内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

コミュニケーションの可能性の条件としての第一次情報形成過程 ― ジルベール・シモンドンを読む(41)

2016-03-31 05:31:24 | 哲学

 昨日まで三日かけて読んだ段落の最後の文は、「情報(化)とは、或るシステムがそれにしたがって個体化するところの意味(方向性)であるから、常に現在に属し、現勢的である」と主張していました。この文の末尾には脚注が一つ付いています。今日はその注を読みましょう。

Cette affirmation ne conduit pas à contester la validité des théories quantitatives de l’information et des mesures de la complexité, mais elle suppose un état fondamental — celui de l’être préindividuel — antérieur à toute dualité de l’émetteur et du récepteur, donc à tout message transmis. Ce qui reste de cet état fondamental dans le cas classique de l’information transmise comme message, ce n’est pas la source de l’information, mais la condition primordiale sans laquelle il n’y a pas d’effet d’information, donc pas d’information : la métastabilité du récepteur, qu’il soit être technique ou individu vivant. On peut nommer cette information « information première ».

 段落最後の文のような主張は、情報の量化理論の妥当性や複合的なものを測る複数の尺度の妥当性に異議を唱えることへと導くものではないとシモンドンは言明します。
 以下、多少言葉を補ったり言い換えたりして注の内容を訳します。
 この主張は、ある根本的な状態を想定している。その状態とは、「前個体化的存在」(« l’être préindividuel »)のことである。この状態は、情報の発信者と受信者という二元性に先立ち、したがって、伝達されたあらゆるメッセージに先立つ。従来の見方によればメッセージとして伝達された情報とされるものの中でこの根本的な状態から残されているもの、それは、いわゆる情報源ではない。それは、それがなければ情報効果が成立しない、したがってそもそも情報そのものが成り立たない初期条件である。この初期条件とは、情報受信者の準安定性である。その受信者が技術的存在であっても生命個体であってもそれは同様である。この意味での情報形成過程を「第一次情報形成過程」と名付けることができる。
 データあるいはメッセージとしての情報形成の前提として、そのように伝達可能な形式を備えた情報を情報として受容するだけの安定性を備えた「場所」が必要です。その場所は、技術的に生産された受容体でも生物個体でもありえます。一言で言えば、情報はそれを受け入れる場所において情報という形に成るのです。






















































情報は個体化過程の中にしか在りえない ― ジルベール・シモンドンを読む(40)

2016-03-30 05:45:16 | 哲学

 今日は、一昨日読み始めた段落の最後まで読みます。といっても、原書で五行ほどの短い文章です。

l’information suppose un changement de phase d’un système car elle suppose un premier état préindividuel qui s’individue selon l’organisation découverte ; l’information est la formule de l’individuation, formule qui ne peut préexister à cette individuation ; on pourrait dire que l’information est toujours au présent, actuelle, car elle est le sens selon lequel un système s’individue.

情報(化)は、或るシステムの位相変化を前提とする。なぜなら、それは、発見された組織化にしたがって個体化する最初の前個体化的状態を前提とするからである。情報(化)は、個体化の定式であり、その定式は、その個体化に先立っては存在し得ない。情報(化)とは、或るシステムがそれにしたがって個体化するところの意味(方向性)であるから、常に現在に属し、現勢的であると言うことができるだろう。

