内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

『一年有半』から『続一年有半』へ ― 思想の言語の文語から口語へ転換点

2016-01-31 16:35:34 | 読游摘録

 昨日の記事では、中江兆民の『一年有半』の仏訳を平明達意な仏文の例として引用した。当該箇所の日本語原文も、同書の他の箇所に比べれば、難解・難読の漢語少なく、今日の普通の日本語の語彙からそれほどかけ離れてもいない。その点からも良訳だと言える。
 しかし、他の箇所となると、そうは問屋がおろさないところが多々ある。兆民の専門家でさえ読み方に迷うような漢語が鏤められた兆民一流の名文をその特異性を保持しながらフランス語に移すことは土台無理な注文であろう。訳者が訳文の達意を旨とし原文の文体の独特な魅力を犠牲にせざるを得なかったことは想像に難くない。
 例えば、『一年有半』の終りの方にある、当時発表されたばかりの万朝報社の理想団結成の呼びかけに賛同して書かれた一文を見てみよう。これは激越かつ感動的な檄文である。声に出して読んでみるとよくわかるが、漢語のきりりと引き締まった響きが文章にリズムと迫力を与えていて、『一年有半』を読んだ黒岩涙香に「純然たる理想の人、理想を夢み理想に走るより外に多く顧る所無し」と評された兆民の面目躍如たる名文である。その最後の一段、「哲学を以て政治を打破せよ」と檄を飛ばす箇所を引用する。

団員諸君、諸君の志を伸べんと要せば、政治を措いてこれを哲学に求めよ。けだし哲学を以て、政治を打破するこれなり。道徳を以て、法律を圧倒するこれなり。良心の褒賞を以て、世俗の爵位勲章を払拭するこれなり。紫を曳き朱を紆ふて層楼の上に翺翔する、縉紳と号する、貴顕と号する、生きたる藁人形等は、宜くこれを千里の外に距ぐべし、ただ独り無爵無位の真人これに任ずるに足るのみ、団員請ふ加餐せよ。

Chers compagnons, si vous avez besoin de renforcer vos convictions, ce n’est pas dans la politique, mais dans la philosophie qu’il vous faudra chercher. Armez-vous de la philosophie pour abattre la politique. Servez-vous de la morale pour piétiner les règlements. Privilégiez l’honnêteté pour balayer l’aristocratie. Ceux qui s’entourent de mauve et de pourpre pour voler au-dessus des tours, qui se font appeler élites, tous ces épouvantails vivants, il faut les tenir éloignés à plus de mille lieues. Les seuls à qui l’on peut faire confiance sont les honnêtes hommes, les sans-grade. Compagnons, prenez soin de vous !

 逐語的に「忠実に」訳すことよりも、敢えて原文の表現を単純化し、原文のリズムを仏文において再現することに努めているのがわかる。漢語を多用する原文の香気が失せてしまっているのは致し方なく、それは訳者の咎ではない。
 思想における西欧由来の新しい理想を表現するのに漢学の豊かな素養を前提とした古典的な格調高い文語調をもってするという姿勢をその死の年まで堅持してきた兆民は、死の三ヶ月前に執筆された最後の著作『続一年有半』ではじめて口語調を採用する。
 兆民が亡くなったのは、二十世紀最初の年一九〇一年の十二月十三日のことである。『続一年有半』の文体の文語調から口語調への転換は、日本語による思想表現のための新しい文体の創出の必要が発生したことを如実に示している。以後今日までそのために無数の努力が重ねられ、今もされつつあるとすれば、表現史の観点からすると、日本語による「現代思想」の歴史的起点は、兆民の没年二十世紀最初の年にあると言えるだろう。























































