日本人の友人が、一種の精神安定剤のように折にふれて読んでいる、特にパリで留学生活を送っている時はそうだったと話してくれた精神医学者中井久夫の文章を、この7月から私も少しずつ読み始めた。今夏の日本滞在の折に、「ちくま学芸文庫」として刊行されている『中井久夫コレクション』5巻をまとめて購入し、こちらに持ち帰ってからは、毎日少しずつ、それこそ薬を服用するように読んでいる。5巻の中からその時の気分で1冊選び、その目次を眺め、やはりその時気を引かれるタイトルのエッセイを撰ぶ。昨日読んだのは、『私の「本の世界」』。この巻には、タイトルが示すように、中井久夫の読書体験を語るエッセイ類が集められている。全体が4部に分けられていて、第Ⅰ部「ヴァレリーについて」は、中井久夫が高校時代以来の「終生の勉強の対象」とするフランスの詩人ポール・ヴァレリー(1871-1945)についてのエッセイ4篇、第Ⅱ部は20数篇の書評、第Ⅲ部「本と仕事の周辺」は、自訳書の「あとがき」や他人の著書に寄せた序文、祝辞・追悼文等、第Ⅳ部「読書アンケートに答えて」はアンケートに答える形で、1991年から2011年までの各年に中井久夫が読んだ良書・労作等の手短な紹介になっている。
第Ⅱ部に収録された書評の一つ「江尻美穂子『神谷美恵子』」の中に、エドガー・アラン・ポーの言葉が引用されていて、それがちょっと予期せぬ引用だったので、何の心の準備もできていなかった私の胸をいきなり突き刺した。
ポーはその不幸な生涯のどん底から「この世で到達可能な幸福」の四条件として「困難であるが不可能ではない努力目標」「野心の徹底的軽蔑」「愛するに足る人の愛」「野外での自由な運動」の四つを挙げている(同書、184頁)。
我が身のこととして、これら四条件を満たしているかどうか考えてみた。第一の「困難であるが不可能ではない目標」は、私にとって、自分の博士論文以後の研究を日本語とフランス語とでそれぞれ別の仕方でまとめて本として出版するということがそれに該当する。第二の「野心の徹底的軽蔑」の「野心」とは、同書によれば「世俗的権力欲」のことだが、これにさらに「社会的成功」「名誉欲」等を加えたとしても、私にはまったくそれらが欠けているとは言える。しかし、これは軽蔑というよりも無関心というべきだろう。第四の「野外での自由な運動」については、野外ではないが、プールで毎日のように泳いでいるし、その気になれば野外での運動もいつでもできる環境にある。だからこれら3つの条件については、それらを充分にとまでは言えないにしても、どうにか満たしているし、これからさらによく満たすようにすることもさほど難しいことではない。ところが、第3の条件「愛するに足る人の愛」だけは、今の私に決定的に欠けている。この条件には二重の意味があるだろう。つまり、自分にとって愛するに足る人がいて、その人を現に私が愛していることと、その自分の愛している人が自分のことを愛してくれていることとである。つい数ヶ月前までだったら、むしろこの第三の条件こそ自分は充分に満たしていると何の疑いもなく言うことができただろう。しかし、今はもう、それができない。
昨年来、これもまた折にふれて読むようになった神谷美恵子の諸著作には、わけても『生きがいについて』の中には、まるで今の私の精神状態をよく知っていて、その私に向かって差し向けられたかのように感じられる言葉に出会う箇所が少なくない。1966年の初版出版以来、きっと無数の読者が同じような感覚をこの本を読みながら持たれたのではないであろうか。まさに名著たるゆえんである。今の私にはとりわけ次の1節、特に最後の一文が心に痛切に響く。
苦悩をまぎらしたり、そこから逃げたりする方法はたくさんある。酒、麻薬、かけごとその他。仕事に異常に没頭することもその一つであろう。しかしただ逃げただけでは、苦悩と正面から対決したわけではないから、何も解決されたことにはならない。従って古い生きがいはこわされたままで、新しい生きがいはみいだされていない。もし新しい出発点を発見しようとするならば、やはり苦しみは徹底的に苦しむほかないものと思われる(『生きがいについて』神谷美恵子コレクション、みすず書房、2004年、132頁)。
この「苦しみを徹底的に苦しむ」能力、もしそう呼んでよければ「受苦能力(capacité de pâtir)」、あるいはさらに私自身の考えに引きつけて言い換えれば「受苦可能性(passibilité)」が、この私にどれだけあるのか、今私は試されているのだろうか。どこから、あるいは誰からその問いが私にやってくるのかわからないが、「あなたにそれがどこまでできるのか」、そう問われているような気がしてならない。これは私の全人格に関わる問題であり、まさにその意味でこそ、生き方そのものとして生きられるべき哲学の問題であり、私にとってすべては「そこからそこへ」であるところの「受苦可能性」の哲学の根本問題にほかならない。
家系を見るかぎり、父方にも母方にも精神疾患を患っていた者は親族間には見当たらず、遺伝形質的に見ても、何らかの精神疾患への親和性を示す要素はないと思われるし、他者から対人関係上のなんらかの異常性を指摘されたこともないし、ましてや精神科での治療を必要とするほどに日常生活に支障をきたすような状態に陥ったこともない。とはいえ、第三者が今の私の精神状態を客観的に観察しても、診療を勧めるような状態に自分が陥っていないと断言できるほどの自信はない。
人付き合いが上手だとは、どう贔屓目に見ても言えないが、いわゆる「人間嫌い」などではけっしてなく、もともとはむしろ人と話すことは好きで、良き話し相手が得られれば、むしろ饒舌な方だと言ってもよいし、人の話も注意深く聴く方だと思う。人の間に居れば、それなりに社会性のある立ち居振る舞いはしてきたし、これからもできるつもりだ。問題は、したがって、与えられたその都度の機会における、いわゆるコミュニケーション能力にあるのではない。