 この文脈での « information » を「情報」と訳すことは、シモンドンの意図を損ねる危険があります。なぜなら、ここでの問題は、私たちが今日普通の意味で使う情報の定義ではなく、或るシステムの中で或る有意な形(形態)として個体が発生するのはどのようにしてなのかということだからです。« informer » という動詞には、「知らせる」という今日の通常の意味以前に、「形を与える」という意味があります(因みに、この意味で動詞 « informer » を使うことは、私の博士論文では、西田のいう「形の自己限定」を分析する際のキー・ポイントでした)。« information » が「形を与えること」という意味で使われていると考えると、シモンドンの言いたいことがわかりやすくなります。フランス語の場合は、 « information » という語の中に目に見える形で « forme » が組み込まれていますから、誤解の余地もそれだけ少ないのです。日本語の中だけで思考していると、「形」という意味が「情報」に含まれていることを読み取ることはできません。それでもなお私が « information » をあえて「情報(化あるいは過程)」と訳したのは、そう訳すことによって、今日普通に使われている言葉としての「情報」をその起源から考えるための方途を示そうとしてのことです。
 さて、これだけの前置きをした上で、上掲の引用箇所に立ち戻りましょう。
 情報は、前個体化的状態が一つのシステムとして個体化される過程で発生します。この個体化以前に情報は存在しません。情報(化あるいは過程)は、その個体化の定式に他なりません。この定式は、したがって、個体化以前には存在しえません。情報は、現に進行中の個体化過程の中にしか存在しえないという意味で、現在にしかありえず、つねに現勢的です。情報は、或るシステムがそれにしたがって個体化していくところの方向そのものだからです。或るシステムが一定の形として組織化されていくことそのことが情報なのです。
 上掲の引用の最後の一文に使われている « sens » にも、フランス語ならではの多義性が有効に働いています。 « sens » には、「方向」、「意味」、「感覚」という意味があります。この三つの意味のうちのどれがテーマかは文脈によって異なりますが、そのいずれかの意味に還元できない多義的な使用法が意図的になされる場合もあります。上掲引用文の文脈では、形がある一定の方向に向かって個体化されるというのが第一義です。しかし、その一定の方向性をもった個体化が情報を有意なものにするという点で、そこには「意味」という価値も含意されていると思われます。そして、この文脈では問題にされていませんが、方向としての意味を個体が捉えること、それが感覚だと言えると思います。



















































両立不可能なもの同士が問題解決システムとして組織化されるとき ― ジルベール・シモンドンを読む(39

2016-03-29 06:13:05 | 哲学

 昨日読み始めた « information » についての段落の続きを読みましょう。この段落の内容は、今日のようないわゆる高度情報化社会に生きる私たちにとってきわめて示唆的に富んでいます。この本の主要部分が博士論文として提出されたのが1958年のことです。徹底した改革的思考が有している卓越した先見性の一つの輝かしい例証と言うことができるでしょう。

l’information est donc une amorce d’individuation, une exigence d’individuation, elle n’est jamais chose donnée ; il n’y a pas d’unité et d’identité de l’information, car l’information n’est pas un terme ; elle suppose tension d’un système d’être ; elle ne peut être qu’inhérente à une problématique ; l’information est ce par quoi l’incompatibilité du système non résolu devient dimension organisatrice dans la résolution ;

情報(化)とは、それゆえ、一つの個体化(過程)の端緒であり、「個体化の要求」である。それはけっして与えられたもの(データ)ではない。情報(化)のユニットもアイデンティティもない。なぜなら、それは(最初から数えられる)ひとつの「項」ではないからだ。情報(化)は、存在の或る一つのシステムの緊張(状態)を前提とする。それは、ある問題群(あるいは問題性)にのみ内在しうるものである。情報(化)は、それによって未解決なシステムの両立不可能性が解決(過程)の中で組織を形成する次元となることである。

 情報の発生と個体の発生は同時的です。個体が発生するところに、そしてそれが生きようとするかぎり、個体と環境との間、個体と社会のと間、個体同士になんらかのコミュニケーションが必要とされるようになるからです。情報(化)とは、個体化過程以前からそれとして在る、いわゆるデータ(与えらたもの)ではありません。常に同一的な単位として取り扱えるものでもありません。関係あるいはシステム形成以前に、それを構成する項として先在するものではないのです。解決しなければならない或る問題群(問題性)があるところにしか情報は生まれないのです。そのままでは解消不可能な緊張状態がその状態を構成する要素(個体)間の両立不可能性として問題化され、かつその問題を解決しようとする志向性がそこに発生するとき、情報が生成するのです。























































情報の初元の生成過程 ― ジルベール・シモンドンを読む(38)