失われつつある「文章に対する厳しさ」― 中江兆民『一年有半』を読みながら考えたこと

2016-01-30 19:04:08 | 読游摘録

 中江兆民『一年有半』の中に「欧洲人の文章」と題された一節がある。
 「欧洲人文章極て厳なり」という一文で始まるこの一節は、欧州人がいかに文章に対して厳しく、たとえ古大家の文章だろうが、間違いがあれば、後の世代はけっしてこれを看過せず、それを注で指摘した名文集を子どもたちに与えて教育すること、学校で使う教科書にはこの種の指示が甚だ多いこと、それゆえ仏語の文章はますます「雅醇に赴く」こと、日常言語であっても、子どもたちが間違った言葉遣いをすれば直ちに両親がこれを矯正すること、結果として、「演説談話のますます典則ある」ものとなることなどが述べられている。
 「欧洲人」とは言っているが、兆民は自分のフランス留学体験を基にこれらのことを述べているから、実際は主に十九世紀後半のフランスのことである。今日では、フランスでもこのような伝統はおおかた失われてしまっている。このような伝統が数世代以上に渡って守られている家はもうごく少数派だと言わざるを得ないであろう(誰ですか、それも IMIN のせいだと言いかけているのは?)。
 ただ、兆民の文章を読んでいて思い出したことがある。
 それはもう今から十数年前のことだが、自宅に知人とそのお嬢さんを招待したことがあった。そのお嬢さんは中学生だったが、私の本棚を眺めていて、「ちょっとこの本見てもいいですか」と聞くので、どの本だろうかと思ったら、それがディドロ著作集だったので、ちょっと驚いて、「もうそんな本読むの」と聞いたら、学校の「フランス語」の授業でディドロを読んでいるところとのことだった。
 同じようなことだが、やはり十年数前にパリで中学生の男の子の日本語の家庭教師をしていたとき、その子の本棚にはモンテーニュの『エセー』の撰文集が並んでいたので、「学校で読むの」と聞いたら、そうだという。私が来るといつも彼の部屋に入ってきて勉強中私の足元に寝そべっている飼い犬のレトリーバーをからかう方が勉強より好きな彼ではあったが。
 兆民の文章にも、大家の例として、ボシュエ、フェヌロン、ヴォルテール、モンテスキューの名が並んでいる。そこにさらにデカルト、パスカル、ルソーなどを付け加えることもできるだろう。
 私の本棚からディドロを取り出そうとした中学生のお嬢さんを見たときには、これはかなわんなあと思ったものである。ディドロの時代から二百五十年以上の、パスカルの時代まで遡れば三百五十年以上の連続性がある言語の中で中学生の頃から思考と表現を訓練されるのだから、これは外国人には真似のしようがない。
 翻って日本のことを思えば、漢語を多用する兆民の文章にしてから、今の中学生どころか、大学生にだってもうよく読めないだろう。漱石・鴎外・露伴にしても、彼らにはもう古文に見えるのではないか。
 参考までに、当該の兆民の文章の仏訳(Un an et demi, traduit par Romain Jourdan, Les Belles Lettres, 2011, p. 74)を掲げておこう。これはもう実に平明達意なフランス語で、小学生にだってわかる文章だ。

La littérature occidentale est très rigoureuse. Lorsqu’un texte, même écrit par un grand auteur classique, contient des erreurs ou des fautes de style, les générations suivantes, plutôt que de laisser le texte tel quel, traquent chacune d’entre elles et les expliquent à leurs élèves, si bien que les marges des manuels scolaires fourmillent d’indications de ce genre. Dans le cas de la France, même des grands noms comme Bossuet, Fénelon, Voltaire ou Montesquieu n’échappent pas aux nombreuses critiques de ce genre. Cela a pour effet d’améliorer la qualité de la langue. Même dans les échanges de tous les jours, lorsqu’un enfant fait une erreur, ses parents le corrigent aussitôt. C’est ainsi que s’édifient les règles de la langue parlée.