しかし、今私が置かれている生活状況は、どう考えても精神衛生上健全ではない。このまま手を拱いていれば、その状況がひとりでに好転するはずはなく、蓄積する精神的疲弊が突如として重篤な身体的疾患として顕現する可能性も否定できない。パリではここ数年独り暮らしだから、休暇中など数日間まったく人と口を利かないで過ごすことがしばしばある。外出はほぼ毎日するが、それは人に会うためであることは少ない。
8月20日に日本からパリに戻ってきて今日で10日あまりになるが、アパルトマンの近所や店やプールで一言二言交わす以外は、まったく会話がない。夏休み中は仕事関係のコンタクトさえない。新学年が始まれば、特に年度初めは毎度のことだが、とても忙しなく、その忙しなさによって気持ちも紛れていくことはわかっている。しかし、これもまた、人と人との関係の問題について何ら本来的な解決をもたらしてくれるものではない。
2007年11月から2009年4月までは一緒に暮らしていた人がいたし、その人が帰国した後も、ほとんど毎日のようにメールをやりとりし、週に1回はスカイプで話していたし、その人が短期でこっちに来たり、私が日本に行ったりして年に何回か数週間単位で一緒に過ごしていたから、普段離れていても、精神的には安定していた。しかし、まさに勇気と楽観を私に与えてくれていたこの関係がこの4月に突然脆くも崩壊する。
その後、その都度何の前兆もなく、このままだと正気ではいられないかもしれないという、居ても立ってもいられないような恐怖感に何度か囚われたことがある。そのような時の「症状」をよく示していると自分には思われる文章を5月末に手紙として書いているので、それをそのまま引用し、その上で、その時の自分をあたかも他人のようにできるだけ突き放して観察してみよう。
「25日土曜日午前中、読まれるあてのないメールを、3日続けてあなたに送ってから、家に閉じこもってばかりいると、本当に気が変になりそうなので、4月からずっと天候不順で、5月に入っても、パリは曇り時々雨の肌寒い日が続いていますが、それでも堪らず、外出しました。バスに乗って本屋に行ってきただけですが、帰ってきて、少し思いついたことを書き留めて、一段落したその時、何の前触れもなく、今までに感じたことのない異常な精神状態に突然陥りました。それは、身体の中で言葉があなたに向かって発されようと蠢いているのに、それが固く閉ざされた身体の壁のうちに閉じ込められたままで、そのことによって私が世界から切り離され、自分一人だけの殻の中に押し込められて、そこからの出口がなく、それらの言葉が行きどころを失い、私の脳を内側から破壊しようとしているという恐怖感でした。私はそこに狂気を垣間見ました。2007年4月に感じた恐怖感が自ずと想起されましたが、今回はその時よりはるかに深い絶望感を伴っていました。居ても立ってもいられないのに、誰にも助けを求めることができない。周囲の世界はすべて私に対してまったく無関心。あたかも決して抜け出すことのできない、自分の身体一つがようやく収まるだけの小さな透明なカプセルの中に閉じ込められているかのようです。もうかなり危機的な精神状態に自分は追い込まれていると、はっきりと自覚できました。」
この文章に記述された精神状態を一言で言い表すならば、「言葉の内圧の脳内での異常な高まり」とでもなるだろうか。その時、本来人に向かって発され、その人によって受け止められることによって生命を持つはずの言葉が、その相手の決定的な不在ゆえに、私の口から声となって出ることができず、行く先を失い、私の内部に閉じ込められたままとなり、いや、その時の鋭い身体感覚により忠実に記述すれば、脳内に犇めき合い、内側から脳を圧迫して、じっとしていることさえできず、たとえ短時間であれ、冷静な思考力を一切奪ってしまったのである。叫び声をあげたい衝動をやっとのことで抑えたその時の精神の動顛が思い出されると、今でも心臓の動悸が始まるのがわかる。
このような危機的精神状態に置かれて、ほとほと身に応える仕方で痛感させられていることは、何を今さら自明なことを言うかと良識ある方々からは軽蔑されてしまいそうだが、言葉は、本来的に自分に向けて内語されるためにあるのではなく、他者に向けて発され、その人によって聴かれ、あるいはその人のもとに何らかの仕方で届き、その人からそれに対して何らかの応答があってはじめて、命がこもり、人を生かすものなのだということである。そのような本来的に他者を志向する言葉は、その志向対象を失うとき、反転して発話者(というより発話を禁じられた者)の精神に破壊的に作用するようになる。
8月も終わりを告げようとしている今、新学年の仕事始めを目前にして、ここ数ヶ月の自分のことを少し振り返り、気持ちを整理し、気分を切り替えておきたい。そのためには自己分析作業を必要とするが、その作業自体を目的とするものではなく、それを経た上で、最終的には、7月8日の記事で話題にしたような、藤原正彦が言うところの人間の能力を開花させる絶対条件としての「勇気と楽観」を自分に取り戻す途を見出すことが目的である。この「勇気と楽観」は、危険についての冷静な認識を欠いた蛮勇と知性と相容れない盲信とであってはならないであろう。
こういう内容の文章は、書きだすと止まらなくなるおそれがあり、それでは仕事に差し障りがでてしまうので、自分の感情に歯止めをかけ、自分を冷静にゆっくりと見つめなおすために、今日、明日、明後日の3回に分けて、少しずつ記事にしていくことにする。
こんな言い方をすればいささか大げさに聞こえるかもしれないし、いい年をして青臭い物言いとも取られかねないと躊躇する気持ちもあるが、敢えて言えば、この4月以来、人生最大の精神の危機とぎりぎりのところで独り戦っている。