2016-03-28 08:41:12 | 哲学

 今月二日から、一回だけ別の話題の記事を書いた以外は、ずっと「ジルベール・シモンドンを読む」の連載を続けています。まだまだ序論を読み終わるまでには時間がかかります。別に締切りのある話ではありませんから、先を急ぐことなく、毎日焦らず怠らず続けていきましょう。
 たとえシンモンドンがそこで言いたいことが全部理解できなくても、あるいは完全には納得できていなくても、これまで読んできたところからだけでもひしひしと感じられることは、それまでの人文社会科学でいわば共通通貨のように流通してた諸概念を根本から見直そうという壮大な改革の意志です。
 それらの諸概念の中でも特に重要なのは、今私たちがまさにその序論を読んでいる主著のタイトル L’individuation à la lumière des notions de forme et d’information にも明示されている « forme » と « information » という二つの概念です。シモンドンの意図を汲めば、前者を「形相」あるいは「形式」、後者を「情報」と、単純には訳せないことはすでに明らかですね。
 というのも、前者は、「ものの形とはそもそもなぜどのようにして生成されるのか」、後者は「異なった次元にそれぞれ属するもの同士がなぜどうやって関係するのか」という、この世界を全体として理解するために避けて通れない根本的な問いにそれぞれ直接結びついているからです。
 これらの問いを徹底的に考え抜こうとするシモンドンが一貫して批判しているのは、常に安定的かつ等質的な自己同一的実体を基底としてどこかに想定するすべての思考です。この批判的態度は、物理化学レベルでも、生物レベルでも、心理・社会レベルでも、一貫しています。
 今日から読む段落は、« information » とは何かという問いがテーマです。そこでもこの反実体論的思考が貫かれています。シモンドンは、« information » について次のような仮説を立てます。

une information n’est jamais relative à une réalité unique et homogène, mais à deux ordres en état de disparation :

 「情報」は、何かそれとして一まとまりになった等質的な現実に対応しているのではなく、乖離・離隔状態あるいは異類・別位状態にある二つの秩序・次元に関係している、というのです。
 ここで言われている「情報」とは、すでにそれとして安定性を獲得し、発信者と受信者との間で流通している、あるいは流通しうるものという、私たちが普段使っている意味での情報ではありません。そのような情報が、なぜ情報として伝達されうるようになるのかということが問われているのです。つまり、情報生成過程の端緒はどこにあるのか、という問いです。情報が最初からある一定の形式を持っているのなら、こんな問いを立てる必要はないわけです。ところが、実際には、情報は、常に一定の形式を持っているわけではなく、問題となるレベルごとに可変的なものです。

elle [=l’information] est la tension entre deux réels disparates, elle est la signification qui surgira lorsqu’une opération d’individuation découvrira la dimension selon laquelle deux réels disparates peuvent devenir système ;

情報は、乖離・離隔した二つの現実間の緊張である。情報は、二つの乖離した現実がシステムを形成することができる次元を或る一つの個体化作用が発見するときに発生する意味である。

 一つの等質的な現実の中では情報は発生しません。二つの異なった現実があり、しかも両者の間に互いに相手を必要とする関係があるとき、何か解決しなければならない問題があるとき、その関係や問題そのものが情報を発生させるのです。お互い相異なる個体として個体化されながら、両者相俟って一つのシステムを形成することができるとき、お互いにとって或る有意な要素がそれとして両者の間に生まれます。それが情報だというのです。
 ここで言われる個体化は、心理的存在としての私たちひとりひとりがそれであるところの個体の個体化のことだけでなく、その私たちが属する集団の個体化のことでもあります。
 例えば、恋人同士には意味のある言葉のやりとりも赤の他人との間ではまったく無意味つまり情報価値がなく、住民にとっては有意味な納税通知書も通りすがりの旅行者には何の意味もありません。関係のないところには情報もないのです。
 テキストから少し飛躍して私見を述べることを許していただければ、今日の私たちは要らぬ関係をSNS等でわざわざ作り出し、その結果としてたくさんの「緊張」が生まれ、その情報に縛られ、精神を疲弊させていると言えるでしょう。他方、国民にとって有意な情報を隠蔽することで国民を操作しようとしている国家権力は、その隠蔽工作そのものによって、己を成り立たせているシステムを破壊していると言うこともできるでしょう。















































父母未生以前本来の面目あるいは「そのうちなんとかなるだろう」― ジルベール・シモンドンを読む(37)

2016-03-27 08:02:01 | 哲学

 今日日曜日午前二時に夏時間に切り替わりました。時計を一時間進めます。夏時間、日本との時差は七時間に縮まります。今日だけ一時間「損」したことになりますが、これは十月の冬時間への切り替えのときに「得」した一時間のつけを払うようなものです。毎年この繰り返しです。時計上は急に一時間日没が遅くなり、八時近くになります。それだけ午後の明るい時間が長くなり、春の到来をゆっくりと楽しめるようになるばかりでなく、夏遠からずと、少し浮き立つような気持ちにもなります。
 さて、今日も一段落だけ読みましょう。昨日読んだ段落より若干長いですが、内容的にはさほど難しくありません。

Mais le psychisme ne peut se résoudre au niveau de l’être individué seul ; il est le fondement de la participation à une individuation plus vaste, celle du collectif ; l’être individuel seul, se mettant en question lui-même, ne peut aller au-delà des limites de l’angoisse, opération sans action, émotion permanente qui n’arrive pas à résoudre l’affectivité, épreuve par laquelle l’être individué explore ses dimensions d’être sans pouvoir les dépasser. Au collectif pris comme axiomatique résolvant la problématique psychique correspond la notion de transindividuel.