 現在の日本の教育は、軽佻浮薄な英語ペラペラ「国際人」の量産に躍起になっているようにも見える。日本語教育など、外国人のためのもので、日本人には必要ないかのごとくである。日本のことをろくに知らずに「おフランス」に留学してくる日本人学生は後を絶たない。己の日本語のお粗末さや自国についての知識の貧しさを恥じることもない。気楽なものである。これも我が日本国の優れた学校教育の「賜物」であろう。Vive le Japon !
















































講談的講義の試み ―『西鶴置土産』「人には棒振り虫同然に思はれ」を読む

2016-01-29 18:14:55 | 講義の余白から

 今日の学部三年の必修科目「近世文学史」は、浮世草子がテーマ。主役は、言わずと知れた井原西鶴。一コマ全部をその作品紹介に充てる。それで十分なわけではもちろんないけれど、後期の授業回数からすれば、それが穏当なところ(因みに、来週と再来週は俳諧史。その後には浄瑠璃・歌舞伎と続く)。
 型通り、好色物、町人物、武家物、雑話物の順に、西鶴の作品がもたらしたまったく新しい文学世界とそれを展開する独自の文体について説明する。でも、作品を読まずにこんなこと解説して何になるんだろう。
 近世文学史に限らないが、文学史を教えていて思う、ただ時系列にそってジャンルごとに書誌的な解説や伝記的な紹介だけをするのはつまらない、と。教える方も教わる方も。それは、あたかも作品が一枚も展示されてなくてただ説明書きのパネルだけが並べてある美術館を見学するようなものである。
 自分の専門からすれば、ぐっと話の抽象度を上げて、日本文学に見られる表現史・思想史・精神史の講義にしてしまいたいところだが、これは学生たちからすれば、もう「絶対的に消化しがたい」(« absolument indigeste !» )。
 そこでどうするか。二年生の場合は、まだ古典語の学習さえ始めていないが、だからこそ、それでも少しは読めるような易しい古典を読ませる。一昨日は『古今和歌集』「仮名序」を読ませてから、著名な古今集歌十五首を選んで、仏語訳付でそれぞれの歌が表現しているイメージを掴ませた。三年生は前期から古典文法入門の授業を受けている。後期になれば、いくらかは古文が読めようになりはじめている。だから、もう少し要求度を高くしてもいいだろう。
 西鶴の主要作品については信頼のおける仏訳が出ているが、そっちを先に読ませてしまったのではネタバレみたいで面白くない。そこで今日は、学生たちにいきなり原文を与え、それを私が声に出して読み、解説と仏訳をその場で口頭で織り込むことで、彼らを作品世界に入り込ませることを試みた。
 そんな意図から選んだのが、西鶴最晩年の傑作で没後遺稿として出版された『西鶴置土産』の中の一話「人には棒振り虫同然に思はれ」。小学館の日本古典文学全集版で六頁足らずの掌編であるというのも選んだ理由の一つ。筑摩書房の『日本古典文学読本』(一九八八年)にも全文収められている。そのコピーを学生たちに渡した。
 一節読んでは、語彙説明・地誌風習解説とおよその仏訳を付け、さらには当時の遊里の掟にまで説き及び、かつては吉原でも名の知られた大尽、伊勢町の月夜の利左衛門が、惚れた女郎吉州を身受けするために身代を潰し、今では金魚の餌のぼうふらを毎日取り集めては金魚屋に売って僅かばかりの日銭を稼ぐことで糊口を凌ぐ、見るも哀れな身の上となり、そんな姿にかつての遊び仲間三人が出くわし、憐憫の情抑えがたく言葉を取り交わす場面から、「ご秘蔵のむすこ」に着替えの一枚買ってやれない惨めさに夫婦揃って「前後も覚えず涙になりぬ」場面などを経て、最後の場面 ― 利左衛門一家の窮状を救おうとかつての遊び仲間三人が出し合ったお金、一度は利左衛門から突き返されたお金を内儀に託そうと、人を使って利左衛門の茅屋まで行かせてみれば、すでに立ち退き空き家となっており、八方手を尽くすが行方知れず ― へと至り、これをきっかけとして「思へば女郎狂ひも迷ひの種」とこの三人も女郎買いをきっぱりとやめ、そのおかげで当時吉原で評判の三女郎、薄雲・若山・一学は大分損をしたとの世間の評判であったという最後の落ちまで、およそ三十分、あたかも講談師のごとくに一息に語って、「今日の講義はこれにて仕舞」(« Aujourd’hui, on s’arrête là. »)と幕を引いたのではあった。



















































