隠された非キリスト教的ヨーロッパはどこに見出されるか

2024-06-23 04:17:29 | 読游摘録

 煉獄の観念がキリスト教世界において成立する以前と以後の違いについて、阿部謹也の『西洋中世の罪と罰』(講談社学術文庫、2012年、原本1989年、弘文堂)から関連箇所を摘録する。

煉獄の観念が成立する以前においては、死後の人間が行く場所は天国か地獄のいずれかでしかなかった。教義に基づいていえば、キリスト教信者にとっては亡霊や幽霊は存在しないことになるのである。

『黄金伝説』や中世の説話集などにおいては、死後の人間の運命が明瞭なかたちで説かれていた。現世においてなした善行や悪行に基づいて、死後審判が行われ、善人は天国へ悪人は地獄にいくという構図ができあがっていた。しかし中世都市の台頭と商業経済の復興のなかで利子の問題が浮上し、利子を全面的に禁止することが不可能となった状況のなかで、煉獄の構想が生まれている。もとよりル・ゴフが明瞭に述べているように、煉獄の構想それ自体はかなり古くからあったのだが、十二世紀に最終的に煉獄のイメージが定着することになる。このころから、すでにみたように死後、煉獄で苦しむ死者のイメージがあらゆる文献に現れ出し、死者は常に生者に対して救いを求める哀れな姿で登場する。

 ここで阿部が参照しているのがル=ゴフの『煉獄の誕生』であるのは言うまでもなかろう。
 カロリング・ルネサンス期にキリスト教会は国家権力と結びついて、民間信仰の世界に激しい攻撃を加える。しかし、それにもかかわらず、死者に対する古来ゲルマン的な考え方は消え去ってしまうことはなかった。それを示す民話、民謡、口承伝承には枚挙にいとまがないほどで、『西洋中世の罪と罰』のなかにもいくつか紹介されている。そのうえで阿部はこう述べている。

話の本質にはキリスト教は何の関係もなく、古ゲルマン以来の伝承が口頭伝承の形で今日まで伝えられたものと考えられる。「アイスランド・サガ」からこれらの話へと続く死者のイメージの群れと、天国・地獄・煉獄のなかで生まれた哀れな亡霊のイメージの群れとの間には大きな隔たりがあり、両者の関係についてもこれまでのところまったく説明されてはこなかった。

 煉獄の公認による中世キリスト教世界における宗教的世界観の変化、その変化と社会経済の構造的変化との不可分の関係、それらの変化にもかかわらず生き残った非キリスト教的民間伝承のなかの死者のイメージを重層的に捉えるとき、いわゆる近代ヨーロッパの陰に隠された非キリスト教的ヨーロッパを垣間見ることができる。
 『西洋中世の罪と罰』の最終章第七章「生き続ける死者たち」の最後の段落を全文引く。

「贖罪規定書」にみられるような教会による日常生活への厳しい介入は、公的な部分でのヨーロッパを形成するのに大きな力をもっていた。それがなかったら今日のヨーロッパはありえなかったであろう。ヨーロッパにおいては教会に代表される力が世俗権力と結んで圧倒的な力をもち、個々人の生活にも介入しながら国家や教会が団体としての人間ではなく、個人としての人間を捉えようとしたてんにヨーロッパ社会の独自な性格が生まれる最大の原因があった。その意味で、一二一五年の告解の強制はヨーロッパ史のなかで重要な一歩だったのである。上から強制されるという形をとりながらも、ヨーロッパではそのとき以来個人の人格が認められ、共同体と個人の間に一線が画されたからである。以上のような観察は、わが国の歴史をふりかえるときのひとつの参考になるであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


西洋中世キリスト教世界における煉獄の公認の社会思想史的・哲学思想史的衝撃

2024-06-22 13:19:21 | 読游摘録

 煉獄の思想の萌芽はアウグスティヌスに見られるが、キリスト教の教義のなかに本格的に組み込まれるのは十二世紀になってからのことであり、ローマ・カトリック教会によって正式に教義として認可されるのは、1274年のリヨンの公会議においてである。同年トマス・アクィナスが亡くなっており、この年を中世キリスト教史の一つの転回点とみなす研究者たちもいる。マイスター・エックハルトがドミニコ会エルフルト修道院の修練士になったのは1275年と推定されることが多いが、前年とする説もある。ダンテがベアトリーチェを初めて見かけたのも1274年だとされる。
 社会経済史的には、ジャック・ル=ゴフによれば、煉獄の思想の確立は、悪徳とされた高利貸しの救済を可能にし、それが資本主義の誕生に貢献した(La naissance du Purgatoire, Gallimard, 1981,『煉獄の誕生』法政大学出版局、1988年)。しかし、本人これを挑発的な見解だと断ってはいる。

J’ai même avancé l’opinion provocatrice que le Purgatoire, permettant le salut de l’usurier, avait contribué à la naissance du capitalisme.