今月19日、この夏の日本滞在最後の日に投稿した記事にも書いたように、6月2日にブログを始めたのも、いわばこの精神の危機へ対処するための「戦術」の1つとしてであった。この作戦はある程度成功し、日常的に一定の効果を上げていると実感しているが、他方では、本当の問題はこのままでは何も解決しないことも、改めて一層明確に自覚されてきてもいる。それは最初からわかっていたことではなかったのかと言われればまさにその通りだが、ブログを始めた時点では、それこそ藁にも縋る思いだった。もともとは健康増進を目的として4年前に再開した水泳も、私の精神を蝕むこの危機に対してのそれこそ全身を使っての必死の防戦といった様相を今ではむしろ帯びている。
このごろよく「SNS依存症候群」「スマートフォン依存症候群」「インターネット依存症候群」などの言葉をメデイアで見かけるが、これはほんとうに他人事ではないと思う。これらの社会現象としての病的傾向性に医学的に明確な定義を与えることはできないだろうが、私自身の目に止まった関連情報を総合して、これらの症候群に共通する簡単な一応の規定を与えるとすれば、「生身の人間である他者との直接的コミュニケーションが、WEBを媒体とした間接的・部分的・擬似的なコミュニケーションに取って代わられ、後者がその人の日常生活の最も大きな部分を占め、そのことがその人の社会的生活・家庭生活・人間関係に支障をきたす程度にまで深刻化した状態」となるだろうか。
素人の自己診断では、私自身はまだそこまでは行っていないと思われるが、依存傾向にあることは正直に認めないわけにはいかない。私自身について1つ確かだと思われることは、このような状態に陥っているのは、これらのコミュニケーション・ツールの持っている簡便性・迅速性・有用性の虜になったからではなく、そもそも本来的な人と人との関係において自分にかなり深刻な問題があり、それに対する解決法が見いだせないでいる、あるいはその問題そのものを解消することができないでいるからだということである。例えて言えば、どちらに向かって歩いて行けばよいのかわからず、途方に暮れ、その場に立ち竦み、手近にある道具で何とか状況を打開できないかともがき苦しんでいる、といったところだろうか。この現在の精神の危機的状況の直接の原因は、自分でもわかりすぎるくらいわかっているし、これまでも何度かこのブログの記事の中でほのめかすような仕方で触れてはきたが、これは相手のあることなので、その相手が特定されるような書き方は慎重に避けなくてはならない。それに問題はもっと深いところにあると思われる。では、その問題とは何か。
昨日になってやっと〈虚〉と〈空〉についての仏語原稿の仕上げにとりかかった。テーマそのものによって足を掬われてしまいかねない危うさを常に感じながらの推敲。だが、他方で、「虚空の開け」ということを思う。何故ということなくふと空に眼差しを向けるその瞬間に、そこに見えるものを通じて開かれ、与えられるものがあることを感じる。その無償の贈与性を享受できることはそれだけで幸いなのではないだろうか。
昨日からの続きで、『宮沢賢治イーハトブ学事典』の中の項目「現象学」の後半の紹介。ただ『事典』には、出典に関する脚注、関連項目、参考文献、引用された人物・書名一覧表が付いているが、それらは省略する。
賢治が、それ自体で存在する物自体と、時空間に立ち現われる諸現象とを乖離させ、前者は認識不可能で、後者のみが私たちに認識可能とする現象論的立場にも、そこにおいてすべてが立ち現われる意識やそのすべての立ち現われに対して超越的な自我を絶対化する超越論的立場にも、そのいずれの立場にも陥ることがなかったのは、自然の立ち現われ方そのものに私たちの注意を向け直そうという彼の根本的志向が、自然現象を対象として分析する科学的態度と、それを立ち現われるがままに生き直す記述的態度との両者によって具体化されているからだと言うことができる。その自然科学者的態度は、心的現象さえも、自然界における物理・化学的現象として捉ようとする姿勢の中によく見て取ることができる(『春と修羅』序 、「五輪峠」先駆形B参照 )。しかし、観察者自身もまた物理・化学的現象の一つとするその徹底化された科学的世界像は、賢治においては、自然の諸現象を自然の中の自然自身の内在的観点としての〈私〉における出来事として、自然が自然自身に顕現するその姿と共感・共振・共鳴しつつ記述するという態度と表裏をなしている。自然科学の術語もまた、その〈現われ〉の記述に奉仕する(「晴天恣意」 )。
心象スケッチの実践を通じて獲得されたこの現象学的態度は、童話作品において、自然現象の記述の視点の設定の自在性(『畑のへり』『蛙のゴム靴』『貝の火』等)、日常的時間意識からの解放(『楢之木大学士の野宿』、『銀河鉄道の夜』等)、自然形象の本質直感の内在的記述(『やまなし』における水の質感の記述等)、視覚・聴覚・嗅覚・触覚などの諸感覚の交響(『風の又三郎』)、生命あるいは自然現象の律動との共振(文語詩)などの形をとって展開されている。
賢治作品は、その全体として、「世界を見ることを学び直す」(メルロ=ポンティ『知覚の現象学』)ことへと私たちを導く。「或る心理学的な仕事の仕度」(森佐一宛、書簡番号200 )である『春と修羅』の心象スケッチとは、 新しい総合的世界観ためのプレレゴメナあるいはマニフェストであり、「歴史や宗教の位置を全く変換しよう」(同書簡)とする企図の予備的実践である(『注文の多い料理店』広告文参照 )。賢治作品は、詩と童話という文学形式によって、自然科学的態度と現象学的記述的態度との統一を図り、その実践を倦むことなく更新し続けるそのことによって、事柄そのものの理、つまり「妙法」への途を、私たちに指し示している。
今日8月27日は、宮沢賢治の生まれた日である(1896年)。それにちなんで、今日の記事は宮澤賢治について。