覚えたら思い出そうとするな ― 学生たちへのメッセージ

2016-01-28 21:46:56 | 講義の余白から

 今日の修士の演習では、なぜ発表の際に原稿を読み上げるだけではいけないのかを学生たちに理解してもらうために、かなり厳しい口調で、以下のようなことを述べた。

 出来上がった原稿をただ読み上げるだけの発表など、発表の名に値しない。アナウンサーがニュースを読むのとはわけが違う。それだけのことなら、その完成原稿を読み手に渡して、「読んでください」と言えばよいではないか。それをわざわざ声に出して読むなど、時間の無駄でしかないではないか。相手に予め読んでおいてもらって、即座に議論に入ればいいだろう。
 聞き手には何の予備知識もないとき、ただ一方的に書き言葉で書かれた文章を読み上げられて、どれだけのことが相手に伝わるだろうか。逆に、相手がすでにこちらの考えをよく知っているのならば、発表するまでもないであろう。原稿を読むのではなく、目の前にいる聞き手に対して語りかけ、相手の反応を読みながら、それに応じてその場で臨機応変に対処できてはじめて、口頭発表する意味がある。発表は儀式ではない。
 原稿を準備してはいけないと言っているのではない。よほど扱うテーマを熟知していて、しかも発表の仕方に熟練しているのでもなければ、完成原稿あるいは草稿、少なくともメモは用意するべきでさえあるだろう。特に、時間がはっきりと限られているときは、それを守るのがルールというものだ。そのために原稿やメモは大いに役に立つ。
 しかし、目の前に聞き手がいるのに、そちらを見ずに、原稿に目を落としたままの発表者の話は説得的ではありえない。もちろん、そういう意味で発表下手な人の言っていることに中身はないとは限らない。そういう人たちの中にも本人の専門とする分野ですぐれた力量をもった人たちがいることを私は否定しない。
 しかし、口頭でのやりとりを何か仮初のものでしかないと見なし、口頭表現技術を学んでそれを磨こうと努力しないのは、知的かつ倫理的怠慢であると私は考える。こういう怠惰が蔓延するのは、仲間内でしか話さない人たちの間でのことだ。丸山眞男がいうところの「他者感覚」のない人たちの「サークル」の横行は何も日本に限った話ではない。
 もちろん不慣れな日本語での発表というハンディは認める。しかし、それに甘えるな。自分の考えを説得的に伝えるにはどう工夫したらよいか真剣に考えよ。それは単に単位取得のためではない。少し大げさに言えば、これからの君たちの長い人生のためなのだ。
 自分の用意した原稿を繰り返し読め。できるだけ速く覚えようと無理せず、繰り返し声に出して読め。いつのまにか覚えてしまうまで繰り返し読め。そして発表当日は覚えたことを思い出そうとするな。そうしてはじめて、自分の言いたいことが、もしそれが本当にあるのならば、自分の内から沸き起って来るはずだ。それが原稿通りである必要はまったくない。間違えたっていい。言い淀んだっていい。相手に向かって言葉を発せ。そこに自ずと議論の空間が開かれることだろう。

