内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「夕焼け小焼け」― 私はどこに帰ることができるのか

2018-05-31 20:25:28 | 私の好きな曲

 普段、家で仕事をしているとき、ほとんどいつも音楽を低い音量で流しています。
 選曲は、ジャンルを問わず、作業効率を上げてくれそうな曲集か、集中力を高めてくれるという謳い文句は鵜呑みにしないにしても、集中を妨げない穏やかな曲になることが多いです。人によって好みもあることでしょうから、一概には言えませんが、私の場合、器楽曲が圧倒的多数です。特にピアノソロですね。
 先月だったか、誰が弾いているのかも気にせずに、日本のメロディーを集めたピアノソロ曲集をアップル・ミュージックでふと選び、ストリーミングで流していました。そうしたら、懐かしい童謡「夕焼け小焼け」が流れはじめたのです。
 自分でも驚いたのですが、幼少期からそれこそ何度聞いたか知れないその曲が久しぶりにゆったりとした速度で流れてきて、少し耳を傾けていると、涙が止まらなくなってしまったのです。数時間後に締切りが迫っている仕事があるというのに。
 そのときの感情をどう言い表したらいいのでしょうか。わけもわからず何かとんでもなく遠くまで来てしまって、帰り道を見失ってしまったことに気づいた小さな子供が感じるであろう心細そさにどうしようもなく胸が締めつけられてしまったとでも言ったらいいのでしょうか。
 演奏者は、作曲家・ピアニストである谷川賢作でした。本人はこういう紹介のされかたはきっと好まないでしょうけれど、お父さんが現代日本の最も優れた詩人の一人谷川俊太郎、お祖父さんが元法政大学総長で高名な哲学者谷川徹三です。
 それ以来、彼のアルバム(六枚ほどあるお父さんとのコラボレーション・アルバムも含めて)をよく聴いています。












一般化・虚構化・間接話法の陥穽 ― SNS利用に際しての用心

2018-05-30 14:49:17 | 雑感

 今日の記事の内容は、そのタイトルからはちょっと想像しにくいかも知れません。でも、広義の SNS を何らかの仕方で日頃ご利用なさっていらっしゃる方たちには、おそらく先刻ご承知のことか、あるいは、心当たりのあることではないか、と推察いたしております。
 拙ブログは、Facebook と Twitter との外部連携サービスに登録してありますので、記事をアップする度に、それらのページに記事のお知らせが自動的に即アップされます。何かのきっかけで拙ブログに直接アクセスしてくださるようになった方々の中には直接存じ上げる方は一人もいらっしゃいませんが、Facebook に友達登録してくださっている二百人余りの方たちの中には、直接存じ上げている方々も少なくありません。
 拙ブログの記事を読んでくださっている方たちが不快に思われるようなことは書かない。SNSを使って誰かを非難したり攻撃したりすることはしない。できることなら面白がってもらえるような内容にする。これが私の記事投稿の大原則です(ときどき時の政治家を揶揄すようなことは書きますが、これはこの大原則の適用外です)。
 とはいえ、日常生活の中で感じたことを話題にしている記事の中には、実生活の中で対人関係上いやな思いをしたことがきっかけになっている場合もないわけではありません。しかし、そのような場合でも、当事者を傷つけるような書き方はしないように慎重を期しています。
 そのために次のような配慮をしています。実際にあった具体的出来事には触れずに話を一般化する。誰が読んでもこれは架空だとわかるように虚構化する。実際に使われた言語表現をそのまま使わず、いわば間接話法に置き換える。
 ところが、わりと最近、そのような配慮が、私としてはまったく予期しない仕方で、裏目に出てしまったことがありました。
 ある記事について、それを書いている間念頭に置いていた人とは全然関係がなく、それどころかその間まったく思い浮かべることさえなかった別のある人から、その記事が自分を狙って攻撃しているという、まったくあらぬ嫌疑を掛けられてしまったのです。
 この件で最初にその人からメッセージが届いたときには、いったい何のことかわからず、そのまま放置しておいたのですが、しばらくすると、たて続けに数通のメッセージが届き、その内容は私に対する攻撃性を次第に増していきました。それらを読んで、ああこれはすっかり勘違いしているな、とやっと気づきましたが、そのあまりにも無礼な内容を見て、返事する気にもなれず、その人が私のアカウントにアクセスできないようにブロックをかけました。
 ここからは私の推測ですが、その人がたまたま Facebook 上で話題にした内容が私の記事の内容と重なっており、しかも私の記事のほうが少し遅れてアップされたので、これは自分の記事の内容に対する攻撃だと勘違いしてしまったのでしょう。
 そもそも、私はその人の Facebook などほとんど見たこともなかったのです。正直、まったく関心もなかった。
 しかし、いつ似たようなことがまた発生しないともかぎりません。今まで以上に投稿記事の内容には気をつけるようにしなければと自分を戒めました。
 老婆心ながら、日頃SNSを活用なさっていらっしゃる方々、どうぞくれぐれもご用心なさいますよう。