2010年に弘文堂から『宮澤賢治イーハトヴ学事典』が刊行された。この事典の特徴は、賢治作品読解のためのキーワードや既存の宮澤賢治研究を網羅的に紹介するだけではなく、これからの新しい宮沢賢治研究の多様な可能性をも先取りすることをその目的としており、それはユニークで野心的な試みだったと言える。私はこの事典の「現象学」(賢治自身の言う「現象論」ではない)という項目を担当した。そのために2009年の一夏は賢治全集を読んで過ごした。大変高価な事典で、実はまだ実物を見ていない。賢治の研究者やよほど熱烈な愛読者でもないかぎり、個人で購入される方はそう多くないのではないか。私が担当した項目も、だから、ほとんど読まれることはないだろうと思われる。それは正直少し残念に思っている。そこで、少し宣伝の意味も込めて、だが何よりも賢治に関心を持たれる方々に少しでも多く見ていただき、延いてはこの『事典』そのものを手にとって見ていただきたいという偽りのない気持ちから、その項目を、今日と明日の2回に分けて、このブログに再録しておきたい(ただし、それが著作権法に抵触するのであれば、直ちに削除いたします)。
賢治の諸作品、とりわけ『春と修羅』において実践された心象スケッチには、素朴実在論からまったく解放された、現象学的とも呼べる記述的態度を見て取ることができる。
19世紀末から20世紀初めにかけて、ヨーロッパでもアメリカでも、生きられる「事象そのもの」への回帰という哲学的態度が、フッサール、ベルクソン、ウィリアム・ジェームズらによって、一つの大きな思潮として形成されていくが、それが日本へと流入して来るのが、明治末期から大正期である。フッサール現象学そのものの日本への受容は、大正初期の西田幾多郎よる紹介に始まり、京都学派に属する哲学者たち ― 田邊元、山内得立、三宅剛一、三木清、あるいは東北大学の高橋里美らによって、大正時代から昭和初期にかけて、その理解の深まりとともに、本格化していくが、その過程は、賢治の文学と思想が形成されていく時期と重なり合う。
賢治がフッサール現象学について何らかの知見を得た形跡は、作品中にも、書簡中にも、伝記的事実の中にも認められない。しかし、現象学の基本理念が「意識によって生きられた具体的経験への回帰」であり、その基本的態度は「意識に立ち現われるすべてのものを、それが意識に立ち現われるままに、何ものかの意識における純粋な顕現として記述すること」であり、現象とは「事物の多元的で多様性をもった動的な在り方のこと」と定義されうるなら、その理念は『春と修羅』における心象スケッチのそれでもあり、その態度は心象スケッチによって実践されている態度でもあり、その現象の定義は心象スケッチによって捉えられた諸現象にも適用されうる定義だと言うことができる。
心象スケッチは、世界と切り離された作者の内面の記述でもなく、その単なる想像力の産物でもなく、作者がそこにおいて生きている世界が作者の意識に立ち現われてくる、そのダイナミックな現われ方の記述である。そこに「多少の再度の内省と分析」(『注文の多い料理店』広告文 )は加えられたにしても、それは既得の内的印象の事後的・反省的な再構成ではなく、そのつど更新される〈書く〉というプロセスを通じて経験される、自然との共感の記録である。それは、現象と意識とが不可分であることを、その経験の現場で記録したドキュメントになっている。
昨日の記事で話題にしたヴィスマンの「自由と形式」の話は、発表の枕にときどき使うのだが、2008年9月に勤務校で開催された能についてのシンポジウムと公演に発表者の1人として参加した時もそうだった。その時の発表のテーマは、「能の舞台における身体的所作への現象学的アプローチ」だったが、世阿弥の『風姿花伝』における「花」と舞台上の身体的所作と関係の分析が主たる内容だった(ちなみに、フランス語での発表原稿はそのシンポジウムの論文集に収録され出版されることに最初からなっていて、翌年の1月には最終決定稿を責任者に送ったのに、論文集はいまだ出版されていない。もうこっちがそのことを忘れていたこの6月初めに、編集者から最終原稿の確認依頼がようやく来て、すぐに訂正案を受け入れる旨返事したが、いったいいつになったら出版されるのだろう。シンポジウムからもう5年である。ここまで待たされると、もう呆れてはてて文句を言う気にもならない)。
その発表の導入部分で、ヴィスマンの「自由と形式」の話を引用した。これは、聴衆が主にフランス人であり、しかも能については知識の乏しい人たちが大半だったから、彼らにとって比較的わかりやすいアプローチの仕方で、能について私が哲学的に何を問題にしようとしているかを理解してもらうために採った「戦術」だった。昨日の記事で紹介したヴィスマンによる独仏の文化的差異の規定を引用することによって、「自由と形式」という問題を際立たせた上で、さて、それでは、この問題は能において理論的かつ実践的に世阿弥によってどのように立てられ、解決が示されたのかと、本題を提示した。もちろん、世阿弥自身は『風姿花伝』で「自由と形式」に相当するような問題をそれとして提起しているわけではないが、年齢ごとの演じ方、演目や人物像ごとの演じ方の差異を論ずる記述の中にこの問題についての世阿弥の解答を読み取ることができるというのが私の解釈だった。そして、世阿弥のいう舞台上の「花」こそが、自由と形式の高次の融合の実現にほかならないという結論に向けて、『風姿花伝』から引用を鏤めながら議論を展開した。
『風姿花伝』における「花」については、そして『花鏡』における「離見の見」についても、舞台芸能において実践される現象学的態度という問題枠で、両テキストをじっくりと読み込んだ上で、いつかまた立ち戻りたいと思っている。