 この段落で言われていることは、これまで読んできた「序論」の中ですでに論じられていたことのほぼ繰り返しですが、個体としての私たちが抱く「不安・苦悩・苦悶」(« angoisse »)というものの性質が個体化論の概念空間の中で解き明かされているところに注目しておきたいと思います。
 心理は、個体化された存在のレベルに留まるかぎり、己が抱える問題群あるいは問題性を解決することができません。心理は、個体的存在がより広範な個体化つまり集団の個体化に参加する基盤です。しかし、個体的存在だけでは、自分自身を問題化はしても、不安の外に出ることができません。なぜなら、不安・苦悩・苦悶は、「行動なき作用」(« opération sans action »)だからです。つまり、不安・苦悩・苦悶とは、外から受けた刺激(その中には、いわゆる心的外傷も含まれる)が引き起こす問題に解決を与えることができないままにあるときの恒常的な情動のことです。不安・苦悩・苦悶を抱えているということは、個体化された存在が自分の存在次元の中であれこれ四苦八苦するだけでその次元を乗り越えることができないでいる状態だということです。
 個体の心理レベルでは解き難い問題群に解決をもたらしてくれる公理系(一つのシステムとして構造化された自明性)が集団的なものです。その集団的なものに対応している概念が、すでに3月15日の記事で取り上げた「通・超個体性」(« transindividuel »)です。
 こんな風に言うとなんか難しげですけれど、これをもっとくだけた言葉で言い直せば以下のようになります。
 心の問題は心の中では解決できない。心を持った個体が属している集団にとっての「当たり前」を前提にするときはじめて、その問題に解決がもたらされる。その「当たり前」は、諸個体に共有されかつそれらを超えるものである。
 「なあんだそんなことか。だったら、なんで七面倒臭い御託を並べる必要があるんだよぉ」とご不満に思われる方も少なくないでしょう。無理もないことです。
 その点につき、一言だけ私見を付け加えておきます。
 「当たり前」は、いつでもどこでも同じ「当たり前」ではありません。可変的かつ可塑的です。崩壊する危険も排除できません。新たな問題を前に「当たり前」を根本的に見直す必要に迫られることもあります。複数の異なった「当たり前」同士が葛藤や抗争を引き起こすこともあります。そのとき、私たちは、自分の心の問題をしばらくは抱えたまま、解決不可能な状態に置かれます。それはとても不安な状態です。いつこの状態が終わってくれるのかもわかりません。
 そんな状態に置かれていても揺るがぬものがあるでしょうか。シモンドンなら、それは、私たちが個体的存在になる前の「前個体化的現実」だと答えるでしょう。唐突ですが、道元なら、「父母未生以前本来の面目」と答えるかもしれません。
 不肖私めは、「『そのうちなんとかな~るだろ~おぅ』の心じゃ」と答えておきます。
















































存在が心を持つとき ― ジルベール・シモンドンを読む(36)