「神話の時機が再び到来する」 ― E・カッシーラー『国家の神話』より

2018-05-29 11:00:25 | 読游摘録

 欺瞞に満ちた現代の政治状況下にあって、為政者たちによって意図的に捏造される呪術的スローガンによって惑わさることなく、自由な一個人として理性に基づいて注意深く冷静に判断するために読まれなければならない古典的名著の一冊がエルンスト・カッシーラーの遺著『国家の神話』(Ernst Cassirer, The Myth of the State, New Haven, Yale University Press, 1946)である。
 幸いなことに、1960年に創文社から初版が刊行された宮田光雄による達意の名訳の全面改訂「決定版」が講談社学術文庫の一冊として今年二月に刊行された。カッシーラーの名著の名訳がより入手しやすい形で時宜を得て刊行されたことが喜ばしいだけでなく、巻末に収められた懇切丁寧な「訳者解説」と現代の世界的な政治状況への深い憂慮の念が滲み出ている「学術文庫版訳者あとがき」とが本書をさらに価値ある一書にしている。
 「訳者解説」(訳者の論文「エルンスト・カッシーラーとナチズム──カッシーラー『国家の神話』を読む」(二〇〇五年末脱稿)の再録)の冒頭に引かれた『国家の神話』第十八章「現代の政治的神話の技術」の一節の英語原文と宮田訳を引く。

In politics we are always living on volcanic soil. We must be prepared for abrupt convulsions and eruptions. In all critical moments of man’s social life, the rational forces that resist the rise of the old mythical conceptions are no longer sure of themselves. In these moments the time for myth has come again (E. Cassirer, op. cit., p. 280)

政治においては、われわれはつねに火山地帯に住んでいる。われわれは突然の震動や爆発を覚悟していなければならない。人間の社会生活が危機におちいる瞬間には、つねに古い神話的観念の発生に抵抗する理性的な力は、もはや自己自らを信頼しえない。このような時点において、神話の時期が再び到来する。

 二十世紀前半に政治家たちによって捏造された非合理な神話について、カッシーラーは同章でその重大な危険性を次のように指摘している。

 Myth has always been described as the result of an unconscious activity and as a free product of imagination. But here we find myth made according to plan. The new political myths do not grow up freely; they are not wild fruits of an exuberant imagination. They are artificial things fabricated by very skillful and cunning artisans. Il has been reserved for the twentieth century, our own great technical age, to develop a new technique of myth. Henceforth myths can be manufactured in the same sense and according to the same methods as any other modern weapon—as machine guns or airplanes. That is a new thing—and a thing of crucial importance (op. cit., p. 282).

 神話は、つねに無意識的活動の結果、あるいは自由な想像力の所産として記述されてきた。しかし、ここでは計画に従って作り出された神話が見出される。この新しい政治的神話は、ひとりで生育したものでもないし、また豊かな想像力の野生の果実でもない。それは非常に老練で巧妙な技師によって作り出された人工品なのである。新しい神話の技術を発達させることは、二十世紀、つまり現代の巨大な技術の時代において初めてなされたのであった。爾来、神話は現代における他のいずれの武器―機関銃や飛行機―を作るのとも同じ意味で、また同じ方法で製作されうるのである。それは新しい事態、しかもきわめて重大な意味をもつ事実である(宮田訳)。

 二十一世紀の現代は、情報工学・通信技術などの格段の進歩によって、この神話製作技術がますます巧妙になってきている。それに騙されないようにするために『国家の神話』から私たちが学びうることは少なくない。