2005年からのことだったと思うが、東京のある私立大学が科研費を使って「哲学教育」についての総合的研究を行った。その一部は、独仏の哲学者それぞれ4人ずつに対して行われた「哲学教育」についてインタビューから成り、フランス語でのインタビューを日本語に訳す仕事を私は請け負った。インタビューを受けたのは、ジャン・リュック・マリオン、ナタリー・デプラズ、フランソワ・ジュリアン、ハインツ・ヴィスマンの4人。この最後の1人ハインツ・ヴィスマンは名前からも分かる通りドイツ人だが、長年にわたってフランスに在住しフランス語で哲学を講じているので、前3者に準ずる扱いを受け、フランス語でインタビューに応じた。
そのインタビューの中で、ヴィスマンは、独仏間の文化的差異を、エルンスト・カッシラーの『自由と形式(Freiheit und form)』(1916)を引き合いに出しながら、教育の順序という問題において、次のような仕方で際立たせる。
ドイツでは、まず自由、それから形式。つまり、まず自由が与えられ、充分にそれを享受させたあと、形式を強制していく。最初は、子供たち各自に自由に言いたいことを言わせ、好きなようにさせる。思う存分にそうさせた後で、徐々に形式を与え、その枠の中に押し込めていく。一旦形式を受け入れたら、誰であれそこから逸脱することは許されない。フランスでは、まったく逆に、まず形式、それから自由。つまり、まずこれだけは誰でも守るべきとされる形式を小さいうちから叩きこむ。それはいわば最小限の社会的ルールであり、これをまず徹底的に仕込む。そして、一旦それが身につけば、後は各自の自由にさせる。
ちなみに、このインタビューを訳し終えた後、私は十数人の職業も年齢も異なるフランス人男女にこのヴィスマンの話の内容を紹介して、それに対する意見を求めたが、フランスの教育スタイルはまさにその通りだと全員が同意した。実際それは私自身がフランス社会で観察してきたこととも一致する。学校教育の中だけではなく、家庭でのテーブルマナー・日常の挨拶などのいわゆる躾は、少なくとも中流以上の家庭では、小さいうちからとても厳しい。
インタビューの中では、ヴィスマンはどちらかと言えばドイツ方式に対して点数が辛かったが、それでも、これら2つの相対立する教育スタイルについては、優劣の問題としてではなく、それらがヨーロッパ文化にもたらしうる文化の幅と奥行きの問題として捉えるべきであることを強調していた。その上で、日本のことがドイツと一緒に引き合いに出されるところを引用しておこう。
「フランス式建築にバロック的なけばけばしたところがないのは理由のないことではないのです。ドイツはバロックだらけですが、フランスはそうではありません。バロック時代においてさえ、フランスではルネッサンス的なもの、端正な輪郭からなる建築をしていて、ほとんどバロック的な断絶が見出されません。それはフランス人たちのデカルト主義と呼ばれるものですが、それは一つの言い方です。実のところは、それは最小限の順応主義であり、それがフランス人たちに広大な自由を与えているのです! それは順応主義によって保証された自由、逸脱への自由です。ところが哀れなドイツ人たちは最初に自由があり、学校で『腹の中にあることを見せてごらん。とことんまでやってごらん。お利巧さんにならないで。好きなようにやってごらん』と言われます。それからすぐ強制的に規律を守らされ、言ってみれば脅迫されているような状態を強いられます。私が世界で見たもっとも強迫神経症的な国民はドイツ人と日本人です。この両国民は社会的動乱を避けるために強制的に自らに規律を課しているのです。」
ヴィスマンの日本についての上記の見解に賛成するかどうかは別として、この自由と形式の順序と関係という観点は、日本の教育、さらに一般的に日本文化を考えるためにも1つの手がかりにはなるだろう。日本には、時代と社会階層によって、2つの順序、つまり「自由から形式へ」と「形式から自由へ」との両者が混在していたとは言えないだろうか。時代と階層によって、どちらかの順序が優位を占めたとはいえ、他方が社会からまったく排除されてしまったことはなかったのではないであろうか。そして、それだけではなく、「自由における形式」あるいは「形式における自由」という両者の高次の融合を、文学・芸術・建築・作庭において、実に洗練された形において成功させていると見ることができないであろうか。
昨日は、パリでも久方ぶりに日中の最高気温が夕方5時過ぎに30度に達する。その時の湿度は30%を切っていた。しかし、街路樹のマロニエの葉はすでに落ち始めていて、枝に残った葉にも黄ばんだのが目につく。この夏の終わり、ヴァカンスの終わりを告げる光景を見る度に、陽に焼かれて乾いた悲しみに胸を締めつけられる。
以下は、昨日からの続きで、西田とパスカルについての発表原稿の後半部。
2.アウグスティヌスからドイツロマン主義へと至る思考の系譜
ここで注目したいのは、断章「人間の不釣合」に示されたパスカル思想の独創性は否定しがたいとしても、その思想はパスカルが熟読していたアウグスティヌスの『真なる宗教』についての考察から生まれているということである(Philippe SELLIER, Pascal et saint Augustin, Albin Michel, 1995, p. 31参照)。西田もまた被造物の世界における人間の立場に関してアウグスティヌスの思想に強く惹かれていることを考え合わせると、「有限なるものの無限なるものへの関係、つまり魂の神への精神的道程 」(Georges GUSDORF, op. cit., p. 446)を3者に共通する問題として捉えることができる。無限なるものとしての自然あるいは世界における有限なるものとしての人間の立場についての思考の系譜というパースペクティヴの中で、アウグスティヌス、パスカル、西田の間に見られる思考の親和性を考察することができるのである。