 この変化は高利貸しに限られたことではなく、煉獄の公認は、それ以前はキリスト教世界で伝統的に罪深いとされてきた職業に携わっている人たちにも地獄からの救済の可能性が開かれるという大きな社会的変化をもたらした。

Une des fonctions du Purgatoire a été en effet de soustraire à l’Enfer des catégories de pécheurs qui, par la nature et la gravité de leur faute, ou par l’hostilité traditionnelle à leur profession, n’avaient guère de chances d’y échapper auparavant.

 思想史的には、天国か地獄かという二項対立的世界観とは異なる、両者の間の媒介項を認める三項的世界観の公認を意味し、そこに近代の弁証法的思考の前兆を見て取る研究者たちもいる。

C’est là une réalité de plus d’importance qu’il ne paraît, dans la mesure où l’on peut y déchiffrer l’amorce d’une révolution mentale qui substitue à la logique binaire – ciel et enfer – une pensée à trois termes, annonce lointaine d’une procédure de type dialectique.

Gwendoline Jarczyk, Pierre-Jean Labarrière, Maître Eckhart ou l’Empreinte du désert, Albin Michel, 1995, p. 34.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


おのれのほかに対象がない生への執着が地獄である ― シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』より

2024-06-21 11:03:53 | 読游摘録

 フランス語に moignon という言葉がある。フランス語歴史辞典によれば、古フランス語として遅くとも十三世紀には登場している。「(切断された四肢の)残り部分」、より正確には、「切断された肢の切断面から関節までの部分」という意味で使われた。どうしてこの部分を特に指し示す言葉が必要とされたのだろうか。もともとは医学用語として使われたのでもないようである。
 この言葉、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』に四回出てくる。いずれも幻影肢(membre fantôme)の現象を考察している文脈においてである(p. 90 - 102)。この文脈では、切断後に残った当該部位を指し示すために使われているから、おぞましい印象を与えることはない。
 シモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』のなかにこの同じ言葉が使われている箇所がある。そこではおぞましい印象を与える。ただし、この箇所、ティボン版にはなく、ガリマール社の『シモーヌ・ヴェイユ全集』第六巻のカイエ(II)にのみ見られる(p. 321)。この語が見られる断章は全集では全部イタリックになっており、それはヴェイユの手書きのノートでは下線で強調されていたことを意味する。
 その断章の最初から三分の二ほどが岩波文庫版では訳されている。「自我」(Le moi)と題された八番目の章に収録されている(訳者の慧眼に深謝)。

 不幸の淵に沈み、あらゆる執着が断たれても、生命維持の本能は生きのびて、どこにでも巻きひげを絡ませる植物よろしく、支えとなりそうなものに見境なくしがみつく。かかる状況にあっては、感謝(低劣な次元のものはいざ知らず)や公正は思念にすらのぼるまい。隷属。自由意志を支えるエネルギーの余剰量がたりない。この余剰のおかげで事象にたいして距離をおくことができるというのに。この局面から捉えられた不幸は、剝きだしの生のつねとして、切断された四肢の残滓や蠢き群れる昆虫にも似て、ぞっとするほどおぞましい。形相なき生。生きのびることが唯一の執着となる。いっさいの執着が生への執着に取って替わられるとき、極限の不幸が始まる。このとき執着は剥きだしで現われる。おのれのほかに対象がない。地獄である。
 この境界をふみこえ、ある期間その状態にとどまり、その後、なんらかの僥倖に恵まれたとき、そのひとはどうなるのか。この過去からどうやって癒やされるのか。
 かかる仕組みゆえに、「不幸な人びとにとって生ほど甘美に思えるものはない。たとえ彼らの生が死より好ましいとは思えないときでさえも」。
 かかる状況で死を受け入れることは執着のまったき断念を意味する。