近代日本の青春時代と重なる政治家の青春時代 ―『高橋是清自伝』

2018-05-28 20:51:10 | 読游摘録

 日本から地理的には遠く離れ、故国の政治状況についてはこれをネットのニュースで知るだけである。だから、以下に記すことは、そんな「非国民」の独り言である。
 今の日本は、おそらく日本近代史上最も愚かな宰相とその取り巻きによって左右されているという印象を私は拭うことができない。とはいえ、そんな日本に今さら絶望しているようなポーズをとったところで無益である。むしろ、私が真実を見損なっていることを願う。
 近代日本国家建設の功労者の一人として高橋是清の名を挙げることにはおそらく誰も異論はないであろう。その高橋が自伝の序文を記したのは、昭和十一年一月、すなわち二・二六事件で凶弾に倒れる前月のことだった。
 一八五四年(安政元年)、幕末の激動の中で生を受けた是清の生涯は、明治・大正・戦前昭和に渡る文字通り波乱万丈の生涯だった。
 十四歳でアメリカに渡り、奴隷扱いを受けるなど辛酸を嘗める海外生活を経験し、帰国後は英語教師・農商務省の官吏などを経て、ペルーの銀鉱山経営に乗り出すも失敗し、落魄する。しかし、日本銀行に職を得、外債募集に辣腕を振るう。その後、大正・戦前昭和に数度大蔵大臣に請われる。大正十年から十一年にかけては、七ヶ月とはいえ、首相も務める。
 中公文庫版『高橋是清自伝』下巻の解説は、学習院大学学長井上寿一先生がお書きになっている。その一節を引く。

 高橋は栄達を求めて刻苦勉励の人生を歩んだというよりも、自身の気持ちに忠実に行動した結果として、高位高官を極めた。高橋の立身出世の原動力となったのは、外国語(英語)能力と経済に関する広範な知識だろう。だからといって、これらの能力があれば、必ず立身出世するとは限らない。
 幕末維新の大変動を経て、明治国家は急速な近代化をめざした。しかし官僚制は未確立で、「官」と「民」との間で流動性が高かった。立身出世の社会システムも未整備だった。そうだからこそ高橋のような生涯が可能になったのだろう。
 別の言い方をすれば、高橋の青春時代は近代日本の青春時代と重なる。

 平成も終わりを告げようとしている今、日本国家は、その社会が超高齢化社会になっているように「老齢期」に入ったばかりでなく、国家として「認知症」を発症してしまっているのであろうか。













奈良時代における日本最初の並木道を想像する

2018-05-27 18:07:59 | 読游摘録

 井上靖の『天平の甍』の主人公に選ばれたことによってその名が広く知られるようになった東大寺の僧普照は、天平五年(733)に遣唐使に随行する留学僧として唐に渡った。その普照が鑑真和上と共に日本に戻ってきたのはその二十年後のことである。
 しかし、今日の記事で話題にしたいのは、このあまりにも有名な歴史的出来事ではなく、先日の記事で紹介した武部健一著『道路の日本史』に言及されている、普照のもう一つの功績についてである。
 普照の在唐中、唐の玄宗の開元二十八年(740)正月、長安・洛陽を結ぶ道路(両京道路)と両京それぞれの城中の苑内に果樹を植えるように詔勅が出された。普照は、唐の都の内外の街路樹を見聞したことであろう。
 普照が帰国して六年後の天平宝字三年(759)六月二十二日、次のような太政官符が公布された。

まさに畿内七道諸国駅路の両辺にあまねく菓樹を植うるべきこと

 この太政官符は普照の願いを入れて公布されたものである。これが日本における道路植樹のはじまりである。
 普照の奏状には、「道路は百姓(人民)が絶えず行き来しているから、樹があればその傍らで休息することができ、夏は暑さを避け、餓えれば果樹の実を採って食べることができる」とある。
 普照の発案は、平安時代にも継承される。平安時代の法令集である『延喜式』の雑式に、「凡そ諸国の駅路の辺に菓樹を植えること。往還の人をして休息を得さしめ、若し水の無き処には便を量りて井を掘れ」とある。
 『道路の日本史』の一頁ほどのさりげない記述を読んで、初夏、奈良の都と地方を結ぶ街道を行き交う人びとや、その街道に沿って植えられた新緑眩しい樹の下でしばし休息する人たちや、彼らの旅の疲れを癒やすように頬を撫でたであろう爽やかな風を私は想像した。