 特別なことを話したわけではない。この通りに学生たちに話したわけでもない。付け加えたこともある。しかし、言いたかったことの核心は上記の通りであった。



















































日仏合同ゼミに向けてプレゼン特訓中

2016-01-27 19:11:22 | 講義の余白から

 来月上旬の法政大学哲学科学部生たちとの合同ゼミに向けて、先々週の後期第一週目から、修士の学生たちに毎週プレゼンテーションの特訓をしている。前期は、共通課題テキストである丸山眞男『日本の思想』の読解と翻訳のためにほぼ労力を使い果たしてしまい自分の頭で考える余裕がなかった彼らであったが、理解できたところも理解できなかったところも合わせて、自分で論じたいように論じてごらんと昨年末に課題を出しておいたら、皆それぞれになかなか面白い内容の発表を準備してきてくれた。
 一年生の三人には、第一章「日本の思想」の中から、「無構造の「伝統」」「國體」「無責任の体系」という三つのキーワードを与えて、それぞれについて批判的に検討するように求めた。一人飛び抜けて日本語がよくできる中国人留学生は、大変な勉強家でもあり、「責任」という概念について、中国でもその訳がよく読まれているというハンナ・アーレントを引用したりして、なかなか立派なプレゼンテーションを作成してきた。「集団的責任」「戦争責任」についての問題提起の仕方も鋭く、合同ゼミでは、きっと面白い議論になることだろう。他の二人の一年生は、日本語がまだおぼつかず、彼女たちのテキストは私の朱入れで原形をとどめないほどに改変されたが、それぞれに問題提起はちゃんとできている。この二人は、日本語で議論することはまず無理だが、パワーポイントを使った発表はきちんと仕上げてくれることだろう。
 二年生の三人には、第四章「「である」ことと「する」こと」から、三節、それぞれ自分たちが訳を担当した箇所を与え、それを出発点として自ら問題提起し、自由に論ずるよう求めた。三人とも一年生に比べれば、一年間の日本留学経験があるだけに、日本語能力も高いから、問題を自分の関心領域に引きつけて、自分なりの表現で、「自己の可変性」「余暇の意味」「主体概念」について、それぞれに論じており、日本人学生たちも興味を持つであろう仕方で、ちょっと挑発的な問題を提起してきた。望むところである。彼らなら、日本人学生と日本語で論じることもできるだろう。
 その中でも、丸山における「主体」概念について仏語の力作レポートを昨年末に提出してくれた、昨年度一年間京大に留学していた男子学生の発表原稿は読み応えがあった。前期に私の演習で一緒に読んだ「超国家主義の論理と心理」からも引用し、自分で『日本政治思想史研究』の要点を押さえ、さらには丸山が最初英語で発表した論文「個人析出のさまざまなパターン」を援用するなどして、近現代日本社会における「主体」の問題に果敢に切り込んでいる。
 明日の演習では、その「個人析出のさまざまなパターン」の日本語訳を全員で読む。

























































「個性的でない個人」― 日本の近代化を千年遅らせた要因

2016-01-26 20:19:06 | 講義の余白から

 今日は、日がな一日、明日の中古文学史の講義の準備をしていた(プールはいつものように午前中に行きましたよ)。外は春のような陽気で、写真を撮りに出かけたいという気持ちに腰が椅子から浮きかけもしたのだが、講義の準備のための文献をあれこれ読んでいたら、それが面白くなってしまい、気がつけば日暮れであった。
 講義の準備は入念にするよう心掛けている。目安として、実際に二時間の講義の時間内に話せることの二三倍の内容を「仕込む」。講義中に見るノートは見開き二頁に収める。それ以外に用意するのは、学生たちにパワーポイントで見せる資料である。
 明日の講義は、『古今和歌集』がテーマ。昨年の講義では、全般的説明の後に「仮名序」の冒頭を原文で読ませてから、いくつか古今集歌を紹介しただけに留めたのだが、今年は昨年よりも一回分授業数が多いので、その分を活かして、もう少し立ち入って説明することにした。
 この講義は、学生たちに日本語の文章を読ませるという目的もあるから、講義の内容に即していてかつできるだけ良質な現代文を講義に織り込む必要がある。学部二年生対象の講義であるから、あまり高度な内容や専門性の高いテキストを選ぶことはできない。とはいえ、いい加減な解説文でも困る。
 これらの基準を満たしているテキストの一つとして、小西甚一の名著『日本文学史』(講談社学術文庫、1993年)がある。初版は1958年。文庫版で本文は二百頁ほどの小著である。しかし、日本文学史について古代から近代まで一貫した視点からその流れを大づかみに提示し、さらには比較文学的観点から世界文学史の中に日本文学を位置づける試みとして、同書を凌駕する日本文学史はいまだに日本語で書かれていないのではないだろうか。
 明日の講義では取り上げないけれど、文学史的記述の合間にさりげなく挿入されている次のような精神史的考察は、深い学識に裏打ちされた洞察として、日本思想史の問題の一つとして真剣に検討されるに値すると私は思う。