 「この局面から捉えられた」からその段落の終わりまでの原文を以下に示す。

Le malheur sous cet aspect est hideux, comme est toujours la vie à nu ; comme un moignon, comme le grouillement des insectes. La vie sans forme. Survivre est là l’unique attachement. C’est là que commence l’extrême malheur, quand tous les attachements sont remplacés par celui de survivre. L’attachement apparaît là à nu. Sans objet que soi-même. Enfer.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「われわれの生きる社会の構造そのものに内在する地獄」― 見田宗介『まなざしの地獄』より

2024-06-20 07:48:31 | 読游摘録

 見田宗介の論文「まなざしの地獄」の初出は『展望』1973年5月号で、1979年に単行本『現代社会の社会意識』(弘文堂)に収録され、現在は単行本『まなざしの地獄』(河出書房新社、2008年)として、「新しい望郷の歌」(初出『日本』1965年11月号、単行本収録『現代日本の心情と論理』筑摩書房、1971年)と合わせて刊行されている。この河出書房新社版には大澤真幸の力作解説が付されている。
 著者の見田宗介は2017年にこの論文について朝日新聞のインタビューを受けている(朝日新聞2017年3月22日掲載)。それもまた興味深い内容を含んでいる。
「まなざしの地獄」の初出からちょうど五十年後の昨年、仏訳 L’enfer du regard. Une sociologie du vivre jusqu’à consumation, CNRS Editions が出版された。訳者のお二人は私もいくらか存じ上げている方たちで、信頼のできる訳であることは間違いない。
 「地獄」という言葉が使われている箇所を、書名、目次、小見出し等で使われている場合を除き、本文から拾ってみた。最後のやや長めの引用は「まなざしの地獄」の最終段落である。

そしてN・Nが、たえずみずからを超出してゆく自由な主体として、〈尽きなく存在し〉ようとするかぎり、この他者たちのまなざしこそ地獄であった。

それは彼らを不意にのぞきこみ、分類し、レッテルを貼って、彼ら自身ではない、まるで別の存在に、彼ら自身を仕立てあげ変身させてしまう、あのまなざしの地獄からの避難場所である。

こんにち都市に、その先住者たちを含めて広汎に存在している、蒸発と変身への衝動は、まさにこのようなまなざしの地獄からの脱出の願望に他ならない。

都市が人間を表相によって差別する以上、彼もまた次第に表相によって勝負する。一方は具象化された表相性の演技。他方は抽象化された表相性の演技。おしゃれと肩書。まなざしの地獄を逆手にとったのりこえの試み――。

ボヘミヤの箱は堅固な物質によって、成長する少年たちの肉体を成形してゆく。〈まなざしの地獄〉は他者たちの視線によって、成長する少年たちの精神を成形していく。ボヘミヤの箱と異なって、それは少年の内面を成形するのであるから、それは彼らの自由意思そのものを侵食せざるをえない。

まなざしの地獄の中で、自己のことばと行為との意味が容赦なく収奪されてゆき、対他と対自とのあいだに通底しようもなく巨大な空隙のできてしまうとき、対自はただ、いらだたしい無念さとして蓄積されてゆく。

ある人はある人とよりも貧しく、ある人はある人よりもいっそうさげすまれている。だから貧困や屈辱の体験は、直接にはいつも、同胞と自己とをまさに差異づけるものとして、孤独のうちに体験される。だからこの直接性にとどまる限り、それは同胞への怨恨や怒りとして経験される。この蟻地獄の総体をのりこえさせる力は、怒りそのものの内部にはない。

「世間」はその無関心によって、家族の無関心を罰する。〈見捨てる者〉の因果の地獄。だがわれわれ「世間」にとっての「世間」とは何か? それはもちろん、世間の外なる世間、亜・世間である。それはわれわれ自身でもあるが、とりわけ抑圧され、差別され、「亜人」として、物として存在することを強いられたものすべての怨恨である。

われわれはこの社会の中に涯もなくはりめぐらされた関係の鎖の中で、それぞれの時、それぞれの事態のもとで、「こうするよりほかに仕方がなかった」「面倒をみきれない」事情のゆえに、どれほど多くの人びとにとって、「許されざる者」であることか。われわれの存在の原罪性とは、なにかある超越的な神を前提とするものではなく、われわれがこの歴史的社会の中で、それぞれの生活の必要の中で、見すててきたものすべてのまなざしの現在性として、われわれの生きる社会の構造そのものに内在する地獄である。

 自分もまたこの「存在の原罪性」を負ったものであることを私は認めないわけにはいかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「地獄は一定すみかぞかし」―『歎異抄』より