絶望は「私事」だが、希望は生の世界の事柄である ― ウジェーヌ・ミンコフスキー臨床医学論集より

2018-05-26 17:02:27 | 哲学

 La schizophrénie (1927)(邦訳『精神分裂病』みすず書房)、Le temps vécu (1933)(邦訳『生きられる時間』みすず書房)、Vers une cosmologie (1936)(邦訳『精神のコスモロジーへ』人文書院)等の著作で日本でもその名がよく知られている(現在では、むしろ、かつては知られていた、と言わなければならないかもしれないが)精神医学者ウジェーヌ・ミンコフスキー(1885-1972)が1923年から1963年の間に書いた臨床医学関係の論文を集めた論文集 Écrits cliniques(textes rassmenblés par Bernard Granger, Éditions érès, 2002)は、自身も精神科医である編者ベルナール・グランジェのミンコフスキーの人と学問に対する深い敬愛と造詣に裏打ちされた優れた編集のおかげで、ミンコフスキーの医学思想の四十年間に渡る進展と深化をその時系列に沿ってバランスよく辿ることができる一書になっている。
 本書に収められた十五の論文の一つ « Le contact humain [人間的接触] » は、1948年にアムステルダムで開催された国際哲学大会で発表された原稿を基にしており、二年後の1950年に Revue de métaphysique et de morale に掲載された。
 同論文には、人間存在を、分析的にではなく総合的に、独立の個体としてではなく世界との関係存在として、実体としてではなく形成過程として、その関係性の中に立ち入って捉えようとするミンコフスキーの学問的立場がよく表現されている。ハイデガー、ビンスワンガー、マルティン・ブーバーらの立場と自分の立場の近接点を認めながら、それらの立場とはどこで一線が画されるかが、奇を衒うことのまったくない平明なフランス語で明確に示されている。
 次のような一節にミンコフスキーの人柄がよく表れていると私は思う。

 Le désespoir est une « affaire privée » ; elle retranche l’individu du flux de la vie et l’accable. L’espérance, toute proche de l’aspiration, sur ses ailes emporte l’individu bien au-delà de ses propres limites et le fait participer à l’horizon que largement elle ouvre devant elle. Elle est un des facteurs constitutifs de la vie et du monde. Et quelles que soient les déceptions, les désillusions, les peines, les épreuves infligées par la dure réalité, nous ne saurions, nous ne pourrions renoncer à l’espérance : car, d’une autre essence que ces expériences, elle nous porte comme elle porte le monde (op. cit., p. 151).

 絶望は、「私事」である。個人を生の流れから切り離し、苦しめる。希望は、希求に似て、その翼に個人を乗せてその個人自身の限界を遥かに超えさせ、希望が希望自身の前に大きく開く地平に個人を参加させる。希望は、生と世界との構成要因の一つである。そして、過酷な現実によって課される失望・幻滅・苦痛・試練がどのようなものであれ、私たちは希望をけっして放棄できはしない。なぜなら、それらの過酷な経験とは異なったその本質によって、希望は、世界を支えるように、私たちを支えてもいるからである。

 一言で言えば、希望は、それをもつことそのことが現に生いきることにほかならず、世界において私たちを生かしている、ということになるだろう。












道の哲学 ― 和辻哲郎『倫理学』本論第二章第二節から

2018-05-25 18:07:06 | 哲学

 「道の哲学」という今日の記事のタイトルをご覧になって、道教(タオイズム)への哲学的アプローチか、あるいは、武道・茶道・華道・書道などに共通して使わている〈道〉という概念についての哲学的考察か、と思われた方もいらっしゃるかも知れない。しかし、今日の話題はそれらとはまったく関係がない。
 今日の話題は、人間存在の公共的空間性の具体的表現としての〈道〉のことである。
 和辻哲郎『倫理学』本論第二章「人間存在の空間的・時間的構造」の第二節「人間存在の空間性」の冒頭の段落に、「「交通」とは人間の交際の空間的表現であって、その交通の仕方の固定したものが道路である。道路は空間的にのび、ある個所において空間的に交叉する」(岩波文庫版『倫理学(一)』234頁)とある。
 私たちは、常日頃、道を歩き、ときに走る。あるいは、自転車で、自動車で、オートバイで道路を走る。その際、私たちは一定の規則に従う。公道は、まさにその最初の漢字が示しているように、公共性をもった場所である。そこを利用するとき、私たちは好き勝手には動けない、動いてはいけない。バスという公共交通機関を利用して公道を移動することもある。
 私たちの生活空間には、道路に話をかぎっても、多元的・多重的に行動図式が重なり合っている。しかも、その図式が機能する範囲は様々に異なる。これらの複雑性を私たちは普段特に意識しないで、道路を利用して生活している。
 私有地内の私道でもなければ、道路は勝手に作れないし、変えることもできない。他の人たちとの「交際」は、私たちが使うことができる道路によって限定されている。と同時に、道路をどう使うかによって、私たちは他者との「交際」の仕方を公的空間において表現している。