 古今集時代の歌人たちが個性を喪失したというのは、わたくしどもから眺めての話であって、かれらとしては、表現の新しみを求めるため、それぞれ工夫をこらしていたのである。ただし、その新しみは、たいへん微量でよかった。なぜならば、かれらの感受性は、ごく微量の新しみをあざやかに感じうるだけの細かさにまで洗煉されていたから、必要以上の刺激は、かえって「こちたし」と受け取られるにすぎなかったのである。したがって、和歌的世界から「個人」が消失したわけではなく、むしろ、他との微細な表現的差異をたえず意識することによって、いっそう「個人」のなかへ入りこんでいったのである。しかし、個性的でない個人という変則的な在りかたが古今集時代に確立してしまい、真の個人が自覚されなかったことは、近代の成立を十世紀ちかくもおくれさせる結果となっている(51頁)。

 引用の最後の文に出てくる「個性的でない個人」という規定は、十世紀初頭前後の貴族社会の和歌的世界における「個人」について語られていながら、現代日本における「個人」の在りかたを考える上でも一つの示唆を与えてくれる。



















































「永遠回帰」から古典論へ

2016-01-25 18:35:11 | 読游摘録

 昨日紹介した福田拓也氏の小林秀雄論の中に、ジル・ドゥルーズが『ニーチェ』の中でニーチェの「永遠回帰」の新しさについて説明している箇所からの引用があり(160頁)、それが小林秀雄の古典論と結びつけられているところが私にとって大変示唆的であった。ただ、引用されている邦訳には同意できないところもあるので、まずドゥルーズの原文の当該箇所を省略箇所も含めて引いてから、一部改変した訳を提示する。

Revenir est précisément l’être du devenir, l’un du multiple, la nécessité du hasard. Aussi faut-il éviter de faire de l’éternel Retour un retour du Même. Ce serait méconnaître la forme de la transmutation, et le changement dans le rapport fondamental. Car le Même ne préexiste pas au divers […]. Ce n’est pas le Même qui revient, puisque le revenir est la forme originale du Même, qui se dit seulement du divers, du multiple, du devenir. Le Même ne revient pas, c’est le revenir seulement qui est le Même de ce qui devient (Gilles Deleuze, Nietzsche, PUF, 1965, p. 36).

立ち戻ることはまさに生成の在り方であり、多なるものの一性であり、偶然の必然性である。それゆえ、永遠回帰を〈同一〉への回帰とすることを避けなくてはならない。そうしてしまうと、変換の形、そして根本的関係における変化を見損なうことになるだろう。というのも、〈同一〉は多様なるものに先立って存在しているわけではないからである[…]。〈同一〉が立ち戻ってくるのではない。立ち戻ることが〈同一〉の始原の形であり、〈同一〉は、多様なるもの、多なるもの、生成するものについてのみ言われうるからである。〈同一〉は立ち戻らない、ただ立ち戻ることのみが生成するものの〈同一〉なのである。

 ドゥルーズによれば、何か永遠に〈同一なるもの〉がまずあって、そこへと回帰することがニーチェのいう「永遠回帰」なのではない。無限の生成過程においてその都度異なり多様な仕方で反復される〈立ち戻ること〉そのことが〈同一〉であることそのことなのである。
 ドゥルーズによってこのように解釈されたニーチェの「永遠回帰」を古典論に適用すれば、この〈立ち戻ること〉の反復が過去の作品を〈古典〉たらしめるということになる。過去の或る時に書かれた作品が事実同一なるものとしてまずあって、それゆえにそこへと私たちがいつでも立ち返ることができるから、その作品が〈古典〉であるのではない。
 その都度企図される〈立ち戻ること〉そのことがある過去の作品を〈同一なるもの〉として彼方に「立てる」。この〈立ち戻ること〉が企てられるかぎりにおいて、〈古典〉は、「二度と再び還らぬ」作品として永遠に現前する。この意味で、〈古典〉は、私たちの〈立ち戻ること〉の中の「永遠の今」においてしか在りえない。




















