この系譜の中に、ロマン主義、とりわけ十八世紀末から十九世紀初めにかけて展開されたドイツロマン主義を、それが「個人の意識と全体的有機体の内在的意識との一致における存在の顕現」、或いは「表現しがたいまでに不釣合に大きいものとして現前する諸力」の表現、或いはまた「個別的存在と全体的存在との瞬間における融合」(ibid., p. 443)を問題とするかぎりにおいて、加えることができる。実際、西田はドイツロマン主義に、とりわけノヴァーリスに強い関心を示していた。有限なるものと無限なるものにはいかなる共通の尺度もなく、両者の接触はつかの間のものでしかないゆえに、ロマン主義の企ては「無限なるものの表現へと突破する」あるいは「無限なるものを表現へと強いる」ことからなる(ibid., p. 443-444)。このようなロマン主義の企ては、「有限なるものと無限なるものと間の不釣合は、人間には真理を探究することはできないということを意味しない」(ibid., p. 561)という確信を前提としている。
「ロマン主義的経験の起源には、絶対と接触する神秘主義が思考の源泉としてある」(ibid., p. 534)。この視野に立てば、ロマン主義の企図の起源はドイツ神秘主義、とりわけマイスター・エックハルトとヤコブ・ベーメにおいて見出されることになるが、西田はこの二人の神秘思想家に深い関心を抱いていた。このように見ると、西田哲学は、少なくともその一部は、自然或いは世界における人間の立場に関しての西田の思考を、アウグスティヌスからドイツ神秘主義、パスカルを経て、ロマン主義へと至る思考の系譜との関係においてその射程を計測することによって、明瞭に把握することができると言うことができるだろう。しかしながら、私たちがここで問題にしたいのは、西田哲学を単に歴史的な文脈の中でこの系譜との関係において位置づけることではなく、「私たちにおいて、私たちの周りにおいて、たえずその現実性が表現され続ける人間の現実という次元」(ibid., p. 8)においてそれを理解することなのである。
3.西田哲学のパスカル的読解
この思考の系譜づけはまた、西田のテキストの読み方について一つの示唆を与えてもくれる。それは西田のテキスト群を断章的表現として読む可能性、つまり、あらかじめ確立され、思考のあらゆる対象を言説の諸カテゴリー内に硬直化させる秩序にしたがって組織された表現をその中に探すのではなく、独創的かつ真正の直観を豊かに含んだ断章的表現の集成として読む可能性である。
パスカルにおいてだけではなく、神秘主義思想家たち、ロマン主義思想家たちにおいても、断章的表現への志向がはっきりと見られることは否定しがたい。断章という表現手段は、言うべきことは他の仕方では言い表しえないという直観的主張に内在的な必然性に対応している。断章的表現がこれら思想家すべてにとって特権的な表現手段であるのは、彼らが表現したいと望んだ知は、人間精神に熟知可能な死せる対象の記述ではなく、個人的意識と全体的有機体に内在的な意識との一致における存在の顕現だからである。
しかしながら、西田がその思考を断章的に表現しようとしたと言うことはできず、むしろ逆に、西田はその固有の論理に従いながら自らの思考に多少なりとも展開された表現を見出そうと努めたと言わなくてはならない。西田の哲学的言説の総体は、いくつかの例外を除いて、先立つ論文で提起された問題を引き続く論文において取り上げ直しながら連続する、一連の試論からなっている。それらは一つの思考のあらかじめ確立された計画に基づいた体系的提示ではなく、その都度の「生のままの思考表現 」である。まさにこの現に為されつつある哲学的探求によってこそ、西田は〈言い表しえないもの〉に触れるに至ったのである。
西田は歴史的実在の世界の根本的構造を成立させる論理にしたがって自らの思考体系を構築しようという志向を『善の研究』執筆当時から最晩年まで常に持っていた。ところが、私たちがそのテキストの中に秩序だった構造を見出そうとすると、執拗に繰り返される同一表現や虚をつくような飛躍や断続に出会って当惑させられ、その間に明瞭な脈絡を見出しがたい節と節の間で議論の筋道を見失い、途方にくれてしまうことがよくある。それはあたかも、執拗な反復や唐突な転調が見られる、構成に難のある音楽を聴いているような印象を与える。そこから、西田のテキストは難解、不可解、晦渋、矛盾だらけ、つまるところ真っ当な哲学的言説として扱うには値しないという厳しい批判が出てくる。
このよう批判にしばしば晒される西田のテキストを、どのようにしたらある適切な仕方で読むことができるだろうか。私たちが上で行った二つの考察、つまり西田の『パンセ』の読み方についての考察とアウグスティヌスからロマン主義に至る思考の系譜との関係における西田哲学の位置づけについての考察から、この問いに次のような一つの答えを与えることができるように思われる。それは西田のテキストをパスカルのテキストのように読むこと、つまり、光彩を断続的に放つ言語的運動として自己表現するものとしての創造的精神の作用をありのままに捉えるように読むことである。このような読み方が私たちを西田哲学の核心へと導くある一つの途を拓くであろう。
現在勤務する大学に赴任してから7年半になるが、赴任の年2006年の秋にその勤務大学で「交差する文化」というテーマで国際学会が開かれ、そこで私も発表した。自分の専門領域でこのテーマにできるだけ相応しい発表にしようと思い、西田のパスカルの読み方の特徴を捉えた上で、そこから翻ってパスカルの『パンセ』のスタイルから西田のテキストの読み方を考えるという双方向的な二重の目的を自分に課した。この発表の原稿はフランス語ではスイスの出版社から翌年公刊されているが、日本語版はあまり目に触れる形では公刊されていないので、一部変更を加えた上で、今日と明日の2回に分けて、このブログに再録しておきたい。