道路から見た日本の歴史 ― 武部健一著『道路の日本史 古代駅路から高速道路へ』

2018-05-24 17:35:16 | 読游摘録

 武部健一著『道路の日本史 古代駅路から高速道路へ』(中公新書、2015年)は、「道路という物言わぬ基幹的なインフラストラクチャを通して日本を見ることによって、日本と道路の双方の歴史」を描き出した、抜群に面白い好著である。
 鉄道・飛行機など様々な交通手段が人類史上最も高度に発達した現代社会にあっても、道路による交通網の整備が最も重要な国家事業の一つであることは、古代と変わりはない。本書は、そのことを古代ローマと古代中国の道路網建設から説き起こし、道路の歴史と日本の政治・経済・文化史とを重ね合わせることで各時代の特異点を浮かび上がらせつつ日本の歴史を古代から現代まで通覧し、最終的には、そこから見えてくる将来の道路行政のあり方にまで説き及ぶ。
 奇を衒うことなく一般読者の蒙を啓く知見に富んだその文章は、著者年来の道路建設者としての豊富な現場経験と道路史家としての数十年の学問的蓄積とに堅固に裏打ちされており、読む者を最初から最後まで飽きさせない。
 著者は、本書の「あとがき」を書いた2015年4月の「桜の散り始める日」の翌月5月に90歳で逝去される。














空を見あげた眼は、いつもきまって美しい

2018-05-23 20:34:00 | 雑感

 今日の記事は短いです。ちょっといろいろありましてね。そのいろいろのだいたいが「ハ~ぁ」って話なので、その中身は書きません。ただ、一言だけ言わせていただければ(お願い、許してちょうだい)、「そんなツマンネーことでぐたぐた抜かすんじゃねーよ」ってことです。
 このブログは私にとって日記みたいなものです。とはいえ、ただその日その日の出来事を淡々と記録するだけの日記(それが意味がないとはまったく思いません)ではなく、何らかその日の思索のせめても痕跡になっているような日誌にしたいと日々心掛けていますが、なかなか現実がそれを許してくれません。
 今日も一日、「てめぇー、ふざけんじゃねーよ」って、(心なかで)怒りまくりながら仕事してました。体に悪いよね、これって。
 それで、ちょっと昼の息抜きに読んだ本が鈴木貞美『日記で読む日本文化史』(平凡社新書、2016年)でした。本書での孫引きのそのまた引用ですから、これって「曽孫引き」って言うのかな? まあそれはともかく、サン=テグジュペリ『星の王子さま』の翻訳で知られる内藤濯の『思索の日曜日』(木耳社、1973年)に収録された「フランスの日記文学」からの引用です。

笑わない一日ほど、むだに過ごした日はない。(セバスチャン・シャンフォール)

空を見あげた眼は、いつもきまって美しい。(ジョゼフ・ジュベール)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


かぎりなく無意味に近い違和として異国の街にかろうじて生きる

2018-05-22 20:56:35 | 哲学

 先週の記事で何度か取り上げたカール・レーヴィット『共同存在の現象学』(熊野純彦訳、岩波文庫、2008年)の中にこんな一節がある。

 ほかの「街」や「異国」に移りすむとき、共同世界的に分節化された周囲世界という意味で、ひとはべつの「世界」に身を置くことになる。街や地方は本質的に、それが生気づけられているありかたによって特徴づけられている。つまり街や地方に生物がただ在るということによってではなく、住宅、街路、街や地方は、そこに住まう者、住みこむ者、住みつく者によって「生気づけられて」いるのである。住まう者によって、住居としての住宅の性格が規定される。住居は住まい、居をかまえるために現に存在するからである。居住空間があるのは、住まう人間たちがあってこそのことである。街に住みつく者が、住みこむ者としてその「街」を特徴づけ、街のすがたや街の生活を規定しているのだ。(58頁)

 このようないかにももっともな考え方に従えば、私は、ストラスブールの街に住みついても、住み込んでも、その街を特徴づけても、生気づけてもいない。根づいてもいなければ、溶け込んでもいない。あってもなくてもいい、限りなく無意味に近い違和として、ただある場所を一応合法的に占めているだけである。その街を生気づけているものとは何の関わりもなく、ただ生物として、ある場所に一定の行動図式にしたがって、ある期間、生息しているだけである。
 もし「街に住まう」ということが、「生きる」ということにほかならないのであるならば、そして、それ以外の仕方で人は「生きる」ことができないというのなら、私はかぎりなく「死」に近い。
 しかし、私は何か絶望的な気分でこんなことを書きつけているのではない。むしろ逆である。「街に住まう」ことによって隠蔽されてしまう何かの探究こそ哲学であり、その探究のためにこそ私は「ここ」にいるからである。