2016-03-26 06:18:46 | 哲学

 蝸牛ペースの読解作業は今日も続きます。側でじっと観察しているとほとんど進んでいないように見えるが、観察した場所に数日後に戻ってみると、いつのまにか有意的に前進しているという風でありたいと思っています(それでも、大股で闊歩する人間たちからは、「なんだお前、まだそんなところにいるのかよ、ちっとも進んでないじゃないか」って言われちゃうでしょうけれど、知るか、そんなこと)。
 あれれ、前に進んでいると思っていたのに、実はまた逆戻りしてしまったなんてこともあるかもしれませんが、それでもまったく同じことを繰り返し考えているわけでもないでしょうから、落胆せずに続けましょう(って、自分に言い聞かせているわけです)。
 ああ、そうそう、このようなペースにまで落ち込んだ主な理由であった締切りの迫った原稿の方ですが、いざ書き始めたら意外なほどすらすら書けたというか、すぐに制限字数の倍以上の長さになってしまい、締切りまでの残りの数日間は推敲と分量削減に集中すればいいところまで来ています。明日日曜日は復活祭、翌日月曜日は全国的に休日なのですが、アルザス地方は復活祭直前の金曜日も休日なのです(Vive l’Alsace !)。つまり、今、四連休の真最中なのです。この間、市営プールもすべて閉鎖されるので、日課の水泳もお休みです。そんなわけで、朝から晩まで机に向かっています。連休明けには原稿も仕上がりそうです。
 それに、この原稿はそのまま使われるわけではなく、他国語の哲学書の仏訳史を扱う原稿と合わせて、哲学の章の編集責任者が章全体の調整を図るので、私の名前は執筆協力者の一人として章の冒頭にクレジットされるだけという気楽さもあります。つまり、ぴったり制限字数に収めなくても、むしろ少し長めの原稿を渡して、「あとは全体のバランスを考えて適当に削ってください」ってお願いすればいいわけです(こちらがこの膨大な企画の全体的プレゼンテーションです。よくやりますよね、こんなこと)。
 ちょっとおしゃべりが過ぎましたね。今日の読解作業を始めましょう。
 今日から31頁に入ります。最初の段落は六行と短いのですが、今日はそれだけです。

La même méthode peut être employée pour explorer l’affectivité et l’émotivité, qui constituent la résonance de l’être par rapport à lui-même, et rattachent l’être individué à la réalité préindividuelle qui est associée à lui, comme l’unité tropistique et la perception le rattachent au milieu. Le psychisme est fait d’individuations successives permettant à l’être de résoudre les états problématiques correspondant à la permanente mise en communication du plus grand et du plus petit que lui.

 「同じ方法」と言われているのは、昨日まで読んできた段落に詳述されていた反実体論的・反形相質料論的方法のことです。生命の起こりの説明に適用されたその同じ方法が心理の発生メカニズムにも適用できるだろうとシモンドンは言うのです。
 心理を問題とする場面で、以前もそうでしたが、 « affectivité » と « émotivité » という二つの術語が使われています。それぞれ「受感性」「情動性」と私は訳します。前者は外からの刺激を「受ける」こと、後者はそれに応じて「動く」ことに対応するからです。
 この両者が存在の存在自身に対する「共鳴」(« résonance »)を構成し、個体化された存在をその存在と繋がっている前個体化的現実に結び直します。最初から前個体化的現実に「繋がっている」(« associé »)いるのならば、どうしてわざわざまた「結び直す」(« rattacher »)必要があるのでしょう。この結び直しこそ心的空間を内的共鳴空間として開くからです。つまり、不定形だった前個体化的現実が或る仕方で内的共鳴空間として受容されるとき、個体化された存在は心を持つ、ということです。
 受感性と情動性とによる存在の内的自己関係と照応しているのが、向性的一体性と知覚が存在をその環境へと結び直すことで成り立つ外的関係です。
 「心理」(« psychisme »)は、ここで、存在が常に抱えている問題的状態に解決をもたらす継起的な個体化過程として捉えられています。存在にとって、それらの問題的状態が常にあるということは、己自身より大きな秩序とより小さな秩序との間に、つまり外的関係と内的関係との間に、恒常的にコミュニケーションを成り立たせようとすることに外なりません。





















































大きさを異にした秩序間の相互的情報交換システムの形成 ― ジルベール・シモンドンを読む(35)」

2016-03-25 07:06:36 | 哲学

 昨日ようやく読み終えた段落の末尾に脚注が一つ付いています。今日はそれを読みます。

Nous voulons dire par là que l’a priori et l’a postériori ne se trouvent pas dans la connaissance ; ils ne sont ni forme ni matière de la connaissance, car ils ne sont pas connaissance, mais termes extrêmes d’une dyade préindividuelle et par conséquent prénoétique. L’illusion de formes a priori procèse de la préexistence, dans le système préindividuel, de conditions de totalité, dont la dimension est supérieure à celle de l’individu en voie d’ontogénèse. Inversement, l’illusion de l’a posteriori provient de l’existence d’une réalité dont l’ordre de grandeur, quant aux modifications spatio-temporelles, est inférieur à celui de l’individu. Un concept n’est ni a priori ni a posteriori mais a praesenti, car il est une communication informative et interactive entre ce qui est plus grand que l’individu et ce qui est plus petit que lui.