2024-06-19 13:13:10 | 読游摘録

 「地獄」という言葉を聞いて私がすぐに思い浮かべる日本の古典は『往生要集』と『歎異抄』である。前者の「厭離穢土」に見られる凄絶な地獄の描写は一度読んだら忘れられるものではなく、後者に録された親鸞の言葉「地獄は一定すみかぞかし」は、いわゆる「悪人正機」説よりも私の脳髄には強く響いた。

念仏は、まことに、浄土にむまるるたねにてやはんべらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。惣じてもつて存知せざるなり。たとひ、法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう。そのゆへは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をまふして地獄にもおちてさふらはばこそ、すかされたてまつりとていふ後悔もさふらはめ、いづれの行もおよびがたき身なれば、とても、地獄は一定すみかぞかし。

 そして同じ第二条のむすびの言葉にも、最初に読んだときからその立場の徹底性ゆえに驚嘆した。

詮ずるところ、愚身の信心におきては、かくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと云々。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


なつかしき『蜻蛉日記』再訪

2024-06-16 12:53:39 | 読游摘録

 四日前から手元にある『蜻蛉日記』の注釈書(電子書籍版も含む)の再読に多くの時間を割いている。これは修士論文のテーマとして『蜻蛉日記』の受容史を選んだ修士一年生の年度末報告書の審査の準備のためである。
 私は副査でこの学生の論文指導にはあたっていない。この年度末審査は、論文作成の進捗状況によっては実施できない場合もあり、するかしないかは指導教官の判断に任せられている。だから、審査というよりも、学生の論文作成途中報告書について問題点を指摘し、今後の研究ためのアドヴァイス、特に来年度一年間の日本留学期間中に構築すべき参考文献目録と主要文献の収集あるいは閲読についてのアドヴァイスをするのが主な目的である。
 当の報告書は、主題と構成の提示とこれまで読んだ注釈書・参考文献からの摘録の域を出ていない。まだ一年生で、はじめての論文作成なのだから、たいていはこんなものである。「日本語の注釈書をよくがんばって読みましたね。引き続き勉強を続けていってくださいね。Bon courage ! 」と笑顔で一言、ハイおしまい、にしてもいい程度の進捗状況である。
 しかし、『蜻蛉日記』は私が愛読する古典の一つで、その新潮日本古典集成版は、仕事机に向かって椅子に座ったままちょっと背伸びをすれば届く右側の書棚に、『紫式部日記』『和泉式部日記』といっしょに並べてあるくらいであるから、そうはいかないのである。
 私にできるかぎりのアドヴァイスをすべく、主な注釈書をすべて再読した。特に、九年前にストラスブール大学とCEEJAで三日間に亘って行われた国際シンポジウムでの発表の準備のときに付箋を貼った箇所やマーカーを引いた箇所をなつかしく読み直した。このような機会を与えてくれた同僚と学生に感謝している。
 この発表の原稿は、後にシンポジウムの論集 MA ET AÏDA. Des possibilités de la pensée et de la culture japonaise, Philippe Piquier, 2016 に « Le cœur, le corps et le paysage ne font qu’un » というタイトルで収録された。さらにその後、日本語バージョンを『世界文学』という学会誌に「心身景一如 ―日本の詩文における「世界内面空間」の形成―」というタイトルで掲載してもらった。この論文のための覚書をこのブログに二〇一五年二月二十一日から五回に亘って連載した。
 きっかけはなんであれ、古典を読むことで与えられる愉悦は何度味わってもよいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


動物たちにも心的装置を認めた最晩年のフロイト

2024-06-15 11:25:09 | 読游摘録

 フロイトは、昨日引用した『文明への不満』の三年前に刊行された『幻想の未来』(1927)のはじめのほうで、文化と文明とを区別しないでと断ったうえで、文化(文明)に次のような定義を与えている。

文化とは、人間の生を動物的な条件から抜けださせるすべてのものであり、動物の生との違いを作りだすもののことである。(光文社古典新訳文庫『幻想の未来/文化への不満』中山元訳、2013年)

 この定義そのものはフロイトの独創によるものではなく、当時としては多くの欧米知識人たちに共有されていた文化(文明)観であろう。文化(文明)をもっていることにおいて、人間は動物たちとは異なり、より高度な存在である。このような考え方に当時反対する人がいたとしても、それはごく少数だったろう。
 ところが、心的装置に関して、最晩年のフロイトは『精神分析概説』(死の前年1938年に書かれ、死後1940年に刊行)の第一章の末尾で次のように述べている。