芸術家の「血球の祕密」― 福田拓也『小林秀雄 骨と死骸の歌 ― ボードレールの詩を巡って』

2016-01-24 18:34:18 | 読游摘録

 昨年三月のアルザスでのシンポジウムで初めてご一緒する機会があった詩人で東洋大学教授の福田拓也氏から最近著『小林秀雄 骨と死骸の歌 ―ボードレールの詩を巡って』(水声社)をご恵送いただいた。昨年十二月後半に私の勤務大学宛に送ってくださったのだが、ちょうど私が日本に一時帰国するのと入れ違いになってしまい、実際に手にしたのは今月こちらに帰って来てからのことだった。
 他の批評家による小林秀雄論を読んだこともなく、しかもまだ本書を読み始めたばかりなのに、こんなことを言うのは軽率の謗りを免れがたいかも知れないが、これは氏以外の誰によっても成し得ない画期的な小林秀雄論であると思う。
 小林秀雄の批評活動の展開について既存の小林論がしばしば踏襲している三段階説に、小林の批評の全体像を概観し把握するのに一定の有効性と説得力を認めながら、氏は次のような独創的な着眼点を提示する(15頁)。

 しかし小林のテキストを読んで行くと、このように三段階の移行として理解された展開には還元されないような何かがあることに気付かされざるを得ない。より具体的に言えば、このように理解された展開の図式をそこここで食い破るようにして、ある禍々しい一連の形象が顔を覗かせるのを見ることが出来る。「自意識」による批評から社会的・具体的細部を考慮した「本格的」批評、そして日本の古典作品を対象とする批評への三段階の移行として現れる批評の展開の裏に、様々に変奏されながら増殖する一連の骨や死骸の形象から成るある不気味な血脈が枝分かれし網の目を形成しつつ、最初期の「蛸の自殺」からドストエフスキーの「死骸」、中原中也の骨、南京「戰跡」の骨、そして戦後の「死體寫眞」との遭遇を経て最晩年の『本居宣長』に至るまで、見え隠れするようにして貫いている。そして、骨や死骸の代替的形象の連鎖と網の目を組織しつつ隠然たる力を絶えず発揮しつづけることになるのがボードレール的「死骸」の形象なのである。

 小林の初期批評の最高峰と福田氏が見なす昭和二年の「『悪の華』一面」の或る一節を出発点として、小林自身のテキストと小林が引用しているテキストとを実に丹念に辿り直しながら、「一連の骨や死骸の形象から成るある不気味な血脈」を徐々に浮かび上がらせていく手際は、詩人としての直観と批評家としての洞察に裏付けられ、スリリングでさえある。
 「『悪の華』一面」には、『悪の華』の中の次の一行が仏語原文のまま引用されている。

Comme après un cadavre un chœur de vermisseaux,

 小林は、ただこの一行を原文のまま引用するだけでその翻訳も付けていないばかりか、このテキストのみならず他のテキストでもこの詩行に言及することさえない。福田氏は、この一行に「小林秀雄の「血球の祕密」」を見る。
 そして、この「死屍を追ふ蛆蟲の群」(上掲詩行の鈴木信太郎訳)という形象を中心にして、福田氏の小林秀雄読解は試みられて行く。

















