 当該の段落でア・プリオリとア・ポステリオリとが問題になった箇所で言いたかったことは、両者は認識の中には見出されない、ということです。両者は、認識の形相でも質料でもありません。というのは、両者は、認識ではなく、前個体化的な、そしてそれゆえに前意識作用的な二分化の両極だからです。
 それでは、ア・プリオリな形相という幻想はどこから来るのでしょうか。それは、前個体化的システムの中に「全体性の諸条件」が先在していることに由来します。この諸条件が構成する次元は、個体発生過程にある個体の次元より高次です。つまり、個体化過程には、その過程にある個体を超える次元が、個体化に先立ちそれを可能にする存在として現前している、ということから、その存在を事後的に抽出するとき、「ア・プリオリな形相(あるいは形式)」という幻想が生まれる、ということです。
 反対に、ア・ポステリオリなものという幻想はどこから来るのでしょうか。それは、時空的な変化に関して、大きさの秩序が個体の秩序よりも下位にある現実の存在に由来します。つまり、個体が個体として保っている一つの全体的秩序の枠の中で種々の変化が起こるという事実から、一つの全体として先在する個体が自己同一性を保ちながら経験するそれら種々の変化を、やはり事後的に抽出するとき、「ア・ポステリオリなもの」という幻想が生まれる、ということです。
 ひとつの概念は、ア・プリオリなものでもなく、ア・ポステリオリなものでもなく、「現前的なもの」(« a praesenti »)です。というのは、概念とは、個体よりも大きいものと個体よりも小さいものと間の情報形成的・相互作用的コミュニケーションだからです。つまり、認識の基礎単位としての概念がそれとして成立するのは、個体の外部のより大きな秩序とその内部のより小さな秩序との間に個体を媒介として相互的情報交換システムが形成されるときだということです。





















































存在のはじまり、それは原初的な中間状態から発展する「繋がり」― ジルベール・シモンドンを読む(34)

2016-03-24 07:48:30 | 哲学

 今月18日から読み始めた段落も、その本文を読むのは今日が最後になります。ちょうど一週間かかったことになります(一週間で一頁弱とは、なんとも情けない...)。
 今日読む箇所は少し長いのですが、まず全文引用します。

La distinction de l’a priori et de l’a posteriori, retentissement du schème hylémorphique dans la théorie de la connaissance, voile de sa zone obscure centrale la véritable opération d’individuation qui est le centre de la connaissance. La notion même de série qualitative ou intensive mérite d’être pensée selon la théorie des phases de l’être : elle n’est pas relationnelle et soutenue par une préexistence des termes extrêmes, mais elle se développe à partir d’un état moyen primitif qui localise le vivant et l’insère dans le gradient qui donne un sens à l’unité tropistique : la série est une vision abstraite du sens selon lequel s’oriente l’unité tropique. Il faut partir de l’individuation, de l’être saisi en son centre selon la spatialité et le devenir, non d’un individu substantialité devant un monde étranger à lui.

 最初の文が言っていることは、シモンドンが一貫して主張していることです。質料形相論的図式の近代における反響であるア・プリオリとア・ポステリオリとの区別という構図は、認識の中心である真の個体化作用を覆い隠してしまうが、そうなってしまうのはその区別の中心域が闇に包まれたままだからからだ、ということです。つまり、この初期設定として立てられた区別は、なぜどこにその区別が発生してくるのかという問いを完全に封印してしまうと批判しているのです。
 そのような截然と区別される二項を前提として立てて存在を考え始めるのをやめようではないか、ということです。私もそれには全面的に賛成ですが、じゃあ、どう考えろとシモンドンは言うのでしょう。
 そのような考え方に対して、シモンドンは、質的あるいは収束性をもった「繋がり(連鎖)」という概念を導入し、それを存在の段階理論にしたがって考えることを提案します。
 この「繋がり(連鎖)」は、それに先立って存在する極項間の関係ではなく、それらによって支えられているものでもない。「繋がり(連鎖)」は、或る原初的な中間状態から発展するもので、この中間状態が生命体の位置を決定し、向性をもった一全体に方向を与えている傾度の中に生命体を挿し入れている。
 つまり、「繋がり(連鎖)」とは、向性をもった一全体の運動過程の方向をそれとして抽出している概念だということです。
 シモンドンがその存在論の出発点に措定したいのは、もう繰り返すまでもないと思いますが、一言で言えば、個体化過程です。それは、己に対して無縁な世界を前にしている実体化された個体を出発点としないということです。空間性と生成にしたがってその中心において把握された存在から出発しようということです。






















































問題解決としての知覚、そして学知 ― ジルベール・シモンドンを読む(33)

2016-03-23 06:12:10 | 哲学

 今日も一文だけです。まず直訳してみます。

La perception, puis la science continuent à résoudre cette problématique, non pas seulement par l’invention des cadres spatio-temporels, mais par la constitution de la notion d’objet, qui devient source des gradients primitifs et les ordonne entre eux selon un monde.