心的装置のこの一般的な構図は、人間と心的類似性をもった高等動物についても当てはまる。超自我の存在は、人間においてと同様、その成長過程初期にかなり長い期間依存関係に置かれざるを得なかった生き物の場合にはいたるところに認めるのが妥当であろう。自我とエスとの区別は否定しがたい事実である。動物心理学は、ここに提供されたままになっている興味深い研究にまだまったく取り組んでいない。(仏訳Abrégé de psychanalyse, PUF, 1951からの私訳)

 『幻想の未来』では、文化の定義において人間と動物とをはっきりと区別していたフロイトが、最晩年には、少なくとも高等動物と人間との間の心的装置における類似性を認めていたことは興味深い。フロイトが飼い犬をとても可愛がり、それこそ家族として認めていたことはよく知られているし(二匹の飼い犬についてビンスワンガーに送った1929年12月27日付の手紙参照)、飼い犬と戯れる最晩年のフロイトは映像としても残されている。
 心的装置における人間との類似性をどこまで動物たちに拡張できるかは難しい問題だと思う。ただ、上掲の引用にあるように、成長過程初期に一定期間なんらかの依存関係に置かれた動物たちにその行動を規制する超自我の存在を認めるという仮説に従えば、心的装置を、言語と無意識の関係にのみ基づいたそれに限定することなく、また人間との接触の多寡とは関わりなく、動物たちにも認めることができるようになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ロマン・ロランの「大洋感覚」への誘惑とそれに対するフロイトの懐疑の間で引き裂かれ、不安に打ち震えるだけの小さな自分

2024-06-14 11:11:14 | 読游摘録

 ピエール・アドは、La philosophie comme manière de vivre, Albin Michel, 2001 ; Le Livre de Poche, « biblio essais », 2004(『生き方としての哲学』法政大学出版局、小黒和子訳、2021年)のなかで、ロマン・ロランのいう 「大洋感覚」(le sentiment océanique)を « l’impression d’être une vague dans un océan sans limites, d’être une partie d’une réalité mystérieuse et infinie » (「限りない大洋の波のひとつであり、神秘的で無限な現実の一部をなしているという印象」)と説明し、ロランの「大洋感覚」の詳細な考察にその一節を割いている Michel Hulin の La mystique sauvage. Aux antipodes de l’esprit, PUF, 1993 ; collection « Quadrige », 2008 から自らの説明を補強するために二箇所引用している。アドが省略している部分も復元して当該箇所を引用する。

Ce qui domine alors, c’est l’intensité du sentiment d’être présent ici et maintenant, au milieu d’un monde lui-même intensément existant, auréolé d’un éclat particulier, saturé de valeurs, prégnant de toutes sortes de qualités éminentes. Bien plus qu’une mythique confusion entre le Moi et le non-Moi, c’est le sentiment d’une co-appartenance essentielle entre moi-même et l’univers ambiant qui s’y déploie. (op. cit., « Quadrige », p. 67-68)

そのとき支配的なのは、それ自体が強烈に存在し、特別な輝きに包まれ、価値が飽和し、あらゆる種類の卓越した特質を含みもった世界のただ中に、今ここに存在しているという感覚の強さである。自我と非自我の間の神話的な混沌などではなく、そこに展開されるのは、自分と周囲の宇宙との間の本質的な共同帰属の感覚である。(私訳)

 ピエール・アドが称賛してやまないこの本の中で、いかなる宗教にも精神的伝統にも属さない「野生の」神秘経験の実例をミッシェル・ユランはふんだんに引用し、それらの間に見られる共通性から、文明の相違を超えた神秘経験の普遍性を実証しようとしている。ロランの「大洋感覚」はその一つの実例として詳述されている。
 本書の考察の起点は、フロイトとロランの往復書簡のなかに明らかに見て取れるこの感覚についての両者の態度の違いにある。フロイトはこの感覚を前にしての躊躇いをロランに隠さない。フロイトは、ロランのいう共同帰属感覚は、明らかにすべき諸限界の区別が曖昧となり、それらが相互的に混信した結果なのではないかという考えにどうしても傾く。その傾きがよく現れているのが『文明への不満』(Das Unbehagen in der Kultur, 1930)の冒頭である。

わたし個人としては、こうした感情が原初的な性格のものであるとは確信できない。ただし他者にこうした感情が実際に存在することも否定できない。問題なのは、この感情をわたしたちが正しく解釈しているかどうか、これがすべての宗教的な欲求の「源泉にして起源」であることをみとめることができるかどうかである。(光文社古典新訳文庫、中山元訳、二〇一三年)