「はかなし」攷(最終回)― 王朝から中世への不可逆的な移行

2016-01-23 12:15:33 | 読游摘録

 塚本邦雄の『王朝百首』中には八首「はかなし」(あるいは「はかなさ」)を含んだ歌があり、昨日まで一日に一首ずつ、塚本の鑑賞文に導かれながら、それらを読んできた。それは、『百人一首』には「はかなし」という形容詞やその派生語を含んだ歌は一首もないことと際立った対照をなしているこの『王朝百首』の傾きの理由を探るためであった。
 在ることを「はかなし」とする感受性が王朝美学の基調をなしているとしても、それだけでこの傾きを説明することはできない。この形容詞およびその派生語を含んでいなくても「はかなし」の感受性を表現している歌も少なくないからである。
 塚本邦雄には、やはり、「はかなし」という言葉そのものへの特別な思い入れがあるのであろう。特に、この語の響きが他の語のそれと美しい階調をなしている歌への評価が高いことからもそれがわかる。言葉の響きとその意味とがこれほど調和している言葉も少ないと感じていたのかも知れない。
 實朝歌からの撰歌で二首とも「はかなし」が使われている歌を選んでいることがとりわけ目を引く。私はそこに塚本邦雄の詩魂の共鳴を聴く思いがする。實朝自身が王朝風宮廷生活に一種の憧憬を持っていたとしても、實朝の「はかなさ」の感受性は在るものすべての虚しさにまで達してしまっており、實朝の絶望はこの世のどんな慰みによっても紛らわすことができない。その絶望の中に生まれた歌は、凄絶なまでに美しく虚空に響く。
 このような響きの歌が己のうちから生まれてくるのを聴いてしまった魂は、もはやこの世のどこにも憩うことはできない。「はかなし」と嘆ずることさえ虚しい。もはや王朝美学の世界に安住することはできない。王朝から中世へと決定的に世の中が変わっていく転換点に實朝は為す術もなく佇立している。
 實朝を読むということは、私たち自身の実存の次元において〈王朝的なもの〉から〈中世的なもの〉への不可逆的な移行を生き直すことに他ならない。




























































「はかなし」攷(十)― 響きと幻像が織り成す〈儚さ〉の冬景色

2016-01-22 14:20:29 | 読游摘録

はかなしやさても幾夜か行く水にかずかきわぶる鴛鴦のひとり寢

 『王朝百首』の掉尾を飾るのは、藤原雅經(一一七〇-一二二一)の一首。『新古今和歌集』冬の部に入撰。雅經自身、『新古今』撰者五人のうちの一人。同歌集が初出で、上掲歌を含めて二十二首入撰。
 昨日の實朝の歌が九十九番目であったから、『王朝百首』の最後の二首はいずれも「はかなし」を含んでいることになる。冬の〈はかなさ〉は、春散る花の華やぎのうちの〈儚さ〉と違って、冷え冷えとして果てしもない。
 上掲歌も、なんと侘びしく寂しい冬の歌であることか。「はかなしや」と初句でいきなり嘆息する。その後に詠まれているのは、冬の景色の一齣ではなく、いつ終わるとも知れない、数えきれない孤独な夜の繰り返しである。鴛鴦が一羽むなしく足を「掻く」のを、独り寝の数を数えて「書く」に掛ける。水の上に書くという最初からわかっている空しさと書ききれないほどの繰り返しから燻る憂鬱とに塗り込められた心の冬景色。
 「ゆく水に数かくよりもはかなきは思はぬ人を思ふなりけり」(『古今和歌集』戀一・読人しらず、『伊勢物語』五〇段)を本歌とする。「鴛鴦の独り寝」には、「さ筵に思ひこそやれ笹の葉にさゆる霜夜のをしのひとり寢」(『金葉和歌集』冬・藤原顕季)の先例がある。
 塚本邦雄の鑑賞文も深沈としたものである(三一九頁)。

眞冬の水の上に鴛鴦の一羽が浮かび獨寢の夜夜のその數を書くやうに筋を引き、引き疲れてゐる空しさを、作者はもの憂い目で見つめている。

冷やかに侘びしい心象風景が、細細と顫へ波立つやうな調べに乗りまことにうつくしい一首を成す。初句A音の連續から結句O音I音の交互配置まで、五句三十一音の響きは歌の描き出す幻像と至妙な脈絡を見せ、雅經の才質が十二分に盡くされた秀歌である。

 響きが美しければ美しいほど、儚さもそれだけ深く心に染み渡る。
 この一首とともに『王朝百首』の歌の絵巻は幕を閉じる。