知覚、そして学知は、この問題(性)を解決し続けるが、それはただ時空の枠組みを創出することによってではなく、対象という概念を構成することによってである。この概念が原初的な傾度の「源泉」となり、傾度間に一つの「世界」としての秩序を与える。

 もし教室で先生に指されてこんな訳を読み上げたら、「それで、何が言いたいのここで?」と先生に聞かれて答えに窮するような訳ですね。そのときの学生のような気持ちで自信なげにぼそぼそと先生のこの問いに答えてみます。
 「この問題(性)」(« cette problématique »)と言っているのですから、何かそれまでに言われている内容を指しているはずです。それは文脈からして昨日読んだ直前の文の中にあると考えられます。ところが、問題という形ではっきりと示されているものはその中にありません。いったい何が問題だと言うのでしょう。私はこう考えてみました。
 もしある生体がその置かれた環境の中で受けた刺激に対して常に一定の方向と程度で反応するというだけのことなら、それはその生体の性質ではあっても問題ではないはずです。問題という以上、何か解決すべきことが課題として与えられている状態のはずです。ということは、まだある反応の仕方が性質と言えるほどな安定性を獲得する前の状態、生体とその世界との分節化のはじまり、言い換えれば、ある生体が個体化するその最初の契機が発生した状態が「問題(性)」だと言われているではないでしょうか。
 考える主体がすでに与えられているところから個体における知覚の誕生、そして知の集成としての学知の形成を捉えるのではなくて、むしろ、〈問題の解決を図る〉という行動そのものがどこから起こってくるのかというように問題を立てようとしているのではないでしょうか。言い換えれば、このタイプの行動の発生そのものが生体としての個体の個体化のはじまりだと考えられているのではないでしょうか。
 或る物が対象として或る形をもって生体に対して立ち現れるということそのことがすでに一つの問題解決なのであり、その知覚という解決には、すでに対象間の区別もある仕方で成り立っていなければならず、それら対象間の関係が一つの世界に他ならなない。学知とは、その世界像をより客観的・斉一的・組織的に形成することだ。シモンドンはこんなことが言いたかったんじゃないのかなあって思ったんですけど...


















































 


生命の世界の起こりをどう考えるか ― ジルベール・シモンドンを読む(32)

2016-03-22 08:12:51 | 哲学

 今日は、昨日まで読んできた文章の次の一文だけを読みます。

Dans l’unité tropistique il y a déjà le monde et le vivant, mais le monde n’y figure que comme direction, comme polarité d’un gradient qui situe l’être individué dans une dyade indéfinie dont il occupe le point médian, et qui s’étale à partir de lui.

 一昨日の記事で読んだ箇所で見た「向性(あるいは屈性)」という概念ががまた出て来ました。
 ある向性をもった一全体には、すでに世界と生命体とがある。しかし、その段階での世界は「方向」としてしか、つまり、ある傾度(あるいは勾配)の極性としてしか現れていない。この傾度が、個体化された存在を非限定的な二項関係の間に位置づけ、この個体化された存在はその二項関係の中間点を占め、その中間点からこの二項関係は広がって行く。
 これが上掲の文の一応の私訳です。でも、正直、よくわからないままに訳してみただけです。ただ、生命の世界の起こりがどのようなものかが問題になっていることはわかります。「傾度(あるいは勾配)」と訳した « gradient » という語は、生物学、物理学、数学、心理学、気象学等で使われる術語です。ある刺激に対する反応の強さの違いという意味に一応解しておきました。「二項関係」と訳した « dyade » という語は、哲学、心理学、生物学等で使われており、生物学では、減数第一分裂後期の)二分染色体のことを特に意味します。一つだったものが二つに別れることでその間に一定の関係と同時にその両者の間に極性が生まれた状態を思い浮かべました。でも、間違っているかもしれません。
 今日の記事は大変歯切れが悪いのですが、これ以上考えられそうにないので、これだけにします。