 ロマン・ロランが語りピエール・アドが共感する「大洋感覚」への誘惑は私も強く感じるが、フロイトの懐疑にも耳を傾けたい。そのように引き裂かれて不安に打ち震えているだけの小さな自分以外のものではありえそうにない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「宇宙的尺度」と「奇妙な絶対知」― サン=テグジュペリとメルロ=ポンティ

2024-06-13 13:36:44 | 読游摘録

 サン=テグジュペリの『人間の大地』のなかで「宇宙的尺度」(l’échelle cosmique)という表現が使われている段落を読んでみよう。

Nous voilà donc changés en physiciens, en biologistes, examinant ces civilisations qui ornent des fonds de vallées, et, parfois, par miracle, s’épanouissent comme des parcs là où le climat les favorise. Nous voilà donc jugeant l’homme à l’échelle cosmique, l’observant à travers nos hublots, comme à travers des instruments d’étude. Nous voilà relisant notre histoire.

僕らは物理学者や生物学者に変身し、大河流域の低地を彩る文明を、気候に恵まれたところではときに奇跡的に庭園のように花開く文明を、調査する。僕らはそうして人間を宇宙的尺度で評価し、飛行機の窓から、あたかも実験器具を通じてのように観察する。僕らは僕らの歴史をそうして読み直す。(光文社古典新訳文庫版渋谷豊訳を改変)

 地上からすべてを観察するほかなかった時代は、たとえ尖塔や山の上から観察するにしても、観察されるものと観察するものとは地続きであった。逆に、空は見上げることしかできなかったし、満天の星も地上から観察するしかなかった。
 飛行機の登場とともに、空から地上を観察できるようになった。地上にあるすべてのものから自分を切り離して、それらを空の高みから見下ろすという視点を獲得した。その延長線上に宇宙から見た地球という観点もすでに予想していたからこそ、サン=テグジュペリは「宇宙的」という言葉を使ったのではないだろうか。
 人間が世界を観察する新たな尺度を手に入れたことを示す「宇宙的」という言葉は、だから、「地上」(terrestre)と「天上」(céleste)という対比的な構図とも違う世界観を示している。
 他方、その世界観はメルロ=ポンティが「生成しつつあるベルクソン」のなかで述べている「奇妙な絶対知」(étrange savoir absolu)と背反するものではない。

Le temps est donc moi, je suis la durée que je saisis, c’est en moi la durée qui se saisit elle-même. Et dès maintenant nous sommes à l’absolu. Étrange savoir absolu, puisque nous ne connaissons ni tous nos souvenirs, ni même toute l’épaisseur de notre présent, et que mon contact avec moi-même est « coïncidence partielle » […]. En tout cas, quand il s’agit de moi, c’est parce que le contact est partiel qu’il est absolu, c’est parce que je suis pris dans ma durée que je la sais comme personne, c’est parce qu’elle me déborde que j’en ai une expérience que l’on ne saurait concevoir plus étroite ni plus proche. Le savoir absolu n’est pas survol, il est inhérence. C’est une grande nouveauté en 1889, et qui a de l’avenir, de donner pour principe à la philosophie, non un je pense et ses pensées immanentes, mais un Être-soi dont la cohésion est aussi arrachement.

だから時間は私であり、私は私がとらえる持続であり、私の内においてこそ持続がおのれ自身をとらえる。そして現時点からすでに私たちは絶対的なもののもとにいる。これは奇妙な絶対知だ。というのも私たちは私たちの記憶の全体も、私たちの現在の厚み全体も認識せず、私の私自身との接触は「部分的合致」[…]である。いずれにせよ、私が問題になる場合、接触は部分的だからこそ絶対的なものであり、私が私の持続にとらわれているからこそ、私はそれを誰のものでもないものとしてとらえるのであり、それが私を逸脱するからこそ、私はその経験をもつのだ。この経験はより密接だとも、より近いとも考えられないような経験だろう。絶対知とは上空飛行ではなく、内属のことだ。哲学に対して、「我思う」やその内在的な思考ではなく、凝集することが離脱することでもあるような〈自己であること〉という原理を与えたのは、一八八九年の時点においてはたいへん斬新なことであり、また未来にもつながる考え方だったのである。(『シーニュ』廣瀬浩司訳、ちくま学芸文庫、二〇二〇年)