今回の集中講義で読むメルロ=ポンティの『眼と精神』のなかで、もっとも美しい文章としてかねてから嘆賞している一節がある。この一節は二〇二〇年一月十三日の記事にすでに引用しているのだが、もし『私撰涼文集』をほんとうに私が編むとしたら必ず撰ぶ文章なので、ここにあらためて仏語原文と日本語訳を引用する。そこに描写されている真夏の南仏の瑞々しい光景を想像しながら、どうぞとくとご賞味ください。
Quand je vois à travers l’épaisseur de l’eau le carrelage au fond de la piscine, je ne le vois pas malgré l’eau, les reflets, je le vois justement à travers eux, par eux. S’il n’y avait pas ces distorsions, ces zébrures de soleil, si je voyais sans cette chair la géométrie du carrelage, c’est alors que je cesserais de le voir comme il est, où il est, à savoir : plus loin que tout lieu identique. L’eau elle-même, la puissance aqueuse, l’élément sirupeux et miroitant, je ne peux pas dire qu’elle soit dans l’espace : elle n’est pas ailleurs, mais elle n’est pas dans la piscine. Elle l’habite, elle s’y matérialise, elle n’y est pas contenue, et si je lève les yeux vers l’écran des cyprès où joue le réseau des reflets, je ne puis contester que l’eau le visite aussi, ou du moins y envoie son essence active et vivante. (L’Œil et l’Esprit, Gallimard, 1964, p. 70-71)
水の厚みを通してプールの底のタイル床を見るとき、私は水や水面の反射にもかかわらずそのタイル床を見るのではなく、まさに水や反射を通して、水や反射によって見るのである。もしもそうした歪みやまだら模様の照り返しがないならば、もしも私がそうした肉なしにタイル床の幾何模様を見るならば、そのときにはタイル床をあるがままに、あるがままのところに、すなわち、どんな同一的な場所よりも遠いところに見ることをやめてしまうだろう。水そのもの、水というあり方をした力、とろりとして煌めく元素、それが空間のなかにあると言うことは私にはできない。というのも、それは別の場所にあるわけではないが、プールのなかにあるわけでもないからである。それはプールに住んでいて、そこで物質化しているのであって、それはプールに含まれているのではなく、もしも糸杉の遮蔽林の方に眼を上げて、そこに水面からの反射の網の目をつくっているのを見るならば、水がその遮蔽林のところにも訪れに行っていること、あるいは少なくとも、そこに水の活動的で生き生きとした本質を送り届けていることを私は疑うことができないだろう。(『メルロ=ポンティ『眼と精神』を読む』富松保文訳・注 武蔵野美術大学出版局、2015年、159‐160頁)