西田幾多郎はフランス哲学に対して終生変らぬ深い共感を示していた。西田によれば、フランス哲学の特性はその独特な「内感的哲学」にあり、その基礎はパスカルによって置かれ、その伝統はメーン・ド・ビラン、ラヴェッソンを経て、ベルクソンにまで至る(「フランス哲学についての感想」) 。
1.パスカル『パンセ』の2つの断章への西田の愛着
西田はパスカル『パンセ』の2つのよく知られた断章、「考える葦」と「人間の不釣合」を好んで引用した(それぞれ、ブランシュヴィック版で、断章347、断章72。ラフュマ版では、断章200、断章199)。
西田は歴史的現実の世界における人間の個物としての立場を語る際に、「考える葦」のイメージを引き合いに出す。人間の高貴さは、認識する人間において世界が自らを知ることによって自己限定し、自らの限界を知る人間において世界が自己超越することにあると西田はパスカルとともに考えていた 。他方、この人間の高貴さこそがこの世界における人間の悲惨を理解させるとも考えていた 。西田は「考える葦」のイメージが私たちの自己と世界との矛盾的自己同一を見事なまでに簡潔に表現していると見なしていたのである。
「人間の不釣合」という小見出しが通常付けられる、『パンセ』中最も長く、最も入念に仕上げられた断章の中に見られる「中心がどこにもあり、円周がどこにもない無限の球体」というメタファーに、私たちが現に生きるこの世界の的確な表象として、西田は「考える葦」以上に愛着を持っていた。西田がこのイメージに訴えるとき、幾何学的イメージに物理的世界の記述を重ね合わせることによって二重の無限性が顕現する形象が取り上げられていたのであり(Jean MESNARD, Les Pensées de Pascal, Paris, Société d’édition d’enseignement supérieur, 1976 ; 3e éd. 1993, p. 88参照)、それは世界の創造性の起源として自己限定する絶対の現在、つまり私たちの身体的自己のそれぞれにおいて生きられ、世界のいたるところに常に見出される契機に力点を置くためだった 。パスカルにおいては「神の顕現の一つ 」として解釈された自然に適用された形象が、西田においては、創造的世界としての歴史的現実の世界に適用されているのである。しかしこの西田一流の「誤読」は、神の顕現を「被造物を変容させ、その瞬間においてそれを創造者に同一化する 」(Georges GUSDORF, Le romantisme, tome I, Payot & Rivages, 1993, p. 534.)作用と解することができるかぎり、西田がパスカルを曲解していたことを必ずしも意味しない。西田によれば、世界は自らのうちにおいて、私たちおのおのにおいて、つまりこの創造的世界に比しては無限に小さい存在それぞれによって、無限の過程として自らを表現する。私たち自己のそれぞれは時間空間的に限定された無数の点の一つに過ぎないが、しかしながら、世界がそこにおいて自らを映し、そこから自らを見、そこにおいて自己形成的な一つの形を自らのうちにおいて自らに与える、パースペクティヴの一中心である。パスカルにとって「神の万能について感知しうる最大のしるし 」(『パンセ』ブランシュヴィック版、断章72)であったものを、西田は私たちひとりひとりがその創造的要素である創造的世界の本質として捉えているのである。世界は私たちの自己それぞれにおいて行為的身体という形で自己限定しながら自らを表現すると同時に、私たちの自己は歴史的世界がそれに他ならない創造的世界内の創造的要素として自らを表現する。これが西田哲学における自己と世界との関係の定式である。私たちの自己すべてが生きる世界においてそのそれぞれによって表現された創造性を前面に出すことによって、西田は自然あるいは世界における人間の立場の積極面を強調したのである。
上記二つのイメージへの愛着とそれらが引用される文脈は、西田がパスカルをどのように読んだか、その特徴をよく示しているだけではなく、西田が両断章の連続性をその思考内容に即してよく捉えていることを示してもいる。というのも、この両断章は、今日の代表的な『パンセ』校訂版では、「人間の知識から神への移行」と題された草稿束に収められた断章として連続して配置されているから、その連続性は一目瞭然なのだが、西田が参照したブランシュヴィック版では、離れ離れに異なった章の中に見出され、両断章に共通する思考の的確な把握は西田自身の『パンセ』読解に拠るからである。
Facebookを始めた2009年の翌年2010年の夏のことだったか、フランスで教えている学生あるいは卒業生たちから私の誕生日に祝福のメッセージが多数届き、そんなことは全然予期しておらず、1人1人に御礼の言葉を送るのはちょっと大変そうで、でもせっかく送ってくれたのだから一言くらいはお礼の気持ちを伝えたいと思い、Facebook上で全員宛にお礼のメッセージを送った。以来、毎年誕生日には同じようにメッセージを送ってくれる学生たちがいるので、こちらからも同じように1つのお礼の返事をFacebook上で返している。ただ通り一遍の御礼の言葉ではつまらないと思い、それなりに推敲して、面白おかしくかつ誠意もある文章を書くように努めている。去年と今年の文章は特に念を入れて書いたものなので、自分でも愛着があり、ここに記念として残しておきたい。
まず去年2012年のもの。
Mes chers amis,
Profondément ému par vos messages chaleureux qui fêtent mon énième anniversaire que j’ai arrêté de compter depuis dix ans, je vous en remercie de tout mon cœur dont le tréfonds est réputé insondable.
Grâce à l’alerte automatique prévenant de l’anniversaire des « amis » y compris ceux à qui l’on est purement et simplement indifférent, je reçois chaque année lors de mon anniversaire un nombre non négligeable de mots d’amitié de la part de mes amis par voie électronique.
Pour ma part, il est maintenant devenu un peu comme rituel solennel d’adresser à tous ceux qui ont la charité de ne pas dédaigner de se donner la peine de taper quelque signes pour un pauvre fonctionnaire étranger que je suis un discours de remerciement résolument tordu à cette occasion qui se présente annuellement et tout à fait indépendamment de ma volonté.
Selon la théorie des probabilités la plus rigoureuse, il n’est pas totalement exclu que je devienne d’ici mille ans président de la République dont on me disait autrefois que sa devise était « Liberté, Égalité, Fraternité », mais dont je ne sais toujours pas où elle était (certainement, il nous faudrait la chercher ailleurs qu’en France ou la reconstruire si elle avait déjà vraiment existé quelque part). Une fois que sera réalisé ce beau rêve chimérique dont la probabilité nanotechnologiquement infime, et si notre planète existe encore ce jour-là (ce n’est plus évident, comme on le sait depuis Fukushima au moins), je vous promettrais de vous offrir généreusement, et gracieusement, comme un signe de remerciement pour votre fidélité une pension de retraite largement suffisante pour que vous puissiez ne rien faire que de jouir du soleil tous les jours qui vous resteront encore sur un banc propre dans un jardin bien fleuri, ou au bord de la mer paisible si vous voulez, et cela à partir de votre cinquantième anniversaire.
Soyons optimistes volontaires sans fondement aucun dans un monde qui ne fait que nous désespérer.
Je vous suis très reconnaissant d’avoir bien voulu consacrer votre précieux temps à la lecture de ce message d’insincérité déguisée.
Votre utopiste dévoué
そして今年のもの。
À mes chers amis que vous êtes et dont je suis toujours admiratif pour le courage aveugle et le désespoir rationnel face à la crise dont la France souffre il y a déjà quelques années et qui s’y généralise désormais partout au-delà du domaine de l’économie proprement dit, je vous présente très sincèrement toute ma gratitude pour votre mot fêtant mon anniversaire (s’il en est toujours digne) depuis le bord du gouffre qui est prêt à vous engloutir tous, et où, moi, je tiens à demeurer dans une baraque minable afin d’observer attentivement avec un regard désintéressé le monde moderne européen qui me semble en train de s’effondre malgré mon espérance d’un avenir meilleur pour vous tous, espérance fondée sur un optimisme existentiel sans fondement aucun (quelles contradiction que je vis !).
Grâce à la gentillesse avec laquelle vous avez pensé à m’adresser un mot pour cette occasion qui se présente annuellement en été, j’ai bien constaté avec une folle jubilation et une tristesse profonde bien mélangées que je n’étais pas encore devenu un fossile appartenant au passé paisible, mais que je restais un vieil être humain sensible qui continue à prendre de l’âge involontairement dans ce monde agité qui me semble se précipiter dans le vide sans fond.
À titre de signe de remerciement et d’encouragement pour vous tous, je vous offre un mot qui m’est très cher d’un philosophe français véritable, Vladimir Jankélévitch (1903-1985), celui tiré de son livre, L’irréversible et la nostalgie (Flammarion, 1re éd. 1974, actuellement disponible dans la collection « Champs essais », p. 339) :
Celui qui a été ne peut plus désormais ne pas avoir été : désormais ce fait mystérieux et profondément obscur d’avoir vécu est son viatique pour l’éternité.
Ce beau passage est d’ailleurs gravé sur la plaque de marbre qui se trouve à côté de la porte de l’immeuble dans lequel le philosophe a vécu depuis les années 1930 jusqu’à sa mort sauf pendant la Seconde Guerre mondiale où il s’est engagé dans les activités clandestines de la Résistance sous l’occupation allemande. Depuis que je vis dans la Capitale de la France dont la belle devise est « Fluctuat nec mergitur (Il tangue mais ne coule pas) » (Vous y croyez ?), chaque fois que je passe devant cet immeuble standing qui se situe 1 Quai aux Fleurs de l’Île de la Cité, tout près de la Cathédrale Notre Dame de Paris, je ne peux m’empêcher de m’y arrêter quelques instants pour contempler le présent éternel dans lequel nous vivons et que nous vivons tous sans aucune exception.
Disce gaudere (Apprends à te réjouir) !
Amitiés